盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.108 「小野寺英二の白いバラ赤い薔薇」2013.1.28.盛岡タイムス
 「テルイは、アテルイのような人。アテルイはテルイのような人」というために英語の文法を持ち出してから、カンパイの音頭をとった小野寺英二さん(75)。盛岡駅前のホテル・ルイズで、この2013年1月23日(大安)の「開運橋のジョニー・オープニングパーティー」。
 頭の中には「白いバラ」胸の中には「赤い薔薇」をずっと咲かせ続けてきた彼。出合ったのは、かれこれ30年近い前になるのだろうか。
 その昔、盛岡開運橋通のカワイビルにあった「どんぐりコロコロ」という店で、そこの客だった小野寺さんと出合った。その夜、その店の主人で、シャンソン歌手の早坂孝幸(公公)と3人で店がはねたあと、やはり当時八幡町にあった「一番」というラーメン屋へ出かけ、そのあと、陸前高田へ帰る僕が逆方向の青山町まで、小野寺氏を送って行ったことから、彼との交流が始まった。
 当時彼は県庁職員。岩手出身の父と北海道出身の母との間に札幌に生まれたのは、1937年7月10日のこと。2才の時には一家で盛岡へ。下の橋中、盛一、岩大、そして県庁へ。
 僕と知り合ってからは、陸前高田へ出張の度に当時のジョニーへ何度も来てくれた。しかも、来店の度にぞろぞろと人を連れて来たのです。聞けば「何、市役所で今夜俺をジョニーに連れて行ってくれと言うだけだよ」と言って笑うのでした。しかし会計はいつだって自分持ち。それは、2001年に盛岡へジョニーが移ってからも変わらなかった。
 退職後は、彼一流の愛を込めて言う「うちの使い古し」(奥様・茂子さん)と一緒に、いつもオシャレをし、手土産持参でやって来て、必ず「顕さんも飲め!」と僕がグラスを空けるのを待って僕と同じ量を、何杯でも同じペースで付き合ってくれるのです。しかもいつだってニコニコ酔い知らず。
昭和40年に結ばれた6才下の奥様茂子さんと知り合ったのは通勤電車の中だったらしい。だからなのか、退職後のお出かけは、どこへ行くにも一緒なのだが、最近は英二から英爺へと名を変えたらしく、古い様な新しい様な名で白蘭が届いた。


幸遊記NO.107 「カフェジャズの開運橋ジョニー」2013.1.21.盛岡タイムス
 ジョニーが開店したときは2間半四方ばかりの小さな店だった。名前は「音楽喫茶・ジョニー」。中身はジャズとロック、タンゴにポピュラー、クラシックの果てまでのレコード音楽を聴かせる店としてスタート。「職業として一日中音楽を聴いていられる仕事は何か?」「四六時中音楽を聴いていたい」それが動機。思い付いたのが喫茶店。ただそれだけのことだった単純な考えの僕。その後一大決心をしての「日本ジャズ専門店」。
 振り返れば今年で丸38年。ジョニーの前身「音楽酒場・北国」から数えれば40年だが中でも「日本ジャズ専門店」は35年にも及んだ。よくぞ続いてきたもの「音楽が何よりも好き」その根っこの部分があるからこそ続けられて来たのだとも、続けて行けるのだとも思う。そうした僕の思いを受け入れてコーヒーやお酒等を楽しみたい時に「同じ飲むならジョニーに行ってやるかな」と言う人が、少なからず、どんな時でも居てくれたからこそ、店を続けてこれたのだと感謝せずにはおれない。
 2001年の春、盛岡開運橋通のビルの地下に店を開いて丸12(ジョニー)年。開運橋という素敵な冠を付けたジョニーは、遂に橋を見渡せる橋際のMKビルの4階に移店することが叶いました。県内一ののっぽビル・マリオスを背景にした盛岡駅と美しいアーチの開運橋、下を流れる北上川。円いジェネラスマンション下の大樹はまるでジョニーの庭木の様。川の向い岸は啄木の「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の光景。今君は白い雪や霜の花を咲かせていますが、芽吹きの春はいかばかりかと待ち遠しい。そう思っていたら、1月17日・大安吉日の開店日には「とくとごらんあれ」とばかりに蘭の花を中心とした白、黄、紅、紫等の花々で店は花屋さん状態。本当にありがとうございます。
 そしてこの12年間に店にレコードを寄贈して下さった20数名の皆様本当にありがとうございます。これからジョニーは御提供頂きましたアナログレコードを活かすべく、五木寛之の「海を見ていたジョニー」のジョニーは五木氏の言う「下山の時代」をゆっくりと初心のジョニーへ戻って参りたいと存じます。


