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大好評上映中の「JAZZ KISSA.BASIE」に幾度となく映し出されていたジャズ評論家の野口久光さん(1909~1994)。僕は2,3度お会いしたきりでしたが、映画を観て懐かしくなり、彼が僕の信奉するジャズピアニスト・穐吉敏子さん(90)について書いた「人間ドキュメント/秋吉敏子」(別冊1億人の昭和史・日本のジャズ。1982年4月・毎日新聞社刊)を久しぶりに読み返しながら、穐吉さんについて書かれた文章数々あれど、そのストーリーと、年月日表記の正確さ、彼女に対する限りない敬意と、日本人として、いや歴史上誰れも成し得なかったことを成し遂げた、ただ一人の女性に対する感謝の意があらわされていた文章に、僕も今更ながら頭を下げ敬意と感謝の気持ちを表したい。
手元にあるこの本、何年か前、目黒区民センター図書館が放出したもので、友人・H.Sさんからのプレゼント!。懐かしくページを開けば、現在、日本ジャズ界のレジェンドとして活躍している人々の若き日の顔々。「わがジャズ道」では現存日本最古のジャズ喫茶・横浜ちぐさ・故・吉田衛氏の「ジャズ喫茶五十年」。そしてジャズマンたちの医師でもあった岡崎の故・内田修氏の「ジャズをめぐる出会い」。さらには先の映画になった一関ベイシーの菅原昭二(正二)さんの「カウントベイシーの季節」。オマケ?で僕の「拝啓、日本のジャズを愛する皆々様へ」。と4人のエッセー(写真入り2頁ずつ)。先のお二方については今ではそれぞれの市に記念館、ミュージアムとして設置されています! それこそ野口氏には、僕等が1986年10月13日、陸前高田市民会館で開催した「ジャズライフ40周年・渡米30周年記念・秋吉敏子ジャズオーケストラ」公演を主催した時のパンフレットにも文章を寄せて頂いていたはず!と、それを開いたら、ありました「東洋の小国、日本の若い女性が、アメリカ、世界のジャズ界に君臨する最高のオーケストラリーダー・作・編曲家になるとはだれもが不可能な夢のようなことと思われていました。しかし秋吉さんは、それを現実のものとした。日本が世界に誇ることのできる信念と努力の人!」「それを企画・プロデュースしたジョニーにも拍手を送りたい!」のおまけまでついていました。
一関ベイシーの映画が封切になってから、毎日毎日、入れ替わり立ち変わり、「観て来たよ!」「観たらここへ来たくなった!」と、開運橋のジョニーというジャズ喫茶にも、ようやく人が少し来るようになった。そんな光景を見ながら、昔は、映画、コンサート、何かの催し物あとの帰りにはその余韻をたのしみにジャズ喫茶へ寄ってから帰るというのが一つの慣例だったなあと懐かしさまで蘇って来る。
この“映画”に関連して思い出したのは、42年も前の(1978年)陸前高田でのこと。荒町マーケット街での音楽喫茶を、駅前通突当りの大町商店街入り口に移転(1977.12)したジャズ喫茶ジョニー店内で撮影された「盆がえり」という映画の事。制作したのは故・岩淵恵一さん(当時26才)。学生時代から映画に興味を持ち、土地家屋調査士の傍ら、陸前高田にあった沿岸唯一の封切館として名高った「高田公友館」で、夜に映写技師としてのアルバイトまでやっていた彼。 公友館は当時50代だった新沼定雄さんという方が経営していて、TVの出現以来斜陽化をたどっていた映画業。