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高校時代の同級生だった故・金野正博から弟・道博が歌手デビューしたと聞かされたのは1974年の11月。曲は「須磨子の愛」つちだ・よしえ作詞。間中政一作曲による“炎のように燃えました”で始まる唄だった。
須磨子とは、大正3年に島村抱月が組織した芸術座の名優で、トルストイ原作の「復活」で同名の劇中歌をステージ上で唄った流行歌手の第一号「松井須磨子(本名・小林正子)」。 東京音楽学校卒の中山晋平26才の時の処女作となったその「復活」は1915年(大正4年)に電気以前のラッパ吹込みされるや、あっという間に2万枚を売り尽くした作品。その後“命短かし恋せよ乙女”の「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」などを続々と大ヒットさせたが、師であり恋人であった「抱月」が肺炎で亡くなると、その跡を追うように1919年1月に34才で自ら命を絶った女性。その飾らない歌声は今聴いても、なかなかにいいのです。 そんな昔の人をテーマに、その続編ともいうべき「旅に出た女」まで出した歌手「浜道博」は、岩手出身の歌手、故・箱崎晋一郎(1945~88)の唯一人の弟子。だが歌手としては生計立てられず、美川憲一のマネージャーなども務めた。84年、板橋に「居酒屋金ちゃん」を開業。のち脳内出血で倒れ闘病3年。その後の記憶喪失や意識不明などを繰り返した後に奇跡的に回復。 それからは、地元密着型の歌手・KIN-CHANとして「常盤台ブルース」「常盤台ラプソディ」で再デビュー。昨2011年1月には、18才で家を出てから初めて、8日間もふるさと陸前高田に里帰り。新曲を構想。友と母に捧げる曲「潮騒・・友へ」と「故郷の風に抱かれて死ねたらいいね」を4月20日にリリースした。 いい詞いい曲いい声です。心のこもったいい唄い方です。詞は「浜みちひろ」曲は「夢道」歌は「KIN-CHAN」全て彼のペンネームだから、自作自演の歌なのです。何十年振りに彼と電話で話をした。「いい年のとり方をしているな」と感じさせられた。彼もすでに59才。 デビューした翌年(1975)9月26日僕らが開いた陸前高田市民会館での「浜道博ショウ」がまるで昨日のように想い浮かぶ。
あれは2006年の11月11日だった。店に出勤したら、地下の階段を降りたドアの前に、「生牡蠣(かき)」と鉢植えになったピンクの「シクラメン」そして走り書きの「村上軍記・又きます」の紙一枚。 盛岡に店を開いた2001年、音楽とオーディオ好きの友・菅野信夫さんと連れ立って、陸前高田から来てくれた日も僕は不在だった。そしてあの日も開店前。二度も会えず申し訳なく思い、僕は半紙に「ピンク色の花咲く音室あたたかい」と筆で「カキ(書)」送った。 それから一週間後には、「書」を額装して、自分の部屋のステレオの上の壁に飾った写真を添え「我が家の家宝」という手紙をくれた。それには「自分の人生の中で最大の敬意を払う友人かも知れません、貴方の感性には正直に申しまして感謝感激です」で逆にビックリ!。 その軍記先輩に会ったのは、1974年。「高田音楽鑑賞会」の名で7年間続けたレコード・コンサートに、東京帰りの彼「軍記」さんが持ち込んだのが「孤軍」という、秋吉敏子・ルー・タバキン・ビックバンドのデビュー・アルバム。それを聴かせてもらったお陰で、今日の「穐吉敏子ファン・照井顕」が生まれたのだから、僕こそ最大の敬意を払わなければならない友人なのでした。 「なのでした」というのは2011年3月11日の大津波で彼は亡くなられたと聞いたから。一度は避難したのに、カメラを取りにすぐ下の家に戻ったらしい。