盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.113 「遠藤広隆の南部駒写真」2013.3.4.盛岡タイムス
 「仕事を終えて盛岡から西根町(現・八幡平市)へ帰る車の中で、時折流れてくるジョニーさんの放送、FM岩手の“オール・ザット・ジャズ”を聴いて興味を持った時、叔母さんに盛岡にジョニーが来たよと聞かされ、初めて店に来たその日は“鉄腕アトム”の誕生日で、大人たちがアトムの人形とケーキを囲んでいました」。
 そう言うのは東京に本社のある(株)佐藤写真に籍を置くブライダル写真家の遠藤広隆さん(34)。仕事は主に、盛岡グランドホテルで行われる婚礼のスナップ写真撮影。その結婚披露宴の流れを逃さず撮るための緊張感あふれる仕事なのだと言う彼・遠藤君が、写真にはまったのは中学時代に親戚の人からもらった古いカメラからだった。そのカメラに初めて入れたフィルムは、何といきなりのリバーサルだった。(映画のワンシーンと同じポジ)だから今もスナップ写真による婚礼映画を写してるのかも。
 小学生の頃からTVで映画を見るのが好きだった彼は、映画に憧れ仕事にした場合には、自分は協調性が無いので、無理だと思い、自分一人で出来る映画の一コマ(写真)の道へ進もうと、平舘高校から渋谷の「日本写真芸術専門学校」へ入学、白黒写真技術をメインに学んだ。学生時代にテーマを決めて撮り続けることを教えられて以来、地元の放牧地を中心に「馬」を撮り続けている。「最近は、馬自体の仕事もほとんど無く、頭数も減ってきて、愛玩動物的に飼っている様なのです。何で飼っているのか、誰からも納得のゆく答えが返って来ない」のだとも。
 「サラブレットなら動物としてのカッコよさもありますが、南部駒はカッコ悪い駄馬ですから」そう言いながら、そのカッコ悪いカッコ良さに心引かれ続け、撮り続けること20数年。千本近いフィルムに馬を写し、馬の写真展はもちろん「南部駒の里」という写真エッセーを2011年5月から2年間の予定(2013年4月まで)当、盛岡タイムスに連載中である。
 「南部片富士 裾野の原は 西も東も馬ばかり、、、、」(南部馬方節)。かつて馬と人間が一緒に同じ屋根の下で暮らしていた独特の南部曲り家も無用となって移築され、和風レストランや民宿へと変身して今に生きている。彼の写真も又、色あせず未来に生きるのだろう。


幸遊記NO.112 「村田柴太のエーデルワイン」2013.2.25.盛岡タイムス
 33才から28年と6ヶ月、大迫町(現・花巻市)の町長だった故・村田柴太さんのことが今でも時折頭に浮かぶ。「どこから来ても峠を3つ越えなければ大迫に入れない盆地、炭焼きと馬とタバコを三種の神器で暮らしてた貧乏な町、そのへき地性を打ち破ろうというのが町長生活だった」そう僕に話してくれたのは21年前の1992年2月のことだった。
 今をときめくエーデルワインと早池峰神楽。その「神楽とワインの里・大迫」の礎を作った村田さん。民選初代の農民知事・国分謙吉氏(1878~1958)が、村田家のブドー畑を見たことから「あっ!ここは葡萄もいいんだな。ボルドーに良く似た石灰質の古生層土壌だよ。これはいけるかも!」での県立葡萄試験地を、全国で一番早く手掛けた岩手県。その知事の先見の明に呼応した彼、柴太さんのパイオニア精神と相まって始まった。
 そして、葡萄農家との共存共栄を計りながらの“エーデルワイン”造り。コルク栓ではなく、スクリューキャップ、550mlの瓶。彼がドイツ語辞典を引いて書いた文字、ラベルには早池峰山とうすゆき草、すべてが彼の手によるオリジナル。それはもう中味以前にいい味を出していたものでした。そういえばワインコロンも開発したっけ。
 「エーデルワイス」に似た「はやちねうすゆき草」を兄弟花としてオーストリアのベルンドルフと姉妹提携を結んだ人。パーティーでも「うたの一つも出ないなら面白くも無い」と、逃げ出すほど音楽が好きな人だった。
 神楽ににしてもホイドカグラと称されてたものを町議時代から会員になり光を当て続けた結果が1976年(昭和51)国の重要無形文化財に指定されたのでした。(2009年・世界無形遺産登録)。「異文化真似て人様にすすめるもんじゃ無いってことだよ。まず自分たちのものをたててから」それが彼の信条だった。
 村田柴太1926年(大正15年2月21日・大迫生まれ)妻の泰子さんは1915年(昭和4年)小牛田生まれ(盛岡裁判所の所長の娘)。昭和26年に見合いで結婚。「女房はほとんど連れて歩いたことがないもんな、俺は外で飲むべしで、嫁、嫁と言われながら祖母、母、叔母に囲まれて子育てしたのさ」が今も、僕の耳に残る。2001年僕の写心展を盛岡エスポワールに観に来てくれたのが最後でした。


