盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.68 「荒谷光彦の“ファイブ・ペニーズ”」2012.4.24.盛岡タイムス

 前回、日本ジャズ専門店を35年間続けて来たということを書いた。その記念日とも言うべき僕の65才の誕生日の朝、正確には昼、携帯が鳴った。声の主は久し振りの沼田智香子女史。彼女は1990年頃から約20年、FM岩手のジャズ番組アシスタントを務めてくれたフリー・アナウンサー。
 でもその電話は勿論、誕生祝いなどではなく、雑誌への取材申込みだった。盛岡商工会議所が出している「さんさ」という冊子らしい、僕は一度もお目にかかったことは無いが、それへのインタビューだと。ありがとう。「昔のよしみでの取材ではない、指名で頼まれた仕事なの!」と気を使ってくれている様子が伺えた。
 余計な個人情報かも知れないが、沼田女史は、僕の古い友人で現・(株)読売岩手広告社の社長・甘竹明久さんの奥様。その甘竹さんは何を隠そう、2001年4月、陸前高田から盛岡へ僕を連れて来た男。不思議なもので、その話の出所は「ボーイ・プランニング・カンパニー」の社長・荒谷光彦さん。彼も又、この4月20日を僕の誕生日とも知らず、何年振りかで店にやって来て、僕は、バーボン「ジョニードラム」をご馳走になり、それこそドラマー・澤口良司さんからの誕生祝いのワインでも乾杯!した。
 彼、荒谷さんは美容室を何店舗も経営している人。20年前現・ジョニーの近くにある彼の自社ビル地下の美容室「ビル・エバンス」の音楽部門を独立させて8年間続けた「ファイブ・ペニーズ」の跡を継ぐ形でジョニーが盛岡へ移転して来たのでした。その20年前の店のオープン記念コンサートは、教育会館での「穐吉敏子・ジャズオーケストラ」。
この4月ニューヨークでその「穐吉敏子・ジャズオーケストラ」を久し振りに聴いて来たばかりの僕。その穐吉さんが昔、雑誌のインタビューに答えて「ジャズって何?と聞かれると“サッチモ”のことを想い出すの」と言っていたことを想い出し、また「映画・ファイブ・ペニーズ」(5つの銅貨)に出ていた“サッチモ”のことも想い出し、かつて「サッチモ」こと「ルイ・アームストロング」が住んでいた家をブルックリンに訪ね、4月20日より「日本(和)ジャズ専門」から「世界のジャズ」へと「開運橋のジョニー」を原点帰りさせると決心して帰ってきました!もちろん!スタートは「ルイ・アームストロング」から。


幸遊記NO.67 「ニューヨーク・リンカーンセンターの奇跡」2012.4.17.盛岡タイムス
 
 1977年以来,今日まで35年間、僕は日本のジャズ一筋に生きて来た。その日本のジャズも今では,世界中に翔き、世界最大のジャズマーケット・ニューヨークでは、2012年4月のジャズスケジュールにバンドのリーダーとしてクラブやホール等に出演している日本人や日系人の名が相当数見られる。
 日本からアメリカに贈られた3000本の桜も子孫繁栄し、100周年を迎えたことから、僕達一行もまた、サクラとなって「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」としてアメリカに来た。
 ワシントンDCの名門ジャズクラブ「ブルース・アレイ」に3日間、満員の聴衆を集めて行われた最終日の2ステージを鑑賞!。「全米芸術基金NEA・JAZZ・MASTER」の称号を与えられた唯一人の日本人・穐吉敏子(82)の気迫溢れる熱演に度肝を抜いた!凄い!の一言。
 想い起こせば」56年前の1956年。単身アメリカに渡った穐吉敏子さんが、今日まで苦難を克服しながら切り拓いて来た「日本ジャズの世界」は、現在「世界のジャズの中心(核)」となっている事実!。
 「ブルース・アレイ」のスケジュールを見れば、穐吉の他、スタンリークラークのバンドで、グラミー賞を受けたピアノの「HIROMI」や、全米スムースジャズのトップランナー「KEIKO・MATSUI」などが太字で名を連ねる。
 ニューヨークの「ジャズ・アット・リンカーン・センター」の「ローズ・シアター」で2日間「穐吉敏子・ジャズ・オーケストラ」の特別公演。その前日、リハーサルの2日目(12日)に僕達一行のリハ見学を許可し、招待してくれた穐吉さんに大感激。指揮する穐吉さんが、彼女のオリジナル曲を演奏するオーケストラに向かって的確に指示する一言一言が、そのサウンドをガラリと変貌させ、繊細さを増してゆくオーケストラの音。
 穐吉の、いやニューヨークのジャズ史に残るコンサートの裏側を僕達だけが特別に体験させて貰ったことにも大感謝!当日のコンサート(今夜13日)。それこそ紅いバラを想起させる様な楕円形のホールの中央で聴いた僕達は、360度から湧き上がる歓声と拍手の嵐に包まれて感極まった。(ニューヨークにて) 


