盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.567 「児玉正昭の水産即興音楽」2021.11.29.盛岡タイムス
 児玉正昭さん(76)が亡くなったと知ったのは昨年(2020)の暮れ。8月30日でした、と奥様からの電話で僕は絶句した。彼は以前大船渡市三陸町にあった「北里大学水産学部」の教授。のち母校の「東京大学」で教鞭を取った。生徒たちからは「ヒゲモジャのダンディー」として親しまれ、愛された人。水産学部にはおよそ似つかわしくない?方で、とにかく音楽が第一?の人。とはいえ、国内外での学会で発表や講演をしていた世界的な学者あり、研究者なのですが、そういうところは僕なんかにゃちっとも見せず笑ってるだけ。店によく来る生徒達からは、彼のことをよく聞かされたものでした。
 サックス、ピアノ、ベース、ドラム、ギター、フルート、ビブラホン、ハーモニカ、、、ほとんど出来ない楽器というものはなかった。特にもクラリネットは折りたためることから、外国へ行くんでも必ず持ち歩き、学会終わればジャズの店に出掛けては各地の演奏者達と即ジャズる凄腕だった。
 水産学部では「浦崎スタンダーズ」というジャズ研究会を発足させ、生徒と一緒に音楽を楽しみ、毎年卒業が近づくと卆演という、リサイタルを僕の店で開くのが通例だった。ある時確か学校OBたちからの寄付金の使い道について水産学部らしく魚のレプリカを購入しようとした時、一度見て終る物より、さわる度聴く度に感動するものを、とピアノを買わせ、学生たちを喜ばせた人で、当時僕が一人で取材編集していた月刊「ケセンよみうり」(‘95~‘97)にも、何度か、心温まる原稿を書いて貰ったこともありました。
僕が盛岡に移って来てからは、児玉先生も時折店に現れ、セッションしピアノを弾き、はたまたギターの弾き語りをやり「どこにどう隠れたって、バカにはバカの居所がすぐわかるのよ。お前はバカだなー」とニコニコ顔をほこらばせ酒を飲んでいた。「盛岡での学会のあと、パーティやるんで、お前んとこのバンド貸してくれよ」と言ったのは2009年。日本水産学会秋季大会、開場だったホテルメトロポリタンニューウイング、それこそまだ岩手大学の学生だったピアノの荒川陽輔君、それにベースの村井秀児さん、ドラムの澤田貴之さんのトリオにボーカルの金本麻里さんをプラスして貸し出し?一緒に数曲を演奏し「ペニーズフロムヘブン」を金本と先生がデュエットまでしたのでした。その彼が聴いていたレコードたちは今、僕のところでそれこそ楽し気に児玉(木霊)するように鳴っています。

幸遊記NO.566 「五木寛之の孤独に寄りそう本」2021.11.23.盛岡タイムス
 11月15日(2021)新潮社出版企画部からゆうメール届く。表書きには「五木寛之著・新潮選書在中」。本は「私の親鸞」、(孤独に寄りそう人)の副題。帯には「ああこの人なら自分をわかってくれる」(五木寛之・わが心の親鸞を語る)とある。親鸞は1263年1月90歳で亡くなられたそうですが五木さんは先日他界された作家・瀬戸内寂聴さんより10歳下の89才である。本を開くと謹呈・著者「寛」の朱印しおり。久しぶり、この僕に!と心底感謝。「僕のみつけたもの」「さかしまに」「風の王国」などなど頂いた記憶も頭に浮かんだ。そしてなによりものあの小説「海を見ていたジョニー」をレコード化した時に書いてくれたライナーノーツのことなどワッと僕の頭の中が膨らんで動く。
 日本の植民地だった北朝鮮で、彼が高校一年の時に終(敗)戦。ロスケのマダムダバイ、抑留、脱北、引き揚げという極限状態の中、発疹チフス(延吉熱)の蔓延。想像を絶する状態からの帰国は「心優しい善き者ほど帰って来られなかった」だから生きて帰って来た悪人という意識が心に根付いた。
 そう、その根底に起因する、「戦争は人を殺さなければ生きて帰れない」その戦場から帰って弾いたブルースの凄さに感動する人人。そのことで、信じていた“ジャズは人間だってこと”が信じられなくなった主人公の、心の葛藤を描いた、彼の日本初の本格ジャズ小説「海を見ていたジョニー」を読んだのは僕が定時制高校を卒業してレコードコンサートを始めた20歳のときだった。
 「ジョニーが新装版として講談社文庫から再発なったよ」と親鸞本が届いた日に読売新聞11月14日付を写真メールで女房に送って来たのは茨城に住む6つ年上の姉だった。僕もその新聞を手に近くの「さわや書店」に走ると、「これです!」と大池隆店長。久し振りに再読してみた。そしてまた「私の親鸞」本中の「語りたくない記憶」や「“許されざる者”としての自分」「悪を抱いて生きる」「“ロスケ”の文学」の章に書かれていたことは「海を見ていたジョニー」が生まれた背景であった。あの海を見ていたジョニーのライナーノートはレコーディングされた坂元輝トリオの演奏に列島一万年の縄文のリズムが流れているのを感じながら宗教はジャズなんだ!と、戦後30数年を経て両親の遺骨を寺に納めた話だった。そして「ジョニーが目指すものを開花させるのは、それこそ私たち側の仕事だ。点じた火を消したくない」でした。あぁ・・あれから40年かぁ!

