盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.562 「セロ弾きのゴーシュの息子マーシュ」2021.10.25.盛岡タイムス
 1933年38才の若さでこの世を去った宮沢賢治が最後まで推敲に推敲を重ねて書き上げたと伝えられる童話で、一番に完成度の高い「セロ弾きのゴーシュ」。「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾くかかりでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした」で始まる物語。ネコやカッコウ鳥、たぬきの親子、野ネズミ親子たちと会話し、毎日夜通し合奏練習するゴーシュの音に癒されて病気が治ったうさぎのおばさん、たぬきのお父さんやみみずくたちの話。流れる音楽はクラシックとジャズ。躍動感あふれる言葉と文体。金星音楽団公会堂演奏会のアンコール。「インドのとらがり」を弾くゴーシュ「よかったぜ。普通の人なら死んでしまうからな」と努力の成果をねぎらう楽長。
 コロナの昨今、心に響く童話です。1966年初版、75年第18刷の絵本は僕の長男4才の時に買い読んで聞かせた茂田井武・画(福音館書店)。この絵本が出版されたその年に持病の喘息で48才という短い生涯をとじた茂田井武さんは、東京に生まれ、学校に行かず、たくさんの本を読み、絵を描き、パリに暮らし、帰国して転々と職を変えながら、誰も歩かない道をひとりで歩いた心情をうたう絵、内面を物語る絵描きさんだったようで、この物語にはピッタシ。
 しかもこの物語に続編があったことを知ったのはつい最近。「面白い本屋さんを見付けました」と、昔々小鳥店や出版社に勤めていたという女性から聞いた、盛岡西青山の「シダナイ古書堂」を探し訪ねてみたら入り口に沢山の絵本。その中にな、なんと、朗読CD付「ゴーシュの息子」!しかもCD未封切。文と朗読・今成友見。絵・水野ぷりん。オビには「心が癒される、あったか、童話です。家族みんなで読んで下さい」(たま出版・2004)。「ゴーシュはあれから、とても気立ての良い娘さんと結婚して、かわいい男の子を授かった」。この物語はその息子マーシュのお話。セロは弾かないがゴーシュが動物たちの病気を治すのを見て育ったマーシュは評判のいい外科医となったが、「おじいさんのコブを取っても取っても大きくなりとうとう死なせてしまった」。そこから、手術をしないでガンや難病を治療する名外科医となった野島政男(マーシュ)医師がモデルの童話。憎む相手の幸せを心から祈り、手当てをすると自分の病も一緒に消えたいい話でございマーシュた!

幸遊記NO.561 「菊池花のSPレコード鑑賞会」2021.10.18.盛岡タイムス
 本紙・盛岡タイムス7月5日2021付の本欄「SPレコード極上再生」の続編的幸遊記。10月5日「SPレコードを持って行ったら、店で掛けて頂けるでしょうか」という、女性からの電話だった。
 コロナまん延防止の為9月の飲食店時短営業要請を受けたことから、その時間を使って、大昔のSPレコードを再生する手廻しのゼンマイバネ蓄音器の改造に取り組み、電動式、いわゆる電蓄に造り替えて正確な回転数でのSP音再生。蓄音の鉄針、クリスタルカートリッジのサファイア針、MMカートリッジに人工ダイヤ針、MCカートリッジに天然ダイヤ針、4種、4本のアームを3台のプレーヤーに取り付け、それぞれの時代音を楽しめるSP鑑賞装置が出来上がったところへのSP持ち込みのお客様だったので、僕は大喜び。
 曲は「雨に歩けば」(ジョニー・レイ)。「マンボ・イタリアーノ」(ローズマリー・クルーニー)。そして3枚目が「セントルイス・ブルース」(ジーン・クルーパ)であった。しかもこの3枚目がグランツレコード。グランツと言えば、あの穐吉敏子さんをレコードでアメリカに紹介したノーマングランツ氏のレーベルである。ワーオッ!。ジャケット袋にはチャーリーパーカーを始め、1953年に穐吉さんを日本で発見しグランツに穐吉のレコーディングを薦めたオスカーピーターソン、穐吉をサポートし一緒に録音したレイブラウン等々、1940~50年代当時のジャズジャイアント26名の顔写真入り。貴重な資料的価値観にあふれており、聴き終えたら「置いていきます!」とプレゼントされビックリ。じゃあサインを!と言ったら「菊池花」と書き「母の名です」と、ニッコリして帰って行きました。
 日本よい国いい気質。そう思ったら急に国歌が頭に浮かび、それこそ聴きたくなって取り出したのは「國歌・雅樂―君が代「(宮内省樂部謹奏)。日本レコード文化史本によれば、昭和8年12月8日、宮内省樂師30名で吹き込みしたビクター盤。「幽玄なる日本古式の声調によって国民精神をより深く感得させるのがねらいだ」(東京日々)。そしてもう1枚は東京音楽学校(現・東京芸大)の生徒270人で学校創立50周年。国歌制定50年の昭和4年12月18日に吹き込んだコロンビア盤。この年この月はジャズピアニスト・穐吉さんの誕生年月であり、また天皇を現神として敬い国民が日本の国に誇りを抱いていた時代だった様です。85年前(1936)の10月17日は東京日々が「君が代」についてコラムを書いた日でもありました。