幸遊記NO.66 「デュッセルドルフの交響楽団」2012.4.10.盛岡タイムス

 世界三大B、バッハ、ベートーベン、ブラームス、を生んだ音楽の国ドイツ。その中でも、長い歴史を持つ、デュッセルドルフのオーケストラ文化。町は1914年以降、有名宮廷楽団を抱え、バロック音楽の中心地へと発展させた。1720年以降は宮廷音楽家達が「マンハイム管弦楽団」の基礎をつくり、1818年には「市立音楽連合」なる合唱団が組織され、1864年市は正式に音楽家達を雇用しそのスタイルは現代まで続いていると言う。
 そのドイツの至宝、伝説のオーケストラ、デュッセルドルフ交響楽団がドイツの魂とされるベートーベンの曲を携え、日本にやって来たのは2006年の秋だった(10月31日、東京サントリーホール)。
その翌日11月1日、同楽団の首席・ソロ・コントラバス奏者・ブウォジミエシュ・グラ(WlodzimierzGula)氏が何と「開運橋のジョニー」にやって来たのでした。ヒゲ面とヒゲ面の彼と僕は酒酌み交わし、意気投合。その日出演の藤原建夫ピアノトリオとのセッション!感激のあまり女房の小春さえ会計を忘れて帰した程だった。
ところが更にその翌日の11月2日、兵庫と岩手の混合カルテットのライブ中に、何と楽団の半数だという40人程をグラ氏が連れて来て、ビア!ビア!で、アッと言う間にビールが売り切れ。お客で来てた紫波の「ささき歯科」の先生が外へ出て、「コンビニ」数軒歩いて買い求めて来たと両手いっぱい缶ビール。それじゃ、もう一度!これがホントの缶パイ!ですと再び盛り上げた。
その後楽器を持って来てた楽団員が入れ替わりステージに立っての大ジャムセッション!いやあ凄いのなんの、うれしいの!で夢の様。同行取材のドイツ・ジャーナリストだという二人を紹介された時、僕は「ノー!ノー!貴方たちはジャーマンリスト!だ」と言ったら「ダジャレ」が通じて皆「アハハッ!」の大爆笑。
先ごろTVで情熱のタクトと呼ばれている日本人指揮者・佐渡裕氏が、なんとあのデュッセルドルフ交響楽団に招かれ、同市のトーンハレホールで「東日本大震災チャリテイコンサート」。ベートーベンの第九を汗と涙でグショグショになりながら懸命に指揮し、黙祷する姿に僕は大感動した。


