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陸前高田出身で、花巻在住の詩人・照井良平さん(66)が、毎年、紫波町あづまね山麓にて実行委が開催している「オータムジャズ祭」に来てくれて、「ジャズinビューガーデン」という詩を書いてくれたのは2008年。 その詩を中心に、彼の作品を僕が書にし、「照井二人展」として紫波の「ひのやサロン・鈴の音」に飾ったのは2009年の1月。彼はその詩をその年のオータムジャズ祭で朗読。その時の挨拶が「ジョニー・照井の兄弟です」だった。そう、今は亡き僕の父は、「省平」だから「良平」は、まるで身内の者の様だ。 彼の旧姓は西條。だから昔から最上の友と言いたいところだが、昔の彼は知らない。しかし、40年以上も詩を書き続け、現在は県詩人クラブの常任理事や、花巻詩人クラブの会長。全国誌の月刊詩誌である「詩人会議」の運営委員まで務める実力の持ち主。 昨2011年京都での第26回国民文化祭の現代詩フェスティバルにて、彼の作品が、何と最優秀文部科学大臣賞を受賞してしまった。震災直後、生まれ育った陸前高田市米崎町に行き、がれきの中に腰掛けた、年いった女性の背中を見た時に、誰かを亡くしたのだろうと直感したことから始まる、対話形式の詩で、気仙地方の方言「気仙語」で語られてゆく「ばあさんのせなが」 「わりごど してねぁのにさぁ むすめどまごまで さらっていがれで しまっだぁ まぁだ 見っかていねぁのっす・・・ほんだがら むすめどまごだぢがら見える こごんどごの たがいどごさきて てをあわせ はやぐけぁってこう おりゃいぎでるあいだにけぁってこうって まいにち よんでんのす・・・」 この詩は今年2012年2月11日、遠野市の「みやもりホール」で行われた「魂(たま)呼ばり」にて彼が朗読し、涙を誘われた陸前高田の方に声をかけられたという。震災詩すでに数十編。詩人としての鎮魂の旅を続ける彼の後姿に、震災前の一編の詩「精霊の鳥」が浮かぶ。「冷たくみぞれの降りしきる日に あなたは逝った 彼方から白い鳥がやって来ると しみじみかたった年の みぞれ降りしきる日に・・・・照井良平」
音響評論家、オーディオ研究家として、つとにその名を知られる(有)江川工房の代表・江川三郎さんが、この2012年、7月10日、満80才を迎えたことから、同日、東京中野駅前の四川中華料理店を借り切っての“祝賀会”が開催された。参集したのは、江川さんを慕うオーディオファンや関係者等全国から50名。 オーディオアクセサリー誌を中心に、独自の実験の工程や結果をありのままに発表しながら、良い音楽を、良い音で聴く。その、あたりまえのテーマに、人生の大半を、オーディオ聴診器のごとく、音の再生に全身全霊を傾け続けて来た人。 それは、音楽家からステレオ機器の専門家、そしてリスナーに至るまで、音楽に携わる全ての人々に注ぐ深い愛情が、彼の根底にあったからに他ならない。事実、僕も江川氏と知り合って30有余年も経ちましたが、ジャズ喫茶の命ともいえる、ステレオ(オーディオ)の鳴らし方に関する、ありとあらゆる事柄に於いてお世話になってきました。そのお陰で、今日まで江川流に「自分自身の感覚を信じて、全ての物事を判断する自分」を培ってきたのです。 彼は「物理的なデータよりも、我々には五感という優秀な測定機能がある」と語り、それを頼りに、オーディオの不必要な回路や部品の外しと補強、電源やケーブル、セッティングや反射,吸音,防震、機器の材質、等等あらゆることについて、徹底した実験につぐ実験を繰り返し、「オーディオ・実験室」の異名を取り、僕の店でも、その実験室を何度か開いてくれた。 