山が好き、当然写真も好きな人だった。時折、写真入りの手紙や葉書が届いた。彼の人生観を変えた究極の一枚は「デュークエリントン&ジョンコルトレーン」のインパルス盤。「針をおろす度に涙を流しながら聴いた遠い思い出」と書いて来た時があった。 「孤軍」については「14日19時(’06年11月)久し振りにKOGUNを聴いております。懐かしいです。当時の事が走馬灯のように想い出されます。都会の生活から逃れ途方に暮れてた時、音楽仲間に出会った。素敵な付合いをし、情熱に溢れた豊かな生きがいを持ち、充実感に満ちた最高の生き方が出来たと自負しております」とある。 軍記さんの手紙を全部読み直しながら、このことが、僕が歌う「逆説・般若心経=経心多密羅波若般訶摩」なのだとあらためて思った。
ある時「ジョニー」に荒川チサトさんという方が来て、「東京へ来ることがあったら、ご連絡下さい、是非あなたに会わせたい先生がいるから」と言って帰った。それから一、二年後位に上京したおりの1984年7月7日。荒川さんに連れられて行った所は、文京区目白台にある、クラシックの作曲家・渡辺浦人氏(当時74才)の自宅だった。
玄関を入るやいなや「あなた岩手だってね」と、笑顔で迎えてくれた渡辺氏。「先客の女性達も岩手だよ」と紹介された方は、沢内出身で都内小学校の音楽教師・大川光子さんと音大生で北上出身の高橋由紀枝さんだった。そこで、渡辺さんが作曲したという宮澤賢治の詩の数々を、大川さんの感動的な歌で聴いた。(のちに、花巻・宮澤賢治記念館に大川さんのそれらの歌が、カセットテープで収められている) 渡辺浦人氏(1909~94)は青森県生まれ。東京音楽学校でヴァイオリンを学び、東京教育交響楽団で当時の指揮者であった山本直忠(山本直純の父)に作曲と指揮法を学び、その後、山本氏の後任指揮者として37年から18年間就任。名古屋芸大教授も務めた。彼の作曲した代表作に交響組曲「野人」がある。41年に初演され「毎日音楽コンクール」で第一位と文部大臣賞をW受賞。多くの管弦楽曲、室内楽、オペラ、吹奏楽、協奏曲、映画音楽他に校歌なども数限りなく作曲。僕が少年の頃の記憶に残る「まぼろし探偵」「赤胴鈴之助」などもそうだったし、身近なところでは、たしか?「都はるみ」と「新沼謙治」が歌った「大船渡音頭」「大船渡小唄」をEP盤レコードで持っていて聴いた記憶。 帰り、渡辺さん、荒川さん、僕、三人で駅まで歩いたあの日、「照井顕様・渡辺浦人」とサインを入れて僕にくれた2枚組LPレコード「交響楽で語る日本の心」は、今でも大切な僕の愛聴盤。特にも「野人」と一緒に収められている「交声曲・原体剣舞連」(作詩・宮澤賢治)の曲は、1970年頃、賢治ゆかりの地を旅して作曲した三楽章からなる混声七部合唱曲。「ダッダッダッダッ、ダースコダッタ」の太鼓の音を児童合唱だけで表した第一楽章を聴きだすと「我々の音楽は民族の原始性から出発することによって世界化する。これが私の作曲上の理念です」と言う氏の言葉が必ず浮かんで来る。
先日、ひょいとTVをのぞいてみたら麿赤児さんのインタビュー。その変わらなさにびっくり。僕が麿さんにお会いしたのは、1988年だったから、もう24年も前になる。