幸遊記NO.65 「松田宰の一期一会ワイン」2012.4.2.盛岡タイムス
 先日、盛岡でワインバー「アッカトーネ」を経営しているソムリエの松田宰さん(44)が「開運橋のジョニー」にやって来た。
 話によると「3月いっぱいで入居しているビルが取り壊しになるので、すぐ近くの所に4月9日、新しく店をオープンすることにしました」と笑顔。まったくご無沙汰の僕に対し、彼は時折店に、彼特有の笑顔を見せにやって来る。
 彼が僕の店・陸前高田時代のジョニーにやって来たのは20才位の時だった。その日、僕は自分の実家に行く用事があって、そのまま彼を車に乗せて平泉に行った記憶。
 以来すっかり僕も彼も互いにファン。盛岡や陸前高田のホテルレストランで働き、ワインに興味を持ち、かつてはワインの街大迫に学ぶために住み、ヨーロッパの国々に渡りワイン醸造所で働きながら、ワインを体得する形で学んで来た本物のソムリエ。2011年、オーストリアのワインコンテストで銀賞になった事もその一つの証。今年(2012)6月のワインフェスタにも招待されていると言う。
かつて国内外の旅先からはよく手紙が届いた。その手紙にはいつも工夫が凝らされ、読む前から心が弾んだ。「眠れない夜は少しだけ大人になります。眠れないのはきっと、素敵な予感のせいです」とか「ジョニーさんに書く手紙は、自分宛ての手紙でもあります。僕は過去の記憶の断片をたどりながら、日々歩んでいます。過去の記憶の集結こそが僕にとっての未来であるからです」などの手紙文が頭に浮かぶ。
 1995~97年僕は小さな新聞の編集をしてた。その時コラム欄に何度か原稿を書いて貰った事がある。その時の文「日本の食卓に、ご飯と味噌汁とお新香があるように、西洋ではパンとワインとチーズがあります」とそれぞれには、それぞれを引き立てる役割があり、それが生まれた背景やそれを作っている人々の心までをも食卓の風景として頂く。あるいは提供する。それこそが“うらのないおもてなし”なのだと僕流に学んだ。
 中の橋「アッカトーネ」は自分。上の橋「敲太郎」は父。遠野「カーゴカルト」は眼輝。と全てに彼の心が息づく。



幸遊記NO.64 「七戸國夫の愛の宝石箱」2012.3.26.盛岡タイムス
 日本を代表するギタリストの一人で、日本ギタリスト協会の副理事長も務めた七戸國夫さんが交通事故で亡くなってから今年(2012年3月15日)で19回忌を迎えた。「19(ジューク)は音楽の意味!」と、僕は69回目のジャズ講座にて、七戸さんが遺していったクラシックギターアルバムの特集をした。
 彼の姉、故・及川友子さんが描いた“美しい花”そこに込められた“音楽の希(ねがい)”をジャケットにした最後の作品、1993年のCD「愛の宝石箱」は長い時を過て尚、先のアルバム「月の光」と共に聴手耳心に届く。
 彼は、僕と同い年の1947年盛岡生まれ。父母が高校教師だったことから、小学時代を大野や田野畑村で過し、盛岡上田中学、盛岡一高へと進んだ。その高一の春、TVでギターを弾く「ナルシソ・イエペス」に感激。その後「アンドレス・セゴビア」のレコードを買って聴き、ショックを受け、プロ・ギタリストになる決心をしたと言う。
 以来、地元で菅原忍氏に、卒業後は上京して溝渕浩五郎氏に師事。1日10時間以上もギターを練習したと言う。1969年、盛岡での初リサイタル。東京でのデビューは更に4年の研鑚を積んだ後の73年。翌74年には「ポピュラーギター入門」なるLPレコード(楽譜も同時発売)を発表し、ギターを志す若者達の模範となって出発した。
 91年11月10日、彼は初めてジャズ喫茶での演奏会を開いた。所は僕の店・陸前高田「ジョニー」。演奏後「何をどんな風にやろうか、と、かなりのプレッシャーだった」ともらした。その録音を聴きながら「もう、こんな演奏は出来ないかも知れない。大事に保管しておいてくれませんか」と言い残し帰って行った。
 「ギターは小さなオーケストラと言ったのはベートーベンだが、その大きさとは違う、極めて精神的なオーケストラでしょうね。そう、ガーッ!とじゃなく、ひたひたと伝わって来る様な音だと、そう、思っている」と言った彼の言葉が、今も僕の耳に残っている。
 毎年各地で行われた追悼演奏会に何度か呼んで頂き、彼が亡くなる5日前に書いた詩「さざなみのくに」に曲をつけ、唄わせて頂いた記憶までもが戻って来る。


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