盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.88 「黒沼忠雄の風土建築」2012.9.11.盛岡タイムス

 9月8日の夜、ひょっこりと、久慈市から黒沼忠雄さん(72)が、開運橋のジョニーにやって来た。顔を見て真っ先に浮かんだのは「琥珀」。そう、地質百選の琥珀の邦・久慈にて掘った証明書付琥珀を「01・A・08」の形に加工、それを、大野の木工と初ドッキングさせ、漆を塗って仕上げた、楕円形の美しい、オリジナル・トレイ。それは、彼、黒沼さんが考案して、発注したもので、開運橋のジョニーの開店日、2001年4月8日に、お祝いとして、彼から頂いたその記念品には、琥珀の神秘と男のロマンが込められていた。
 彼は、30年前に久慈市に山根六郷研究会を発足させた初代会長。その中山間6集落の山村文化に着目し、継承しながら、その山里に水車小屋を創り、山根六郷写真美術館・ラボ端神を造り、街からかつての造り酒屋の蔵を移築して陶芸工房「遠島焼」や「ピリカ焼」を開かせた。それ以前には、山根を山桜の里にしよう!と十数年かけ、地域との二人三脚で一千本の桜を植樹し、開花させた人でもある。
 又、一方では「くんのこほっぱ(琥珀堀場)」愛好会の会長も務めて、この会の創立15周年の2001年には、先人の努力を紹介しながら、郷土を学ぶ「くんのこほっぱ昔語り」という琥珀の里の歩みを刻んだ記録集を出版。琥珀の案内板も設置するなど等、八面六臂の行動力。「岩手県まちづくり」アドバイザーでもある。
 昨2011・3・11の震災後には、ロータリークラブが取り組んだ「心の杜づくり」の担当委員長も務め、海から2キロ先にある里山の市有林に、その「心の杜」公園を開いたという。「震災で負った物凄い心の傷をどうやっていやし、もとに戻すかが、その最も大切な復興なのでは」と。海と少し距離をおいた森に、散策路や、海望デッキを造ったという。これからも、毎月11日2時46分、祈る人々の心に、こだま(木霊)する鎮魂歌は、きっと海までも届くはず。
 大坂の建設専門学校を卒業し、京都、奈良で建築の基礎を学び、施工会社で修業。32才で「黒沼建築設計事務所」を立ち上げ独立。宮古から八戸まで、主に地元産材を使った木造建築を中心に据え、地域景観に彩りを添える土着文化、それを「風土」に学び、実践し、40年間共生してきた建築士。僕も彼に学んだこと多々。


幸遊記NO.87 「伊勢崎勝人の花々の肖像画」2012.9.3.盛岡タイムス

 14年振りの再会だった。この幸遊記(№70)で紹介した画家・鷺悦太郎さんと連れたって開運橋のジョニーに現れた、仙台在住の画家・伊勢崎勝人さん(64)。なんでも、盛岡市中央公民館で開かれる「つながるアートコミュニケーション」での公開制作の講師役を、二人が頼まれたとの事だった(8月5日~19日)。
 鷺さんは、陸前高田に生まれ育ち今も在住する専業画家。伊勢崎さんは、八丈島に生まれ、40代の時、6年間陸前高田に移り住み、絵を描いていた画家で、昼は3人の子供達と一緒に自然とたわむれながらスケッチ。夜には、昔、高田文化服装学院だった廃校を利用したアトリエで絵を描き、深夜や未明になると、僕の店「ジャズ喫茶・ジョニー」にやって来て、ウイスキーを飲んでいたことが想い浮かぶ。
 陸前高田に来た1992年、自己紹介的な個展を市民会館で開き、その後には、同市のキャピタルホテル1000、盛岡の川徳デパート、でと、次々思い出していたら「今度盛岡でやるよ」で、盛久ギャラリー(2012/8/28~9/2開催)を観に行って来た。
 「見続けられて耐えてゆく凄さ。そこに自分の根本的な考え方を置く」そう言っていた陸前高田時代に、彼のアトリエで見た彼の描き方は、独特の背景処理後に描かれ、ヨーロッパ的重厚な気品が漂っていた。今はそれを逆転し、花を先に、あとで背景処理するという描き方だという。そのせいか、僕には、花が、より明るく生き生きと見えた。それは、まるで花の肖像画。
 「ひまわり」「バラ」「ボタン」「トルコキキョウ」など50点。今年は生まれた所の八丈島に30年振りに行って描いたという風景画も数点あった。親は小笠原の出身、疎開で八丈島へ渡り、そこで生まれた彼。子供の頃に東京世田谷へ移住。カメラで花を撮るのが好きだったが、予備校の御茶の水美術学院時代に油絵を薦められ、3浪して東京芸大に入学。4年間学祭で個展を開き続け、教授たちを驚かせた。そして、30数年を過ぎた2011年、震災ガレキの上に置かれた、種の異なる5つのカボチャで原点かえり「それでも大地は甦る」の作品で、第8回「北の大地ビエンナーレ大賞」を受賞した。勿論これ以外の受賞歴多々!


