盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.487 「柴田君男のマジソン郡の恋」2020.5.18.盛岡タイムス
 2年程前、使ってみたいと思っていた古いプリアンプを、とある店で見付けたが修理必要との事。それでもいいからと買ったけれどやはり使いものにはならず仕方なく修理に出した。ところが、原因不明、修理不能と戻された。捨て値のジャンクで売るのはあまりにも酷!。どうせコロナ騒ぎで店は客無しと、自分で分解。その原因究明をして、故障個所を突き止め手当をしたら、部品交換せずに完治して元気に鳴り出した。「音が違う!子供と大人の程違う!ベイシーの音質に近いかも!」と女房が顔をほこらばせ僕に言う(もちろんメーカーも違う)。
 その音質という言葉でふと頭に浮かんだのは柴田君男さん(70)のことだった。秋元順子が歌う「マジソン郡の恋」の歌声の極上再生に命を懸けている彼。僕にもそのCDを聴かせてくれたので、僕はその歌の元になった小説や映画「マジソン郡の橋」のことを教えたら、買って見たと涙うるうる。何せ彼は年上の女房に先立たれた人。生前の服装は全て奥様の見立てとコーディネイト。おかげでいい男に育てられたのさ!とおのろけを言う程、美的な女性だったらしい。子供のころから何でも分解(こわす)のが好きだった彼は、水沢農業高校を卒業するも「就職したのは日立の水沢製作所。そこで彼女と出合ったのさ!その時ビビッと電流が脳内を走り、外電の仕事にくらがえしたら、なんと彼女の父も勤務する会社、東北電工だったのよ!でも仕事の内容は穴掘りの土木作業ばっか!汗水たらしてぐったり、げんなり、冬は寒くて仕事終われば仲間と飲む!おかげで、強くなったのは酒だけよ!」と笑う。
 高校時代からスピーカーボックス作りをはじめ、ステレオに凝りだして、延々の月賦払い生活。ある転勤中、家の整理を娘に頼んだら何んと大事なステレオまで全部捨てられてガックリ!で定年後にまた奮起して再スタート。来る日も来る日もいまだにあれこれと工作しては酒飲みながらうたを聴く!オーディオ三昧!の日々。だが愛妻との最後の約束、「二人の住み家だったマンションに他人は絶対招かない」を今も守り通しながら、まるでマジソン郡の橋の如きシーンのような愛妻の望みに応え、沖縄の海へ散骨した彼はその想いを胸に抱きながらの一人酒、「淋しい時は開運橋で」とやってくる!(そして僕も酒の相手に彼を呼び出し恋の唄を聴く!)

幸遊記NO.486 「太田代伸夫の山菜と山の鯉のぼり」2020.5.11.盛岡タイムス
 5月の連休明けまでの休業自粛生活中、半世紀程前からの友・太田代伸夫さん(盛岡在住)に誘われ、彼が運転する車に同乗し、3度ほど山菜取りに山へ行って来た。おもえば田舎育ちの僕だから、それこそ山菜は三才頃から食べてたはず?記憶は小学低学年時代、竹筒をつくり塩を入れ持ち歩き、スカンポやイタドリの茎など皮をむいて食べていたことを思い出す。こしゃくや、はりぎり、カタクリ、たらぼ、等々の山菜のハカマや枯草を取り除く作業しながら、あれこれ調理法を考えるのも楽しく、食する時はまさに至福である。
 太田代さん(74)は宮守村(現・遠野市)生まれ、盛岡工業高校卒。父は県庁職員だった人で若き日、農業試験を受けたら2番の成績。その時の1番は、のち岩手県知事となった中村直氏だったとの話を聞いたことがあった。僕が彼、太田代伸夫さんに出会ったのは20代の半ば頃、陸前高田にあった「柳(りゅう)」という店でバーテンをしていた時であった。当時彼は28才?。陸前高田の長谷川建設にいて、たしか住宅団地関連の仕事をしていた。彼の言葉で覚えているのは「将来、家を建てる時、俺がやるから!」だった。だが僕は家はおろか1坪の土地さえも手にしたことはなく、まるで物語に出てくるキリギリスのように音楽に遊びほうけている毎日で生きて来た。
 かたや太田代さんは37才の時、勤めていた建設会社の部長を辞し、大所高所(個々の事、小さな事にとらわれない大きな視野)に立つ「大高建設」を起業!。初仕事の「いわな養殖場工事」に取り掛かる時、お金の無い彼に、生コン・機械・資材など必要な物すべてを、それに関わる会社が無条件で応援してくれたという。又、優秀な親方と作業班まで付いて来て段取りよく、まるで流れ作業のように働けた御蔭で利益率も良く、最初からボーナスを支払ったのだとも。以来業界の談合には一切かかわらない事を貫き通して、会社を社員にバトンタッチ。その間自分のお金はユニセフに寄付し続け、恵まれない世界の子供たちへ届け、又、困っている知人を助けその子供たちへ学費の援助までしてきた稀有な人!。それを陰で支えた芳子奥方は菩薩様。山菜取り終え帰り道、ふと山眺むれば岩手山の蒼い山肌に、くっきりと巨大鯉のぼりの残雪姿。嗚呼!今日は元禄五月晴れ!

