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「絵美夏と言います。歌わせて下さい。カラオケも持って来ました」と言って、彼女が僕の店開運橋のジョニーに現れたのは、2003年の事。まだ、あどけなさを少し残していた21才の時でした。 歌いだして間もなく、僕と女房は思わず顔を見合わせた。生演奏ではない、電子楽器の音源だったから、盛り上がりに欠ける平坦なサウンドにも関わらず、彼女の盛り上がる歌には、ビックリするほど素晴らしいものがあった。 以来、来店の度に歌わせ、後に、北島貞紀トリオで歌い、定期的にジョニーにも出演。間もなくヴァイオリンも持ち出して来たが、ジャズの感覚を見につけるまでには、大変な時間を要した。それでも、持ち前の負けん気で頑張り「岩手を世界に発信するメッセンジャーになる!」と「ヴァイオリン・シンガー」を自称。 県内外のイベントは勿論、東京でも歌い、教え。これまで、ロサンゼルス、ラスベガス、マイアミ、コロンビア、タイ、上海、韓国、等のステージにも立って来た絵美夏。1982(昭和57年)8月9日生まれ。3才からヴァイオリン、声楽は小学5年生の時に、現・藤原歌劇団に所属する、盛岡出身・東京音大卒のソプラノ歌手・野田ヒロ子氏に師事したことに始まり、ポップスは、盛岡二高2年の時、元シャープホークスのアンディ・小山氏に師事。 歌手になりたいと思ったのは、マライアキャリーのステージを見て、こういう歌を唄いたいと思ったから。以来、マライアや今年2012年2月に他界したあのボディガードを歌ったホイットニーヒューストン(48)の曲を得意として来た。2010年秋には、「START」というCDで全国デビューも果たした。 東日本大震災で被災した、高田松原の松で中澤宗幸氏が製作した2本のヴァイオリン(1本は世界を、1本は日本を廻っている)を「命をつなぐ木魂の会」通じて、この7月20日「千の音色でつなぐ絆・震災ヴァイオリンで奏でる故郷の響」と題し、陸前高田市立第一中学校で、斉藤弦、城代さやか氏らとそのヴァイオリンでは県人初となる演奏をして来るのだと言う。頑張ってね。
あれは2004年の3月、藤嶋功作というカッコイイ名前の男が、僕の店にやって来て「雑誌で見て記憶してたんだけど、確かこの店に“タイムドメイン”のスピーカーあるって、それを聴かせて下さい」と言った。 ところがその時、スピーカーは貸し出し中。仕方なく僕が口で説明したところ、「最高に気に入った!そのメーカーの“YOSHII 9”を取り寄せてもらいたい」そして「一生涯の兄弟友達になってほしい」と言うのだった。僕も即、喜んでOKした。 話を聞けば、それまで横浜の広告代理店に勤めて、クリエイティブ・ディレクターの仕事してたが、弱った母の面倒を見る為に、会社を辞め2月に盛岡の実家に戻って来たのだと言う。ところが,戻って3日後に母が亡くなって、途方に暮れてしまったと。 彼は1956年(昭和31)盛岡に生まれ、山岸小、下小路中、市立高から千代田デザイン専門学校に学び、30年近く東京、神奈川暮らし。1987年、木村克美、田崎真也という名だたるソムリエのセミナーに一年間通い、ワインに開眼。間もなくヨーロッパに渡り、ミラノ、ローザンヌ、リオン、シャニー、ボナス、パリ、ブリュッセル、バルセロナ等の有名レストランを巡り、ワインと食の濃密な関係を体感し帰国、以来ワインに没頭し続けた。 そんなこともあって彼は、盛岡で店をやろうと、その4月「ワインの王様」というバーを開業。そこで僕は、珍しい形状のタイムドメイン・スピーカーを、カウンター上にセッティング。ジャズが何処から流れて来るのかと、客は不思議がった。ワイン通としても知られるジャズピアニスト・穐吉敏子さんの盛岡公演時、提供するワインを必ず彼に選ばせ、彼女の反応や喜ぶ顔を見るのも、僕の楽しみの一つ。 その藤嶋さんが今度は、何とラーメン屋を開業した。自分が食べたいラーメンを作る為の店だと言う。なので、いつもスープの研究に余念が無い。薄味のラーメン上に乗っかる、親指程もある極太メンマのダイナミックな旨さ!穂先メンマの繊細で上品な味わい深さ!共に感動的である。ミスマッチと思われそうなラーメン屋でのワインも乙なもの。 盛岡桜山神社前の鶴ヶ池渕「藤嶋家・玉(ぎょく)」王の次に玉とくれば、将棋の一つもさしてみたくなる気分。美味しさ至玉!