幸遊記NO.560 「助川太郎のレクイエムンド・ギター」2021.10.10.盛岡タイムス
 ギタリスト・助川太郎さんのニューアルバム「レクイエムンド」を聴きながら、僕は若かった頃を想い出す旅に出ていた。彼は、1973年11月生まれ。名前が示すようにれっきとした長男。僕の二人目の息子と同い年ということもあって、親しみを覚えました。しかも僕はつい先日十何年振りに息子夫婦とあって少しばかりの会話をしてきたばかりであるせいか、ギターの音色が心に沁みた。
 レクイエムエンド。このタイトル見てすぐモーツアルトの曲浮かんできたが、会社員だった彼の父が昨2020年亡くなられたのだと。中学校音楽の先生だった母の影響か?高校時代はエレキギターを弾き歌っていたという。東京都立大英文科を卒業すると、米バークリー音大の奨学金を得て留学。ジャズギター、音楽理論、編曲を二年半で修得。更にニューヨークへ出て、演奏し学び経験したことは、誰かのマネやコピー演奏では、観衆は拍手せず、本当に自分スタイルを見付けなければということ。ひたすらジャムセッションに通い、彼が会得したのはジャズを素材とする自由な作曲法。いわゆるストレートなジャズを演奏しない演奏家になる決心だった。帰国して3年後、自分が好きな南米の音楽を体験しにブラジルを旅し、結果的に現在のスタイル「南米の音を土台としたギターのためのオリジナルミュージック」にたどり着いた様子。
 その新作は全曲オリジナル。僕も若い頃プロデュースしたレコードは必ずオリジナル曲メインとしたことなどを想い出させてくれて嬉しくなった。ブラジルのコーヒー豆、なにもない漁師町の気分、山奥のカフェ、アルゼンチンの踊りのリズム、父の畑の風景、コロナ禍の中の昨日の明日、うまくいかなかった日の演奏気分、同い年の音楽家友人が亡くなってしまったけれど、最後に美しい希望の光が差し込んでくる。そんな思いを詰め込んで作曲演奏した彼の「レクイエムンド」。そこに流れるリズムは南米のちょっとけだるいような、それでいて明るさのあるほどよい調子。上半身裸で古いギターを抱きかかえた裏ジャケは人を泣かすが昇りくる朝日の光は希望を指し示し、表ジャケは緑に輝き、空に向かう二人の魂にも見てとれる彼の絵。このCD作品もきっと終わりのない旅(エンドレスジャーニー)を続けてゆくだろう。