幸遊記NO.485 「釈迦と菩薩と如来」2020.5.4.盛岡タイムス
 盛岡市に「開運橋のジョニー」が開店した日の4月8日(2001)はお釈尊降誕会(花祭りの日)であった。その釈尊(ごおたましったるだ)が釈迦国の王子としておうまれになったのは今から3千年近い前のこと。(だから仏像はサンゼンと輝いている!は僕のダジャレ)。城を飛び出し難行、苦行。断食をして、ミレンセンカで沐浴中彼のやせ衰えた姿を見た村の娘・スジャータが乳がゆのほどこしをしたことから、体力を回復して、菩提樹の下で悟りをお開き(仏陀)になったとのこと。それはお釈迦様と菩薩様がこの世に出現した瞬間!釈迦牟尼佛(無二仏)と弥勒(魅力)菩薩の誕生(如来)であり、以降3千年もの間、それを祝してきた人々の大切な日となった由来の日(内なる宇宙のはじまり)。「釈迦は男性だが菩薩・如来は想像の御仏様たちであり、性別はない」と友人の和尚。
 今、世界は新型コロナウイルス対策に頭を悩ませ、外出自粛要請や規制、緊急事態宣言の発令などなどで「ステイホーム」という自宅待機生活の毎日である。宗教者達もその全ての垣根を超え、心ひとつに、コロナ終息へ向け手を合わせ、ひたすら拝む、祈る、座る、伏すの、いわゆる在家・インナートリップの世界に入った様子を伝える。困った時の神様、仏様、ご先祖様、親友、ポン友、様々ですがお国の本丸・おやかた日の丸の皆様だってふところ以外は大変でしょう。ご苦労様です。
 店内でも外出中でもマスク、マスクの毎日で、マスクを忘れりゃ自分のマスク(顔)に視線が突き刺さり、あるいは遠ざかられる日々の中「じじ、ばば、まごさんへ」と、手作りマスクが女優さん(優れた女友達)から手紙と共に届いた。「針仕事が好きな自分と、ミシンの好きな友とで作ったマスク」。手紙によれば2人のコンビよろしく、残り布やハンカチ、手ぬぐいの中に赤ちゃんに昔よく使われた麻の葉模様があったので、それをおしめマスクと銘命したらしい。すると翌日新聞に達増岩手県知事がそのおしめマスクをして登場していたと。「赤ちゃんのおしめに麻の葉柄をつかうのは魔除けの意味があるということ。私も思わず大きくうなずいた」と彼女。僕も「読んで字のごとく鬼をも追い払える丈夫な麻糸で結ばれる家族の絆が出来るのさ」と、孫と一緒にステイホーム中である。

