|
![]()
白いヒゲ、赤と白の帽子と服に身を包み、ジングルベルを鳴らしながら、空を駆けるトナカイのソリに乗った、あのサンタクロースのおじさんがやって来る、クリスマスの夜。語られる物語は、1843年から続く「クリスマス・キャロル」(ディケンズ作)からなのだろうか?
僕の店「開運橋のジョニー」は2001年4月8日の「釈尊降誕日」の開店だったが、今年(2012年12月25日)「キリストの降誕日」を最後に閉店と、決心した!その日、突然と開運の扉開き、まるであの穐吉敏子さんが演奏するジャズ・バージョン「サンタが街にやって来た」かの様に、見知らぬ素敵な方が、僕の前に現れて、「ジョニーさんは、ジャズと盛岡の文化に随分貢献して来た様ですから、灯を消さないで、、、、、、、」と、店の移転費用をプレゼントしてくれたのです。まさか、まさかのサンタ・マリア様! これまた実は、実話なのですが、数年前から本物のサンタさんがクリスマスの頃になるとジョニーにやって来るのです。しかも通訳者(八木ゆかりさん)付き、サンタは音楽大好き。ある年、三味線や太鼓、トランペットやギターと一緒に僕も一曲唄ったら、何と、サンタクロースの本に紹介されて、世界を駆け巡ったのです。サンタールチーア!。今年も一週間前の18日、フィンランドエアラインに乗ってサンタさんはジョニーにやって来た。今年のプレゼントは、サンタクロース・パッカネンさんの友人・スカンジナビアンロックギタリスト、ハッセウリさんから預かってきたと彼のオムニバスベストDVD。 パッカネンさん(TimoAlarikPakkanen)は、1961年から50年以上も、18万個もの湖がある美しい国、あの北欧フィンランドが公認している首都ヘルシンキで唯一人、本物の「サンタクロース」なのである。サンタは世界20ヶ国を飛び回る忙しさだが、「日本ほど、赤ちゃんからお婆ちゃんまでサンタさんが大好きな国はない」のだとも。 「ムーミン」はフィンランドを代表するが、パッカネンサンタさんは「日本で有名な“あわてんぼうのサンタクロース”というクリスマスファンタジーのフィンランド版を作る計画を立てている」と言う。メリークリスマス!
二姫一太郎だった末っ子の長男、一行くんが受験した医師国家試験合格発表の2011年3月18日。我が息子の合格を見届けに戻って来たというかのように、3・11に行方不明となった一行くんの父で歯科医だった村上徳行さん(当時63)の遺体が見つかった。
震災前日の3月10日、岩手医大卒業式の日に親子三人、卒業証書を持って撮った記念写真が遺影となった徳行さんは、自分の言いたいことの10分の1すら口にすることなく、無言実行。独り言を喋る様に人の心をいたわった。村上歯科医院を開業する時に大東町(現・一関市)出身だった彼は、妻・律子さん(釜石市出身)、二人の故郷の間にあって、親戚のいる陸前高田市を選んだのも、妻に対する彼一流の心使いからの理由の様だった。 根っからジャズが好き、オーディオにも相当凝った。陸前高田の高台、鳴石団地に自宅を建てた時には、半地下にオーディオルームも造るからと、僕に相談してくれて、オーディオ評論家であり、その実験と研究で知られる江川三郎氏からのアドヴァイスなども受けて、総栗材による音楽鑑賞室を創った。そしてそのお披露目会には、何と当時、日本ジャズピアノの重鎮だった故・八城一夫のピアノトリオを呼びたいと言うので、僕が仲立ちをして実現。オーディオルームでの生演奏。そう、それはまるで小さなジャズ喫茶そのものでした。 僕が陸前高田でジョニーをやっていた時も、盛岡へ移ってからも、店に時折やって来ては、飲食代は常に釣り銭を受け取らないばかりか、釣り銭の方が多いのだったし、歯科の治療費さえも必ず無料にしてくれたものでした。