盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.472 「インタビュー記事で想い出したこと」2020.2.3.盛岡タイムス
 幸遊記(470)の最後尾「愛しているから続く」というタイトルで「ジャズピアニスト・作曲家・秋吉敏子」が全国地方新聞(岩手日報など)に共同通信による配信記事が載ったことを書いた。あちらこちらの人から違う新聞の切り抜きが僕が書く以前に届けられていて大変嬉しかった。というのも実はあの記事を書いた共同通信の女性記者がインタビューをした2019年11月9日(前夜は東京文化会館での秋吉敏子90thアニバサリー・ソロコンサート)。神楽坂のホテルラウンジで、そのインタビューのやりとり一部始終を立って聞きながら僕はプライベート手帳にメモしていました。
 共同通信の取材は2ケ月後の発表でしたが、違う新聞の同じその記事文を読みながら、僕は自分の店のことが初めて新聞に載った遠い昔日のことを想い出していた。開店3年後の1978年、自分の大好きなミュージシャンを呼び、ライブやコンサートを開き、はたまた北海道のグループのレコードを制作して、中央へ売り込み?をかけたことからの取材が始まりだった。以来身に余る光栄的扱いの様々な取材をされても記事として出ると、何かしら、自分が本当に伝えたかったこととは違うとらえられかた、伝えられ方もあって、いつのまにか、うそではないが本当の自分でもないような気がするようになって、「僕も書く側にも立ってみよう」と思うようになった。
 そのことから「僕が好きになった音楽家や文化人の考え方、生き方、などなど、その人の話し方で新聞に書くことをやらせてくれませんか」と僕が相談を持ち掛けたのは大船渡にある東海新報社でした。同紙も確か6ページから8ページへと移行の頃で「何枚でも自由に書いてみなさい」と当時の編集長だった鈴木周二氏が言ってくれ、半ページからほぼ1ページを使わせてくれた「照井顕のプライベートインタビュー」は1987年4月1日付から1993年10月23日付までの5年半、120余名140回余りに及んだ。それを、東京の出版社が本にしたいとのことで、スクラップした全編をその社の人に渡してと、友人に頼んだら「約束し待ち合わせていた店で隣りに座った人が帰ったらその袋も消えていた」と、その友人からの電話にガックリ。結局本にはならず仕舞いで、何年か前に岩手県立図書館で全部探してコピーをさせてもらいました。もちろん秋吉さんへのインタビュー記事は最多で6回分もありました!。

幸遊記NO.471 「竹中真&本田珠也の初共演」2020.1.27.盛岡タイムス
 1970年「本田竹彦の魅力」「ザ・トリオ」「浄土」と、一生ものの傑作三部作を発表して颯爽とジャズ界にデビューした我等がジャズピアニスト・本田竹彦(のちの竹広・本名・昴[たかし]岩手県宮古市出身)が急性心不全で亡くなったのは2006年1月12日。1990年代からの脳血栓、脳梗塞、幾度もの脳内出血、左半身麻痺、骨折、心臓肥大、肺水溜と闘いながらも、まるで不死鳥の如く甦っては僕等の前に現れ、ジャズへの執念と純真さでもって、最初から最後までファンを魅了し続けたホンモノジャズ人。
 その本田さんの次男珠也さんの演奏を初めて聴いたのは1985年8月、僕等が主催した「日本ジャズ祭・イン陸前高田」(21グループ)のステージ上。父が率いる「ネイティブ・サン」のドラム奏者としての彼、若干16才。その彼も今では50才。押しも押されぬ名ドラマーとなった彼と、それこそ本田竹曠にジャズピアノを教わり、渡米してバークリー音大に留学、最優秀賞を得て卒業し、米国での演奏活動後に日本人初バークリー音大教授となった竹中真(まこと)さん、(現・同志社女子大講師・ジャズピアニスト)の二人を組み合わせ、ピアノとドラムという珍しい二重奏ライブを開運橋のジョニーで実現したい!そう発案してすでに一年半!なんせ忙しい二人のスケジュール調整のタイミング合わず、ようやく出来たのが1月24日(2020)。数年前から竹中さんのソロライブをジョニーでやってきて、その彼独特の演奏と音の中には今も本田の特色が息づいていることを感じ、また竹中さん帰国時には師・本田すでに亡く、そのことからの発想。
 二人はお互いに知らない同志の初顔合わせ、チョイとリハーサルしてのぶっつけ本番!凄い演奏!とはこういう時に使う言葉なのだ!と僕自身感動で身震いがした。竹中さんの演奏する音、ノリ、進行リズムに、目にも止まらぬ早業で臨機応変、変幻自在の音を繰り出す珠也さん。僕は二人の演奏を目と耳と心で追いかけながら、自分の若かりし頃、一生懸命になってジャズを聴き、あの人や、この人の生音を聴きたい!聴かせたい!と、呼び続けた悪戦苦闘の日々と、その全てを一瞬にして忘れさせ、心を開放してくれた凄い演奏に出会った時の感動の数々を思い出させてくれた僕自身へのためのライブは一緒に体験した皆さんの宝となった様子です!感謝。

