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今夏(2020)10年振りに鈴木周二氏(元・東海新報編集長)と約束して大船渡のうなぎやさんで一緒に飲んだ。氏に初めてお会いしたのは忘れもしない1978年の夏。辺境気仙地区で、グラフ誌創刊!エーッ!凄い!一体誰が?。新聞を見てビックリした僕は購読希望のハガキを贈ったら、わざわざ届けに来たのが鈴木さん。郷土の歴史・自然・民族・文化・文芸と主とする内容で嬉しかったのを覚えているが、何よりのビックリギョウテン!は、次号への執筆依頼!。あれは一生忘れられない!
何故かといえば、それまで僕は物の本や新聞に載せてもらえるような文章を書いたためしがなかったから!で、氏から手取り足取り文章の書き方を一から教わり、大きな大きな紙にびっしりと言いたいことを書き、それを削ったり足したりの推敲や校正をしてやっと書き上げた初めての文章は「わがジャズ日本列島改造論」(日本ジャズの隆盛は気仙から)‘78年10月。それが今日に至る僕の執筆活動?の原点。 氏はそれまで10年間勤めた東海新報をやめ、1人出版の道を志した!まではよかったのだが何せ当時の2市2町合わせても10万に及ばぬ陸の孤島!では、やはり続かずに、すぐさま立ち行かなくなった。だが東海の社長は彼を編集長として再雇用!彼も彼の独自路線で郡の歴史をさかのぼり、過去を洗い、ノリ養殖の始祖の功績や気仙大工遺産、地域文化を掘り起こし、それに根差した未来気仙の育成に取り組み、地区民の心技を行政にわからせ、まとめる役割を担って行動した。「東海なければ夜も明かず!」の圧倒的な読者支持を受け、ある意味4市町の舵取り役とも言えた程の人。「歴史の積み重ねてきたものを全て破壊したのは文部省を始め、国家機関の人づくり怠慢と手抜き以外のなにものでもない。復興の町づくりは地域の歴史と文化が鍵なのだ」と、静かな怒り。 それで想い出したのは「気仙は精神的に岩手を離るべし」(‘88年頭提言)。明治元年気仙は政府の直轄地となり、同2年江刺県を皮切りに一関、水沢、磐井、宮城の各県へと所属をたらい回しされ、同9年岩手県に所属。しかしその後21年気仙郡は再び宮城県に移管してほしい旨の嘆願書を内務大臣に提出するも却下された経緯を持つことから気仙は春来る「鬼」という「心の砦」を持つ独特の国に至ったのだ。
ほとんどの日本人は盆になると自分の生まれた家(実家)あるいはそのルーツとなる本家などの墓参りをするため帰省するという本能(DNA)を持っているが、僕はジャズ喫茶を構えてからというもの、ほとんど盆には実家に帰ったことがない。というのも盆にふる里帰りする人たちで一年中で一番忙しいときだから!は陸前高田時代のはなし!盛岡では逆だったが20年もすると少しは来るようになったのだが、今年はコロナ禍で延々閑!おかげで長年果たせなかった「盆に実家へ帰っての墓参り」が叶った。
家は平泉町北沢29番地。垂直に切り立つ岩に掘られた顔面大仏に向かって右下に半分屋根の達谷窟毘沙門堂と西光寺光堂。左下には駿河と照井家。僕と年齢が同じだった実家を建て直す際、町が発掘調査を実施、昔々寺人たちの住んだ僧庵?寮?跡が出て来たという。地形的に見ても確かに境内の一角であることは一目瞭然!しかも家の屋号は「禰宜」で、通称「ねぎわの西」と呼ばれていた。隣の駿河家は(東)だったなと思い出す。 道路から家に入る小道(門口)を横切って流れる用水路が照井堰(北照井堰)。一関・厳美渓の上流(磐井川)から取水。