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3月末2021、秋田県男鹿市の土井敏秀さんから封書届く。中には本と手紙。「覚えていらっしゃるかどうか若干不安ではありますが、、、」忘れる訳がないじゃないですか。あれは確か1980年代、あなたが河北新報社に勤務していた記者時代。仙台の本社から陸前高田まで取材に来てくれたこと。だって大船渡支局があったのにですよ。僕が盛岡に来てからは穐吉敏子さんのライブにも来てくれましたしね。ありがとう。
「突然一冊の本をお送りしました。ぜひ読んでほしいからです。私の友人でジャズ演奏家の端くれが描いた“仙台市内の地図”です。ジャズと共に生きる人たちが住む街の情景が見えてくる地図です」。本の著者は佐藤和文さん、東北大学法学部を卒業して1974年から河北新報社で記者をした方。学生時代からドラムをやり還暦過ぎからはアルトサックスも吹き鳴らす、アマチュアミュージシャン。そのことから、ジャズの現場で出会ったミュージシャンに刺激され、音楽の魅力を知ってもらうための手伝いになる仙台発のネットメディア「TOHOKU360」で始めた「仙台ジャズノート」。 コロナ禍によって芸術文化、エンターティメントなどの仕事奪われ、身近なジャズの現場でも、あっという間に暮らしの糧が失われ「文化政策の貧困」を思い浮かべたという。よく考えればメディアと一緒になって外来ジャズを有難がり、日本人のジャズを無意識のうちに軽く見てきた筆者らの感覚が、とどのつまりは、文化、芸術、芸能にお金を使わない土壌を作ってきたのではないか。と、ある。 そうです!そう気が付いていたとしても、誰も声高らかにしないことに一人腹を立て、僕は30才の時(1977)に「列島唯一・日本ジャズ専門店」の看板を掲げた。「一生懸命やっているのに受けない。それなら自分と同じような“貧しい”日本のジャズをやってやれ。“食えない”喫茶店主が”食えない“日本人演奏家を後押しする。悲惨な構図である」とした河北新報の「正論・奇説」に「国粋主義ではないが、日本人はもっと足元をみてほしい」と僕はしゃべっていた。 それはそうと「仙台ジャズノート」には岩大生時代の4年間開運橋通のアパマン地下にあった僕の店でドラムとベースを演奏した盛岡出身の三ケ田伸也さんの、仙台での今。彼の活発な動きや動画制作、配信サービスのことなどが書かれていて嬉しがっていたら、突然!三ケ田君が店に現れ二度嬉し。
昨2020年封切の映画「ジャズ喫茶ベイシー・SwiftyのBallad」星野哲也監督作品が2021韓国全州国際映画祭で「NETPAC・AWARD」を受賞した。それこそネットでそのニュースを見たのは5月8日。それが5/22新聞に出たとの知らせを受けコンビニに走る。売り切れ!売り切れ!売り切れ!どこへ行っても売り切れ。ベイシーは凄い人気!と、他の新聞は全て売れ残っているのに、朝日(岩手版)に大々的に載ったから売り切れになったんだ!脱帽。
