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イチニイ・12・44などという数字に反応しやすい僕。突如店に現れるジャズドラマー・河野直弘(46)さん。彼は確か12月生まれ!しかも4日(フォー)と置き換えるまでもなく元「フォース」のボス・ドラマー猪俣猛(85)さんのアシスタント(ボーヤ)を6年間も務めた人。その師、猪俣さんは1994年米NYのアポロンシアターやカーネギーホールなどに日本のジャズオールスターズ(ビッグバンド)を率いて出演したりした日本ジャズのキングオブキング。
それこそ河野直弘さんが生まれた70年代半ば頃日本の名門ジャズバンド、ウエストライナーズのリーダーだった猪俣さんが奥さんのテリー水島とドラムとヴォーカルでデュオをやった曲「ドラマーマン」は今も僕の愛聴盤の一枚だが、その彼、猪俣さんが開運橋のジョニーにやって来てドラムを叩いてくれたことがあった(‘08年)、次には、それこそ盛岡出身で彼の愛弟子だった盛岡出身の河野直弘さんが店に現れ、そのドラムを叩き、その後にそのドラムを使い、彼が埼玉から月に一度、盛岡に戻ってドラム教室を開いたのだったから縁の不思議を感じたものでした。しかもその名前たるや「奥様ドラム教室」。女性はドラムに挑戦したくても両手両足をバラバラに動かすことから男性と一緒では恥ずかしいと思う人が多いため?、その扉を開く役目に徹しようと始めたのでした。何年やったかなあ、彼が忙しくなって盛岡までやってくるのが大変でやめてしまったけれど、好評でしたね。いつかまた再開してください。 彼は内科医の息子。「私立岩手高校を卒業して音楽短大(尚美)にPAエンジニアを目指して入学したんですから、自分が親だったらブン殴っていたと思う」と笑いながら言う彼は高校時代に岩泉大司さんにドラムを習った経験から、短大卒業する頃にはドラムの先生になりたいと、猪俣さんのアシスタントに就いて彼のジャズを演奏する心技体を会得独立。2006年録音の自己のグループ「ORPHEUS・with Strings」類家心平(tp)ハクエイキム(p)三上吉美(b)河野直弘(ds)+のすばらしいCDを届けてくれた感激忘れず時折聴いてます。一つの音楽をバンドのみんなが協力し合いながら創っていく、そのコントローラー役がドラマーなのだ。かつてピアノの先生していた母を見舞い、欠かさず開運橋のジョニーへ寄って帰る彼の心根が好きである。
岩手をちゃんと見つめる新番組「Iwa.ch(いわチャン)」(NHK盛岡放送局制作)が、この4月から始まった。第一回のテーマは「開運橋」。様々な想いを抱きながら橋を渡る人や車を悠然と見守り続けている岩手山。それを写真に収める人々の心の光景をのぞき見しながら、渡らせる側の想いにまでたどりつけた深い内容。
子供の頃、父と一緒に橋を渡りながら父がふともらしたことば「駅前・開運橋の近くで仕事がしたいなあ」を聞き逃さず父の想いを実現し大きなビルを建てその名を全国に広めた「盛岡冷麺」のぴょんぴょん舎・邊龍雄さんをはじめ、最近、駅側の橋際木伏緑地に出来たコンテナ飲食店街の出現。昔そこにあった商店街を立ちのかされた人たちには何の説明も成されなかったと。しかし、そうなってしまったからには反対ではなく、共存のために何かをと、昔北上川で遊んだハナタラシ小僧たちが始めようとしている未来のための舟っこ遊び計画。すでに舟着場や試作舟を作り、開運橋上流から明治橋下流までの観光サッパ舟の運航を決め、6月にそのイベントを開催するという。 開運橋120周年を記念して10年前、新たに創られた出会いの神様・開運神社。バスに乗って橋を渡ると心身ともに解放されるのよという婦人。心をチャージするために週末には必ず橋に来るという転勤族男性。