隧道(穴堰)を通って達谷窟前を流れる太田川に合流。その数百m下流に揚場を作って分水される水は下流の田畑はもちろん毛越寺の泉ヶ池にまでも流れゆくがその取水口が僕の実家の前なので、平泉を潤す照井堰の水を最初に使えるのが照井で、次が駿河、そして毘沙門堂前の池へと流れゆく。そんな訳で揚場(人工滝?)から流れ落ちる水の音、天気次第で水量が変わり音も変わる、いやおうなしに毎日聴いて育ち、今も音で生きている僕の原点。何十年振りかで取水口の揚場に佇んで生音を聴いた。うーむ!ひらたくいえばみずみずしい音だ!と僕。 照井堰は藤原秀衡公の家臣で普請(工事)奉行であった照井太郎高春の起工。その子・高安が父の遺志を継ぎ難工事を推進し竣工したと伝えられるが、今日に至るまでの先覚者達の業績は明確を欠き未だに不明点多々。僕は女房と一緒に実家からの帰りに一関の照井神社や昔の平泉照井館に立ち寄り久遠の昔に想いを馳せた盆の1日となった!「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)。
前回幸遊記№499のタイトル「上を向いて歩こう」と歌っていたのはきゅうちゃんと呼ばれ親しまれていた坂本九(本名・九“ひさし”1945年生)。彼は1985年8月12日の羽田発大阪行きの日航機(群馬県上野村御巣鷹山に墜落)の乗客の一人でした。「上を向いて歩こう」(永六輔・作詞、中村八大・作曲、歌・坂本九)は六・八・九トリオと呼ばれ「上を~」(‘61)[
ひとりぽっちの二人」(’62)「見上げてごらん夜の星を」(’63)その後も続々とヒットを飛ばし、九ちゃんはNHK紅白に10年連続出場と相成った。 しかも上を向いて歩こうは、いつの間にかひとりでに歩き出し、‘63年6月には「SUKIYAKI」に改題されて米国でキャピタルレコードから発売になりビルボード・ヒットチャート100で3週連続、キャッシュボックスでは4週連続で第一位を獲得(日本人初)ミリオンセラーとなって、英語バージョンまで売り出される程の人気を集めゴールド・ディスクを受賞した!。その作曲者でジャズピアニストの中村八大氏は「永遠に生きる歌をつくりたい」と願い「誰もがうたってくれるに違いない」と思って作った曲。 九ちゃん自身、‘62年9月にフランスへ行った時にはジュークボックスにも入っていて、自分も聴いたそうですが、この歌は中村八大氏が’61年7月21日に開いた自分のリサイタル(第3回)で初演(九さん歌)が好評だったことからレコーディングされたもの、しかも曲(譜面)が出来たのはリサイタルの当日、それをマナセプロダクションの曲直瀬信子さんが八大さんのピアノでうたい、それを本番直前にその彼女が口伝で九さんに!で、ステージへと駆け上がった歌。その歌には「思い出す春の日(‘60年安保運動に参加した日本中の若者たちへの連帯の想いが込められていた)。」(佐藤剛著「上を向いて歩こう」岩波書店2011)それが歌詞とは関係なしのSUKIYAKIとなったのはアメリカ人が知っている数少ない日本語のひとつだったから。重要だったのは覚え易いメロディとメランコリックな歌声だったと米関係者。最初のラジオ反響はまるでパールハーバーの再来!だったそうだ。それはそうと僕らジャズの世界では、生前只1つ(2枚組)の作品「なしくずしの死」(幸遊記№244)を遺してこの世を去った天才アルトサックス奏者・阿部薫(1949~78)は忘れられない存在の人。その彼は、坂本九さんの姉の子(甥)であった!闇があってこそ光は輝き明日があるさ。見上げてごらん夜の星を!