10数軒も歩きに歩いて暑くて帽子を脱ぐ。少し熱が引いたところで、もしかしてと!店員さんに調べてもらったら「入っていないようですね」。次の店には経営者らしき人「朝日はネー、今年3月から何故か入らなくなったのですよ」。そういわれてみれば3月29日付朝日新聞の「盛岡で開業予定の新バスセンター、仕掛け様々、秋吉敏子さん記念館・アート感じるホテル」の記事読みたくてコンビニ数軒歩いたが無かったなぁと。朝日の盛岡総局へ行って、「今日の新聞欲しいのですが、なんでコンビニにお宅の新聞置いてないの?」と尋ねたら、本社の販売局に電話してくれとのこと。電話しましたよ。2、3回、担当回されたが、「岩手の盛岡から電話してるんですが、総局がある街のコンビニどこにも置いてないってどういうことですか?」結局のところ「うやむや」の解らない結論?。 「昔、記者は足を使って新ネタを探し、いち早く臭いと匂いを嗅ぎ分け察知し書くのが“ブンヤ”だった。だが今は、情報が来るのを待っているだけだからなぁ」と元他紙記者。 さてそのベイシーの映画、ハワイでも上映され、ネットで全米配信。レコード演奏家の主がいるジャズ喫茶は、日本固有の形態。名演・名唱・名録を極上再生する、音楽鑑賞空間であり、その喫茶室は居心地のいい文化サロンの役割も。様々な意識を持つ人々が集い、そこからまたこの映画のような別の何かが生まれる。低迷する時代にこそ生き活きと蘇るジャズ。「朝日の如く爽やかに」コンビニに朝日がまた昇る願いと共に曲を聴く。
岩泉町の箱石恵美子さんという方からの電話だった。「本を読んでいたら、村上昭夫の動物哀歌のCDのことが書いてあり、聴いてみたくなったので、、、」と。そういえば20年前「啄木・道造の風かほる盛岡」(山崎益矢・著)に、そのCDのこと紹介され、何本もの電話があったことを想い出しながら「何という本ですか」と問えば「盛岡藩と戌辰戦争」という。そこで又僕の頭の中は2020年9月15日、著者・佐藤竜一さんがその本を携え僕の所にやってきた日へと飛んだ。
その本、彼が新聞や雑誌などに発表した文章を集め、杜陵高速印刷出版部が発行したもので1・宮沢賢治の周辺。Ⅱ・盛岡藩と戌辰戦争。Ⅲ・文学による街おこし。からなり、そのⅡ・104から107ページにかけて書かれている「ジョニーと、くつわだたかしと動物哀歌」(街・もりおか、2003年10月号に発表されたもの)そこには僕とくつわださん(2004年48才で没)の出会い佐藤さんとの出会い、1999年に、くつわださんと僕が歌ってリリースした村上昭夫の「動物哀歌」のCDのこと。詩人・村上昭夫のこと。彼の詩碑のこと。五木寛之の小説「風の王国」に出て来る陸前高田シーンなど、さまざま。 そういえば、彼2冊目の本「宮沢賢治の東京」(1995年日本地域社会研究所)が出版された時1994年の処女作「こうえい・その詩と数奇な生涯」(賢治を中国に最初に紹介した中国の詩人)の2冊並べて佐藤竜一さんのことを僕が編集をやっていた「月刊KESEN・YOMIURI」(新聞・12月号)に書いたことも浮かんだ。 佐藤竜一さん(64)一関市在住・陸前高田市生まれ。父は国鉄、小学5年から中学を卒業するまで母方の地・陸前高田に住んだ。一関一高、法大法学部卒後、日大大学院で国際情報を専攻、現・宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事。岩大特命准教授。かつては科学や、建築関係出版社。盛岡の熊谷印刷出版部にもいた。2000年に季刊「YUI」を創刊。2007年には「NHK連続TV小説「どんど晴れ」の放映に合わせ、95年に刊行された「ずっぱり岩手」の同名新版のプロジェクトメンバーの1人として、歴史、文化、風習の編に一関・ジャズ喫茶ベイシーを。人物編では、「ジョニーのマスター」として僕のことも紹介していた彼の著書+数冊。共訳、共著も10指超える凄さ!竜一さん、ありがとう!