陸前高田における、ジャズ活動で窮々としながら走っていた僕を見かねての事だったと思う。ある時「マスター、何かドーンとやっぺぁ」と僕に赤字になってもいい大コンサート企画をさせてくれた。それは、1984年4月2日の「陸前高田ジャズ音頭まつり」宮間利之&ニューハード・オーケストラと弘田三枝子、北原ミレイ、そして杉野喜知郎トリオと園田まゆみ。主催者はジョニー・アンド・ヒズ・ジャズフレンズ。17名の実行委員による、ジャズと歌謡曲の融合を夢見たまさに「バラの革命」であった。あれから30年。今や由紀さおりも森山良子も松田聖子も八代亜紀さえもジャズとの融合である。
陸中海岸の自然に恵まれた山と海の街にあこがれ、出身地・宮城県古川市(現・大崎市)の古川工業高校土木科を卒業して釜石の建設会社に就職したのは、1958年(昭和33)のことだったと話す長柴政義さん(72才)。ところが会社は一年半でつぶれてしまい、仕方なく土方の飯場に寝泊りする日雇い暮らしをしていた時、先輩のすすめで釜石市役所の入所試験を受け、技術職員として採用された。以来、現場の実践から立案まで41年間技術職一筋に定年まで働いた。
定年後すぐに「今だから語れる私の人生60年史」という自分史を出版。更に2年後の2002年には「企業城下町の苦悩と再生」という、釜石の今昔物語を出版。それは近代製鉄の祖と言われる大島高任(1826~1901)が1857年に釜石の大橋に高炉を築き、鉄鉱石による出鉄に成功した彼の没後百年を記念しての歴史本だった。 長柴さんが市職員となった時の市長は、あの鈴木東民氏。60才の1955年から3期市長をやり、その後市会議員となった語り草の人で、東大卒、朝日新聞を経て読売新聞に入社。日本初となったストライキを先導し勝利した。釜石市長時代には、製鉄所の公害追放運動を展開し、国の環境庁以前に公害課をつくり、市民の健康と漁民の生活を守った。川の上には「橋上市場」水路の上には「のんべい横丁」と、釜石の文化をつくり、道は舗装してなければ道路ではないと、舗装用機械を整備し市直営で失業対策事業と合わせて実践。すべての市道を舗装し、県下一とした人。 以来、彼、長柴さんも「有言実行」自らに誓い「自然と歴史と文化の伝承」を心に掲げ、我が身を粉にし、釜石のための交流の街づくりをし、その全てを歌にした。僕が長柴さんと出会ったのは平成元年。彼が立ち上げた「釜石オリジナル歌謡同好会」のカセットテープの製作を手伝ったり、その歌手を選ぶカラオケ大会の審査員や顧問などを仰せ付かりながら見て来たものは、長柴さんの鉄人ならぬ哲人振り。 3・11では自宅と歌謡スタジオなど被災しながらも、すぐさまそれを「天命」という歌にして、育てた歌手達に唄わせてリリース。年5回14年続けてきたカラオケ大会も復活させ、心の復興をうたい、実践し続けている。
何事にも初体験というものがある。僕がレコード会社?を立ち上げ、地方から中央へ全国へと、地方復権の狼煙を岩手からあげたのは1978年のことだった。待ってました?と、新聞や雑誌が取り上げ話題を蒔いてくれたことが昨日のように想い起こされる。そしてそのレコードが初めて電波に乗った日のことも鮮明だ!。 それは翌年の79年1月28日。岩手放送の「アキュート・かわら版」という番組の中で5分間、僕が制作した中山英二の「アヤのサンバ」が流れた時の感激は、相当のものでした。放送が決まった時、僕は表通りの店の壁に、放送を知らせる、大きなポスターを貼り出して心待ちしていたものでした。 