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「石灰写真家」との異名で呼ばれ、今や日本から、世界を代表する写真家となった畠山直哉さん(54)が、平成23年度の文化庁第62回芸術選奨(美術)で文部科学大臣賞を受賞した。「東京都写真美術館で開催した畠山直哉展で1980年代以来テーマとして撮影してきた、“自然と人間の営みとの関わりあい”を再構築した作品群の集大成。とりわけ、そこで示された新作“陸前高田”と“気仙川”は、そこに生まれ育った氏にとって重い意味を持つ作品であり、注目にあたいする」が贈賞理由。 筑波大学芸術学群に美術を学び、2年の時に大辻清司教授に写真の魅力について解かされ、それまでの絵画から、写真へと転向。大学院・芸術研究修士課程を修了した。学生時代の82年「等高線」という写真集をカメラワークス東京から出版したのが始まりだった。 彼は学生時代にもよく、僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」にやって来た。78年には僕が制作したジャズレコードにジャケット絵を描いてくれ、版画も使わせて貰った。 96年3月、彼の38才誕生月に出版された写真集「LIME・WARKS」(石灰工場)は朝日カメラ誌の第22回「木村伊兵衛写真賞」を受賞。更に2000年6月出版の「アンダーグラウンド」では毎日新聞社主催の「毎日芸術賞」を受賞。その受賞式には「見届けて!」と、彼の母と一緒に僕まで招待してくれた。今回「おめでとう!」の電話をしたら、その母が3・11の津波で亡くなられたことを知らされ、僕は言葉を失った。彼は(東京在住)今、ふるさとの仮設住宅に暮らす人達の集会所を建てるために奔走していると言う。 「景色や場所をどこかへ置き換える遊びを、小さい時からやっていた」と言う直哉さんは「人間にとって物とは何か」を問いながら「どこでもない、地上でもない、この世じゃない、」写真を撮る人。都市とそれを造った原料との奇妙な関係。ビル群の製造工場と鉱山。ダイナマイトによって石灰石が鳥のように飛ぶ瞬間の「ブラスト」。その鳥となって彼が、巨大墓地の様にも見える都会ビル街を空撮。東京地下の暗闇を流れる川を撮り、真に絵を超えた写真と感じさせられた「アンダーグラウンド」。彼の心の中でそれらの全ては「福伏鉱山」(陸前高田市気仙町)の原風景に戻ってゆく、、、、、、。
幸遊記 №62 「稲葉紀雄のチャールス・ミンガス」 照井顕
ジャズの巨人・チャールス・ミンガス(1922~79)の1500頁にも及ぶ私家版として友人知己に配ったという彼の自叙伝「ミンガス・負け犬の下で」を、彼と親しかったネル・キング婦人が縮少し、編集し直して刊行された本が、日本語訳で晶文社から発売されたのは73年。その本の訳者は黒田晶子・稲葉紀雄氏。二人は国際基督教大学卒。 彼は1940年6月14日、東京生まれ。1995年米国出張中にホテルで亡くなった。当時、岩手鉱業株式会社の社長。会社は住田町の鉱山から産出される岩手金剛砂と呼ばれるガーネットを原料とする網入ガラスや、テレビのブラウン管の研磨材(パウダー)を製造。かつて国内シェア90%。世界でも40%を誇った。 学生時代にはアマゾン川を筏で下ったと聞いた。(株)種山ヶ原という会社を東京で立ち上げ、オーガニック輸入食品を扱い、それこそ種山ヶ原に近い蕨(わらび)峠にて緬羊の牧場も持った。「羊は、どの家畜よりも多種の草を食べることから植林の下刈り役に適し、フンは分解が遅いため土壌に優しい。その上、肉はアルカリ性。毛は衣服や布団にもなり、衣食住をまかない、理想の未来を拓く」と言った彼。 時折、ジョニーに来店。多額の借金にあえいでいた僕を、本当に心配し「少しずつ返せばいい」と、その肩代わりもしてくれた。