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花巻市大迫の村田英作さんから手紙が届いた。「私事ですが来年(2022)は、上京し初めてJAZZの洗礼を受けてから50年になります。東京暮らしの10年間、特にも肉体労勤後には本当にジャズ喫茶はオアシスの様でした。思い出のジャズ喫茶・街角曲がれば珈琲とスイング、東京のジャズ、今いずこ」と、短歌的ジャズ詩6編が記され、そのひとつ「ヒノテル憧れ東口、胸の高鳴り“ピットイン”ナベサダ演ずる“ドナリー”は新宿“木馬”でプロローグ」と当時のジャズ喫茶の名前が続々と登場。5年前の郵便では、当時、彼が通った東京のジャズ喫茶20店舗ほどのマッチ箱の写しが届き、その様々な個性あふれるデザイン画とロゴ、それには「巨泉も通った渋谷のスイング。音が良いジニアス。セロニアスモンク(p)が亡くなった日リクエストしたA&F。岩手に帰る時必ず寄った上野のITO」などと記されて、当時は上野が東北本線の発着駅だったなと懐かしむ。
そして、今年の手紙には一枚の写真コピーが添えられていて「ジャズが奏でる街、ニューヨークから照井さんより贈られた絵葉書は、私の心のトランペット。大事にしております」とあり、楽譜の上に置かれた楽器の絵ハガキ。ここでまた僕の店「開運橋のジョニー」が7周年だった13年前、この写真ハガキをラベルに印刷した特製「エーデルワイン」の赤、白を贈られていたはず!と押し入れ探せばありました“はやちねの詩”。 僕がトランペット絵ハガキを送ったのは、彼が「大迫ジャズコンパニオン」というバンドリーダー兼トランペッターだったから。‘85年の日本ジャズ祭に出演して貰っていたし、のちあの3・11の震災遺構として一本松と共に高田松原に残されている、かつてのユースホステルで、僕のコンサートがあった時、彼がバックで吹いてくれた’92年。その同年秋、彼の結婚式に出席して僕もギターで1曲歌ったことなどまで思い出す。 彼の店、「七折茶房」の「村喜本店」は築百数十年。先代から続くのれん、格子戸、長火鉢、箱階段。そろそろ出番のお雛様。それが終われば、夜明けとともに葡萄の剪定。消防団、合唱団、トランペットそして作曲。夏ともなればお城の様な蛍籠(ほたるかご)遊び。そうだ!今年春からは「道の駅はやちね」の駅長も、そこではジャズも流したい。夫の忙し忙し「更衣」して「とう女」と「もるげんロード」ゆく姿見るのも楽しかろうね、順子さん!
「田中博子の遺稿集を作りましたので送ります」と、横浜の春海孟男さんから本が届いたのは昨(2020)年の6月。その本、僕の店で読んだ秋田からの女性が「これ、私も欲しい」というので孟男さんに連絡すると「博子さんの短歌集まだ沢山うちにあるので5部送ります。顕さんの方で利用して下されば、彼女も喜ぶでしょう、、、、」との手紙。それと共に「連れ合いがこの世を去ってから1年が経った。長かったのか短かったのか、、、」で始まる彼のパーソナルミニコミ紙「ひまじんクラブ・六ツ川版」(2019年6月12日の創刊号から‘20年11月14日号の第57号までの、僕に読ませたい抜粋編11部)同封されてきたのは12月。ありがとう!
