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ステレオサウンド誌の別冊版で「ジャズ喫茶ベイシー読本」という、ベイシー開店50周年記念本が5月末(2020)に出版された。岩手県内の方ならジャズという音楽にまったく興味の無い方でも一関のベイシーを知らない人はいないだろう。朝日とともに目覚める人なら、「swiftyの物には限度・風呂には温度」という菅原正二さん(78)の新聞コラムも読んでいるだろう。「市民の音楽文化の向上、市の知名度の向上に多大な貢献をした」として‘97年に一関文化賞。そして’17年一関市勢功労者表彰。はたまた「いわてくらしの文化特別知事表彰(‘19)。そして今年は「ジャズ喫茶ベイシーのバラード」というドキュメンタリー映画までできた。(コロナウィルスの影響で5月から9月へ延期)それ以前はヨルタモリのヨシワラさんで、あまりの凄さに驚くばかりだが彼はマスターを超えたまスターなのだ!
ある意味で彼・菅原正二さんは世界一のレコード演奏家である。「あたかも、そこに演奏者が立ち現れるかのようにいい音を再現したい」を常に考えている彼。その原動力は、誰もがうらやむ程のバランスの良さで鳴るベイシーのステレオサウンドを「一度だって良い音だと思ったことがない!」と自ら言い切るたゆまぬ努力と注意力。「自家用の小形フルレンジの音を大形で出せたらいいだろうなと思って、いわゆるドンキホーテをやってるんだよ。全ジャンルを一台でこなすことを目指してね!音はその人のスタイルだから」そんな話を僕にしてくれたのは‘87年のこと。 「漆黒の円盤、LPレコード、不思議な物体、追えば追うほど遠のいて、何処まで追ってもまた逃げる、七色の虹のように」は菅原さんのオーバー・ザ・レインボーだが、全国の特にもオーディオ夢中人や、ジャズ喫茶にとってベイシーは正二(まさに)その虹なのだ。 だから僕の店は2時(にじ)から開店!とシャレたる訳ではないのだが、僕とて自分の店の音に満足したことはなく(したいが出来ない)、いまもって悪戦苦闘の日々。だが、彼とはありとあらゆる面で正反対。育ち?を別としても鳴らすも生き方もほとんどの面で真逆の歩みをしてきたのだとあらためて思わされる。それもこれもベイシーという五年先輩の日本一のジャズ喫茶が一関にあり、たまたま隣町出身の僕にとっては彼の背中があまりにも近くて大きく前が見えないので、自然に後ろ向いて進んで来たのかも・・・
大船渡市の先輩S氏から先月と今月、2冊の本が届いた。先の本は2012年2月農山漁村文化協会が発行した「宮本常一(1907~1981)とあるいた昭和の日本16(東北3)。で幻の月刊誌「あるくみるきく」の地域別、テーマ別に編んだ昭和日本の風土記集。そのP141~P170に載っていたのは“気仙大工探訪行”文、写真、図、鈴木清とある。僕はその名を見て当時の彼の顔と姿、話し方まで想い出しながらページをめくれば、なんと僕の店の外観が二分の一ページで登場していた。その写真説明文には「気仙大工の調査で歩き疲れた僕の憩いの場になった陸前高田のジャズ喫茶ジョニー」とある。
東京から大工の取材や調べに来て約一ヶ月間毎夜ジョニーに通い詰め、店に集まる大工や、他の職業人たちと談笑し、調査という気負いを拭い去ることに成功?したそれは「調べて帰る。いわば、“通りすがりの旅”だったのが、高田は初めて一つの居場所になった」とあり、ジャズを核に集う人との交わりまでが書かれていて、僕は昔の友人たちとの再開を一度に果たせた様な気持ちになった、嬉し懐かし・・・。 そしてもう1冊はアサヒカメラ2011年9月号。総力特集・写真家と震災。巻頭・グラビア篠山紀信、野町和嘉、平間至、畠山直哉「4人の視点」と題されているなか、陸前高田出身の畠山直哉さんの写真は震災前と後の同じ場所、同市気仙町の今泉保育所の裏山から、彼の生家があった姉歯橋付近から河口までの街の全体風景が写っているのを見て、僕は写真というものも音楽と同じで誰の演奏か誰が撮ったのかが、すぐに判る個性的な作品がホンモノなのだということを再認識させられた。特にも直哉さんに関しては大船渡高校時代から店に来ていた人でもあり、作品はずっと見て来たことを差し引いても、彼の作品は彼自身以外の何物でもない。超のつく大物写真家として世界に知られる存在。 実はこの本「アサヒカメラ」が届く直前、S氏から電話で「学生時代ジョニーに通っていて、中山英二(b)のジョニーズディスク表紙絵を描いたのはかれだった様な?」の確認の問いがあった。そのとうり!で大学も半ばまではまだ絵画を目指していて、写真は途中からだが、大学院卒業する頃はすでに今に続く目心眼を持った等高写真集を出版していた。「ところでこのアサヒカメラも遂に休刊ですよ!」とS氏の言葉にビックリ!