幸遊記NO.484 「ボストンの覇者・山田敬蔵逝く」2020.4.27.盛岡タイムス
 秋田市の石垣隆孝さんからショートメール「今日(4月23日)魁(秋田さきがけ)新聞で山田(敬蔵)選手の訃報が伝えられました、、、健康お見舞いと連絡まで」と。新聞では「2日川崎市で老衰のため、92歳で。葬儀は8日に近親者のみで行われたそうです。山田敬蔵(幸遊記№347)さんは、1953年のボストンマラソンで2時間18分51秒(世界新記録)で優勝した人。昭和2年(1927)秋田県大館町生まれ。身長5尺2寸(157.56㎝)体重11貫5百匁(43.125㎏)という小柄な体で世界で初めて2時間20分の壁を破った。その優勝一ヶ月後には彼の地元で山田記念ロードレース大会が開始され今日まで続いており、2014年4月同大会を浅利純子選手と共に完走した時、敬蔵さんの年齢は86歳。
 山田敬蔵物語(石垣隆孝・文/北鹿新聞・2018年10月~12月)によれば、父・吉治、母・スミの2男として生まれ、小学校時代は運動神経が鈍く運動会嫌いだったという。15才の時満豪開拓青少年義勇軍に志願し満州へ。毎日軍歌を歌いながら駆け足をしたのが走る日課の始まりで復員するまで数年間続け、1㎞走で200人中1位になり後のマラソン人生のきっかけとなった。終戦後満州から秋田へ引揚げ昭和22年(1947・僕の生まれた年)に町の運動会で4㎞競走で4位。翌年の10㎞で1着となり、以降往復数十キロを走って通勤したという。昭和24年第4回国体(東京)に秋田県代表として出場42.195㎞のフルマラソンに初出場7位(県予選優勝者・河田康雄さんが故障。彼は若い山田さんを代表にしてほしいと言って辞退した)の幸運スタート。1952年ヘルシンキオリンピックの日本代表で26位。以降「一にも二にもスピードだ」と冬の雪上、吹雪の中でも毎日走り続け、54年のボストンへ、その檜舞台で彼が打ち立てた記録は人類未達成の新記録。ヘルシンキでのサドベックの人間機関車の上を行くジェット機関車の名が冠せられ、更には彼「山田選手をたたえる歌」(山田千之・作詞/石井歓・作曲/石井五郎・編曲)まで作られ、ボストンには2007年まで17回の出場、山田記念ロードレースには60回連続出場。80歳を迎えるまでに35万㎞余りを走り切った。健脚、健腸の人であった。コロナでオリンピック延期の今年、彼の命も途絶えた。僕の店には第一回から1964年までのオリンピックポスターを展示中である。

幸遊記NO.483 「林芳輝の蒼穹の彼方に」2020.4.20.盛岡タイムス
 「コロナの影響大変な状況ではないかと拝察申し上げます、、、」4月13日(啄木忌)に、と手書きの文が添えられた各位宛の文書とCDが望月善次氏(岩手大学名誉教授)から届いた。それによれば、本紙盛岡タイムスの前編集長・故・関口厚光氏の追悼集「賢治詩歌の宙を読む」(岩手復興書店)2017年5月発刊に携わった「星月夜の会」の皆様にお届けしたいと、同会のお一人であった林芳輝氏(岩手大学名誉教授)が関口さんを偲んで作曲した「蒼穹の彼方に(関口厚光氏のご霊前に)」のオーケストラ演奏をCDに収録したもの。
 闇の中に現れる地上の風景と一緒に、無数に輝く星々の光を、まるで宙に咲く群花の如く撮り続けた稀有な写真家でもあった関口氏の作品。それに寄り添うように幻想的な美をより美しく醸し出し、まるで銀河を宇宙船に乗って旅をしながら、この得も言われぬ音楽を聴き入っている。そんな感じさえ想い起こされる大作である。
 作曲者・林芳輝さん(84)は現在大船渡市在住。かつて話題になり今も彼等の作品がドラマ化されるなどしている岩手の作家、故・中津文彦氏や髙橋克彦氏が受賞した「江戸川乱歩賞」に、実は、一足早く最終選考に王手をかけたのがこの林芳輝さんの小説「ショパンの告発」だったはず!と頭に浮かぶ。出身は八戸、家は農家、子供の頃は二代目天中軒雲月の浪曲ばかりを一所懸命聴いて育ち、のちチャイコフスキーの「くるみ割り人形」に感動。
 芸大に入りたいと高卒からピアノを始め、7年挑戦で合格。同大作曲科卆。大阪音大、東京音大、東京女子体大、岩手大学の教授を務め「ソナチネ」「二声のソルフェージュ練習」「青少年のための現代音楽入門」等々の出版。日本作曲家協議会東北代表幹事。一方では童話作家として詩誌「火山弾」に所属、童謡曲の発表。「白い道」で岩手芸術祭児童文学部門優秀賞受賞、他、本紙盛岡タイムスに音楽の出来事などを連載していた時期もあった。「小さな頃から大学の先生になりたいと憧れていたが、小学生の時父が亡くなり栃木の祖父母に育てられ、本好きで江戸川乱歩をよく読んだ。そのことから、小説家になろうとしたこともある」そんな話を林さんから聞いたのはもう30年も前のこと。年月の流れゆく速さに驚くばかりである。

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