あの時の感激を色んな人に味わって貰いたいものだと、85年から2010年まで25年間続いたFM岩手のジャズ番組「オールザットジャズ」に、DJだった僕は、勝手に実に様々な人々をゲストに招き、出演して頂いた。それはさておき、街頭放送の東洋有線放送から始まったという、現・東洋アドシステム(株)は、今尚も続く、情報誌・月刊「アキュート」を出版する会社。その社の立ち上げた1972年から初代編集長を務めながら、それこそ僕の最初の放送をしてくれた人は、伊藤博康さん(61)だったことが、最近彼に出会って分かり、感激再びで嬉しかった。 彼は1951年、秋田県大館市に生まれ、秋田県立大館工業高校から東京銀座にあった広告企画研究所の一期生として糸井重里等と、コピーライター養成講座を終了!Jターンし、盛岡短大法経科を卒業。アキュートに始まり、盛岡レクリエーション協会初代理事長はじめ、様々な方面において資格や趣味を活かし、多方面で活躍してきた人。現在では「いとをかし企画」のプロデューサーとして、人生を愛し、楽しく毎日過し、一日一日に全身全霊を注ぎながら「人生楽ありゃ苦はいらネ」というパーティーや、結婚式等等の司会進行演出を手がけている日々。 若き日の東京から秋田(帰る時に乗り継ぐ駅の)盛岡に降りた時、開運橋から眺めた岩手山に惹きつけられて、そのまま盛岡人となった彼の半生そのものの様に、人と人を新鮮につなぐ開運の橋渡し役として今日に至っている。
15年の運動が実り、遂に盛岡天文台が出来ることになった!と喜びながら飛んできた親友で医師の、八木淳一郎さん(盛岡天文同好会)の手には何故か、以前から持っていたという赤瀬川原平の写真集「正体不明」。表紙には国会議事堂の塔部写真。実に面白い!。 その直前には俳人の菊地十音さんから「政治の倫理化・後藤新平」という演説レコードを頂いた。大正末期にSPレコードに吹き込まれ、のち水沢市(現・奥州市)が、20センチLP盤に復刻したもので、早速聴いてみたら、翌日には現国会で衆院解散発表ときた。凄いタイミング!と僕はその後藤新平の演説を、今度立候補する政治家と国民に伝えたいと、これを書きだしている。 「政治家が金の力第一義となれば、現在の如く俗悪な政治。これに反し、心の力第一義となれば、政治は正道に進むことになり、これによって国民生活の改造、又は改善となる。これが私の首唱する政治の倫理化」「我が国の現政治に対する不満は果たして誰の責、、、、。人に責むよりも各人まず自ら省るべきものと信じます」。 当時も日本の政党を見て、国民は、あれは国家の公の政治団体ではない利権株式会社、我利我利亡者の寄合世帯であると言ったそうだが、彼は「政党がただ頭数を問題とし政権獲得のみを目的として没頭するが故に、選挙は国民政策、国民生活の大策から離れて、手段を選ばぬ政権争奪をなすのみを目標とするがために、我党内閣などという珍妙な言葉が発明され、その脱線の末、横車を押し廻すような結果に陥る」と語り。「国民一人一人が同じ国家を体現しておるということ、故に国民は有機的に協同して一心同体となる国民精神力」の大切さを訴えている。 後藤新平(1857~1929)水沢生まれ。明治時代愛知病院に勤務。板垣退助の負傷の手当てが縁で内務省衛生局に転じ、ドイツ留学し帰朝後、内務省衛生局長となる。41才で台湾総督府民政局長となり同郷の新渡戸稲造らを採用。49才で満州鉄道総裁。63才で東京市長。65才少年団連盟総裁。66才内務大臣として関東大震災の復興にとりかかり帝都復興院を設置。68才大正14年(社)東京放送局設立(現・NHK)し、さらなる政治の倫理化を展開した。 |
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved. |