幸遊記NO.106 「菅原正二の一関ベイシー」2013.1.14.盛岡タイムス
 一昔振りに同業の先輩、一関の「ベイシー」に行って来た。この10年、2~3年に一度は訪れているのだが、あうんの呼吸に至らず、行く度シャッターが下りていただけのこと。チョット昔のお嬢様たちに、「ベイシーに連れてってくれませんか」と、言われていたことから10人程で、見聞に行って来たのだ。今回はそのため2度も電話を入れてのこと。
 ドアを開けるとマスターは笑顔で迎えてくれた。彼の肩越し、ピアノの上には真紅な薔薇が一輪、リンとした美しさで立っていた。入口レジカウンターの上には彼、菅原正二さんの原点とも言うべき「HOLLYWOOD」のミニボード。それは彼が1967年3月、早大・ハイ・ソサエティ・オーケストラを率いて初のアメリカ演奏旅行をしたカルフォルニアで、ハイソがTV出演した時のメダルのような記念品。その下に掛けてあるオブジェは、かつてトランペッターのハリー・ジェイムスに憧れて、トランペットを吹き始めた時に、ハリーと同じモデルのペットを買ったのだったが、自分には合わないと、そのまま飾りにしてしまったのだ。
 菅原正二・1942(昭和17)年5月23日一関生まれ。父が聴いていたSPレコードに興味を持ったのは小学生の時、ジャズには一関一高時代。大学ではハイ・ソサエティ・オーケストラのドラマーとしての活躍が有名だが、彼は早大文学部の卒。だから今も昔も文筆活動にいとまがない。朝日新聞岩手版への「物には限度、風呂には温度」、JR「大人の休日倶楽部」への「アズタイム・ゴーズ・バイ」の連載などなど忙しい日々を送る。
 かつて「ジャズ喫茶ベイシーの選択」という全国版の本が出た時、僕は中学卒業後10年間クリーニング店で働いたことから「ジャズ喫茶ジョニーの洗濯」という地方版の本を出版した思い出が甦る。彼は僕と生まれ年も店の年令も5コ先輩。しかも僕は一関の隣平泉の出身だから、ベイシーが一関に開店した1970年以来、ずーっと、先を行く、彼の巨大な背中を見ながら、僕はジャズでも別の道を歩みながら過ぎ去る光景を見てきたという感じ。
 1987年、ベイシーの菅原さんがジョニーの僕に語った「音楽に向えば音は大きくなる。逃げようとすればうるさくなる」「音はその人のスタイルだよ」は、今も忘れずにいる。
 


