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待ちに待った盛岡バスセンターの起工式が7月8日(2021)執り行われました。施主である株・盛岡地域交流センター・社長・谷藤裕明(盛岡市長)、盛岡ローカルハブ(株)社長・佐藤光彦の両氏をはじめ、市の商工労働、建設、都市整備の各部長、並びに各バス会社、事業関係者、設計JV、主催者と、ご来賓の方々出席。
祝詞(のりと)の奏上(笛、笙、ひちりき、による雅楽)の素晴らしい生音に聴き惚れながら僕は「国歌、雅楽・君が代」(宮内省楽部謹奏)と書かれている、一分間に78回転するSPレコードで聴いた昔の音に想いを馳せた。式終えて帰り際、渡された小袋の中に入っていたのは「天皇陛下御成婚献上菓」の紅白双鶴(そうかく紋様のらくがん)。 店に戻り、その菓子を頂きながら頭に浮かんだのは、今度のバスセンター三階に出来るホテルのラウンジに開設される「穐吉敏子ジャズミュージアム」ご本方、穐吉さんの、上皇后・美智子様への尊敬の念。美智子様の穐吉さんへの想いでした。2006年のこと、穐吉敏子さんがアメリカに渡ってから丁度50年、その記念日本公演を実施する企画を立て「穐吉敏子スーパー・カルテット・フィーチャーリング・ルータバキン」ツアーを北海道から九州まで行い、東京・有楽町朝日ホールで非公開ライブ録音。それをCDとして発売した「穐吉敏子・渡米50周年日本公演」(T・TOC)は、その年のSJ・ジャズディスク大賞・日本ジャズ賞・特別賞」に。更には、ジャズ・歴史上の名盤中の名盤(ゴールド・オブ・ゴールド・ディスク)100選に唯一、新録音での選出。日本ミュージックペンクラブ音楽賞・特別賞と録音録画最優秀作品賞。その作品、皇后・美智子様と高円宮妃久子様に県を通じて献上。当時、紫波の藤原孝町長から祝電届き、町長室入り口には「祝」の貼紙。町広報へのインタビュー記事等々。 そんなこんな思い出しているところへ、バスセンターの模型を作り起工式会場に飾り華を添えた、株・ワークヴィジョンズの林隆育(たかやす)さん来店。先日放送になったNHKTV「秋吉敏子と岩手」更に同「開運橋」を一緒に見たら彼は泣いていた。僕と同い年だった父が昨年12月にガンで亡くなったのだという。しかもコロナ禍で会いにも行けなかったと。でも、彼の高校時代の同級生でジャズ歌手の和田明さんは秋吉敏子さんと縁の深い「横浜・ジャズ喫茶ちぐさ」の賞、第4回受賞者(第1回は盛岡の金本麻里さん)という縁の深さで、「いつか彼も連れて来たい!」と。僕も涙ながら彼のルーツ話を聞いた。
2019年4月、和歌山から竹中郁晴さんという方が来店。話はSPレコードまで及び、「家に父が持っていたものある」との事でしたが、その10日後12枚のSPジャズレコード。何と解説書付きの立派な盤質・ほぼ新品状態で届いた。「14日にお邪魔した竹中です。お店でかけて頂ければ幸いです」。中味はルイ・アームストロング(サッチモ)。ビングクロスビー、ナットキングコール、フランクシナトラ、ディーンマーチン、ダイナショア、ドリスディ、ペリーコモ、ローズマリークルーニーのボーカルモノ。
SPレコード(78回転スタンダードプレイ)は、ぼくらより一世代前の人たちが聴いたもので、僕たちが小学校低学年の頃聴いたラジオ体操の音がそれだった。当時は鉄針、角針、竹針。ゼンマイ式手廻しでの蓄音機再生。片面3分、両面かければ針を取り換えなければならない程すりへる重針圧。回数聴かれたレコード程、溝の中に針粉が残り、その上をまた針がなぞって、まるでヤスリをかけている様なもの。だから溝はすりへり黒から灰白色へ。それでも鳴るが、雑音のザラザラが増大。しかも落とせば割れるシェラック盤。そんなレコード今時誰が聴く!と言われそうだが、僕はその竹中さんが贈ってくれたSPを再生して、飛び上がらんばかりに驚いた。何と凄い音。大昔と言えど、新品だったらこれ程良い音なのかと。当時は再生機器の製造技術が追いつかなかっただけだったのです。