8月は原爆の月、終戦の月、盆の月。記憶は49年前の1971年7月30日、乗員乗客162人を乗せた、千歳発、羽田行きの全日空ジェット旅客機・ボーイング727のイワテケン雫石町への墜落。更にはちょうど30年前の‘85年8月12日羽田発、大阪行きの日航ジャンボジェット機・ボーイング747、乗員乗客」524人(生還者4人)という史上最大の墜落。以前にKさんから頂いた「クライマーズハイ」(横山秀夫著・文春文庫2006)と、中学時代の同級生N子さんからの「機関銃を探しに来た男」(大宮純著・せせらき書房)と二つの墜落に関する小説を読んだ。前者は元地方新聞記者、後者は元政党青年同盟員。そして僕のジャズ講座に10年通っている先輩のK女史から頂いてた’85年の週刊朝日8月30日号「詳報!日航ジャンボ機墜落」。
雫石に落ちたのは航空自衛隊松島飛行場から離陸したジェット戦闘機(訓練機と教官機)の編隊飛行中、訓練機の右翼が旅客機の尾翼付近に衝突。両機は操縦不能に陥り、自衛隊機は雫石駅西方400m地点。全日空機は空中分解して同駅3.3kmを中心に東西南北1.5km付近に墜落し全員死亡。訓練機生はパラシュートで無事脱出。 日航機が落ちたのは群馬県の上野村御巣鷹山。墜落数年前、同機はしりもち事故で修理した圧力隔壁の破損及び垂直尾翼の脱落による操縦機能の喪失が原因かとされたが、軍?自?のオレンジ色した小型無人飛行物体の衝突が本当の原因のようでもある(乗客が窓から撮影していた)が、機長の米軍横田基地への緊急着陸要請も拒否されての大事故?大事件であった。「地球上の全ての物は自らは絶対に動きませんから”動かぬ証拠“になり、時としてその証拠は人という者の力によって動かされ隠滅させられることがある。」 大宮純(本名・伊藤孝・1948~2015幸遊記№73)の小説は雫石に墜落した戦闘機の機銃が誰かによって持ち去られたことから、聞き込み捜査する警察官が、それに乗じて赤狩りのための聞き込みまで進めるという墜落とはあまり関係のない物語だが、それなりの面白さ!いずれにせよ権力をつかさどる者とそれに従う権力者側の見えないおそろしいまでの圧力に立ち向かった男たちの物語である。
今年(2020)1月6日の幸遊記№468でトシコ(秋吉敏子)の全米デビュー評論文(1954年)NYでの発見について書いたが、そのノーグラン・レコードLPMGN・22(10インチ・25センチ盤)が出る以前、実は45RPMのEP盤(4曲入り)2枚が先に発売されており、EPN・47と48のレコード番号である。47については2018年4月に僕が出版した「穐吉敏子への旅」という彼女のレコード全作品集に収録していますが、実はこのEPだけは自分が所有しているものではなく、山形駅前にある老舗のジャズ喫茶「オクテット」の相澤榮さんからコピーしてもらったものでした。
いずれにせよ、同年(’54)にEPからLPになった同じ音源なのですが僕はこれまで、その敏子さん演奏の日本人初・全米デビューのオリジナル盤では一度も聴いたことがなく、ずーっと聴いてみたい衝動に駆られ続けてた。というのも、僕が持っているのは‘76年再々発売 のヴァーヴ不滅のジャズシリーズ・第8期特集「アメイジング・トシコ・アキヨシ」発売元・ポリドール株の盤である。最初の日本発売は64年、それでもアメリカ発売から10年もたっての日本盤の発売で、テープの状態が悪いせいか音がひずんでいて、これがCDに焼き直されても直らずで、原盤を聴いてみたいと思っていた。それが何と2020/7/31、EPN48のシングル中古盤がアメリカから届いたのです!ネットで見つけてゲットしてくれたのは、僕が盛岡に来た2001年から、親しい友人となった工藤正輝(盛山)さん!。最速針を落とせば、凄いリアルな音!で、ビックリギョウテン!ワーオッ!。 僕はすぐさま山形に電話した。彼もあれ一枚で、米盤LPはないという。でもシングル盤の音の良さにくらべ再発日本盤の音のひどさについては同意見であった。先輩相澤氏が持っているのはN47.僕の手に入ったのはN48,同盤8曲中の4曲ずつである。LP収録A面分がN・47、B面分N・48は、初来日したJATP(ジャズ・アット・ザ・フィル・ハーモニック)のプロデューサー・ノーマングランツ氏によって、ラジオ東京でレコーディング。その記述(志摩夕起夫氏の文)‘54年ミュージックライフ誌1月号を見ると録音の曲順はB面(N48)4曲が’53年11月13日深夜、A面(N47)は14日午後の録音でした。 |
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