そんな中にあって「あそこへ行けばいい映画が東京と同時封切で見られる!」と好評で、沿岸はもちろん内陸や宮城県からも観にくる人がひっきりなし。街ゆく人の噂は「高田には過ぎたるものが二つあり!」(公友館とジョニー)とささやかれ、ジョニーはともかく公友館は本当に素晴らしい映画館でした。そこで五木寛之原作映画「さらばモスクワ愚連隊」‘68を観て五木の大ファンになった僕がいる。公友館は陸前高田の初代市長にもなった伊東順太郎氏が名付け親。芝居小屋(劇場)、集会場、公民館、市民会館的役割の場(株式会社)であったそうだが、新沼さんが戦後に仲間8人と組んでここで映画の興行をはじめたのが始まり。 僕が陸前高田の人となる1963年に映画館が火事になり、元の姿は知らないが焼け跡を見た記憶が残る。その後再興して有名に。オーナーの新沼定雄さんはまるで映画に登場する俳優の如くカッコイイ人で、奥様はとてもエキゾチックな方。そこでバイトしていた岩淵恵一さんの自作映画は、彼自身の体験をオーバーラップさせた失恋物で、TVに取り上げられた程、噂になった名作ですが、8ミリ・たったの20分間の青春物語でした。
コロナ禍で上映が延期になっていた「JAZZ・KISSA・BASIE」(ドキュメンタリー映画・Swiftyの譚詩)が9月18日(2020)全国一斉封切!その日、一回目の上映を「盛岡・ピカデリー」で観た。前日夕方、主人公の菅原正二さんにTELして「一関で観ようかな」と話したら「俺は舞台挨拶もやらないし、じつは一週間ぐらい雲隠れしようと決めているのさ」だった。
「その男は、レコードを演奏する」「岩手県一関市、世界中から客が集うジャズ喫茶・ベイシー。マスター・菅原正二が50年にわたってこだわり抜いた唯一無二の音と“ジャズな生き様”を炙り出すドキュメンタリー」と映画のフライヤーにある。今、世の中は聴くでもなし、聴かせるでもなく只々、聞こえる程度のタレ流し放送設備で巷までジャズがあふれかえっており、それに正比例するように、ジャズ喫茶への客足もとだえがちになって久しい!だが、例外が一つあった。ジャズ喫茶・ベイシーである。日本一の音!いや、おそらく世界一であると思う。音の気圧で音楽を鳴らし、堪能させ、満足に至らしめる。そして、時にはそのステレオの音とドラムで共演するマスターのサービスも、彼にとっては再生音チェックのための演奏である。(それはそうと週刊文春”9・24”グラビアにも載った!) 一口で50年といえど、半世紀である。全国どこのオーディオマニアであろうが、ジャズ喫茶であろうが、束になってかかってみたところで、あの音、あの環境を作り出すのは不可能というもの。生き生きとしてスコーン、コカーン、ズドドドン、スタン!いきなりの絶頂。誰かが書いていた「こんなに聴こえる映画はほかにない」「優しい化け物みたいな音」「文化も歴史も音もこの映画に保存された」「歳をとったら又見たい」「人への愛、そして音への愛、それは生きていく上での大きなエンジンになる」と。特にも音に関しては、彼に影響受けなかった後続のジャズ喫茶は皆無といっていい程の存在であるが、あらゆる面で彼とは別路線を進んで来た僕も、店を45年続けてこれたのは、ベイシーという歳も店も5才先輩の巨大なスターの背を見て来たからなのですが、映画には僕もチラリ映し込まれていて、協力・「盛岡のcafejazz・開運橋のジョニー」とクレジットされていてビックリ!ああ、なんでだろう!