4月20日自分の誕生日を迎えて以来、時々頭の中にパッと花が咲く。濃淡大小6片の花びらと9輪の花。窓際のテーブルにそっと置散らし、カメラのシャッターを切る。得も言われぬ陰影の美しさ、何という安らぎのとき。この和紙の花々を贈ってくれたのは鈴木昌子さん(盛岡市南青山在住)「新型コロナウイルスの為に少しは外出を控えております」との手紙と一緒に折りたたまれた花々が封筒の中から出て来た驚き、それを一輪ずつ開いていった時の感激が忘れられないのです。本当に有難うございましたございました。
彼女のご主人だった故・鈴木宏延さん(2015年2月79歳)は、あの2011・3・11の東日本大震災まで陸前高田にあった「酔仙酒造」の社長・会長を長年務めた人。酔仙は当時東北最大級の酒造会社で、日本酒・酔仙をはじめ、焼酎・甲、乙、甲乙混合などの他、ブレスヂというブランデーなども造っていた。特にも8年貯蔵の米造り「古古」は正に絶品、あれ以上においしい焼酎には今だ出会えない程。それもそのはず清酒界初の珠玉の結晶として、成田空港国際線の免税店に並べられた国産焼酎の第一号!40度に調製する水以外添加物を用いない、モルト100%の純粋さで芳香と旨味が一体化した清酒会社ならではの極上の米焼酎でした。 被災直後には奥州市前沢の酒造会社「岩手銘醸」の及川順彦社長から一関市千厩の同社「玉の春工場」の施設や設備を提供され清酒「酔仙」を継続製造。その間に大船渡市に酔仙の新工場を再建した同社は岩手銘醸に対し恩返しとして焼酎造りの技術を提供。焼酎製造免許を取得した岩手銘醸は「清酒玉の春」の昭和初期ラベルを再現した「本格焼酎・玉の春」という新たな看板商品を発売したのは2015年の夏。 その夏の言葉で想い出すのは1985年の夏。当時の酔仙酒造の協力を得て同社の中庭で開催した「日本ジャズ祭・in・陸前高田」マーサ三宅やネイティブサンなど21グループ延々10時間半の真夏の祭典。‘89年1月陸前高田市民会館・エレキの神様こと寺内タケシのブルージーンズ結成25周年記念公演の共催。また’85年の開局から2010年まで、僕もDJを担当したFM岩手のジャズ番組「オールザットジャズ」の番組提供などお世話になりました。それはそうと震災前の酔仙酒造構内は陸前高田随一の「桜」の名所でした。
1980年前後に来演していた新潟のベーシスト・羽生英一さんから手紙と5枚のCDが届いた。「お知りかもしれませんが、小栗均さんが忘くなられて1年になり、メモリアルCDが完成しましたので、お送りさせていただきます、お収め下さい」で、僕はエッ!知らなかった…と彼に電話。CDは「小栗均ソロピアノ・ライブ・アット・JAZZ・FLASH」である。とても心地良い演奏。コロナ自粛で店ヒマをいいことに僕は毎日何度も聴き続けている。そこへやって来た常連の青木嘉賀利さん「この演奏もしかして山本剛さん?」と僕にたずねた。その時、彼の耳の確かさに僕は驚いた「そう!これは山本さんの師匠だった人の演奏だから」。「へえーっ!」と彼。