1980年代の夏、まるで渡り鳥のように、秋田県田沢湖町から、岩手県陸前高田市 にあった僕の店を目差して、200km余りの道程を、当時、ドカバイと呼ばれた黒の50cc原動機付自転車に乗って、毎年毎年、必ず飛んで来たジャズファン荒川憲二郎さん(55)。 彼がジャズを好きになるきっかけとなったのは、僕と同じで、岩手県宮古市出身の世界的ジャズピアニストになった、故・本田竹彦(広)のレコードを聴いてからだった。 その荒川さんは、僕の店「ジョニー」に通い出して10年目の年、意を決し、自分の住む田沢湖町に、ジャズファンクラブを立ち上げたのでした。その名はドラゴンジャズサークル(田沢湖邪頭倶楽部)というもので、確か20数名での発足。当時は、全国にそうしたファンクラブが数多くあったが、今ではその殆んどが姿を消してしまったが、ドッコイ!田沢湖ジャズクラブは健在で、結成20周年を越えた。これまで年2回ペースで52回もの生ジャズ演奏会を開催して来た。恥ずかしながら1度だけ僕のバンド「アテルヰじゃんず楽団」を町民会館のリハーサル室に呼んでくれたことがあった。素人のバンドはこの時だけで、あとの51回は全てNYと東京からの一流どころ。 結成時からジャズサークルの顧問にさせられている僕は、名前だけでは申し訳ないと、平成8年(1996年)から、我ら日本が誇る!世界のジャズピアニスト・穐吉敏子さんを紹介し、これまで9回田沢湖で開催した。その9回目となった今回の穐吉敏子ソロ(2012年6月15日)は、その田沢湖ジャズクラブ始まって以来の大入り!会員全員が大喜びし、満面の笑みをたたえてた。 今この世は、インターネット情報の時代だから、あちこちから問合せが来る。でも、それはあくまでもプラスアルファー、荒川会長をはじめとする、全会員の手売りによるチケット販売のたまものなのである。今年はドラゴン(竜)年、彼等にとっても最高の年となった。 その穐吉ジャズを聴きながら、湖畔の絵(120号)描いたのは、あの屋根の無いアトリエ作家・菊池如水さん(90)。それを終演後披露し万来の拍手。 そういえば16年前、荒川さんを主人公にした僕の初小説「瑠璃色の夜明け」というのがあったなぁ。
ジャズ喫茶通いを始めた高校一年の頃から、穐吉敏子さんの演奏を耳にし、2003年に行われた、最後の「穐吉敏子・ジャズオーケストラ」東京公演にも、北海道から足を運んだと言う、帯広のアキヨシ・ファン・井上洋一氏。
彼が、僕の店「開運橋のジョニー」に現れたのは昨2011年の秋。12年の6月で最後となる穐吉敏子さんの一人旅・日本ツアーの後半、札幌の「くう」というジャズスポットでの演奏を終えたところから、僕が後一週間のスケジュールを頂いて、公演先を決める準備をしている時だった。 ワインショップを経営しているという井上氏に、ワイン通としても、その世界に知られる、穐吉敏子ピアノコンサートの企画を打診してみたら、彼は「これを逃したら後悔する」と瞬時に思ったらしく即決!。そして「私としては、ただ、頭数を集めればいいコンサートには、したくない。本当に穐吉さんの演奏を聴きに行きたい、という意識を持つ人に、集まって貰える様な“手づくりコンサート”にします」と言って帰ったのでした。 