レコードの素晴らしさをまた改めて思い知った温故知新!音溝知新!でした。 頂き物が大半を占める数百枚SPを本気で再生する理想的な、特にもプレイヤー(モーター、アーム、そしてカートリッジと針)システムを組み立てよう!と、かつて秋葉原でプレイヤー関連の部品を扱っていた旧知の中村清次さんからSP用カートリッジとダイヤ針、オイルダンプアームなどを譲って頂き、取り付け。SP用極上?再生システムが出来上がって、音聴かせれば拍手される方もいて嬉し!嬉し! そのシェラック盤SPは第二次世界大戦終戦頃のアメリカのVデイスク(勝利のレコード)の塩化ビニール製出現まで50年間も製造使用されていたもので、盤質よければ宝物なのです。その後EP、LPレコードも1982年に出現したCDに押され押されて消えるかと思いきや、又、少しずつ盛り返し今またCDを抜き去り逆転しているというアナログ世界です。
ニューヨークに住んでいるジャズピアニスト・秋吉敏子さんと、盛岡の“開運橋のジョニー”をリモートでつないだノートパソコンで、2年2ヵ月振りに、彼女の顔を見ながら話をした。ほとんどタイムラグもなく、普通に話が出来ました。向こうからの声はテスト時からハッキリと聴こえました。こちらの声は、ちょっと聴きとりにくい様子でしたが、久しぶりに元気な声と姿を見られて、ほっと一安心(彼女は91才)。先日は大阪にいらっしゃる穐吉さんより6才上のお姉さんにも電話してみたら「あら!テルイさん!」とやはり元気な声でした。
穐吉さんは、この半年間余りで外出したのは一度きり。近所の薬局にコロナの予防接種(一度で済む)を受けに出ただけで、一歩も玄関を出ず、ずっと家の中にいて、買い物は夫のルーさんがやってくれている。外へは、幸い家の裏側に(塀と緑に囲まれた)庭があるので、毎日そこに出ている。ピアノは昨日より今日、今日より明日、少しでも進歩したいので普通のピアノより1.5倍重くした鍵盤を特注して筋肉が無くならない様に毎日練習しています。足の運動は地下から3階までの階段を昇り降りし、大好きなワインも飲んでいる様子。 数年前、何度か片目を手術して柳生なんとかさん(十兵衛)みたいだと言っていましたが、「今右目は全く見えません。でも薬は見えない方にも何故かつけられています。日本へは姉さんにも会いたいし今年帰ろうと思っていました。コロナ対策で何日も拘束されますので行けません。次は照井さんの所へ(盛岡バスセンター・秋吉敏子ジャズ・ミュージアムのオープンに合わせて)帰ります(2022年9月)」と約束してくれました。(嬉しいなぁ) 「生きている間にミュージアムが、出来るということだけでも私は十分幸せ、好きな様につくって展示して下さい。グラミー賞ノミネート賞状の数々はじめ、古いポスターなども差し上げます。来て色々物色してください。家の半地下にあるバンドの練習スタジオのピアノは、アートティタム(1909~1956)はじめ、歴史に名を連ねる凄いピアニスト達が弾いた由緒あるもので、レナードフェザー氏(1914~1994.ジャズ評論家.音楽プロデューサー.ピアニスト.作曲家)から私が買ったもの。それを提供します」(来年春、伺うことを約束しました)。このTV電話の様子はとりあえず7月1日(木)NHK「おばんですいわて」で放送されるそうです。
「種市さん亡くなったって新聞に載ってるぞ、知ってた?」かつて彼と同期の高校教諭だった牛崎隆さんからの電話だった。えーッと、絶句した僕。本紙盛岡タイムス6/7付お悔やみ欄にありました。「種市進(74)盛岡市湯沢、、、、」。僕が彼、種市さんに出会ったのは2009年から始まったNHKカルチャーのジャズ講座「ジャズ魅力への招待」受講者15名(男5・女10)その中の一人が種市さんでした(それ以前は穐吉敏子さんのライブに奥さんの故・和子さんと来ている)。