幸遊記NO.470 「愛しているから続くジャズ演奏」2020.1.20.盛岡タイムス
 先月(2019)12月12日、ジャズピアニストの穐吉敏子さんが90才の誕生日を迎え、ご主人のル-タバキンさんとの結婚生活も50年の大きな節目。それを祝福し記念とする「エターナル・デュオ(永遠の二重奏)」というブルーレイとCD(映像と音源)2枚組ディスクがソニー・ミュージックエンタティメントから発売になった。収録は2018年9月15日、上野の東京文化会館で行われた同タイトルコンサート。穐吉さんのシグネイチャーチューンであるロング・イエロー・ロードに始まり、60有余年に渡る長いアメリカでのジャズ生活の中で生んだ彼女の代表曲だけを夫婦で演奏。終曲はあの9・11(2001)のアメリカ同時多発テロ以降のコンサートでは必ず最後に平和を希望する曲として演奏する「ヒロシマ~終焉から」の第4章「HOPE」の全8曲。この日のコンサートには僕の声掛けに応じた30人余りで聴きに行き、ホールの音もよく印象に残った最高のコンサート作品。
 その全てを取り仕切ったプロデューサー・天野静子さんは穐吉敏子さんのジャズ生活60周年を記念して2006年にサントリーホールで行ったユニセフへのチャリティーコンサート「今21世紀の子どもたちにつたえたいこと」の仕掛人でもあり、NHK・BSで2016年4月に放送になった「TOSHIKO・スイングする日本の魂」2017年4月の「穐吉敏子NY伝説・Ⅰ・Ⅱ」などのリサーチャー。そして今年2020年1月11日放送のNHK・ETV、スイッチ・インタビュー「達人達」(穐吉敏子と女優・松坂慶子)のプロデュサーという凄腕の女性!その彼女から「照井さん!これ差し上げます!販売にご協力を!」と手渡された「エターナルデュオ」のCD・DVDのセットサンプル盤(定価¥6.300+税)。2019年11月3日NYの「レストラン日本」での穐吉敏子・ルータバキン結婚50周年の金婚式会場でした。
 又この幸遊記№(465)の縁でさわや書店の大池隆店長のお誘いで新潮新書「秋吉敏子と渡辺貞夫」について12月19日IBCラジオで僕もおしゃべり。12月21日のNHKFM「ジャズトゥナイト」ジャズ紅白では穐吉さんの曲も放送され、12月1日の日経新聞は「名作コンシェルジュ」にビッグバンドでのデビュー作「孤軍」(1974年)が「ジャズに日本文化、能や雅楽の音響く」と紹介。1月には全国の地方新聞に「愛しているから続く」として共同通信の取材による配信が載った。トシコは今も旬。