それから、今年に入ってすでに二度、先日には、「地元では、殆んどの人がこの新聞を読んでいるのです」と言って、十勝毎日に大きく紹介された記事の切り抜きまで持参してくれた。聞けば、日本酒にも力を入れようと、酒蔵を訪ね、実際に自分の目と鼻と舌で確かめ、良しとする酒探しの行脚。 だから、世界に冠たる「穐吉のジャズ」でさえ、ファンとしてレコードやCDを聴いて来て、コンサートも聴きに歩き、彼が心から納得した上で、自信を持ってお客様にすすめる。そんな井上洋一氏の行動から、僕は、酒や音楽、商品の一つを取ってみても「提供する側の芸術的見地に立つ姿勢」の必要性を観せて貰った。歳は?大学は?と尋ねたら、1959年(昭和34)帯広生まれ。函館ラサール学園から日大芸術学部・映画科・脚本コースへと進んだ人でした。納得!納得! 井の中のカワズではなく、井の上でカワス酒、それは水の如き“生ジャズ”。だから66年間も熟成させた「穐吉ジャズ」は世界広しと言えど滅多に味わえぬ、紛れも無い“極上のヴィンテージ・ワイン”の印象そのものなのである。
「陶道に入って32年になる」という手紙をともに、一編の詩「陶板との出会い」そしてその当時の“ろくろ”を回す手の写真が添えられた手紙が、大槌町御社地天神前の“ギャラリー花舘”から届いたのは、2006年4月29日のことだった。 その“花舘”の主人・小川延海(のぶみ)さんは、かつて全国的ブームを巻き起こした、あの独立国「吉里吉里」の仕掛け人で、工芸大臣だった。「イッタカキタカ号」などという一つの胴の両方に頭がついた狛犬や、河童や魚の置物などユニークな作品を創った。僕が盛岡に来てから訪ねて行ったとき、僕にくれた「石のような焼物オブジェ」は、今も僕の店のカウンター上にある。 彼は1970~80年代に「花屋敷」という朝9時から夜9時までのジャズ喫茶を大槌町で開いていた。山水のアンプ、マイクロのプレイヤー。ブラウンのスピーカーで鳴らすジャズは、シャレタ店内に、まるで絵の様な美しさで流れていた。 出会ってから、2011年3月11日の大津波の時に67才で居なくなるまで、名の如く延々と、手紙や詩編や個展の案内状が届いていた。陶を創作し、絵を描き、詩を作り、喫茶店ギャラリーを経営し、写真も撮った。彼の仕事で僕が一番好きだったのは、写真や、写真と絵のコラージュ。とりわけ若き日のジャズピアニスト・故・本田竹広や、今は無き同町の小さな老舗ジャズ喫茶「ケルン」のオヤジさんを撮った写真などが素晴らしく、昔一度、僕の店でも写真展をやってもらったことがある。 その小川延海さんが、2010年の秋頃から頻繁に交流を重ねた、名古屋市在住の、詩集編集者・水内喜久雄さん(60)に送った最後の詩「未来少女」が、今年(2012)2月28日の岩手日報に載っていた。「あの日に去った少女は青き海のかなた、深き海に見えるあの記憶は貝に・・・」。「ポエムフェスティバルin名古屋」に展示されたその詩を、盛岡で歯科医を営む延海さんの兄・邦明さん(71)のもとへ、水内さんがわざわざ届けに来て、帰りには僕の店(開運橋のジョニー)に立ち寄り、そのコピーを見せてくれた。そのことに感動し、僕も、今手元に残る、この10余年間に延海さんから届いた手紙類を数えたら、50通を越えていました。 |
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