盛岡八幡宮の境内で行われた、麿赤児率いる暗黒舞踏集団・大駱駝鑑の野外公演を、陸前高田から観に来た時だ。当時は「ジョニー」にも大駱駝鑑のメンバーがバンドと共に来て舞踏ショウなどもしていたことから案内が届いた。僕はその時、79年に金羊社から出版された、限定版の写真集「麿赤児・幻野行」写真家・朝倉俊博氏のサイン入りを携えて行き、麿さんにもサインをもらいながら、インタビューのOKも。 その深夜、公演合宿所の松園観音に押しかけ団員と共に飲みながらのインタビュー。酔ってザコ寝して朝テープを見たらポーズボタンを押したままの無録音。「いい話したのになあ」と、ガッカリされながら、朝に再度のインタビュー!麿赤児(本名・大森浩司)は、昭和18年金沢生まれ、演劇を嵐山光三郎に。古い新劇を山本やすえに。劇団状況劇場を唐十郎と設立。舞踏を始祖の土方巽に。そして72年、自らが主宰する大駱駝鑑を設立し、独特の暗黒舞踏を世界へ「BUTOH」と広めた人。名優でもある。 全身に白粉(石膏や砥粉など)を塗った裸体を音楽にのせて超スローで動かす「物にはモノの色気ってモノがすでにある。それは素明かりが一番はっきり出てきます」舞踏は声は出せども言葉は使わない、そのことを「こと問はず舞い、答えずしてをどる。ただ契りあるとて、をどり、をどれや」(麿赤児)なのである。 「麿(まろ)とは「自分」を指し示すことばであり、赤児は「自分が痔なんで」それを芸名とした。すると「駱駝」は言わぬが「らくだ」からかな?とは僕のシャレだが、ある時店で舞踏家の女性が「ライブの前に体育館に連れてって」と言うので一緒に行き、その練習を見て、柔軟体操たるものの、ウットリするほどの美しさと物凄さに驚いた。気が付けばあんなに音がしていた体育館は静まり返り、遠巻きにした皆が、かたずを飲んで見ているのだった。あの超スローな動きの舞踏を支える、柔軟な体づくりの凄さにも敬服した。
僕が陸前高田から盛岡へやって来て開運橋のたもとに店を開いた2001年の春、盛岡を舞台にして作られたシングル盤レコードを陸前高田から持って来てた。
「大盛岡行進曲」「盛岡音頭」の78回転盤。バーブ佐竹の「霧雨の町盛岡」青江三奈の「盛岡ブルース」といったメジャーな45回転シングル盤。更には盛岡で「ボッカ」という店を経営してた故・畠山信也氏が制作した「ボッカレコード」で幡街恭子が唄った「八幡慕情」。八幡恭子と八幡洋子が唄った「盛岡お座敷小唄」など20枚程。 その中でも、タイトルからか時折ジャケットを見ると聴たくなる歌がある。気仙郡三陸町(現大船渡市)出身の「大船わたる」の「開運橋ブルース」(1980年ナベプロこと渡辺音楽出版制作)である。 「あの日別れた開運橋に涙まじりの雨が降る」に始まり「「ああ今も涙の面影浮かぶ」で終る歌詞。詞は坂口宗一郎。曲は千田浩二(大船わたるの本名)彼は仙台市役所職員だった1965年(昭和42年)コロンビアの歌謡コンクールで入賞し上京。作曲家の故・猪俣公章氏に師事し、67年3月に千田浩二名の「ソーラン哀歌」でデビュー。5枚のシングル盤を出し69年フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に出演した。70年には千田浩二から大船渡(わたる)へと改名「板前さんよ」で再デビューしヒット。その後、彼の自作曲が八代亜紀によって唄われた「最終ひかり」(88年)が記憶にある。 彼が僕の店、陸前高田の「ジャズ喫茶ジョニー」に寄ってくれた95年6月、彼の師、故・猪俣公章氏が眠る福島市の東光寺に墓参りし、日本エンカフォンという新会社から発売の勝負曲「おとこ人生ど真中」を報告。「花を咲かせる事を墓前に誓って来た」と言った。 昨2011年「望郷」を発売した直後、3・11の大震災。「焦がれ焦がれて愛した女(ひと)は、きっと死ぬまで忘れない」開運橋ブルースの一節がしみる。 小泉とし夫氏の短歌「開運橋旅立ちの朝川岸に手を振っている柳の緑」「開運橋遠い旅から戻って来た雪のアーチの白いリベット」開運橋の春夏秋冬に、僕も曲をつけてみた。 |
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