幸遊記NO.105 「高橋龍山の尺八工房」2013.1.7.盛岡タイムス
 照子と浩、二人合わせた“照ひろ”食堂の名で親しまれて来た、盛岡市飯岡新田の店が盛南開発の道路拡張にともない、34年間も続けた店を閉め、新しく音楽のためともいえる「ギャラリーてるひろ」を開いた龍山さんこと、高橋浩さん(65)の自宅兼工房兼ギャラリーが2年目を迎えた。
 彼は、民謡尺八を師・高橋竹水氏に16年学んだ後、尺八の可能性をもっと追求してみたいと、様々な音楽のジャンルへ挑戦。現在、即興演奏も自由自在。その音の良さは勿論吹く人の腕しだいと言うことなのだが、尺八という楽器そのものにも起因することから、自分で使う楽器は自分で作ってみようと始めた尺八作りも、振り返れば間もなく30年。
 店をやりながら、尺八作りを習うために夜行バスなどを乗り継ぎ神奈川の足柄上郡の先生・大橋鯛山氏の元へ3年通って習得した努力家の製管師でもある。今では鯛山氏を通じて、龍山尺八は海外へも届いている。
 合えばいつもニコニコ。と気さくな高橋さん。出合ったのは2006年1月。僕が紫波の新住民になった時、そのことを歓迎してくれた、紫波町日詰にある文化館「権三ほーる」が開催して「ジョニー・てるいけん・わーるど」という、書と写真とアートの展示をしてくれた時だった。聞けば館主の畠山貞子さんと、高橋さんは同級生で幼なじみの間柄。
 以来、彼は僕の店にも時折、笑顔を見せにやって来ては、楽しい話をしながら飲んで、帰る時には、僕の女房にそっとチップを渡す心遣いを欠かさない、昔人のような方なのだ。
 それこそ「権三ホール」の敷地にある日詰地区最古とされる井戸を再び街づくりに役立てようとした10年前、その井戸前で尺八を吹いたブルース・ヒューバナーさんは、その時、彼、龍山製尺八に出合い「心に残る音だった。」また「彼は熱心。研究してるし、ほんとうのプロですよ」と言う。1976年全米№1になった秋吉敏子・ルー・タバキンビックバンドの音楽に魅せられ、ルーのフルートに憧れて日本に留学、東京芸大で尺八も習得した、そのブルースさんも、以来この10年、龍山尺八とその音を世界へと、そのセールスマンも買って出ている。


幸遊記NO.104 「高橋比奈子の司会から国会へ」2012.12.31.盛岡タイムス
 年の瀬は1年を振り返ってみたりするものだが、27年前の1985年(昭和60年)日本ジャズ祭に出演した「大迫ジャズコンパニオン」のトランペッター・村田英作さんからハガキが届き「あの陸前高田での日本ジャズ祭でお世話になった、比奈子アナウンサーも“国会議員”懐かしい思い出、私も還暦」とあった。
 はい!そうでした。あのジャズ祭のトリに出演したジャズ界の大御所・歌手「マーサ三宅(ミヤケ)」さんを、比奈子女史は「マーサ・ミタク」と紹介してしまった。それが強力な印象として僕の中に残っていますが、よく間違えることの多い僕は、逆に親近感を感じたものでした。
 2年後の87年、千厩町(現・一関市)職員・佐藤広徳さん等の実行委員が開催した、2日間の「ホット・ジャズイン・せんまや」ボブ・ミンツアやミロスラフ・ヴィトス、タイガー大越、大給桜子、大橋美加、ヨーコ・サイクス、チャリート等が出演したビックイベント。そのプロデュースを頼まれ、僕が彼女に再登板を願ったそれは、とても素敵な司会だった!と今も記憶する。
 高橋比奈子さんは、1958年(昭和33年)1月19日伊保内生まれ。盛岡下小路中、白百合学園高、日大芸術学部放送学科卒。大学4年の時、テレビ東京の朝番組アシスタント等を務め、卒後テレビ岩手に入社。父・横田綾二氏が市議選に出る時退職し、フリーアナウンサーになった。
 比奈子さんの父は共産党で市議や県議をやった方だが、祖父(忠夫)は無産党で戦争反対を叫んだ人。その意志を引き継いだ祖母(チエ)は社会党で市議や県議をやった人で、盛岡先人記念館の100人のうち、唯一人の女性。父が選挙に出馬してからは、そのマイクを握り「評判いいのが負ける選挙戦、父横田は大丈夫と言われるけど、あなたが投票してくれるお陰で当選するのです」と応援し続けた。
 司会などのアナウンスでは“うまく”より“こころをこめて”がモットーだった彼女。どうして自民党からなのかは別として、一浪しての今年2012年末、衆議院選での比例当選。良かったですね。おめでとう!こころを込めて頑張ってね。



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