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前回の幸遊記にちらと登場した井上マスさん(作家・井上ひさし1934~2010の母)は1907年小田原の生まれ。東京の病院勤めで知り合った薬剤師の夫・修吉さんは結核性カリエスにより9年間にわたる闘病生活の末、36才の若さで、実家の山形県小松町(現・川西町)で他界。しかし彼はその3年前の1936年「サンダー毎日」の懸賞小説に応募し「H丸の伝記」で、一等入選「夫の文才、私の目に狂いはありませんせした」とマスさん。‘39年夫に先立たれた時長男・慈(10才)、2男・ひさし・(5才)、そして夫の死と入れ替わるようにその年の暮れ生まれた3男・修佑(しゅうすけ)。その時から、かたときも忘れることがなかったという亡き夫への30数年間分の長い長い赤裸々な手紙。それが’83年3月、東京の書苑から「人生は、ガタゴト列車に乗って、、、、井上マス」という本になり、大絶賛されたのでした。
読めば、のちの大作家となった2男(ひさし)の父母のDNAによって?作家に至るまでの道程がわかるというもの。戦争を挟んでの前後、物資の乏しい時代にあって、3人の子供を育てるため、どうしなければいけなかったかのかなどを、たったひとつの虚構もなしに語られた思い出話の物凄さに圧倒されたもの! 僕はマスさんと11PM・TVに出た後日、お会いしに釜石へ!鉄筋コンクリート造りの立派なお宅に伺うと、通された広い応接間の様な書斎で机に向かい執筆中でしたが、お茶でお相手をしてくれて翌日にはお礼の葉書まで届き嬉しかった。 前回幸遊記に登場の森田眞奈子さんにマスさんは「耕して天に至るという言葉がございますが、普代までのつづら折りの山道は歩きて天に至る思いであった。途中の北山崎の景観は近代文明を疎外の外においた太古のままの姿に圧倒されました。外来者にとっては驚異の風景大自然であっても常時そこに暮らすとなると大変だなど、月並みの表現では住民の辛苦は理解されない実生活があるという発見はなんと美しく悲しいものであろう。怖い山道と断崖の海にかこまれた中で生きている、普代村の人々をいとしく、そして幸福を願わずにはおれません」の手紙。そのマスさんの本と戦後すぐ釜石の警察官になった菊池武男さんから聞いた昔話の数々、合わせれば表と裏ピッタシカンカンでした。事実は小説よりも奇!
「普代の森田です。明日友達とジョニーに行きますから」と電話があった。何十年振りだろう!と僕はとっさに「明日普代に来ませんか?」と田野畑村で言われた35年前の森田眞奈子さん独特の「まなこ・目力(めじから)」を想い浮かべてた。三陸鉄道田野畑駅から生中継されたTV・11PMへ、作家の故・井上マスさん(当時77才)と一緒に僕(37才)もゲスト出演した翌日、断崖絶壁の道や、凄いつづら折りの坂道を通って普代へ。着いた先は旅館。そこで蕎麦をごちそうになった記憶。そこのおかみさん森田眞奈子さん(同48・現83)だった。
あれから音楽を通じた交流が始まり、彼女のリサイタルやコーラスに招かれたり、同村体育館で縄文の唄旅と称した三上寛のコンサートを開催。彼女の娘・真柄さんにも出演して貰った「ジャズ音泉まつり」(福島バリハイセンター)のことなど次々と頭に浮かぶが、最近ごぶさたしておりました。その昔、彼女は村の広報紙に「音楽、歌、その心」という文を書いて、僕はそれを自分の唯一の小説に引用した記憶も!「音楽はいいものですね。人心に流れ込み無形の像を描く。想像を創造に変える。自己を純粋に高揚させる要素を持っている。繰り返し提唱されている活性化も、人々が限りなく個に返ること。そこから出発するのでなければ始まりはない。例えば音楽の感動、芸術文化の価値観を共有出来る個の目覚めがなければ、その地域向上のバネにならないだろう、、、、」の要旨。 彼女はそう提唱して個の連なりを実践!。