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この2,3年、古いレコードが入ったビニール袋を提げ、毎月僕の店に現れる若者がいる。来店前には必ず電話で開いているかどうか確かめるのは、無駄足をふみたくないのだろう。なんせ彼の住んでいる街は秋田県鹿角市。盛岡まではかなりの距離である。いつぞやは一緒に住んでいる父を連れてきたこともあるし、父にプレゼントするレコードを買ってきたと言って僕にもそれを聴かせてくれたことがあった。
彼の名は西山滉一、現・25歳。若者に似合わず、僕等世代の歌手やグループ、ロック、ブルース、ジャズ等、巾広いジャンルに耳を傾ける。そして今、特にもはまっているのは三上寛である。先日は彼のニューアルバム「空恐ろしいBy三上寛・アピア1979」CDを持参して僕に聴かせてくれた。いわゆる発掘音源盤である。79年と言えば、三上さんが、陸前高田市民会館大ホールでドラムの故・古澤良治郎さんと一緒にやったコンサートのライブアルバム「職業」(ジョニーズ・ディスク)と同じ年!と、さっそく聴いてみれば、大興奮のるつぼと化した職業とは違った意味で、感動モノの傑作ソロ・ライブ盤。僕はそのCD聴きながら、三上寛さんに電話入れると、彼も「20代の若者が俺の歌を聴いてるのか」とそれこそ寛動?していました。 電話を切って席に戻ると女房が西山君に話をしていた「三上寛さんの歌の底に流れるものに共感出来るのは、いっぱい哀しい思いをし、悩み考えて来た人にしかわからないごほうびだと思う。私も最初は理解できなかった、けどライブ聴いて感じれた」と涙ぐむ。 西山君は幼い頃両親が離婚。母と暮らしながら小学校へ入ると集団でいじめられ不登校に。児童養護施設から別の小学校に通い、その3年生(8~9才時)グリコのおまけについていた、ちっちゃな1曲入りCD「長い髪の少女」「あまいろの髪の乙女」「ブルーシャトー」「想い出の渚」など、それこそ僕等の青春時代に流行ったGSの音楽にはまってしまったのだという。今ではジャズにも興味があり、おそるおそる入ってみたジョニー。「自分が聴いている音楽と共通した話が出来る人にやっと出会えた」と僕に言い「昔の音楽の方がいまのよりおもしろい」とも。珍しい若者である。三上の他は「ザ・フー」「ジョンメイオール」が好きだとも。彼の職場はホテル。その清掃係である。えらいなあ!
「そりゃあもう、たんまげるぐりゃあ、うんみゃあカレーだぞ」と、手作りにとことんこだわり続けて来た大船渡市のカレー専門店「Kojika」の鈴木典夫さんから早朝の電話あって、モーニングしよう!と車で現れ、一緒にコメダへ。モーニングセット飲食しながら、話の合い間菜園通りのモスバーガーに入って以来かと盛岡に来た頃思い浮かべればすでに20年。彼も久しぶりとあってあの震災以降の10年を語り出し、気が付けば午後の2時。それでも話はまだ途中だった。
2011・3・11震災時、彼の大船渡店は流出。同市盛町にあった住居兼本店も水没と大変だったのだが、全国からの支援物資を市内各所の避難所に届け回り、声を聞き、ボランティア活動に来市する人たちの面倒見、行動、活動の采配をし、被災し家や店を失った知人経営者たちが望む復興、再建の為、自ら県や国との折衝役を買って出て?地域のため、ひとのため、自分のため?に寝食忘れる程考え、血眼になって動き、相談し、個人的立場から、大船渡市に10億近い支援金を県や国から自分がパイプ役となってもたらした人が、40数年来の友、「こじか」さんだった。 