|
てつやくんが来たよ!と女房が騒ぐ、テツヤくんて?と顔見れば、なんと哲也君(44)。ぼくの頭の中の翼が開き17、18年前に戻る。真っ先に浮かんだのは、故・堀江通代さんの優しさに満ち溢れた、あの笑顔だった。「教え子がメジャーデビューしたのよ!」と、とても嬉しそうに語ったのは02年。その翌年の6月、彼女は突然その教え子哲也君を連れて開運橋のジョニーへやって来たので、即、今夜ライブ決定!本当は亡くなったお母さんの納骨のために岩手に帰って、先生に電話したのだと。彼にとっては母の様に慕っていた学園時代の音楽の先生が通代さんだった。
12月7日(2020)出会った頃の数枚のCDの中から、彼が選んだ「セルフポートレイト」を一緒に聴いた。そういえばあの最初の突然ライブは、このアルバムの中にある「コンクリート・リバー」から始まった。それは中卒で上京して、最初に作ったスタートソング。当時流行のストリートを経て2000年春のTBSストリートミュージシャンコンテストで優勝。’02年5月ワーナーミュージックから「翼」でCDデビュー。テレビ、ラジオ、FM、ライブ、慰問、恩返し。ネパールコンサート。はたまた自分の生い立ちからの告白本「空白」(幻冬舎刊‘04)は発売と同時に数万部が売れた凄さ。 その本を基につくられた彼の映画「しあわせカモン(‘09)」(監督、脚本・中村大輔)が上映され岩手県内では大反響だったが、全国公開見送りに。しかし、良作再発掘の「お蔵出し映画祭2011」でグランプリを受賞、‘03年全国公開!その9月にはDVDとブルーレイでも発売され話題になった。その主題歌「ユキヤナギ」は奥州市のアパートで母が大切に育てていた鉢植えの花の名前。哲也君が当時住んでいた東京へ、その鉢を持ち帰ったら、母の四十九日頃、小さな真っ白い花が咲いて「季節はずれの雪のようにこの街の春を彩った、、、、孤独が僕を飲み込んでしまうその度に、あなたが育てたこの花が闇を照らすんだ、、、、これから始まる未来の中に、あなたの想いも刻む、、、、ありがとう白いユキヤナギ」。彼にギターを教えた先生と連れだって僕の店に来たこともある堀江さんは亡くなる直前に、哲也君にピアノの基礎を教えた。彼の今後の目標は米テネシー州ナッシュビルと日本武道館コンサートである。頑張れ!
女房と久しぶりに盛岡本町通りの喫茶ママで珈琲を飲んでいると、美しい歌声が流れて来た。自然な発声の、いい歌い方なので、誰?ときいたら「一條さん」というので、買いたいです!と彼女に連絡すると、間もなく開運橋のジョニーへ届けに来てくれました。ありがとう。改めて聴きなおしてみれば、ものすごく自然に、気負いなく歌っていて、心休まるのです。
「バラ色の人生」「はかない愛だとしても」「ふるさとの山」「枯葉」「ジョリ・モーム」「雪が降る」「幽霊」の7曲。僕等世代のLPレコードで言えば片面分の曲数であり、そのせいか、又繰り返して聴きたくなるほど気持ちがいいのです。そのこと彼女に伝えたら「師(かいやま由紀さん)から“うたは心でうたうのよ”の言葉を胸に、心地良く聴いて貰いたい!と心掛けて歌った」という。録音は北上さくらホールスタジオで高校時代の同級生佐藤辰也さんが担当。キーボードとギターは「にっか亭」のピアニスト・デイリー・山崎さん。フルートは伊藤ともんさん。それぞれが、とてもいい伴奏をしていることも特筆に価する。そういえば彼女・一條さんが僕の店で歌ったのはもう5年以上もまえのことだが、すでに不思議な魅力と個性を持っていた! 「アランドロンと同じ11月8日生まれなの」というこの一條荘子さんは明治の終わり大正元年から続く旅館・大正館のお嬢さん。盛岡桜城小学校、下ノ橋中学校、白百合学園高校、尚絅女学院短大(仙台)では家政科食物栄養を専攻。卒後、市役所や電力会社でバイトののち、米・カリフォルニア州立大へ語学留学。その夏期休暇を利用してはイタリアの夏季セミナーを受けペルージャの外国人大学へも、と勉強家。