田野畑、野田、普代、藩政時代の一揆になぞらえたライオットの風という三村からなる「でぼかい合唱団」。読書と朗読の集い「本だすかい」。賢治と語る普代会などなどを率先。特にも意を同じくする女性たちと活動を共にし、宮沢賢治が大正14年1月北三陸を旅し鉄道の終点八木(種市)から歩き堀内(普代)から発動機船で宮古方面に向かった説に基く賢治の詩「発動機船・一」の詩碑の建立(2015)。それに先立つこと10年の「敗れし少年の歌へる」賢治碑の建立等々、「賢治を語ることは出来なくても賢治と語ることは出来るはず」をモットーに集って賢治の詩に曲をつけては歌い。林洋子の語り芸「賢治の世界」をも開催し続けてきた人の「まなこ」は、まなまな健在で今に続く昔話はまるで紫陽花のようでした。
僕(顯・けん)と女房の小春(春美)が知り合って交際し、再婚したのが60の時。婚前交感で生まれた何人もの子。とはいえ他人(ひと)様の子(大人)たちである。その3女・さやかちゃんのことが時折、頭に浮かんできて「どうしてるかなあ。無事に便りなしか!」すると不思議にも翌朝に電話あり「今日、お店開きますか?」で久しぶりに、それこそ孫をつれてやってきた。孫の名はなぎちゃん。その名で思い浮かんでくるのは南部牛追唄「今度来る時さあ 奥の深山のなぎの葉を持って来てたもれやあ~」そう!親子3人で。なんとめごいまごだこと~「3才です」
「さやかちゃん何才になったの?」「今年40です」えーッ、びっくりぎょうてん。出会って15年かあ。ご主人の隆盛さんとても素敵で、子ぼんのう。ええ方やのう。会うたびにそう思い、血液型を聞いたらやっぱしAだという。さやかちゃんはOだからって、オフィス・オートメーション式に子を作ったわけではない。僕はずばり聞いた!「これまでにいちばんたのしかったことは?」「痛かったけど、なぎが生まれた時!。2番目はジョニーに来たこと!あの時までジャズはしらなかったの!」僕は嬉しくて涙ぐんだ。だって彼女はその後、父・マカトさんを連れてきて、僕の親友にさせてくれた(一緒に旅までして僕等夫婦と同部屋で寝たこともある仲である)。 彼女が店に来て、コンサートの手伝いなどもしてくれた頃、次から次へと詩を書きだして、何篇も読ませてくれたことがあった。それはとてもいい詩だった。その中から僕は抜粋しライブスケジュールの表に書でしたためたことがあった「宿命の闇を明かすもの、ジャズ!(2007年6月)」「清らかなものには惹かれない、毒を明かしてこその美しさに心惹かれる(2008年10月)」。そして更に忘れられない彼女の詩の光景が浮かぶ。穐吉敏子ピアノトリオ・フロム・ニューヨークの2008年東日本ツアーを僕がプロデュースした時、東京三鷹の芸術文化センター(風のホール)に始まる北海道、東北、関東8ヶ所公演の最終日。東京亀有の「JAZZ38」その店の入り口に、なんと僕が書いたさやかちゃんの詩の1節「その人の笑顔を思い浮かべると、どうしたってほほえんでしまう」が掲げられていて、僕は思わずそれを背に穐吉さんに立ってもらい、笑顔と書を1枚の写真に収めたのでありました。
陸前高田で僕が店を開いた1975年からずーっと常連だった米谷隆夫さんから、先月(2020年6月)2度8冊のジャズに関する単行本(1950年代~60年代にかけて発行)を贈られた。その中の一冊「ジャズ」ラングストンヒューズ(1902~1967)木島始・訳本の終章にニューポート(第3回ジャズフェスティバル)報告1956。「初日、空からどしゃ降りの雨のもと国歌の演奏で口火を切ったカウントベイシーから、MJQ、エディコンドン、サラボーン、ユタヒップ、そしてトシコアキヨシ、チャールス・ミンガスグループが出演した」とある。
