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TV神奈川の福島俊彦氏と連れたって、サキソフォンを吹くという鈴木光さんが、開運橋のジョニーに現れたのは、2012年5月2日のことだった。名刺には鈴木清・フォトオフィスとある「えっ!光さんって、あの写真家の娘さんなの!」と、僕の頭は30年前のアサヒカメラ誌に掲載された写真「残照の街」へと戻って行った。 光さんは、その後、2度ジョニーへ来店して、今回は、その30年前のカメラ誌に鈴木清氏の写真や彼についての事を、僕が親しくさせてもらった写真家の故・朝倉俊博氏が書いた記事をコピーして持参してくれたのでした!。僕は僕で、それと同じコピーを用意して、光さんが現れるのを待っていて、同じコピーを交換し合って、泣き笑いした。 そしてもう1つ、その写真家・故・鈴木清氏(光さんの父)が1972年に自費出版した初めての写真集「流れ歌」が、何と「40年の時を経て復刻なりました」と、僕への手土産として持参してくれたのです。嬉しさのあまり、僕は深夜だというのに、朝倉さんの奥様・憲子さんに電話を入れ、3人で代わる代わる、感激的な不思議なめぐり合わせについての長話をした。 鈴木清(1943~2003)は福島県好間村(現いわき市)生まれ、高卒後漫画家を志し上京したが、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」に出合い、写真に転向。東京総合写真専門学校を卒業し、カメラ毎日に、「シリーズ・炭鉱の町」全6回を発表し写真家としてデビュー。「天幕の街」で第33回日本写真協会賞で新人賞。「夢の走りで」写真の会賞。「修羅の圏」で第14回土門拳賞を受賞した。 彼の作品は彼亡き後により輝き、2008年オランダとドイツで大規模な回顧展。2010年には、東京国立近代美術館にて回顧展。今もパリフォトへ陸前高田市出身の畠山直哉らの写真と共に海外出張中と再注目され続けている。 その娘・光さんは1975年9月28日横浜に生まれ、現在も横浜に住むランドスケープデザイナー。岩手へは震災ボランティアで来て、写真を拾う「思い出探し隊」への参加や、復興マップ作り、復興商店街での演奏。横浜と気仙をジャズでつなぐメディア活動などで、被災者に光を与え続けている。
若い時カメラ業界の雑誌社にいた、古里昭夫さんは、古里岩手に戻って、やはり編集者として印刷会社に勤め、フリーとなった今も編集業で、それぞれ15年前後の時を過して来た。編集の達人。 その彼が、「楽しい街の探偵団」にて、盛岡らしさを探していた時、出会った「豆腐買地蔵尊」。縁起は400年ほど昔のこと、病に臥した母が「食べたい」と言った「豆腐」を孝行息子が毎日買って食べさせたら、母は元の様に元気になったことから、その息子がたいそう喜んで、地蔵さんを寺に寄進。そのことから「豆腐買地蔵尊」と呼ばれるようになったと。 「オンカカカビサンマエイソワカ」とお唱えするこの地蔵様の縁日は、1月と7月の22日。1月ならば当然「いいふうふ」7月ならば「おあついふうふ」ふたつあわせて「煮たものふうふう」豆腐に梅干のせれば国旗のような日本食と、頭はまるで寄せ豆腐的連鎖だが、年令と共に「がんこ豆腐」が口に合う僕。 2012年10月2日(とうふの日)、盛岡南大通2丁目にある湯殿山、連正寺(川村政加住職)にて「第10回とうふまつり」が開催され「ジャズと落語とトーフ」のゲストスピーカーに招かれ、シャレばかり喋って来た。その時、ビックリしたのは、6年前、紫波・あらえびす記念館から頼まれて「書展」を開いた時、見に来た古里さんが「とうふ」と書いて欲しいと言うので、彼の前で書いて渡したその書が、なんと連正寺の地蔵尊の横に額装されて飾られていたことでした。 陸前高田時代、本の取材に。四十四田時代にカレーを食べに、盛岡大通にビックストリートジャズを聴きにと、つかず離れず、ふるさとのように、AB型的関係をずっと保ってきた僕達。 彼は1949年(昭和24)8月15日、川井村(現・宮古市)生まれ。盛岡農高の食品化学科に学び、ブラスバンドでアルトホルンを担当した。卒業後上京し、雑誌社へ。「とうふの会」を始めたのは、当時、盛岡ターミナルビルの社長だった萩野洋氏が「盛岡は豆腐消費日本一」ということを見つけ出して来たのが始まり。2006年、南部盛岡とうふの会発行の「とうふー」という本も、もちろん彼の編集。とてもいい本でしたね。
今年2012年の夏、店に兵庫から来たご夫妻。話を聞くと二人は全国のブナの森を訪ね歩き、その生命力に満ちたブナの巨木をご主人は写真に撮り、奥さんはスケッチし、帰ってからそれをもとに、二人三脚で油絵に仕上げるのだと言う。 その時持参していた美術屋百兵衛のアート雑誌を見せられたら、「ブナから得た感動を作品を通して観る者に伝えたい」と言う、画家・伊東美砂代さん(51)の作品が8ページに亘って特集されていた。ブナの巨木のたくましい根元、深い蒼色空に登って行く幹と枝、山の水源木とされるブナの様々な木姿が描かれていた。その時ふと!ブナと言えば菊池如水さん!と頭に彼の絵が浮かぶ。 「丁度今、紫波の“名曲喫茶これくしょん”で如水さんの、[90才の卒寿展]が開かれています!」と、伝えたら何と二人は観に来て、如水さんと意気投合!流れる音楽にも興味を示すことから、聞けば美砂代さんは、何と大坂の相愛女子音大の作曲科音楽学を専攻し卒業していた人でした。 ブナの森を歩き出した頃は水彩。