僕は、時折用事で上京した時など、突然ご自宅の実験室へ顔を出しても、ニコニコと迎え入れてくれ、自分のベッドを空けて泊めてくれたことさえあった。料理バサミならぬオーディオ工具のニッパを使って切る、ニッパシの料理や、目の前で石臼をモーターで廻す、自作製粉機。それを自分で考案した十割そばの作り方セットを使って打った「もりそば」の忘れ難い味は、彼が、愛してきたナチュラルな音と一緒。 誕生日パーティで、彼は「ぼくのために、集まってくれてありがとう。夢みたいです。私が居なくなっても、交流して下さい」と言って皆を笑わせた。
東北南東の涯「磐城」に東北北西の涯「津軽」の魂を呼び寄せることから始めた、縄文魂(ジョウモンソウル)「風の祭り」は、30年間、60回開催され、2012年7月1日、その幕を下ろした。 「風の祭り」は、表現者(出演者)・観客・縄文魂の会(スタッフ)による三者の交感実験磁場。その時、その場でなければ形に成らない、新しい芸術文化の生まれ落ちる様を観ることが出来た無二の前衛総合芸術劇場。 会主は、かつて高校の国語教師だった新妻好正(65)。同じ福島とはいえ冨岡町に生まれた彼は、田舎出身の反動から、東京弁にあこがれ、日大文理学科へ入学し、シティボーイを目差したというが、70年安保闘争中の、バリケードの中で、青森県黒石出身の後輩が、「田舎で出た本です」と、高木恭造の「まるめろ」という詩集を朗読してくれた。不思議な津軽弁のそれらの意味は解からなかったが、新妻さんには、まるで音楽のように聴こえたのだった。 以来、北を訪ねて直感したのは「文化は北から下りて来たのだ」ということ。青森県にて、様々な表現者たちに出会い、気が付けば、自宅の書斎は、北の資料館分室的様相。遂には長文の手紙を、津軽出身のシンガー・ソングライター・三上寛に書いた。その気付先は、陸前高田のジャズ喫茶ジョニー。 その1980年4月20日、三上寛・渋谷毅デュオの日に読んだ三上さんは、「明日いわきへ連れてってくれないか」で始まった、津軽の宵。その第一回83年の副題は、「濡れて路上いつまでもしぶき」。そうだった!あのしぶきはあれから30年も道を濡らし続けて来たのだと今にしておもう。 「月よりもっと遠い場所、それは劇場だ」とかつて寺山修司が率いた「天井桟敷」の劇団員が叫んだと三上さん。そうだ、彼もまた、確かその天井桟敷にも関わった人!と、僕思い出す。 東北いわき鬼市場「風の祭り」最終回は、いわき芸術文化交流館アリオスの小劇場。出演したのは、地元の高校生や舘じゃんがら念佛保存会。そして三上寛、キムドウス、福島泰樹、佐藤道弘・道芳、海寶幸子、國仲勝男、太田恵資、永畑雅人、石塚俊明、福士正一、鈴木秀次、粥塚伯正、と様々なジャンルの巨人たち。その中に、盛岡から新人・金本麻里。この娘の凄さには誰も彼もが、驚きを禁じえなかった。僕さえも感動で涙がにじんだ。
テレビ創成期の人気番組で、小説・漫画・映画・レコード化など、現代メディアの先駆けとなった「月光仮面」。その原作者で脚本家、作詞家としても超大物だった、故・川内康範(こうはん)氏(2007年、歌手・森進一との「おふくろさん」騒動が記憶に新しい)は、その翌年、87才で亡くなったが、入院先のベットから「いわきで飲みたい、晋一郎君の墓参りをしたい」と一通のハガキを出した。宛先は、福島県いわき市に開店したばかりの「ラウンジ抱擁」。同市は、川内氏が疎開して4年間住んだまち。その時の昭和23年、氏は第一回福島県文学賞を受賞し、彼のスタートとなった原点の地でもある。 「ラウンジ抱擁」は、生前氏と親子の様に親交を深めた、岩手出身の歌手、故・箱崎晋一郎さんの未亡人、箱崎幸子さん(52)がふるさとに開いた店。