かれの父が負けて作った借金の山を、息子の彼が勝って全てを返すと、パタリとゲームをやめ母のやっていた食堂を建て直し、小鹿からKOJIKAへ店ロゴを新しくレストラン化。一時は僕を見習い?ジャズ喫茶らしくもしたが、こんなんじゃとても駄目と、築数年の店を壊して三階建てに建て直し、心機一転カレーハウスに変店。カレー屋の定番、ポーク、ビーフ、ハヤシにドッキングさせる100種程に及んだアイデアメニューで、日に数百食を売り上げる程大繁況。うわさを聞き付けた南北の友知人たちのリクエストに応え送ってみれば皆リピーターになった。 そんなことから宅配を始めたのが1997年。大船渡産の大玉ネギを飴色になるまでいためて甘みとコクを引き出したオニオンチャソネを元にホタテやカキ、そして全国一の天然もの蝦夷鮑(えぞあわび)を丸ごと使ったアワビカレー(1食分ルー3000円)など、独創性に富んだカレーは今や飛ぶように売れ、ブランド肉の提供を受ける製造元としての依頼まで来る忙しさで年に4万食を一人で作る華麗なる凄さ。再建した息子さんの大船渡店も順調です。
盆と正月いっぺんに来たようなすごい舞台を観た。暮れも押し迫った12月27日午前11時から、岩手県民会館で行われた「新邦楽舞踊華扇流披露・記念公演・徳志枝会チャリティ舞踊会」後援・盛岡市他。昨今のコロナ禍がなければ4月に行われる予定だった催しもの。それでも同年中に開催出来たことは奇跡。ひとえに会主・華扇徳志枝さんの執念ともいえるもののようでした。
昔の人々から脈々と受け継がれてきた民謡踊りで昭和51年「盛岡民踊友の会」を創立。10年後の初公演を県民会館大ホールで行って以来、日比親善舞踊公演をマニラで行うなど活動の場を拡げ、平成14年(2002)に日本の舞踊家登竜門春の華扇会で家元との初共演認可で、国立劇場大ホール舞台をつとめ相承師範の称号を受けて、専念指導。この度の新たな「新邦楽舞踊華扇流家元」初披露の旗揚げ公演は、豪華絢爛たる舞台映えする衣装とその美しい姿に見とれた程の素晴らしいステージでした。 オープニングは盛岡音頭・菊池マセさんの唄で、踊る師範や名取り、新講師たち。この歌の元は、北畠喜代志作詞、佐々紅華作編曲、藤本二三吉の唄で三味線、ピアノ、フルート、バイオリン、アコーディオン等で吹き込んだSPレコードが最初の音源。マセさんに続く地元の歌手・高八卦ちえこ、井上るみ子、佐野よりこ、三浦わたる、その他の皆さんによる民謡や歌謡曲。そして特別出演の千昌夫さん等々10人以上のゲストが華を添えた舞台は、長時間でもあきないワクワク感にあふれる日本一たちの共演。トリ曲踊りは「藤娘」若紫に十返りの花をあらはす松の藤浪、、、で始まる勝井源八作詞、四世杵屋六三郎作曲の“潮来”入り長唄。芳村五郎治、吉村千十郎。芳村孝次郎、福田克也等の唄で知られた。時間も“空も霞の夕照に名残りおしみてかえる雁金(かりがね)”にぴったしの夕刻。 おしまいは出演者総出での客席と舞台の両方で、今年開催出来なかった東京オリンピックの‘64年版「東京五輪音頭」を歌手全員が唄いまわして、皆が踊った。そして大量の“もちまき”「千穐(秋)万才楽」で幕。それにしても80才にして家元立ち上げの徳志枝さんの若々しいことと、門下の各会主と、それこそ「余波余波名残大津絵」の藤花のようなその所作の美しさに心うばわれた日となった。阿部芳子様ありがとうございました!