世界最高にして世界最高齢の現役ジャズ・ピアニストである穐吉敏子さんは、今年91才になる。彼女の代表曲と言えばシグネイチャー・チューンである「ロング・イエロー・ロード」。そして僕が彼女のレコードに出会った74年の「孤軍」。さらには彼女のセルフ・ポートレイト的な「ビレッジ」この曲の元になっているのは誰でも知っている日本民謡の「木更津甚句」で、僕などは、何十何百回聴いても、あの曲なの?だが、アフロ・キューバン的乗り、4分の5拍子。驚愕のダイナミズムあふれる演奏まさに穐吉敏子の真骨頂!である。
その木更津甚句で浮かんでくるのはあの「孤軍」の元になった「小野田寛郎・元少尉」を1974年、フィリピン・ルバング島で発見した冒険家の鈴木紀夫さん。その親友だった満州生まれ、大船渡市出身の故・千葉輝明さん(アルジェリアの日本企業で働いていた人で一関ベイシー菅原正二さんの幼馴染)の友が書いていた「鈴木紀夫君の思い出」(1988年・東海新報)を読むと、小野田さんを見つけてからの彼は、昔からの夢であった「雪男さがし」にネパールへ出かけ、その5回目は新婚旅行もかねていたというのだから凄い熱の入れ方だった様子。しかも1回目の時に実は突然目の前に子連れの雪男が現れビックリ!カメラ取り出す間もなく逃げられたそうだが、全身が黒く、連れていた子供の2人は白かったそうだが、まるでゴリラみたいだったと。そして最後となった6回目の87年、彼は戻らず仕舞いで友人の山岳家たちが探しに行ったがみつからなかった。だが、なんと奥様自身が探しに行き遺体を発見したとある。 「戸籍上では死亡になっている私が生き延びて、あんなに元気だった鈴木君が死ぬなんて、、、、、遺体発見現場まで行く、、、、、」と朝日新聞に語っていた小野田さん。 千葉輝明さんによれば、小野田さんを発見した鈴木さんが作家の林房雄氏の長女・京子さんとの結婚式の時も、又、友人たちとの誕生会などの時でも、とにかく酔えば必ず出てくる歌は彼の18番「木更津甚句」だったという不思議な御縁。それに鈴木さんが亡くなられて4年後の1991年、アルプスの氷河から数千年前の「アイスマン」と呼ばれる雪男がミイラの状態で発見されたのです。これも縁?
昨2019年6月18日付、毎日新聞・岩手版に「盛岡のジャズ喫茶店主・秋吉さん想い”資料館“」の見出しで僕の記事が載った。書いてくれたのは藤井朋子記者。彼女は今年4月東京の本社勤務になり、学生時代からの恋も実って白木姓になった。おめでとう!盛岡支局勤務時、深夜までの仕事が終わると時折、開運橋のジョニーへやって来て珈琲を注文した。その光景想い浮かべれば、掃き溜めに鶴の如き姿。いつぞやは、学生時代からの恋人と、またあるときは故郷(兵庫県)の父母さえも店まで連れて来て紹介してくれた。
昨年は「穐吉さんを追いかけ続ける僕のことについて、穐吉さんご本人からも僕についての話聞き、全国版に書きたいのです!」と。草津、ニューヨーク、東京と、僕等と一緒に穐吉敏子への旅までして、ようやく今年・盛岡でのコンサート9月16日の翌日なら時間が取れるとの約束頂いたが、又、このコロナでどちらも身動き取れず仕舞い。それはそうと、その朋子さんから突然宅配便でお菓子届いてビックリ。前後の手紙に「8月末で新聞社を退社。9月からモスクワで働きます。2年間だけなので、又帰国した時はお邪魔させて下さい。秋吉さんの取材だけが心残りだったのですが、、、、、記事に出来ず申し訳ありません。」 それで折り返し電話をしたら、ロシアの日本大使館での仕事だという。凄い!彼女は元々神戸の外語大でロシア語を専攻、ロシア語の通訳者・米原万里さんのエッセイを読み、その考え方にひかれ!4回もロシアに渡り体験勉強した人「どうしてロシア?」との僕の問いに「ジョニーさんはどうしてジャズが、穐吉さんが?と同じだと思います!」とキッパリ!「2年後に日本に戻ってきたら、もう一度大学でロシアの研究をしたい」のだとも! その時突然僕の頭の中で鳴り出したのは岡林信康の「友よ!」だった。「友よ!夜明けまえの闇のむこうには、友よ!輝く明日がある、友よ!昇りくる朝日の中で友よ!喜びをわかち合おう」「朋よ!元気で行ってらっしゃい朋よ!コロナという闇の中で朋よ!内なる炎を燃やせ朋よ!輝く未来のために。やはり青年はいつの時代でも荒野を目指す」か!!。 |
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