歌は米留学中にゴスペルの魂にふれ、涙があふれでる程、はまりにはまっての帰国。 2000年からは歌を習い始め10年後には、浜松、東京、JCC、日本、など様々なシャンソンコンクールに挑戦!エレガンス、セラヴィ、歌唱、優秀、2位、1位、数々の賞を手に。日本語はもちろんフランス語でも歌える歌手を目指す日々。歌い方では「いやらしくないこと」「情景が浮かぶように」そして「正しい歌詞」でを心掛け、地元八幡町の90才男性からは盛岡弁まで習っているという、しょうこさんでした。
僕が取れずにいた新聞を半月分ずつ店まで届けてくれること7年のRさんから、11月4日(2020)岩手県民会館大ホールで行われた「千昌夫・新沼謙治・ふたりのコンサート」のチケットを頂き、見聞しに行って来た。会場はコロナウィルス感染予防策のため定員の50%入場。半券には住所氏名の記入と、ものものしいが、座ってしまえば前後左右に人がいない分ゆったりしていてなかなかいい気持。
千さん、謙治さんは昔も今も岩手を、いや日本を代表する大歌手。人柄もよく二人とも気仙出身とあって、異ジャンルとはいえ「音楽というしあわせな世界」に生き生かされてきた僕も、彼等に少なくとも、興味を持ち、それぞれ20枚ずつほどのシングル盤や数枚のLPレコードを聴いてきただけの只のファン?にすぎないのですが、千さんとは同い年同い月生まれの僕が平泉中学から高田高校定時制に入った時、彼は高田から水沢一高へとすれ違い的に入れ替わった。彼は修学旅行中に遠藤実氏の門をたたき歌手に。1984年僕が新宿コマ劇場に彼を突然訪ねた時、特等席に座らせてくれた想い出がよみがえる。 今年・デビュー55周年。謙治さんは45周年。二人合わせて100周年というめでたいステージで、地元歌手・菊池マセさんをはじめとする歌や踊りの前座あり、なかなか楽しいステージでしたが、残念だったのは千さん謙治さんまで全てがカラオケでの歌唱だったこと。ですが、千さんには一人のバイオリニストが付いたのが救い。それにしても二人歌のうまさにはあらためて感心しました。さすがです。 この二人、震災のあった翌年の2012年5月5日「がんばろう陸前高田!大船渡!夢のジョイントコンサート」と称し気仙両市で、移動式ステージカーで熱唱「私達、センちゃんケンちゃんがここにくれば東京にはロクな歌手は残っていない!」と、それこそ千人の前で語り歌い会場を盛り上げ笑わせた場面をTVで見たのですが、ケンさんも震災の年に妻・博江さんを病気で亡くしており、北へ走ろう、お前と二人・・・。と妻の姿を思い浮かべる様に「ヘッドライト」をうたい涙を誘った。県民会館での「ふるさとは今もかわらず」「さかり川」に、じーんときました。千さんは12月27日また県民会館に邦楽舞踊会のゲストで来るという。僕も又行きます。
隔月刊「ジャズ批評」の編集発行人・松坂ゆう子さんから電話あり、穐吉敏子さんと連絡を取りたいとの事。同誌次号(12月24日2020発売219号)でジャズベーシストの「チャールス・ミンガス」の特集を組むという。そこで1979年の32号で彼女の母、故・松坂比呂子さんが穐吉さんにミンガスについてインタビューした記事読んで、穐吉さんのお話がとても貴重なものだということに気づき、当時のまま再録させて頂きたいとの事。その願い文が僕のところにFAXで届いたので、それをNYの穐吉さんへ転送FAXしたら、すぐに快諾の返事と共に「ミンガス(1922~79)も喜んでくれると思う」とジャズ批評社に連絡あったと、松坂さんから電話。ホッとしながら、僕もミンガスのレコード聴き返しては、想いめぐらせてみた。彼の最高傑作である「直立猿人」(‘56年1月録音)。又’78年度のジャズディスク大賞金賞に輝いた「クンビア&ジャズ・フュージョン」は’77年3月NY録音。実はその年末彼は3度目となる来日公演の予定だったが足と体の不調でキャンセル。翌‘78年1月遺作となった「ミー・マイセルフ・アン・アイ」録音時は車椅子で演奏出来ず口頭での指示による録音。ちなみにベースはジョージ・ムラーツが担当。その6月、カーター大統領夫妻が主催したホワイトハウス・ジャズフェスティバルに車椅子で現れたミンガスをジョージ・ウェインがステージから激励し、大統領がミンガスに近づいて言葉を掛けたら、ミンガスは感極まって男泣きしたという。