コロナ渦中、自宅で音楽を聴く時間が増えたという声を今年はよく聞いた。それに応えるかのように、祈にも似た美しい音楽を聴き返すようになり、それに応じる演奏や歌も新たにリリースされた年でもあった。そこへ、この12月(2020)、自身3枚目となるCD「I will Wait For You」(あなたが待っているものに一日も早く辿り着けますように)と願いが込められたタイトル曲でリリースした盛岡在住のジャズ・ピアニスト・馬場葉子さん。
「こんな時代だからこそ伝えたい音があります。せつなさを抱くすべての恋人たちへ。辿り着きたい想いを込めました。言の葉に出来ない思いを音の葉にのせて語る様々な愛のカタチ」と、新しい生活様式に合わせた音楽の楽しみ方を提案する彼女のジャズプラン。馬場葉子(p)、丹羽肇(b)、原田俊太郎(ds)によるタイトル曲のシェルプールの雨傘、黒いオルフェ、星に願いを、などなど超有名スタンダード曲を彼女なりの想いで演奏され、一曲だが彼女の旧曲「TEARS」(涙たち)を再録しており、以前の演奏とは違う、心を抱きしめる様な深さが感じられるのは、共演者たちからの良い影響もあったのだろう。 ベースの丹羽肇さん(53・長崎出身、福岡在住)は1992年NHKのコンテストで、ベストプレイヤー賞を受賞した人で、2010年「ザ・ソング・オブ・ストリングス」が初リーダー作。ドラムの原田俊太郎さん(65・本名・俊一)はジミー原田(1911~1995・日本ジャズ創成期のドラマー)の孫で父は原田イサム(89・最長老ジャズドラマー)という、日本3大(代)ドラマー!の一人。リーダーの馬場葉子さんは久慈市生まれ八戸育ちで「八戸前沖鯖大使」でもある。岩手大学教育学部卒で音楽と声楽の両方を学んだがジャズは独学。「叩き上げの人生!根性!挑戦!思い切って恥をかきにゆく!」が彼女のモットー!。だが今年はコロナで不要不急の不要とされたライブに心痛めて演奏家を辞めようかとも思ったらしい。しかし、ファンに不安を吹き飛ばされて心機一転。デリバリー演奏ともいえるCD制作へと転換。盛岡スペイン倶楽部でのライブ形式、一発録り。ちなみに録音に使用されたウッドベースは僕が貸したものですが、元の持ち主は世紀のベーシスト、故・チャーリーミンガスの自伝本「負け犬の下で」を翻訳した故・稲葉紀雄さん“かたみ”の楽器でした。
初秋(2020)盛岡・材木町の与市に行ってみたら紫波町「ねこの染物屋」の根子精郎さんが出店していたので声掛けしたら、「これ使って!」と頂いたのが、それこそ殺菌力がある!虫よりつかない!とされてきた本藍染めで作ったマスク。てのひらに菌の絵STOP・KURUNA・KORONAの字。彼の愛と藍で想い至ったのは藍一色で絵を描き続けた菊池如水さん(1922~2016)そして彼のルーツとなった?あの葛飾北斎(1760~1849)の藍が基本の富嶽三十六景。あの四捨五入的?描写の類似点だった。
全国民が驚きでもって注目していた、岩手のコロナ感染者ゼロも、あのGOTOキャンペーンのおかげであっという間の大感染。経済を回すために政府が考えた苦肉の策?しかしあれは政府(セーフ)?ではないアウト!ってことは子供でもわかっていた。それこそ昔の子供なら誰もがみんな知っていた月光仮面のおじさんがつけていたあのサングラス色?の北斎版画。 数年前終活だと、菊地章子さんに頂いていたのを今こそ活用の時!と、富嶽三十六景複製版画(和紙、顔料、手摺)による作品をこの12月、開運橋のジョニーにコロナ禍の終息を願って展示した。この複製版画の発行年(昭和39年・1964・12月)は東京オリンピックが開催された年。今年令和2年はコロナで2度目の五輪が中止となった。北斎がこの富嶽(ふがく・富士山)を描き始めたのは文政六年(1823)63才の時。その後10枚をプラス。‘34年(天保五年)からその百景に再挑戦し90才で亡くなり不完結。だが描いた作品は3万枚を超えるすごさ。 葛飾郡本所(現・墨田区生まれ)19才で勝川春章(しゅんしょう・1726~1792)に師事、春朗と号し絵師に。以来30を超す画号と90を超す引っ越し「葛飾北斎」の号は45才の文化2年(1805)から。ちなみに富嶽三十六景集には「前北斎為一改・画狂老人卍筆」とある。これをジョニーに提供してくれた章子さんは元教師。それこそ若い時に貰った僻地手当でワンセット(2枚)ずつ毎月買ったものだったそうで、立派なアルミコーティングカバー入りの1~23集・46枚。「自然と人間の生活における壮絶ともいえる戦いのドラマ」。それはまるで現代のコロナというデモーニッシュ的な事さえも鳥瞰する行動、力学、空間、構成、の独創性。まさに世界十大芸術家!2013年、富士山は絵の如く三保の松原と一緒に世界文化遺産登録と相成った。 |
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