幸遊記NO.469 「2020年12(ジョニー)時間の寝正月」2020.1.13.盛岡タイムス
 大晦日に盛岡に帰って開運橋のジョニーで年越しをしたい!と言う人がいた。それで年末年始店を開け、正月6、7、8と休みにしようと決めていたら、8日に店でセッションをやらせて頂きたい!とピアニストの鈴木牧子さんからのメールあり、6、7休み8日は夜の時間帯から店を開けることにした。すると店を閉めていられる時間は5日深夜の終業時間から8日夜7時までの67時間。その時間内に店内の音響機器、レコード、CD、本や資料の配置換えを行う決心をした。
 最初の日、つまり5日の深夜は就寝時間を返上、徹夜で棚から物の取り出す作業と棚やスピーカー台(ステンレス製天板付長さ180×巾60高さ100×2台)の移動をやり、疲れ切って寝たのが5日の朝に起きてから24時間が経った6日の午前9時、そこから丸12時間一度も目覚めることなく寝て、夜9時過ぎからまた徹夜で作業。7日の夕方オーデイオ狂の友が酒を持参で新年のごあいさつにやってきたので作業中断して雑然とした足の踏み場もない様な店内で飲み交わし22時半に寝る。また12時間1度も目覚めずに熟睡。8日昼から夜の開店までにすべてを片付け掃除をして店をオープンしたのが19時をまわっていて、時間に来店した2人を少し待たせてしまいました。ごめんなさい。の新年事始め?でした。
 ものを移動させると、その時に覚えたつもりでも、必要なものが取り出せないので出来るだけすぐ取り出せる様にと、工夫を凝らすが、1万枚を超すレコードとCDの移動と整理は大変な労力を要し、はたまたオーデイオに至っては、配線はもちろん全ての機器のふたを開け、ほこりを取り去り磨きをかけ、だましながら使っていた不具合をメンテナンス。6個のスピーカー・ボックス、モノアンプ2台、ステレオアンプ3台を、1個のプリアンプで同時駆動させてレコード音楽を再生させるコーラス方式のセッテイング。使用している機器はほぼ全てが半世紀前の古機材。時代的な音楽再生業であるジャズ喫茶開運橋のジョニーは今年2020年は開店45周年、現在の店舗に移ってからの7年間は日本のジャズ専門から世界ジャズ特にも発祥の地アメリカのジャズ史への旅であり、そこで知ったのは先人達のたゆまざる努力であった。

幸遊記NO.468 「トシコの全米デビュー評論文発見」2020.1.6.盛岡タイムス
 1953年11月ノーマングランツ率いるJATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)の初来日が生んだジャズのシンデレラ・トシコアキヨシ。当時アメリカの№1ピアニストだったオスカーピーターソンが銀座6丁目にオープンしたばかりの喫茶店「テネシー」で昼に、又深夜にはクラブ「ニュー銀座」にてジャズ演奏を聴き「秋吉敏子という、自分のスタイルを持った素晴らしいミュージシャンがいる。彼女のピアノを録音したほうがいい!」とボスのグランツに推薦。グランツも「オスカーが言うのなら」と即決。メンバーはオスカーのレイブラウン(b)ハーブエリス(g)J.Cハード(ds)。
 白羽の矢が当たった敏子から相談された志摩夕起夫氏(ラジオ東京のイングリッシュアワー担当者)が11月13日(金)深夜同局の第2スタジオをキープ。マイクセッティングはグランツ氏、録音は石原康行氏が担当。この3人以外の記者、カメラマン、プレーヤー、ファンなど、大勢の見物者達を全員シャットアウトしてのレコーディング。リハーサルをして、演奏のテンポを変えソロの順序を変えるなどしながら録音し、プイバックしては皆で聴き、ベストプレイを残す方法での録音。
 それが遂にアメリカで日本人初の本格的な25センチ盤のジャズレコード「TOSHIKO」として世に出たことを知らせるレビュー(三ツ星評価)文を載せたダウンビート誌(タブロイド版新聞2つ折り表紙付本?)‘54年11月号(月2回発行)17日発行(歌手・ローズマリー・クルーニーが表紙)を、僕は昨2019年11月、レコードのご本人・穐吉敏子さんの金婚式に出席した翌日、ニューヨークの中古レコード店の図書コーナーのてっぺん(脚立で登り取り出す)にあった古本をおろしては幾冊ものページをめくり続け見落とすほどの小さなタイトル文字「Toshiko」に目が留まった瞬間、自分の心臓が止まる程の嬉しいショック感を味わった。だって穐吉さんが‘56年1月ボストンバークリー音楽院に入学する1年以上も前の渡米以前、日本人初名乗りとなった全米デビュー盤評論文である。「トシコはオスカーによって東京で発見された。トシコはバドパウエルの影響を受けた良いビートとリズムによる彼のスタイルで演奏。まだオリジナルとは言えないかも知れないが興味深いアイディアを持ってプレイをしている」とある。ちなみにジャケットは五ツ星であった。

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