穐吉敏子さんが‘56年に渡米して以来今日まで、サイドメンとして在籍したことがあるのは唯一、ミンガスのグループだけで「ミンガス・タウンホール・コンサート」(’62年)にジャッキー・バイヤードとともに2台のピアノで参加し、レコードにもなっているが、彼女は「自分の考え方がミンガスから非常に影響を受けたと思います」と語っており、彼の政治への関心、黒人への偏見に対する反撥などは、彼女の作品にも反映され、のちに彼女が言う「ガラスの天井」という人種差別の壁を破った穐吉を、ミンガスは草葉の陰でどんなに喜んだことだろう。‘67年初開催した彼女のコンサートに彼が聴きに来て「君は天才だ。だけど客の前であまり一度にすべてをさらけださないほうがいい」とアドヴァイス。そのミンガス亡き後彼女はファーウェル(トウ・ミンガス)を作曲、それをオーケストラで捧げたのでした。
11月に入って喪中ハガキ届く。第一着は秋田県大館市の田中京子さんから「兄・山田敬蔵が4月に92才で永眠いたしました、、、、」。山田敬蔵さんと言えば、僕6才の誕生日(4/20)に、アメリカ・ボストンマラソンで世界新記録を樹立(ジェット機関車の名が冠された大館市出身)した人。
同じく11月、分厚い封書が届く。送り主は秋田市の石垣隆孝さん(78)、なんと本3冊。「夢をあきらめない」(1953年ボストンマラソン優勝・山田敬蔵物語、著者・石垣隆孝・イズミヤ出版“横手市”)。凄いタイミング!と、驚いた僕。 11月8日付(2020)岩手日報、第一面トップでの「来年度開業予定の新盛岡バスセンター<秋吉敏子さんミュージアム開設へ>ジャズ演奏家・ピアノやゆかりの品展示」と、横書き三列の見出し。朝からおめでとう!の電話やメール、フェイスブックでシェアした人などいて嬉しい!。 それはそうと、山田敬蔵さんがボストンで優勝した1953年といえば、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんを、アメリカのレコード会社が録音した年であり、その「トシコのブルース」など8曲が、シングルのEPレコード2枚と10インチ(25㎝)LP盤として翌‘54年全米発売!日米で話題になった 石橋隆孝さんの著書「山田敬蔵物語」(P54)には「響きあう二つの魂」と題された「山田敬蔵ミーツ穐吉敏子、60周年への思い」(2018)。又しても僕がちょうど10才の誕生日、山田選手は2度目のボストンマラソン大会へ参加、結果は6位だったが、山田選手にハイネ・ボストン市長と穐吉敏子さんが花の冠を二人で渡すシーンの写真を説明する“山田・穐吉・出あいのいきさつ”などが記され、「日々快走・山田敬蔵2009年4月7日。穐吉敏子2019年4月18日」と、二人から色紙に書いてもらった字までも!特にも目を、そして心を惹かれたのは「山田 の しろ」「ないた白うさぎ」という山田敬蔵さんのマラソンをテーマにした二つの石垣隆孝・創作童話。(本の大好きな孫にも大きな声で読んでもらいたいなあと思いながら読んだ)。 そこへ又11月14日(土)午前10時25分からの岩手めいいこいテレビ「8っぴー・サタデー」のジャズ喫茶特集に開運橋のジョニーも映し出され、秋吉敏子ミュージアムのはなしになった。ああ!いい!11月!これぞ秋の吉日!2020! |
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved. |