2010年、未婚の娘を交通事故で亡くし、翌年に震災にあい東松島から蔵王町へ。そこから詩人だった彼女が親しんだ短歌で「孫来たるリュックに春をつめこんで足音た・た・たと家中踊りて」に始まる“家族の庭”。「癌という紅(あか)きかがやく命ありその強(したた)かさにしばし見とれる」の“病葉”。「山肌のむき出しの土ひたすらに海辺の土手への旅を待つげに」の“山に添う”。「ふた重き土鍋のなかの牡蠣の身に戻れぬ日々の潮の香をかぐ」“災厄”。「霧立ちて世界はすべておぼろなりただ記憶だけが生き生きと湧く」“。。。。。”。「きわみなく吸いこむ砂の内側にただ戻りゆく潮のせすらぎ」”海“。「子や孫につなぎ終えたる命ゆえあしたの旅は南にゆきたし」“辞世”の全150編。彼女が亡くなるまでの3年間に詠んだ歌である。 孟男さんが「彼女の短歌からはやはり詩が感じられる」と書いているのを読み、短歌は、詩の贅肉を削ぎ落とした最終的な詩だったのか?ともおもわされ。その歌、彼女のいわんとする心象がとてもわかりやすく感じられたし、読後にはその深さがじわりとにじみ湧く。巻末の小説「初雪」は彼女がまだ津田博子だった20才の時の作品(1969年1月5日付河北新報に掲載された“河北文芸入選作)当時の選評は「作文の延長のような習作だが何か捨てがたいものがある、、、、。文学への可能性が感じられる」。その彼女は翌年第1詩集「果たされぬ対話のために」を刊行して詩に移行。最終的には歌人となってかえって行った。読み終えてみれば小説の主人公のような孟男さんと、作者の博子さんが小説の第2部の様に出会い暮らした20年だったのだと想う。孟男さん!六ツ川版をもっと僕に詠ませて!
昨年(2020)の11月、大船渡出身のシンガーソングライター・濱守栄子さんから2枚のCDが届いた。1枚は彼女のベストアルバム「マイ・ハート」そしてニューシングル「あの大船渡/あの陸前高田」それに沿岸を走る「国道45号線」の3曲入り。ベスト盤にもその3曲は収録されているのだが、あえて3曲だけのCDを制作したのには彼女なりの訳があるのだ。
そう今年はあの3・11の東日本大震災から丸10年の歳月、絶対に忘れることなく被災地に寄り添った彼女にとっては長い長い10年だったであろうと察します。濱守さんは生まれ育った大船渡と通った高校や勤務先があった陸前高田の復興を応援しようと決意。音楽を通して「命の大切さ、夢を持つことの素晴らしさ、挑戦し続ける楽しさ」を発信しながら「いつ死んでも後悔しない生き方をする」は母の死と3・11の経験から。そして「何かを始めるのに遅すぎるということはない」と30才過ぎてから始めた弾語りの音楽一本での生活を実践、エレピを車に積んでの「ピアノと女一人旅」までしてCDを売り、コンサート収益と募金活動などで、一千万円を義援金として寄付する目標掲げ、大船渡と陸前高田の両市に届け続け達成した。 津波に消えたそれぞれの中心市街地「毎日のように通っていたのに元の風景を想い出せないところがたくさんあって、悲しい」と、いつぞや陸前高田の古い住宅地図を持参して一緒に見たことがあり、のちに、町の風景を歌にしたいのですがジョニーの店の名を歌詞に入れていいでしょうか?と電話があった。それがかつてのふるさとを忘れないための「あの大船渡/あの陸前高田」の歌となって甦ったのです。 僕はその濱守さんが作詞作曲して歌っている曲を聴きながら、ビックリしたのは、映像や住宅地図よりも鮮明に街の一軒一軒の店やその構えまでがあたまの中に蘇って来ることでした。しかも彼女が通学した駅から学校までの近道ルートの風景や、勤務先へのコースとその周辺の店などなど、まさに手に取るように見えてくるそのリアルさと懐かしさに「音楽の持つちから」を今更ながら、まざまざと見せつけられ、気付かされました。まさに再発見!濱守栄子さん、あらためましてありがとう。
僕が講師?のNHKカルチャー・ジャズ講座に12年間、毎回欠かさず通い続けている盛岡市馬場町の高橋孝子さん(86)は、40才から84才まで日課として続けて来たのが「朗読ボランテイア」でした。彼女が20才の時、親友の婚約者が後天性の視覚障害者になったことから「本を読んであげる手伝い」があることを知り、いつかいつかと、頭の中にあったことから、下の子が小学校に入ったのを機に、朗読奉仕募集に応募。テストに合格して、8ヶ月間、放送局のアナウンサーたちから特訓を受けてゴーサイン。そこから本を読みだしたと。