ミンガスの自伝本、ミンガス自身が自主制作した名盤レコード1964年の「モントレーのチャールス・ミンガス」の復刻盤などをプレゼントしてくれた。亡き後には、ステレオや「開運橋のジョニー」にあるウッドベースさえも・・・。 85年、そのミンガスのレコードがスイングジャーナルの臨時増刊・「ゴールドディスク事典」に収録される時、僕が担当することになった秋吉敏子の名盤を含む日本盤6枚。外盤4枚中の一枚として、評論を書かせて貰った。かの秋吉さん自身もミンガスオーケストラの編曲とピアノを手伝った「タウンホールコンサート」(62年)はCD化され、今に残る。 稲葉さんはミンガスとアメリカで64年67年に会い、71年元旦には羽田にて、彼を迎えた。自伝本はミンガス・三つの魂の叫び、1950年にトランペッター・ファッツナヴァロの死を看取るまでの経緯、軽薄さを拒絶する厳命の形を取りながら稲葉氏に伝えられた愛情なのだった。そして僕へと。
「銀河連邦サンリク共和国・建国コンサート」が開催されたのは1987年10月31日。所は現・大船渡市の岩手県気仙郡三陸町。出演は「韓国前衛邪頭三人組」。プロデュースは僕。その内容、息吸いながら吐くノンブレス奏法の宇宙ロケット的サキソフォン。炎、光、電波の如きトランペット。その推進力は不思議なポリリズムのドラム。それらはまるで地球に接近する巨大彗星を想わせる凄ジャズ。なかでも特に僕を引きつけたのは、ドラムの故・キムデファン(金大煥・当時57才)が叩く一個のドラムから生まれ出る様々な音色でした。
「カラオケのクラブ」以外では日本語の歌を唄うことが禁止されていた90年9月の韓国。歌手D嬢の付き人が交通事故にあい、そのピンチヒッターとして、僕は初めてソウルに渡った。仕事から解放され、帰国する日に、キム・デファンさんがホテルまで来て、僕を彼の自宅へ招待した。途中、街角の交差点で立ち止まったら大勢の人が僕等を取り囲んだ。するとキムは、僕がアゴヒゲにつけていたトレードマークのリボンを指差し、値段を聞き「そんなに安くて注目される宣伝は他にないよ」と笑いながらジャズの店にも連れて行ってくれた。店主は日本の店で修行し勉強して来たと言う。 彼の家では、超ビックリ!米一粒に300字の漢字を彫り、ギネスに載ったその実物を五個見せてくれた。一ミリ角に何と30文字を彫れると言う。かつては、韓国グループサウンズ協会の初代会長を務め、あの歌手・チョウヨンピルやイイナミを育てた人でもあった。 部屋には美しい漢字がビッシリ書かれた屏風がいくつも並び、机の上には十本の象牙印。その印に細かく刻まれた紋様を、ルーペで覗くと、それは何と般若心経の全文。判の依頼人は朴大統領。他、国会議員だと名刺を見せてくれた。彫る道具も自分で作り針先はタングステンだという。僕にも般若心経を彫った小さな象牙のお守りをプレゼントしてくれた。 30年一日睡眠3時間。寝る前には暗闇の中でペン字を書く。朝起きて、材質の違う6本のスティックを指に挟んでの微音ドラム。書。彫刻。それぞれを一時間ずつ練習。そして運動。「誰もがお金になる微刻だけやればいいのにと言うが、僕が本当にしたいのは、音楽だから」と、言いながら見せてくれた両手。指の間の全部に大きなタコが出来ていて、まるでグローブのように見える手だった。
「甦えるトニー」という赤木圭一郎のレコードに出会ったのは十代の後半。彼が亡くなって4年後に出たLPでだった。以来時折、どういう訳か深夜になると聴きたくなり何十年も随分と聴いた。