実際、この番組の制作ディレクターの女性・中島望さんさえも「仕事に行き詰まると、なぜか開運橋に来てしまうのです」と、橋を見渡せる僕の店・開運橋のジョニーにまで現れ、僕が開運橋の春夏秋冬(小泉とし夫・詩/てるいけん・補作詩曲)を、毛筆で書いたり、唄ったりしているところを、撮影して帰ったのでした。 開運橋・またの名を「二度泣き橋」誰が名付けたと唄う氷川きよしさんの歌と共に命名者・古江和男雄氏(73・元日本銀行盛岡事務所長)を下関まで訪ねる念の入れよう。更には盛岡駅開業の前夜までに実際に橋を架け命名し有料橋(片道一銭)として微収した明治23年当時の県令(知事)石井省一郎氏にまでたどった、まさに開運橋の歴史的番組。放送中から、終了後のメールや電話、ハガキ、手紙とたくさんの反応。金曜日夜7時半、昔でいう一家団らんのゴールデンタイムの放送。視聴率県内トップの17.6%だったそうですが唄の「かおりもりおか」が回文になっていたことでなぜ耳に残るフレーズなのか合点がいきましたと、川目町の野田れい子さん。嬉し!ありがとう。
北宴文学会の歌人・小泉とし夫(本名・岡澤敏男)さんが90才代になってからつくられた口語短歌を、僕がチョイスして書いた「色紙展」を盛岡最古の「画廊喫茶・ママ」で開催させて頂いた。同店でのコラボは3回目(4月1日~15日)。10日の土曜午後には小泉さんによる短歌朗読、ギター伴奏・八木淳一郎さんによるライブも店内で開催、満席でした。
小泉さんの自作短歌朗読ライブの始まりは2005年8月。「サダム・フセインの冬の旅」「エリーゼのために」「だれも知らない訃報」の三部からなる44首の朗読でした。「モスク前のラーフィー かたる歌 ふりかえる者 だれもなかった」「きみといて 言葉なくしておきなぐさ もうわたくずとなった ぼく で」「羽とじて 死後硬直の 白い蝶 歩道より そっと草の葉におく」この時、78才だった小泉さんも、今年94才。杖もつかわずに買い物にもデイサービスにも出掛けていますし、お酒もうまい!と飲んで、いたって元気です。 僕が陸前高田から盛岡に出店した2001年、小泉さんは本紙盛岡タイムスに、彼の同級生だった故・村上昭夫の肖像(動物哀歌の詩人)を連載していて、彼も滝沢から盛岡へ住居を移し、歌誌編集も担当。外へ出かけた帰りには店に寄ってくれて、陸前高田出身の昭夫さんのことや宮澤賢治話などしてくれて嬉しかったものでした。 ギターの八木さんに至ってはそれこそ陸前高田時代から交流あり、僕の来盛を一番に喜んでくれた人。彼も当初からいまに続く「夜空に夢みる星めぐり」を本紙に2週に一度連載しており、今月来店時の第一声は「遂に回数をジョニーに抜かれた!」だった。だが年数、時数でいえば僕の倍書いてきた凄い字続力者!そして、ギターの演奏。果てしない優しさに満ち溢れる美しい音色は、日本最高峰のギタリストと言っても過言ではなかった故・七戸國夫さん(八木さんの一年後輩)をギターの師と仰ぐこころねから響き渡ってくるものだと、彼の演奏を聴く度に想うのだ。 僕は「この世で音楽ほど尊いものは無し」そう思い続けて58年。ありとあらゆる分野の人々がそれぞれにそれぞれの分野をそう思い、尊重しあえば、真に心の「オリンピック」という平和な世界が現れるのではないかと思い続けてもいる。
この4月8日(2021)、盛岡・開運橋のジョニーがはたちになった。はたちといえば僕が音楽活動を始めた年齢と同じ。始まりはレコードコンサート。ジョニーという名のジャズ喫茶を開店して46年。音楽酒場「北国」から数えれば48年。レコード店の「ケンちゃんとター坊の店」まで溯れば、創業から半世紀と1年。考えてみれば、いや考えるまでもなく、くる日も、くる日も今もなお、ただひたすら、毎日毎日、次から次へと、繰り返し繰り返し、音楽を聴き、聴かせ続けてきた、いわばレコード、コンサート人生と言っていいのかも。