幸遊記NO.565 「ジョニー・ハイフン・ジャズ・ドット・コム」2021.11.14.盛岡タイムス
 開運橋のジョニー・ホームページ(johnny-jazz.com)が開設されたのは2005年の事。開設してくれたのは菅村巻雄さん(現80才)。株・システムエンジニアリングの前社長でした(現社長は息子の覚さん)。これからはネットの時代だから、ホームページを見て店に来る、あるいは店を知るように“ジョニーがジャズでどっと混む”様にとのメールアドレスを取ってくれて、しかも「お金はいりません」なのでした。
 時折店に飲みに来ては、「アクセス数が思っていたよりずっと多いから作った甲斐があるよ」とニコニコして、それこそ翌年の2006年には僕達と一緒に20人程で、アメリカ・ワシントンDCの国立ケネディセンターで行われた「穐吉敏子コンサート」(3月31日)を聴きに行くツアーに奥様の雅子さんを連れ立って参加。NYの穐吉さん宅でのパーティや、別荘(カトーナのピアノ練習場)など見学したことなどが思い浮かぶ。
 あれからすでに16年の歳月。女房にまかせっきりのホームページ。今までにいったいどのくらいアクセスがあったのだろうかと、紙と鉛筆の僕も、古くなって捨てられていた女房のタブロイド端末を拾って、昨年秋から始めたフェイスブックで本日ジョニーのホームページにアクセスしてみたら、現在までの閲覧数は、276万5千回にもなっていた。ワーオッ!。そこで!という訳でもないのだが、女房の娘さんにお願いして、本紙・盛岡タイムス連載中のこの「幸遊記」を、2011年1月4日付の№1「ジャズが好き、人が好き」から順番に1日1回分ずつをホームページにアップ出来る様にセッティングして貰った。僕も公開している自分のフェィスブックに、このホームページ住所を貼り付け、誰もがすぐ見て読める様にし、自分もアップされた10年前の幸遊記文章を読み返している。
 その1回目の幸遊記、僕はこんなことを書いていた「自分自身の記憶をたどってみればそのほとんどが消えかかっていることに毎日の様に気付かされる。その消えゆくものを消さぬ様にするためにはいつも記録する作業が必要なのだが、筆不精の僕はそのメモすらしないできた。そのことはあいまいな話は出来るとしても、正確な記録とすることは出来ない。そのためには調べる時間が膨大に必要になる僕自身へのツケなのだ」と。ここから10年余りの今も僕は昔のツケを払い続けている。