最初の頃はリール・テープ、次にカセットテープ、そしてデジタル・チップへと視覚障害者のための本の音訳。静かな時間さえあれば始めるが、張りのある声を出せるのが午前中。午後は外の音が大きく、夜だと静かすぎて逆に声を潜めなければならないのでダメなのだとも。アナログの時代はよかったけれど、デジタルで性能が良くなると雑音も拾うし、発音が変だとかチェックが入って校正のやりなおし。聴く人は良いかもしれないけどやる方は大変。でも校正係のあら捜しは嫌だから読む方を選んできたのだと笑う。 ただ自分が読みたいものではなく、点字図書館(岩手県立視聴覚障害者情報センター)から来るものを何でも引き受けて次々とこなす。時には利用者の個人的なものも預けられることもあるが、好き、嫌いは言われない。好きな本があっても、中身を覚えると、次の邪魔になるからなるべく機械的に読むのだと。その冊数三百数十にものぼり、全ての朗読は国立国会図書館に収まっており、孝子さんには緑綬褒章が国から贈られました。 本は未知への旅でもあるが、孝子さんもまた旅人生。父は東磐井(現一関市)の出身教師で獣医、母は盛岡。生まれてすぐ旭川へ。豊橋、満州、盛岡、九州を転々。盛岡二高3年の時、のちのIBC名物プロデューサー・故・北口惇夫さんと放送部で知り合い孝子さん宅へ下宿。彼はシャンソンが好きだったことから孝子さんも音楽にはまりやがてジャズの穐吉敏子のコンサート(1963年)を県公会堂で聴いた。誘ってくれたのは穐吉さんと大連の女学校時代の同級生。穐吉さんと同じ先生からピアノも習ったという片岡美保子さん。彼女は当時盛岡の自宅でピアノを教えていたし、合唱団北声会の団員同志で仲が良かったことから穐吉への旅にと発展!今に至る。「朗読は主人が教師で単身赴任だから出来たのよ!」と笑った。
昔でいう成人の日の1月15日、母と息子(高校生)の会話劇的催し物「朗読鑑賞会」(IBC・岩手放送アナウンサー・大塚富夫さんと後藤のりこさん・朗読)重松清著「その日のまえに」より「ヒア・カムズ・ザ・サン」を聴きに出かけて来た。場所は雫石町中央公民館・野菊ホール。このコロナ禍で、ほぼ1年振りの使用だということから、3日も前からホールの暖房を入れたとの事でしたが結構寒くて、僕は手袋までして聴いた。
連れて行ってくれたのはKさん。15年程前からIBCアナウンス学院に通い、朗読教室を卒業して、現在はそのクラブ通い。話によればアナウンス学院自体、コロナ禍により今期で終了という。それはそうと、物語の中の母役は60代の後藤さん。高校生の息子役と朗読が70代の大塚さん。それが何と、期待を裏切る?違和感のなさ。まったくもっての驚きもの。さすがでした! 内容は、ストリート・ミュージシャンのうたを聴いて家に帰り、息子にその感激した話をするところからの物語。そのストリートライブを10日も連続して聴き、遂には息子迄連れて行き、毎回リクエストしていたビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」をその彼、カオルが遂に歌ってくれたのを二人で聴いたストーリー。その母はガンの告知を受けていた。 二人の朗読を聴きながら、浮かんできたのは「ヒア・カムズ・ザ・サン」ビートルズの歌声。一番有名な横断歩道のLPジャケット「アビーロード」の中B面1曲目の挿入曲。ヒア・カムズでの連想は、1992年岩手教育会館での穐吉敏子ジャズオーケストラの「ヒア・カムズ・ジョニー」の初演。更にストリート・ミュージシャンで想い出したのは、2004年、盛岡駅地下通路で歌っていた若者。声をかけ店で2~3度歌ってもらった木村誠君のこと。彼は今どうしているかとネットを見れば「信じる者は救われる。聞いた言葉でここまできた」と今も歌旅。「どんな今でも、いつかあの日と思い出にかわっていく。今をだいじに生きてゆこう。未来は自分で築くものその手で明日を切り拓け」と、どこかの高校で唄っている映像を見た。熱い心、湧き上がる魂。あふれ出す想い、旅は奇跡の連続だと、今も変わらぬ40才である。日は又昇る! |
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