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宮城出身で釜石の市職員だった長柴政義さん(80)が「三陸・釜石・自然と歴史と文化の伝承をテーマに30年以上にわたって続けてきたカラオケと、そのチャンピオン大会でおなじみの釜石オリジナル歌謡同好会」。幾多の歌手を産み育て、愛好者を増やし続けて来た彼が、故・坂野昇(p)氏と組んで作詞した30数曲。震災後には「戦災都市釜石から震災復興への挑戦」と題する提言書ならぬ「本」を出版して問題視される政策を繰り返さない、よき政策の活用を訴えた。歌では「親子の絆」や「天命」等々で心の復興を唱え実践。
そしてこの3月19日(2021)、釜石市民ホール「TETTO」に、作曲家・故・船村徹氏の愛弟子だった歌手・えひめ憲一さん(41)を迎えての「東日本大震災10年復興記念・岩手釜石歌謡祭・生配信ライブ」(いわて文化芸術活動支援事業)が地元釜石のバンドや歌手を中心に、井上るみ子、小林千花さんら民謡、演歌歌手。おまけで特別出演の僕は、ながしばさん作詞「俺(おいら)は東京の田舎人」に作曲と歌を頼まれずーずー弁で唄い、「じじ、まちがわないでよかったね」と6才の孫に。 えひめ憲一さんは2009年、同会主催の「船村徹講演会」に氏の付人として釜石に同行した愛弟子。2012年「故郷がいちばん」(日本コロンビア。作詞/さくらちさと、作曲/船村徹)12年余りの下積み生活を経てのこのデビュー曲は彼にとって“特別な意味を持つ作品”。それこそ愛媛県松山出身であることから名付けられた芸名(本名・小倉憲一)幼い頃からの夢を実現したいと入学した愛媛大学を辞めての上京だった。デビュー後まもなく松山観光大使や、とちぎ未来大使に任命され、14年「瀬戸の恋唄」15年「きずな船」17年「ああ西郷どん」18年「人生旅列車」「小さな約束」19年「親子の絆」「天命」そしてフルアルバム「一期一会」CRT栃木放送「歌のきずな」レギュラーと順風。この間には結婚し、ちょっと幸せ太り気味でほほえましさも感じますが、「ああ西郷どん」(作曲・山崎ハコ)のカップリング曲「母に」(作曲/野辺山翔、作詞/舟海勝)は、聴く側の僕にとっては彼の最高作として耳と心に焼きついて離れない。それは長柴さん作詞の「親子の絆」同様、親に対する子の想いから生まれた歌。余談ですが、えひめさんが復興してくれた「釜石小唄」もとてもいい歌。釜石市は彼のこれまでの復興支援に対し感謝状を贈呈した。
あの3・11から10年、震災に関するありとあらゆることが、津波の如く報じられているこの3月。僕も改めて音楽の立場からこの10年を振り返り、かつて40年間お世話になった沿岸に想い馳せ、震災後に出版された被災の街や人の心に関する様々な証言や説法、語り。歌や演奏といった何十枚ものCD・DVDをあらためて聴き、見直した。
それこそ、あの直後の3・16全国発売なった金本麻里さんのデビューアルバム「ホープ・ガール」は発表と同時にインターネット・アクセスランキングで第一位となったのは「希望」のタイトルどおり、人間、希望を失っては生きられないという穐吉敏子さんの広島組曲に谷川俊太郎氏がつけた歌詞のおかげでした。 陸前高田の市街地は一戸残らず消えてしまい、ただ一本の松だけ立っていた。その松の木にいちるの望みをたくして、いくつもの歌が生まれた。僕が時折聴きたくなるのは、やなせたかしさん詩歌の「陸前高田の松の木」(ぼくらは生きる 負けずに生きる 生きて行くんだオーオーオー)不思議な力と希望が湧いて来る。 