幸遊記NO.86 「福田憲二の極致的象嵌陶」2012.8.27.盛岡タイムス

 49才でこの世を去った20世紀陶芸界の鬼才・加守田章二(1933~83)展が、岩手県立美術館で開催されたのは、2006年の夏。彼は、1967年、最終回となった第10回高村光太郎賞を受賞した時、新たな製作の場を求めて、益子から遠野を訪れ、2年後には陶房を開き、彼の代表作を次々と発表して、遠野時代(1969~79)と呼ばれる黄金期を築いた人。
 「彼は、亡くなる直前まで、入院先の病室にまで、土を持ち込み作陶していた」そう言っていたのは、加守田氏の遠野時代の弟子だった、象嵌陶芸作家の福田憲二さん(1950~2008)。彼の病も師と同じ血液疾患。偶然にも病院は違えど、同じ先生に治療して貰った。
 加守田章二展が開催された2006年は、宮城県立美術館で、福田憲二展が開かれた年でもあり、岩手県立美術館に師・加守田章二展を観に来た福田さんは「やっぱり偉大だな」と一緒だった妻・まさ江さん(63)に、もらしたという。その話を聞いた時、僕はすぐ様、加守田氏のかつての言葉「福田は弟子なんかではない、ライバルだ!」を想い起こした。
 福田憲二(史)(1950~2008)気仙沼市生まれ。気仙沼高校から和光大芸術学専攻科に進み、油絵を学んだが、在学中に大学に窯を造って、陶芸に転向。その後、益子にて陶研究。1976年、地元気仙沼に戻り、祖父が残した土地に陶房をかまえ、1977年から加守田氏に師事した。
 初個展は1996年。気仙沼・リアスアーク美術館が主催した「福田憲二・象嵌陶の世界」。直径60cmもある大皿や陶盆、扁壺など、これ焼き物なの?という位、土肌色にこだわった繊細緻密な美しい象嵌陶。その根気を裏付ける高い技術力と幾何学的模様のデザイン。
 彼がノートに書き、いつも読んでた師の言葉「緊張感を崩してはいけない。器用や旨さに溺れてはいけない。狂ってしまう程の作品を創ってみろ」を常に心に置き、いつでも、どこでも、おもしろい話で人を笑わせるのが得意だった、彼の笑顔が浮かぶ。あの加守田氏も、かつての師・富本憲吉氏から「形から形を造らず、紋様から紋様を描かぬ創作こそ陶芸の真の在り方」と教わっていた。
そういえば1996年初個展の時、気仙沼市内のホテルで催された、彼を祝うパーティーで僕は、彼の「あんば窯」という冷や汗ものの歌を作って、披露したことも想い出してしまった。あ~あ!