幸遊記NO.559 「三沢洋美の陸前高田ユースホステル」2021.10.5.盛岡タイムス
 あの3・11から10年の2021年6月、震災後初めて復活なった?高田松原を歩いた。僕の脳裏にある、かつての風景はどこにも見当たらず、あった!とすれば広田湾の両側にある山並みぐらいのものだった。とはいえ西側気仙町の山は、高田町のかさ上げに用いられ姿を消し、かつての日本百景に数えられた高田松原と、県内一の海水浴場の風景を浮かべれば悲しいが、未来への小松とこじんまり再生なった砂浜、短く?湾曲した海岸線、高さを増し城壁の様になった防波堤と巨大気仙川河口水門の凄さ。
 かつて7万本あったとされる松の木。その後、県や高田松原を守る会や、ボランティアの人々が一所懸命になって苗木を育て、なんと4万本の植樹をこの春までに終えて、遂にはかつての砂浜の半分を再生して今夏、震災後初となった、高田松原海水浴場の海開き。待ちに待ったその7月17日は、それこそ、太陽さえも祝福するかの如く平年より5、6度高かった気温は、子供たちや若者を喜ばせた。それでもコロナ禍の影響もあってシーズン中に訪れた人の数は、臨時高田松原駅が出来た昔の一日分にも満たなかった様子。
 震災で地盤沈下したため、今は水の中に遺構として一本松の傍らに残る、かつての「陸前高田ユースホステル」。地所は陸前高田市気仙町砂盛。完成当時、僕は叔父が経営する照井クリーニング工場で働きながら定時制高校に通っていた時で、ユース特有のシーツ(袋状)洗濯を頼まれて集配によく通った。自分で喫茶店を始めてからも、ペアレントと呼ばれたユースの支配人たちと、交流続けて、初代から数代替わった最後の方まで皆仲良くして頂き「SEA・JAM・BLUE」と名付けた僕自身のコンサートも92年5月にユースで開催。それ以前の89年5月5日、ユースの前に広がる古川沼にグランドピアノを乗せた筏を浮かべて「水上の音楽会(演奏/健・未路p)」開催など、とても楽しかったなあ。
 そんなこんな思い浮かべているところに現れた三沢洋美さん(山梨県在住・48)なんと彼女は陸前高田ユースホステル、確か二代目の八木喜久男さん、弘子さんご夫妻の(共に故人になられた)娘さん。あのユースホステルで生まれた人は二人いますが、その最初の子が彼女。東に広がる太平洋にしては珍しく南向きの美しい砂浜。国立公園・高田松原で生まれ育った彼女は、親に似たおだやかで美しいひとでした。ああ、時はめぐりめぐる。訪ねて来てくれてありがとう!洋美さん!

幸遊記NO.558 「ふたつの黒い雨と二人の黒雨」2021.9.28.盛岡タイムス
 MSKの社長さんからCD付絵本を頂いた。見開いて本を読み、未封切のCDを取り出して聴く。タイトルは「ふたつの黒い雨」その1、「黒い雨」唄・古謝美佐子/作詞作曲・佐原一哉。その2、「心の街」唄・都はるみ/作詞作曲・近藤等則。絵・黒田征太郎。発売は2005年7月(株・アートン)ピカドンプロジェクト編.
 この黒い雨の元となった「原爆投下」から76年を経た今年2021年7月“黒い雨”勝訴!上告せずの政治決断が下され、原告全員を被爆者と認め「訴訟への参加、不参加にかかわらず、認定し救済できるよう早急に対応を検討します。そして再びこのような惨禍が繰り返されることのないよう、世界唯一の戦争被爆国として、核兵器の廃絶と世界恒久平和を全世界に訴えてまいります」の菅首相の談話発表。この一年コロナに明け暮れてゴテゴテ不評だった首相、最初で最後?の立派な仕事!さすが名前を地で行く義!偉い!と拍手した僕。
 「雨が降るどんと降る、お空は真っ暗、鉛色、、、母さん痛いよ冷たいよ、、、父さんこの雨何の雨,、、名前の無い雨、黒い雨、、、」この唄聴きながら思い出したのは韓国の書家・微刻家の“黒雨”こと金大煥(1933~2004)というパーカッショニストの「黒雨」というCD。ギネス認定の微刻も又、心眼で刻む超絶技巧。30年前ソウル市内の彼の自宅で見聞したものは、超人的な努力の仕方だった。僕が唄うステージでも叩いてくれました。
 「黒い雨」を唄った沖縄の古謝美佐子さんは方言で歌う沖縄民謡歌手。初めて苦手な日本語で唄った歌。もう一つの「心の街」は演歌の都はるみさんが、ジャズトランペッターの近藤等則さんが作った歌をリズミックに歯切れよく唄ったジャパニーズブルースである。近藤等則さん(1942~2020)は、丁度40年前の81年7月、歌の浅川マキさん(1942~2010)とジョニーで演奏。又、2012年12月2日はソロで開運橋のジョニーへ来演している。彼の全盛期、東京のあちこちの駅に彼の顔がドアップの巨大看板広告が立っていてビックリした記憶まで蘇えってくる。そう!90年代は大自然の中で21世紀の音楽をつくろうと“地球を吹く”をやっていた人でした。絵本の絵の黒田征太郎さん(1939年~)は僕のジョニーズディスク(JD-16)三上寛の「職業」(1979年録音のLP1987年発売)ジャケット絵を描いています。ああ、皆、今に至る縁話。

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