菊池秀樹さんの「頑張れ日本!!三陸魂。昇る朝日のように」(人の運命“さだめ”はやる気で変わる人生ふりだし命を燃やせ昇る朝日は男の心)「あれから三年」(故郷は優しい街と知りました)。 そしてあの「天命」、父が作曲して、子・まっしゅ君が唄い、小松清一、えひめ憲一さんも唄ってCD化“千年一度誰が知る、、、。不撓不屈(ふとうふくつ)の精神こめて、復興めざし立ち上がる”はまさに「人事を尽くして生きて来た、ながしばまさよしさん」の歌詞。 後の代まで民謡(うた)でつなごうオハラ津波てんでんこ。とうたう「三陸おはら節」の菊池信夫さんの民謡曲替え歌もなかなか。 更には震災の街と言えど津波が到達しなかった地域は新沼謙治さんの歌のように「ふるさとは今もかわらず」美しく存在し、被災した人もしなかったひとたちにとっても心がやすまりホッとさせられる歌。 震災歌では津波で亡くなられた方々の御霊も浄化され、その家族の心にも花咲くような、岩桐永幸(現・KORUKA)「瓦礫の街」はまさに御光のようなうたである。聴き終えてから僕は宮静枝さんの詩「海に雪降る」をギターを持って唄い出していた。あの3・11も雪の日であったと、思い出しながら、、、、、。
昨2020年秋頃始めたフェイスブックで友達になった大川原儀明さん(65)から、先月電話ががあって「実は今、札幌のミニFM局で番組持っているので、3月9日夕方5時過ぎ電話でのインタビューに応じてくれないかな?」とのことだった。大川原さんといえば、1985年秋に開局したエフエム岩手のディレクターで、開局と同時に始まった番組「オール・ザット・ジャズ」でお世話になった人でもある。最初の担当者は番組を企画した岡部敏男さんという部長。次が東京支局に転勤になった作家・斎藤純さん。その次に担当者になったのが大川原儀明さんだった。
いつもニコニコ人当たりのいい方だったので、僕は番組で好き勝手放題に、これもジャズ?的なものまで選曲して放送した。彼は立場上?非常に困ったものだの人が僕だったと、最近のフェースブックで知った。若気の至り?でご迷惑をお掛け致しました。ゴメンナサイ!そのせいではないだろうが、彼は1991年、開局になる青森朝日放送に鞍替えし、記者をやりニュースキャスターをやり、報道部長、局次長と管理職まで昇りつめ定年となった。 花巻出身で日本大学芸術学部放送科卆。青森に移住したのは当時息子さんが青森に住んでいたことからで、現在の札幌住まいも息子さんの近くにという、子ぼんのうな親なのである。青森時代に彼は、青森公立大学大学院にて経営経済学研究科の博士課程まで卒業している勉強家でもあり、今挑戦しているのがサックス。そんな面白い経歴見込まれ札幌に移住してすぐ札幌のミニFM局に声をかけられ、今年1月から「さっぽろ村ラジオ局」で火、水曜日の17時からイブニングスクエア813という、1時間番組を担当してしゃべっているのだと。ついてはあの10年前の3・11に関連する話をしてほしいというので、あの日、あの時、どこで、どうして、どうだった、その後のことなどの話をした。 村ラジオ、ミニFM局といっても、札幌は北の大都会、聴ける範囲内の人口は岩手県よりもはるかに多いのだという。そのFM岩手で25年間といっても番組終わったのが震災の半年前2010年秋。それから5年して一夜だけのオール・ザット・ジャズ。その後東京のニッケイラジオ以来久し振りのFMラジオ語りでした。大川原さんありがとうございました!