そのいわき市にある箱崎家の墓の横には、「箱崎演歌の詩雲流れるが如し」と川内康範氏が自ら揮毫し贈呈した詩碑も建っている。 箱崎信一郎、1945年2月17日生まれ。1969年発売のデビュー曲「熱海の夜」が大ヒット。10年後の「抱擁」で再びのヒットに恵まれ、最後の曲となった「東京運河」が3度目の兆しを見せる中、末期肝臓癌に倒れ亡くなったのは、88年(昭和63年)の夏だった。享年43才。 それまで専業主婦で、3人の子供が居た妻幸子さんは、夫最後の曲となった「東京運河」を自ら歌い継いでヒットさせたいと、ボイストレーニングに通い続け、7年後の95年にその「東京運河」で歌手デビューした執念の人。新宿のクラブで歌い、赤坂には「エンブレイス」(抱擁)を開店。更に、10年後には、故郷に戻り店を開き、更に3年後の2008年、晋一郎さんの誕生日に合わせ、その「ラウンジ抱擁」を、いわき駅近くに移店した。店内には「無償の愛惜、無上道!!」平成19年(2008)11月5日川内康範。と、したためられた色紙。 店に立つ歌手・箱崎幸子さんは、今も美しい。青春時代には、福島民報社が主催した、ミスいわきコンテストで、何と、10万票近い読者票を獲得し優勝した美人。その彼女がマイクを握り、唄い出した。「好きよ好きよ好きよ・・・・」と身に沁みる歌詞と声、その素敵な大人のうたは「最後の抱擁」。じわじわ人気の曲らしい。おもわず1枚買いました。
「愛すべき若者である」と、僕は彼と出会った時にそう想った!。明るく、茶目っ気があり、自由で一生懸命。そして礼儀正しかった。 「マスター!面白いピアノを弾く子を見つけたよ!」そう言って、陸前高田のジョニーへ、その佐々木浩平君という少年ピアニストを連れて来たのは、遠野で看板業を営みながら、ドラマーとしても活動してた、故・菊池コージさんだった。1998~9年頃の事。 僕が盛岡に店を移してからは、突然現れてピアノを弾き、バンドで何度か出演し、唄伴の為に呼んだりもした。彼の手に掛かると、曲はロックもポップスも、ジャズでさえも、彼流に衣替えして、別物の様な姿で現れるのだった。 2009年6月、札幌パークホテルで行われた、穐吉敏子・ルー・タバキン・ヴィンテージ・デュオが終った夜に、交差点で、偶然に彼と出合い二人で酒を飲んだ。そして今年2012年6月11日、穐吉敏子ソロツアー中の札幌で、彼に電話をしたら案内されたのは、「ビート・ガレージ」というライブハウス。そこはかつて全国チェーンで知られた「KENTOS」という店のあと。そこを、閉店時まで出演していたバンドで店を引き継ぎ、その後に、自分で経営するはめになったのだと、彼は笑った。出演していたのは、その「リトル・ベアーズ」。 懐かしの60年代ポップスやロックンロールのビートに乗って、おじさん、おばさん達がノリに乗って踊り出す昔的な店だが、演奏も唄う女性も全員若者。浩平君は汗だくになりながら、ビールやポップコーンを運び、時折交替しては、キーボードを弾く。ヤンヤの喝采!。今も一夜4店舗、9ステージを掛け持ち、次店への移動中に頭を切り替え、ポップス、ロック、ソウル、ジャズと、次のリズムで歩いて行き、演奏するのだという凄さ! 彼は1980(昭和55)年、八戸生まれ。6才からピアノを習い、12才で「エリーゼのために」をジャズ風に弾き、教室を破門された。13才で作曲家・さがあきひこ氏に拾われ、14才で「サンキュー・ベリーマッチ」という吹奏楽曲(43パート譜)を作曲し、全国中学アイスホッケーの入場行進に採用された。19才の時には、ミュージカル「かえるのらくえん」を作曲するなど、若い時から才能を発揮し、今日に至っている。 |
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