4月8日は、お釈迦様の誕生日。開店した時に、思ったのは「釈迦力音声周拾方聴至」しゃかりきになって、おんせいにとりくめば、しぜんとすべてにきこえいたるのではないかという「真空歓声音菩薩道」いわば働きもののアリではないキリギリス。武士は食わねど高楊枝、今日の現金明日の元気!、三才より山菜食べれば自然児!、若者だったら輝体燦然!、老人男性泰然爺、昔理髪な女性も今バーバー、なんちゃって。ことばであそんでばかりいる。何を書こうとしてたのかも忘れて、、、、。 そうそう!祝20周年!と、喜夛流の謡をやる藤野興吉さんから蘭の鉢植。その藤色の花を見ていて思ったのは、観て、聴いた、ステージ長唄藤娘。2020年12月、その新邦楽舞踊・華扇流の家元・華扇徳志枝さん、名取・華扇徳幸さん達が「幸遊記(1月5日付№520)のお礼にまいりました」とのご来店にビックリ。手土産に何と歌手「千昌夫の米・銀河のしずく」(全国特A/北上市稲瀬産)。4月8日、一年間コロナ禍で休んだ、故・澤口良司さんのメモリーバンドの再開練習後、僕が採取し作ったワラビカレーを千さんの米で、メンバーの人たちと食べたら、すごく美味しい米だ!カレーもワラビのトロミあっていいの評。 更に「秋吉敏子さんの非売品レコードをゲットした」と届けてくれた尺八の工藤盛山さんに連れられ、4月8日カワトク付近から桜山神社付近に移転オープンした伊藤ともんさんの店「燈門」へ連れてってもらいお祝いのカンパイ!。彼の素晴らしいうたとフルートの音は開け放った店の裏戸口から不忍池を渡り、夜のしじまへと。ああ、いい日だったなあ、、、、、。
大雪に見舞われ、何年か振りの、冬らしい冬だった今年2021。開運橋際の4階にある僕の店のベランダに、朝となく昼となくやってきた少し大きめの鳥達。来る目的はベランダの柿。お客さんに頂いた一枝10個程の渋柿を外においていたら、やわらかくなった頃飛んで来て柿をついばみはじめ、冬の間毎日食べに来たのを見て、柿を持参して来るお客様まで現れた。鳥はヒーヨ!ヒーヨ!と大きな声で鳴くヒヨドリ。
その鳴き声で思い出したのは四半世紀も前のCD。それこそヒヨドリはもちろん、カッコウ、ヤマガラ、ウグイス、オオルリ、オオヨシキリ、などたくさんの鳥たちの鳴き声を音符に表し、ピアノで演奏していた島田璃里さんのこと。久しぶりに電話をしたら、どこかにまだあったはず!と探して贈ってくれた本が「歌う鳥、さえずるピアノ」(草思社刊)。ヒヨドリ来るたび、付録のCDでヒヨドリピアノを流せば、首をかしげるおもしろさ。 島田さんは僕より一コ下の京都生まれのピアニスト。エリックサティ(1866~1925)弾きの第一人者。彼女の祖父は明治生まれの脳解剖学者。小さな時からそばにいて顕微鏡をのぞいていたと。母はピアニスト、医者の父も彼女よりピアノが上手だったことから、自分も一日中ピアノを弾いていた。桐朋付属ではバイオリンの佐藤陽子さんと同じで、スクールバスには小澤征爾さんと一緒に乗ったという話を昔に聞いた。 サティに憧れたのは15の時。ドビッシーが編曲したジムノペディをオーケストラで聴き、魅せられ、フランスの音楽学校に留学「サティがどういうところを歩き、何を考えていたのかを、この目で確かめたかったから」と5年いてサティを弾いた。日本では1975年からギャラリーなどで弾きはじめ、予言的、実験的精神、イメージ、サティだったらどうだろうと、いつも思っていると話してくれたことがあった。 演奏に来て新幹線の駅に迎えに行った1988年、明日帰る新幹線は「何時があったかなあ」と車を走らせていたら、思い出すからちょっと待ってと。何時何分、何時何分、何時何分と言ったので、ビックリ!駅を出る時、一瞬見た時刻表をカメラ的に記録した超能力に驚いたものでした。さすが「記憶の海」のピアニスト!と。 |
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