幸遊記NO.85 「林尚武のSTAX」 2012.8.20.盛岡タイムス

家に居て深夜や未明に、ある程度の音量で音楽を聴きたい時、僕はSTAX社のコンデンサー型ヘッドフォンSR-5「イヤースピーカー」を耳に掛ける。何という素晴らしい音なのだろうと、聴く度に、30年以上も、そう思い続けてきた。
 初めて聴いたのは20代の前半の1970年。その忘れられない美しい音色の、本物のスピーカーに出会ったのは10年後の1980年、東京の友人宅。翌日僕は、その彼を拝み倒して、STAAX社に連れてってもらった。所は雑司ヶ谷、1907年建造の古い洋館の本社屋にて。その試聴室にあった畳一枚分もある大きな、つい立型のコンデンサースピーカー、ESL-6Aを安く譲って貰ったのだった。
 コンデンサースピーカーとは、人間の鼓膜の百分の一の薄さという特殊なフィルムを振動板とし、その両側面の電極板に数千ボルトの電圧をかけて信号を送り、そのフィルムを引っ張り合いっこすることで音が出るという不思議なスピーカー。近づいてもうるさくない音圧を全く感じさせない自然な音なので長時間聴いても疲れない。
 開発したのは故・林尚武氏(スタックス工業社長)。戦前の帝国蓄音機(テイチク)の録音技師だった彼が、1938年昭和光音工業を創立。録音用コンデンサーマイクをヒントに1959年、スタックスブランドのコンデンサーヘッドフォンを試作し、発明展に出品したのが始まり。翌60年に発売したSR-1以来、コンデンサー型ヘッドフォンは、STAXの独壇場。再生には専用アンプが必要のため高価だが、理想主義をつらぬいた驚異的な音楽再生機器。
 林尚武ご夫妻には、生前何度かお会い出来た事も僕の幸せ。とても素敵な方達でしたが1995年会社を閉め、翌96年ラックス社に居た方が社長になり、ヘッドフォン事業だけの(有)スタックスとして引き続き運営されていたが、2011年12月、中国の音響機器メーカーに買収された模様。
 林尚武さんの一人息子健さん(65)は今、その聴こえる技術を更に高めるために必要なケーブルや、その接点コンタクトを高める液・セッテン79(金の原子番号)等を開発している、オーディオアクセサリー関連の(株)ナノテック・システムズで、クリエイティブ・デザイン室長を務めている。


幸遊記NO.84 「葛西良治のロマンスティックなドラム」2012.8.13.盛岡タイムス

 60歳の還暦同級会の時まで、中学校の同級生たちの中に、音楽に関係しているのが居ないと、少し淋しく思っていたら、一人おりました。葛西良治さん(65)。
 きけば、平泉中学校を卒業し、埼玉県川口市の中矢塗装機という会社に就職。夜は、東京声専(現・昭和音大)に通い、器楽科でジャズドラムを、故・ティーブ釜萢、八木宏、両氏に教わりながら、プロを目差したのだったと。
 昼夜二又のセミプロ生活をしていた1967年12月、師から頂いたチケットで来日したドラマー“バディリッチ(1917~87)”のビックバンドを聴きに行き、圧倒され唖然とした。「実は腰が抜ける程、驚いたのだった」と。それがきっかけで、プロドラマーになる決意。キャバレー、サパークラブなどに出演。歌手伴奏なども務め、札幌オリンピックの時には、現地のホテルに出張演奏もした。その十年余りのバンドマン生活をやめて平泉に戻ったのは、母がケガをした為だった。
 以来、ドラムを叩くことから石を叩く石材業に転身。雪子夫人と結婚をしてからも、ドラムは押入れに仕舞い込み、封印し続けること30年。東京時代に昼飯抜きでも、聴きに通ったジャズ喫茶。今は隣町一関の「モリソン」に通う日々。その店で「マスターとの話から2007年、東京の連中と一緒に、ドラムを叩くはめになった。60才だったし!」と笑う。
 そして間もなく、平泉・吉野屋菓子店の、フロアに置いてあったピアノを使い、吉野さおりさんのフルートと、ピアノ、チェロ、ホルン、ドラムという、まるでクラシックのような編成でジャズのスタンダードを演奏するバンドを結成し活動を始めた。それから5年、開運橋のジョニーでも時折、味のあるドラムを叩いてくれる。
 彼が音楽を好きになったのは5才の時。父が持っていたSP盤レコードの「一杯のコーヒーから」がきっかけだった。藤浦洸作詞、服部良一作曲のその唄は、昭和12年、霧島昇とミスコロンビアが唄った、当時としては珍しいくらい軽やかなリズム、踊りたくなる様なメロディーのハイカラソング「一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある・・・一杯のコーヒーから小鳥さえずる春も来る」現在(いま)に通じるモダンな歌!お陰様で77年前の“一杯のコーヒー”から、話がはずんだ。良治さんの父よ!あなたは・・・ロマンの男だったのですね。


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