先日、東京から、吉野剛君という若者がジョニーにやって来て、店が閉まる頃になったら「カラオケに行きませんか」と僕を誘った。深夜に行ける店を知らない僕は、二十年程も前に行ったことのある、僕の店と同じ名の「ジョニー」へ行ってみることにした。 盛岡中央通り裏にあるその店の名の由来は、釣竿の「十二尺」から「ジョニー」としたと店主の釣りキチ・佐藤順三さん(60)。彼はかつて、ジャズ歌手・ジョニー・ハートマンを信望したシンガー・ソング・ライター・故・大塚博堂の歌を得意とした歌手だったらしい。 「僕もジョニーです」と名乗ったら「確か以前いらした時“霧笛が俺を呼んでいる”を歌いましたよね」と言われたのには本当に驚いた!赤木圭一郎が歌ったその曲は、僕がカラオケで唄える数少ない歌の一つ。 とっさに僕も、1988年の夏の夜を思い出していた。新宿ゴールデン街の「ダカーポ」という店。女主人のジャズ歌手・田代たみえさんのこと。その店で、初めて飲んだバーボンウイスキー「フォアローゼス」の味のことなど。 彼女は何を隠そう、赤木圭一郎の実姉。かつて米軍キャンプなどで歌った人。彼女の口から出た当時の歌手の名は、上野尊子、細川綾子、園田まゆみ、などのキチッと唄える現役の人だった。最近上野は他界したが、三人共僕は好きな歌い手で、皆、陸前高田へ呼んだ。園田まゆみに関してはレコードも僕がプロデュースした。 赤木圭一郎(本名・赤塚親弘)は、1939年(昭和14)東京生まれ。父・俊之はジャズ好きの歯科医。母・喜久は銀座生まれで、子供の頃からオペラを聴いたという「モボ、モガ」の両親。その息子だった赤木は、何故か浜辺で遠い水平線を見つめているのが好きだったらしい。大学時代の59年、7本の映画に脇役で出演。60年から61年の3月に亡くなるまでに主演した映画15本。そのすべての主題歌も唄ったスター。未完の「激流に生きる男」の主題歌「流転」を吹込んだ直後の事故死。「でも父は“それも寿命だ”と言った」たみえさんの言葉。それが今も僕に残っている。
寺内タケシ&ブルージーンズ結成25周年の1988年。僕はエレキに明け暮れた自分の青春時代に決着をつけるべく横浜の寺内企画を訪ねた。するとそこは外壁にブルーのラインが屋上まで続くビルだった。
エレキと言えば真夏。高田松原海水浴場のあった陸前高田も夏のイメージ。だから、あの熱中症的だった我が青春のエレキ!に決着をつけるのは冬が良し!と、89年1月21日(土の極寒日にコンサートを開催した。 ジャズ喫茶ジョニーと酔仙酒造(株)の共催。高田の飲食店組合に協賛を願って、全飲食店にポスターを貼ってもらうという仕掛け。結果的には赤字で酔仙に迷惑をかけたが、市民会館の天井から、パラパラと雪の様なホコリが舞い落ちる大音量。その光景と美しい音色と“酔仙”の酒に皆、酔いしれた。 寺内タケシさんは、1939年(昭和14年)茨城県土浦市の生まれ。実家は電気店。他に製材所や建築などもやっていた大会社。兵隊に行った兄が残したギターに出会った5才の時から「小唄の始祖的存在の家元だった母(鶴岡はつしげ)から、三味線でギターを習った」と彼。 小学3年生の時には「ギターと三味線、その音量のバランスを取るために、マイク(手廻し電話の受話器の中のコイルを巻いたマグネットを取り出して並べた)を使いエレキギターの原形を作った。のち木材を使ったソリッドボディに、トーンコントロールやボリュームをつけた今のエレキギターを開発。そのためのアンプ、スピーカーを研究し三味線バチをヒントにした特筆すべき世界初の“三角ピック”の考案に至った」と言う。 関東学院大電気科時代には「本州カーボーイズ」というウエスタンバンド。1963年3月、「ブルージーンズ」という名のジャズコンボを結成。間もなく電気楽器だけのエレキバンドへ移行。一年後にはエレキの世界的大流行。アメリカの「ヴェンチャーズ」、イギリスの「シャドウズ」、日本の「ブルージーンズ」という世界三傑となったのでした。 のち足利市教育委員会に端を発したエレキ禁止令に立ち向かい、以来、母校を皮切りに、エレキを生み育て流行らせた、その責任の名において、40年以上!ハイスクールコンサートを今も続けている。真に「エレキの神様」なのだ! |
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