油絵は約10年と言うが、ミレー友好協会のフランス本部展に初出品した「ブナの森・睡蓮と語る」で奨励賞。その後、協会賞。ヴァンセンヌ市長賞。優秀芸術家賞など受賞し、ヴァンセンヌ支庁舎に飾られた。そして仏国が主催する伝統の公募展「ル・サロン」でも2011年12年と連続入選。 更には今年2月、東京上野の森美術館で開催された第17回「日本の美術・全国選抜作家展」に初出品した「ブナの森早春の妖精」は、いきなり大賞を受賞し、その副賞が、パリでの個展というおまけ付きの夢の様な物語。しかも美沙代さんにとっては、初めての個展だった。 そこで想い出したのが如水さんの1996年の話。宇都宮での個展の時、当時、芸大の教授だった、あの日本画の大家・故・平山郁夫氏が会場に来て、如水さんの作品に驚き14分間も会場入り口に立ちつくし、そして「芸大の学生たちに絵の話をして欲しい」と頼まれ、翌日講演して来たとの話、美砂代さんの話が、今回(10月)の再会時に僕の頭の中で重なった。
秋田市のジャズクラブ「5スポット」を中心にワールド・ワイドな活動を続けている、ピアニスト・早川泰子さんが、アルトサックスの第一人者、山田穣(44)さんを連れたってひょっこりとジョニーへ現れた。嬉しい突然のサプライズにハグハグ。 早川泰子カルテット+山田穣の2001年10月27日、ジョニーでの満員ライブの光景が頭をよぎる。その後の盛岡公演日の深夜にも、よく店に顔を出してくれて、山田さんと演奏をプレゼントしてくれたことも何度かあったが、或る日の二人が演奏した音楽は、僕の心の奥深くに鮮明に刻み込まれ、生涯忘れないであろう、大切なシーンの一つになっている。 その二人のデュオアルバム「オールド・チャーター」が2012年11月22日に全国一斉発売されるというから、楽しみです。二人の演奏に共通することは、聴いてる人々の、胸の深い所にまで沁みこみ、頭では考えられない幸福感を伴う、濃厚な一瞬を作り出してくれるところにあると言っていい。 彼女は北海道の伊達紋別生まれ。道庁職員だった父が交通事故で亡くなり、中学校の時から母の故郷、秋田市へ。聴いた音はすぐに何でも弾ける程好きだったピアノに夢中になり聖霊女子短大音楽科へと進んだ。毎日8時間も練習すると、曲は完全に自分のものになり、演奏を変えたくなるのだったと言う。その変え方がジャズへと向かわせたのだが、ジャズにたどり着くまでには、あらゆるジャンルの音楽を演奏したのだとも。 そして知り合った「5スポット」のマスターと結婚。ジャズレコードからバップスタイルのピアノを徹底コピーし、演奏者それぞれの考え方を知ったうえで、自分なりの個性を磨いた。「日本の10本ではなく、ニューヨークで認められなければダメ」と「自分の師匠だった故・大野肇(三平)氏から言われた言葉を頭に置き続けてきて、今があるの」と、彼女。 バリーハリス。レイブライアント。ケニーバロン。等一流ピアニストたちの前で演奏するチャンスも多々あった。NHK・FM「セッション505」には最多?の6度。山田穣さんとは5度出演している名コンビ。互いの心はまさに!オールドチャーターそのものなのだ。
冬の足音が近づいて来た。ストーブにスイッチを入れても点火しないなどの話を聞く。そんな時には、買い換える前に修理やさんに見て貰ってから!直すか、買うかを決めた方が得!。かつては街の電気店。少し前までは修理専門のチェーン店もあったが、今盛岡市内に残っている修理屋は、何と「Drスイッチ」唯一店。 そのDrであり、経営者、ジャズサキソフォニストでもある米澤秀司さん(53)は言う。様々な家電が持ち込まれますが、直るのは七割。あとの物は、以前の様に部品調達が出来なくて、工夫しても修理出来ない物もある。 確かに様々な業種にいえることなのだが、もう、修理ではなく、部分交換する作業に変わっていることから、かつてのエンジニアから、チェンジニアと呼ばれて久しい。メーカーもすでに修理を念頭に置かない価格競争の時代。それでも物への愛着から直して使いたい人も居るのである。僕もその一人だ。 2001年僕が盛岡へ店を出して間もなく、ステレオのアンプが故障して困っていたところに現れたのは、昔、盛岡八幡町にあったジャズ喫茶・伴天連茶屋で番頭さんをやっていた米澤さん。彼は家電修理店を始めたと言うので、すぐ様お願いしたら、さっそく直してくれ、修理代は「開店祝」と言って受け取らなかった。 以来、今日も尚、僕の店のステレオDrであり、演奏者でもある。店に出演するアマチュアミュージシャン達の鏡の様な存在、素晴らしいアルトサックス&フルート奏者なのだ。とにかく演奏が好き、日に3時間以上の練習は欠かさないという、プロ並みの生活。そんな父の姿を見てきた岩大生の息子(健汰)さん(21)も「仕事も演奏も楽しそうに続けている父を尊敬しています」と、はっきりと言う。 米澤秀司さんは、1959年栃木県今市市(現・日光市)生まれ。父の実家雫石町に小学校の時引っ越して来て、中学ではフォーク。盛岡一高ではロック、3年生の時、デート場所だったジャズ喫茶でアルバイトを始め、そののち、伴天連茶屋のマスター・瀬川正人夫妻の仲人で結婚。ジャズを演奏する様になってから、東京のジャズクラブへ出演したこともある。ジャズは生活の一部、趣味を超え体に馴染み日記と一緒。それは若い時から今も尚、彼にとっての自由への憧れそのものなのである。 |
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