小栗均さんは1934(昭和9年)新潟県見附市生まれ、長岡商業高校卒業以来、新潟でだってジャズは勉強出来る!という信念を持ち、一貫して聴者の耳に心地よく響く音色を求め続けた人。CDにコメントを寄せた辻数弘氏によれば、ジャズピアニストとして至難の技である“ことばを音で表現する”ことを探求し続けた演奏家であった。僕が彼の事を知ったのは‘80年、彼の演奏をカセットに録音して新潟から持参したのは教師だった高見翆さん。その演奏を聴き、レコーディングを決意。’81年落成したばかりの住田農林会館で録音し「みどりいろの渓流」としてジョニーズ・ディスクより発売した。 当時はフュージョン全盛時代。5作目「海を見ていたジョニー」、6作目の本作品ともにジョニーズ・ディスクは、後ろ向きなスタンダードに逃げた!などと酷評された記憶!ところがジャズ批評誌の131号(2006)の和ジャズ特集(1970~1990)百選にどちらの作品も選ばれたのは、四半世紀もの間に流行は自然淘汰され、ホンモノだけが残され磨かれ続けてきたということ。今作の追悼盤は体調を崩しライブ活動を休止する2年前の2003年、新潟のジャズフラッシュでの最後のライブレコーディング。その一生涯を新潟でひっそりと目立たず、だが地方ジャズ色豊かにして尚、日本人としての本質を表現し得た演奏力はふた昔とは比べようがない程、更に、美しく澄み切り自然にスイングする渓流音楽そのもの。1枚千円!これまさにジャズ!
15才・高校一年生ピアノ・菊池冬真君と、26歳のフルート奏者・君塚彩さん(現29)が僕の店で初デュオライブを行なったのは2016年12月のこと。その彩さんが店に現れビックリ!というのも昨年2019中国で日本語を教えている教師の妻となって彼女も中国に渡り向こうで暮らしていたはずが、正月に盛岡に帰省し、2月の友人の結婚式に出席。その後に夫の元へ戻ろうと思っていた矢先、中国からのコロナウイルス騒ぎで戻れなくなり、主人も日本に戻れず仕舞いでそのままずっと別居でスマホでのやりとりだけの新婚生活?。
彼女が開運橋のジョニーでフルートを吹き出したのは岩手大学生時代。教育学部生涯教育日本語地域文化国文学研究室という、長い長い名称の所に在籍、学びながら自分が中学から続けて来た音楽もやり、大学での文学とのバランスについて考えた時、あこがれていたフランス在住の辻仁成氏の音楽と小説をテーマに卒論を書いたのだという。そのこともあって大学院に進んで音楽の勉強もしてみたかったそうだが落っこちたのだと。そのため東京でプロ活動後に岩手に戻って来たギタリスト・小林道夫さんに音楽の理論を教わったことで、ようやく納得と発展が出来るようになった。 フルートを始めようと思ったのは生まれ故郷宮古市の千徳小学校時代、4年になったら友とフルートで鼓笛隊(ブラスバンド)に入ろうと約束したが、父は中学校、母は小学校の先生で転勤の為、4年生から両親と共に盛岡へ、彩さんも北厨川小学校へ。そのため友に2年の遅れをとって北稜中学校に入ってからフルート始め、同校吹奏楽部で東北大会まで出場。以来、高校、大学吹奏楽部、同ジャズ研究会。さらには盛岡吹奏楽団でと吹き続けながらライブハウスジャムセッションやバンドでも演奏。結婚して中国へ渡ってからは、言葉通じなくとも音楽なら通じる!と外人も集まる2ヶ所のライブハウスへ通ってフルートを吹き「シャオ・レーベン!」イエーイッ!と驚かれたという。「教育的にはアンチ日本でも、アニメでも日本語を勉強するし、日本の音楽も大好きだが、中国全体の話ではない。違和感は感じるがおおむね人はいいし、信頼すればすごくよくしてくれるが、適当なところは傾向としてはあるみたいで、ビジネスライクはむずかしい」と言う彩さんは「音」で中国に居る日本人の「おっと」とつながりながらパソコンワーク中である。 |
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