盛岡市の芸文創造補助を受け、新アルバム「幻日」を制作したという花巻市の佐藤司美子さん(54)の本紙盛岡タイムス記事(3月29日付)を読み、僕も聴いてみたい!と彼女にメールしたら先月わざわざ届けてくれた。ありがとう!「ピアノで奏でる岩手民謡!」新境地の幻日を現実のものとした彼女。「鹿踊りへのオマージュ(プロローグ。月明かりの下で。たわむれ。いざない。彼方から。エピローグ)」、「南部牛追唄変奏曲(テーマ。フーガ。男。神。狂。鬼。女)」の2つの組曲と、「厨川節」の3曲構成。
何度聴き返しただろう。聴けば聴くほどこのCDは彼女の真骨頂(全作曲、演奏)。底に流れるメロディは民謡だとしても、演奏はジャズであり、クラシックであり、全体としては現代音楽的であるのかもだが、そのどれでもない唯一無二的佐藤司美子(すみこ)ワールド。彼女がこれまで、形式や様式にこだわらない、とらわれない、自由な創作へのアプローチをはてしなく続けてきた結果としての音楽である。 4才から音楽の手ほどきを受け、岩手大学在学中にロータリー財団奨学生として渡米、シアトルで作曲とピアノを学びながら演奏活動後帰国、岩大に卒論を提出して、再び渡米、ワシントン大学院音楽部でピアノ、作曲、即興、を学び、博士号を取得。以来現代音楽の作曲と演奏活動。オリジナル作品「霧の安息所(Mist haven)」は米、カナダ、ブラジルの管弦楽団によって公演され、彼女自身はユニバーサル・ユニークネスを目指し新しい音楽へ挑戦し続けている。 僕が、佐藤司美子さんの演奏に接したのは1998年。彼女とベースの中山英二さんが初めて一緒に、花巻文化村の青雲庵(故・井堂雅夫庵主)の野外ステージで共演するセッテイングを頼まれた時だった。彼女にとっては初ジャズ演奏だったようですが、そのユニークさに感嘆した僕は、2001年に盛岡にジョニーを出店以来、幾度となく店でライブをして頂き、2007年から10年間開催した「いわてあづまね山麓オータムジャズ祭in紫波ビューガーデン」にも出演してもらい、更には、同町の野村胡堂あらえびす記念館長・野村晴一氏が制作した「巽聖歌・童謡曲集/川原井泰江・歌」(ジョニーズディスク・JD-35-CD/2011年)では44もの楽曲の譜面制作の労をとっていただき感謝に堪えなかったことなど、いろいろ想い出されます。コロナ後、又、ライブして下さい!
コロナ禍中の昨年今年と旧友に連れられ、北上川の源流、岩手町の御堂観音境内に湧く「ゆはずの泉」や、八幡平市の田代山のすそに湧く「北上川最北の湧水地」を見学しに行って来た。北上川といえば日本五大河川第五位(249km)。同名の北上市は岩手五大都市?の第五位(9万2千人)。その、ごい!で浮かぶは、歌詞(語意)が間違えられ、作者不詳のまま全国に広まり、昭和30年代初めには東京のうたごえ喫茶「灯」の定番曲となっていたという、あの名曲「北上夜曲」(菊地規・作詞/安藤睦夫・作曲)。
この詩が作られた当時は、「北上川のささやき」だったそうですが、戦後にふたりで改め「北上夜曲」に。作詞作曲がなされた昭和16年(1941)2月は菊地さん(江刺市出身)18才、岩手師範1年生の時で、水沢農高時代の淡い初恋を回想して書いた詩歌。安藤さん種市(洋野町)出身は17才で八戸中学4年生だった時。真珠湾攻撃で「進め、一億、火の玉だ」と滅私奉公が国民精神として強制されてゆく直前に出来て、師範学校の生徒たちから口伝えに広がった歌。2人が出会ったのは水沢でだったことから奥州市水沢新城小谷木橋近くに「北上夜曲発祥の地詩碑建立。 作者不詳のままソノシートなどで発売されていた北上夜曲を初めて詞曲共に原作通りにレコード化(1961)したのが大迫(花巻市)出身の評論家で、当時ビクターの文芸部勤務の上山敬三氏。歌は、和田弘とマヒナスターズ+多摩幸子。作詞作曲から実に20年後のことであった。以来、演奏家や歌手たちが好んで取り上げ、別バージョン化世界一とささやかれたほど知られた曲。菅原都々子、ダークダックス、千昌夫等々も耳に残るし、自分でもつい口ずさんでしまうし、聴きたくなる歌なのだ。その北上夜曲の最大の功労はなんといってもかつての黒沢尻が北上夜曲にあやかって?北上と名を変え、地元の政治家までが北上夜曲の北上市です!と語ったこと。観光地として有名な桜の名所・北上展勝地には大きな歌碑。それこそ県内初の市民会館(現2代目さくらホール)や詩歌文学館があり、北上夜曲全国大会まで開催していた文化都市・北上の市民歌とさえ思っている人もいる程、和賀、黒沢尻(北上市)の代名詞となった歌曲。これぞ流石!の一石二鳥!歌! |
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