あと3日で、あの日から10年の3・11がやってくる。2021年2月13日夜の余震には、あの日の前兆であった3・9のM7.3を想い出し、もう一度来るのではとの恐怖心をあおられた。今にして思えばあの3・9の地震(震度4、津波60㎝)に、どこか安心して、2日後(11日)の逃げ遅れに至ったのではないか?とも思った。あの時もし、僕がまだ陸前高田に住んでいたとしたら「生きている」の保証はなかったかも?幸いにも1960年のチリ地震津波のあとに陸前高田の住民となり、2001年に盛岡へで、津波の経験は無いのだが、40年間の物々と紙々のほとんどを流失。そのお陰で?あれからは、必要な資料類再収集に明け暮れて来た10年間だったともいえる。
津波、津波、津波!巨大な津波は6000年間に6回も来ていた可能性を示す地層が、陸前高田の隣町、宮城の気仙沼で北海道大学の平川一臣自然地理学教授らが発見したのは2011年。その一つ、1896(明治29)年の三陸大津波(3・11を上回る2万9千人の死者、行方不明者)を米・NYの、ハーパーズ・ウィークリー紙が報じた9枚の写真。それを大船渡市出身の西村純さん(NY・生活プレス社)が発見したのは2012年。又1960年のチリ地震津波の写真を見つけたのは我が友、陸前高田の大和田幸男さんだった。海の底が見渡す限り、平原のように広がる引き波の光景(2007年岩手日報に発表)。その陸前高田で‘92年に米崎町沼田地区住民が市初の「古老による津波被災体験語り」で警鐘をならしていた「ともかく逃げろ!」は今も忘れられない。 その「津波てんでんこ」を提唱し広めた大船渡市三陸町綾里の津波研究者・山下文男さんのことは昔東海新報の編集長だった綾里在住の鈴木周二氏からよく聞かされたものでした。その彼山下さんはあの3・11の時、陸前高田の県立病院に入院中(当時87才)で、4階海側の病室でベッドの上から海を見て、彼をして「ここなら安全」が2メートルも部屋の水位が上がり、必死でカーテンにしがみつき首だけやっと出して助かった(同年12月亡)。明治の津波で祖母亡くし、昭和2回の経験から、ハード整備を過信せず、過去に学ぶ防災教育の大切さを主張。権威に立ち向かい弱者への対策を含めた現場を重んじた姿勢は、彼が父親から津波の怖さを教えられて育ったから。それこそが昔のことわざ「逃げるが勝ち(生きる)」に同じだった。
大船渡のS氏からの電話で聞いた五木寛之「回想のすすめ」(中公新書ラクレ・2020)。盛岡のR子さんからの瀬戸内寂聴「生きてこそ」(新潮新書・2017)の2冊をざっと読んだ。前者は1932年、後者は1922年の生まれである。僕は高校時代に五木さんの「さらばモスクワ愚連隊」というジャズ小説と映画で彼のファンになり、AM・FM・TV・新聞・雑誌・レコード等々幾度もご一緒させて頂いた幸せ者。回想とは「豊潤な記憶の海へ」の船出。その「記憶は無尽蔵の資産」であるという彼の昔話。
その昔話で想い出したのは寂聴さんがかつて住職をつとめた浄法寺町(現・二戸市)の天台寺。6年半をかけ昨・令和2年、建立当初の姿に復元なった本堂及び仁王門と新築の桂泉蔵などなどを、旧友Oさんに連れて行ってもらい、同年に見学した。僕にとって、天台寺の印象は、旧・浄法寺町時代の清川明彬町長に案内されて見学した“本堂の朽ちかけた仏像”その慈悲深い尊顔に接した時、僕はその弥勒菩薩(みろくぼさつ)を、“魅力菩薩”とし、写真を撮り、1997年に録音しておいた僕の歌?「般若心経/照井顯&テクノ楽団」のCD化(2009)のジャケットに使用させて頂いた。それがなんと、昨(2020年)紫波町の佐藤淳子さんから「あの般若心経に体操用の振り付けをし、あっちこっちの教室で活用して、コロナ禍で運動不足の皆さんに喜んで頂いております」とのメールが届きビックリの心経です。それこそ爆音の中の“静寂”こそ、その“心境”。作家・瀬戸内晴美さんが出家した時、今東光師は「”寂聴“という法名はどうだい?」と電話。それを聞いた瞬間、彼女の耳に「聴こえてくる気がした”音“」はバスクラリネットとフルートのエリック・ドルフィーのジャズ「ラストレコーディング」だった。 それは彼女が40を越えた頃、とある男に貰ったレコード。それ聴くためにステレオを買い、聴き終わったら涙を流していて、全身が震えていたという。以来毎月20枚ものジャズを買い聴いた彼女、何かの時には、必ずその「音を教えてくれた最初の一枚」をかけたという「天台宗の聲明(しょうみょう)は静かで美しい、ジャズの源も宗教音楽にたどりつくのではないか」と36才の生涯を終えた1964年のドルフィー最後の音を永遠の伴侶?として「彼の出す音や声にうっとりと寂かに聴き入っている」寂聴さん1978年の昔話です。 |
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