二百数十年前のニューポートは捕鯨の町でありブラックゴールド(アフリカ人奴隷)の貿易港。「町はアフリカ人たちの血と自由と幸福の犠牲のうえに築きあげられ繁栄し、富と財産かちえた」そこでのジャズフェスティバル。「本当に元気な、心底ジャズに首ったけの者だけ(2千人)が座っていたという。(第二夜は一万人、第三夜は一万数千人)その最初の晩「吹き付ける雨や水浸しの地面や音楽の為にかかるかもしれない肺炎のことを忘れさせたジャズには予防の性質、治療の価値があるにちがいない。なぜならニューポートで致命的な風邪を引いた人があるのを聞かなかったから」とある。 たしかに!今のコロナウィルスだってジャズクラブやジャズ喫茶での感染は無いようだ。それは何故?って「ジャズはミツめるものでなくキクものだからです!」。‘56年9月号SJ誌に「アメリカ・ジャズ祭に、秋吉敏子キモノ姿で現れドラムとベースの伴奏で演奏、喝采を博した。特に「トシコズ・ブルース」が好評であったと。その初夜のトリはチャールス・ミンガス(b)率いるジャズ工場!ミンガスといえばその秋吉こと穐吉敏子さん(90)が、これまでにサイドメンとして所属したのは唯一このチャールス・ミンガスのバンドにだけ。「イン・バードランド」(‘62年6月5日)。「タウンホールコンサート」(’62年10月12日)の2作品にそのサイドメンとしての演奏が残っているが、穐吉さんは「彼が意図しているメロディを彼が歌い、それを私たちがその場で覚えるというミンガスの練習方法、私はそれが今でも一番理想的な方法だと思っています」という。そのミンガスの自伝本を翻訳したのはかつて僕が大変お世話になった先輩の故・稲葉紀雄さんでした。
「新型コロナウィルスの感染者確認いまだゼロ(岩手の謎?)の不思議判りました。“六芒星”のお陰ですね。」の手紙と共に、宮城の新聞・河北の切抜(6月22日付2020)が仙台の親友・タアちゃんから届いた。その見出しに「六芒星、コロナから岩手を守る?」とあり「世界遺産中尊寺周辺にある六芒星の結界が、いにしえより地域を守り、過去の歴史でも大きな疫病とは無縁の地域。六芒星は面白い説!」その結界の中心に位置するのは東北最古の神社と言われる配志和(はいしわ)神社は、かつて磐座(いわくら)山と呼ばれた現在の蘭梅(らんばい)山に建っている。
それを囲む六つの神社は北側の頂点、平泉の白山神社から左回りに達谷窟毘沙門堂、一関の三嶋、鹿島、滝、舞草の各神社は全てが「イワクラ」をまつり、自然神「アラハバキ」を信仰する場所。北東の鬼門を封じるように全体が左向き15度傾斜で東西南北に約13kmで広がっているこの六芒星の始まりは“11世紀後半頃”と推論するのは、地域信仰を20年来研究してきた一関の金田渉治さん(59、学習塾経営)で、この六芒星の発見者。それは110年、ヤマトタケルノミコトが磐座山に神々をまつり火石輪(ほしわ)と号する現在の配志和神社の創建にはじまったらしい。 それこそこの幸遊記先週の「一関ベイシー」は「岩手の関所だからね、いまだ店は閉鎖中だよ!」との電話を店主の菅原正二さんからいただいたが、僕が書いた本紙「盛岡タイムスの切抜きが朝日からFAXで届き読んだよ」と笑う。それはそうとそのベイシーの菅原さんは早稲田への浪人中、うちの女房は中学生の時、それこそ六芒星の中心地、盤座山(蘭梅山)にある一関療養所にて結核のため枕を並べて?入院していた事実。しかも女房の小春は山目中学校分校欄梅学園を卒業してから、又、盛岡の上田中学校に2年生から入り直し卒業(当時の教育長・工藤巌氏に面談し許可をもらい)した事実。 僕もその当時(中学時代)達谷窟の実家から自転車で一関に向かっては、療養所への登り口にあった商店に立ち寄って店先のベンチで休んだ記憶がよみがえる。この三角関係?も今こうして考えてみれば岩手ジャズの六芒星?の中心店(点)もやはり一関かと納得した次第。仙台のタアちゃん「オレは老苦忘生のゴカゴが欲しいです」とシャレていた。 |
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