第1回目(4月10日)の開講日、1人ずつ自己紹介して貰った時の彼の挨拶が忘れられない「自分と同じ生年月日の人が、どんなこと話すのかと興味持って申し込みました」。僕はビックリしました。その時60年余り生きてきて、生年月日一緒の人に出会ったのは初めてでしたから。そして一年が過ぎたころ、彼から、花巻にある岩手県立総合教育センターでの教職教養(環境・人づくり)研究講座で何かしゃべってくれないかと講演を頼まれた。知らない人達の前では緊張してしまう僕は目も当てられない話の内容で、講演と言えるようなものではなかった記憶。更には「教育研究岩手」2010という本に原稿頼まれ書くには書いたが〆切に間に合わず没ったのが「ジャズに生き、生かされ」でした。 道に憧れプロになりたいと思っても、その努力や勉強、肝心の決心無しには一歩すら踏み出せないもの。でも「なれるものならなってみたい!」と、くらいついて離れない娘が居て、デビューさせてみることにした話。その娘は「自分の必要性が全くない、私は居なくてもいいのじゃないか」と、葛藤していた時、ジャズに出会い「唄ってみたら素直になれる自分が居て、ガマンしていた喜怒哀楽をぶっつけ易い。孤独感がしっくりくる。努力してうまくなることで人が喜んでくれる」と。その言葉の中に僕は「明日のために今日行く(教育)」心配りの仕方。孤立と孤独についての大きな違いを深く考えさせられたものでした。 種市さん!僕は入院中だったことも知らず、いつものようにBS・TVの録画を頼んだら「今、出先だけれど帰ったら録画します!」と言って郵送してくれたのが「美の壺・15周年・ジャズ」2021年4月20日放送。おまけに「いわチャン・開運橋」4月16日放送でした。ありがとう!形見になりました。うちの女房も泣いています。サヨナラ、、、、。
「米谷さんが亡くなった」と、気仙地区に住む旧友たちから何本もの電話やメール。米谷(よねや)隆夫さん(74)。かつて、あちらこちらでジャズ喫茶に通う若者たちが、その地名を付けた「ジャズファンクラブ」が全国にあったものでしたが、僕が陸前高田でジョニーという名のジャズ喫茶を始めて間もなく、大船渡の植物検疫協会に勤めていた米谷さんを中心に「三陸ジャズクラブ」を旗揚げし、会員がレコードを持ち寄って自慢の解説をしながら鑑賞する定例会や、はたまた東京からプロジャズバンドを呼んでのコンサートなどを企画したりしたもの。あれは遥かなる70~80年代。
近年時折電話を入れよく話した。タバコ好きだった彼の最期は肺ガン。中学から東京に出て英才教育を受け、大学時代はあの安保闘争をやり、ジャズ喫茶に通い、まだ誰も注目していなかった山下洋輔の演奏を何度も聴きに行った話などをしてくれたり一緒に県内のあちらこちらにジャズコンサートを聴きに歩いた。海の見える団地に家を建てた時、行って見たら壁一面の本本本。どんだけ本を読んで勉強しているのだろうかと恐れ入ったもの。そして仲間はもちろん誰よりも精進していたジャズの聴き方。彼のいう「ジャズに触れた時、その演奏者にジャズの歴史の痕跡と異和を聴きとることが出来る。演奏者の個性と呼ばれるものの多くは、痕跡を美しくオブラートするか、違和を極限化するかによっている」(1982) それより以前の彼のらくがきはこうでした「ジャズというものが難しくてわからないという人がたくさんいます。酒を飲まない人が酔っぱらいを見て馬鹿みたいだというのと同じように。先ず生演奏に接し、体験してから、更にレコードで味わってみることでジャズの本当の良さがわかる」と。 晩年彼は句を詠んだ。「ぶおうぶおうと交す汽笛や海霧の夜」「春光や書棚をなぞる薄埃」「稜線を押し上げている若葉かな」「群青の沖の鳥島夕涼し」「のどごしに頷きながら走り蕎麦」そして彼の最高傑作と僕が思う「鰯雲釣り終えてなおいわしぐも」まるで“ジャズのような世界感”亡くなる1年前の6月、彼から僕へ「ジャズ」「現代ジャズの視点」「ジャズカントリー」「黒い肌」など8冊の古いジャズ本が届いた。「年の夜やすべて忘れて前向きに」2021・6・1、74年間住んだ地球から宇宙の彼方へと光年の旅に出た。いつかまたね! |
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