幸遊記NO.564 「上島洋の立体等高線ジオラマ」2021.11.8.盛岡タイムス
 特定非営利活動法人「穐吉敏子ジャズミュージアム」への旅。という僕達を知り、穐吉さんを知る人達への手紙のようなパンフレットが出来上がった日、それこそ、若かりし頃の穐吉さんが通って、レコードから採譜するなど、お世話になった横浜野毛の現存日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」で、金曜夜のバータイム・スタッフとして数年前からカウンターに立っているという上島(かみじま)洋さんがひょっこり開運橋のジョニーを訪ねてきた。
 「本職の仕事で釜石に行くのですが、ここに寄りたくて前乗りで来ました」と。で、開運橋のジョニーへ寄ると言ったらちぐさ関係の皆さんから宜しく!と言われてきました!と。店は閉店間際の時間でしたが「何かリクエストは?」と尋ねてみたら、すかさず出て来たのが、な、なんと三橋美智也を聴きたいという。思わず耳を疑ってしまったが、無い訳ではないから聴かせましょう!で始まりました。「赤い夕陽の故郷」「笛吹峠」「古城」などなど。すると女房が「どうしてこういうのが好きになったの?」と尋ねれば、田舎(長野)のおじいさんおばあさんが好きで聴いていたのだという。なるほど!年令聞けば、僕の息子たちと同年代の50才!
 彼の住む横浜と言えば、何と言っても伊勢佐木町ブルースの青江三奈。街のモニュメントのスイッチを押せば歌が流れますよ!と彼。彼女が歌っている英語ジャズバージョンは?と問えば「聴いたことがない」と言う。で、かけてあげたら、上手い!と、感激しきり。じゃあ、せっかく盛岡に来たのだからこれも聴いてって!と青江三奈の「盛岡ブルース」。感激新たになった彼、LP、シングルと2枚のジャケットを持って僕と記念写真。喜び満足した様子でホテルへ戻って行きました。僕にとっても“ほっこり”な夜となりました。
 彼は釜石市で開催の「防災国民大会2021」への参加で来県したのだそうで、山も街も一緒に描く鳥瞰図みたいな立体の等高線ジオラマを作って見せれば、自然に街の全体像を楽しみながら自分たちの住んでいる地域の地形も手に取るようにわかり、そこへ土砂崩れの場所や津波浸水区域にカラーの光を当てることで結果的には「よくわかる防災」にまでつながるようにと、コンピューターを使ってダンボールを切り重ねて実物等高線をつくっているのだそうで、パソコンでの映像見せて貰った。それは、まさにJAZZYな芸術そのものでした。

幸遊記NO.563 「夢の“長谷川誉”美術館」2021.11.2.盛岡タイムス
 ある日の夕方、店にやって来た若者の話を聞いていた。「盛岡に来て中津川原を散歩しながら上を見上げたら“野の花美術館”!すぐ道に登って絵を見に行き、自分の祖父も花の絵を描く画家だったことを告げると、館長さんが出て来て色々話をしてくれました!と。そして自分が生まれる前に亡くなった祖父の「美術館を作る!」ことを決心。それで先ず髪を切ろうと、美容院や理髪店に行ったけど、どこも予約なしでは切ってもらえず“しょんぼり”乗ったエレベーターの中で4Fジャズ喫茶標示を見て来たのだと。
 5年制の国立一関工業高等専門学校時代にベイシーに通ったこともあったからと、水沢(奥州市)からの長谷川晴紀君(22才)。祖父は晴紀君が生まれる前に亡くなっており「祖母から、祖父は顔料を使って描く日本画家だった事を聞かされたが、家に残っているものはスケッチブックが2冊だけ、絵は描きあがるとすぐ売れた?売った?ようで家には1枚も残っていないんです。だから、どうやって探したらいいものか、、、、おじいちゃんの絵を実際に見たことがないので、、、、」と、彼。
 僕は頭の中で、水沢、長谷川、22才の孫?「もしかして、誉さんじゃないの!」といったら突然泣き出して「どうしておじいちゃんの名前知っているんですか?」と。
実は僕の実家(平泉)の座敷天井には誉さんが描いた、花鳥風月の絵が100枚もあり、僕は朝な夕なそれを見ながら中学を卒業するまで、その下で寝起きしていたのだが、どれも見飽きないいい絵でしたよ。でも実家は建て直したので、その絵は半分位しか残っていないけど新しい家の天井に今もあるよ!。
 しかも誉さんが何ヶ月も実家に逗留して描いたようなので、当時中学生だった僕の兄はその後、画家になったんだから、兄は誉さんの弟子みたいなもんだと思うよ。と一回り上の兄に電話をつないで彼と話をさせた。兄もビックリした様子でした。それからすぐさま、僕は姪に電話し、彼を車に乗せ平泉の実家へ連れて行き、座敷の天井やら、姪夫婦のベットルームの天井にもある、その誉さんの絵(70年以上も前に描いた)を見て貰い、それこそ弟子であった?僕の兄(次男)が、平泉達谷窟毘沙門堂や、田村麻呂が彫ったとされる岩面大仏、そこで神楽太鼓を打つ長兄の姿などを描いた襖絵なども見て貰った。晴紀君はほぼパニック状態の一日だったようで、その日の事を忘れない様に彼がメモった字数は僕もパニくる程の14000字という凄さだった。まずはネット上にバーチャルな祖父の美術館を開きます!という。

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