幸遊記NO.111「吉田ユーシンのハーモニカ」2013.2.18.盛岡タイムス
 ホーナーハーモニカの工場や、その大学校があるドイツ・トルシンゲンで、1993年に行われた第4回ワールドハーモニカ・チャンピオンシップスで、2位、3位なしのダントツの1位でチャンピオンになった、日本のハーピスト・吉田ユーシン(当時38才、現58才)。
 彼はそれ以前1983年から日本大会に出場し入賞。1986年日本チャンピオン。世界大会へはイギリスでの第1回大会(87年)で特別賞。以来ドイツ、アメリカでの大会で連続入賞を続けてのチャンピオン。第5回世界大会では前チャンピオンの彼を招待しジャパンタイムをもうけてくれたのだとも。
 彼の父吉田左膳は、住田町下有住出身の銀行マンだったことから、彼は花泉町(現一関市)で1954年に生まれ、有信(ありのぶ)と名付けられた。小学校を三陸、藤沢、大東、中学を種市、高校を盛岡(四高)。大学は武蔵野美術短大商業デザイン科に学んだ。ハーモニカとの出合いは、放送局のバイトをしていた8才年上の兄が仙台から送ってくれたレコードの中にあった「ラヴィン・スプーンフル」そのヴォーカリスト、ジョン・セバスチャンのブルースハーモニカに小学5年生の時に魅せられてしまったのが運命のはじまり。
 1991年アメリカのデトロイドで行われた第3回世界大会に出場した時、ハーモニカのカスタムメイダーだったドイツ生まれでシカゴ在住のジョー・フィリスコ氏から彼の自作ハーモニカをプレゼントされ、お前も作ってみたらと言われたことから、セミナーを受け、はまってしまった。以来、吹き易く、大きな音の出るハーモニカ作りに没頭、吹き口を四角から丸に変えて、テクニックを使い易くしたり、振動を通す人工大理石「デュポン・コーリアン」を世界初利用するなど、今や彼のカスタムメイド・ハーモニカは引っ張りダコ。
 大きな弁当箱程もあるバスハーモニカとコードハーモニカそして彼のハーモニカによるトリオ・ザ・ブー・フー・ウーのCDは聴きものである。そういえば、彼と石井啓介(p)とのデュオの名演奏が流れる映画があった。若くしてこの世を去った、フリージャズの伝説的サックス奏者「阿部薫」の伝記映画で若松孝二監督作品「エンドレス・ワルツ」である。あれは凄い。


幸遊記NO.110 「菅原恭子の黄色い絵画」2013.2.11.盛岡タイムス
 2011年8月9日、紫波町・野村胡堂あらえびす記念館で開かれた、渡米55年のジャズピアニスト・穐吉敏子さんが、夫のルー・タバキンさんとデュオ(二重奏)による、東日本大震災支援チャリティー「ホープ・コンサート」を聴いて大感動してしまった画家・菅原恭子さん(70)。
 彼女は、その時の音を心にしみこませ、演奏する二人の姿や動きを脳裏に焼き付けて持ち帰り、キャンバスに向った。背景の黄色、穐吉の服の緑、寄り添うルーと金色のサックス「一瞬の永遠ともいうべき素晴らしい絵が誕生した」と、僕がそう思ったのは、彼女からその絵の写真を見せられた時だった。
 その菅原恭子さんは、僕の店「開運橋のジョニー」で2009年から開いているNHKカルチャーのジャズ講座に2010年から通い始めた方で、昨2012年穐吉敏子ピアノソロ・ラストツアーの最終日となった6月16日のジョニーライブの時、その絵「ロング・イエロー・ロード」を穐吉さんに贈ったのでした。
 「頂いた絵をこちら(NY)でクリスマスカードにして使わして頂いたところ、とても素敵な素晴らしい絵ですね。と皆さんがすごく気に入ってくれましたので、その事を菅原さんにお伝え下さい」そう言って穐吉さんから1月に電話を頂いた僕。
 菅原恭子さんは1942年4月2日秋田市生まれ。宮古市で、小・中・高を過し、岩大教育学部ではバレーボールや美術に夢中だった。卒後は小学校の先生になり校長の話が出た時辞職して大好きな絵の世界へ転身。イルディーヴオなどの音楽を聴きながら、収入の無い仕事をライフワークとして死ぬまで描きたいとキャンパスに向い続けている毎日。
 あの名門黒澤バレエ出身の大沼まゆみさん率いる「スタジオ・ダンス・ワン」がマリオスホールでステージ発表した時、恭子さんが描いたダンス絵をロビーに展示、更にその絵をステージ上のスクリーンにも映し「絵と同じポーズで絵から飛び出して来る様なダンスコラボにはビックリするやら感動するやらでしたが、今回の穐吉さんのお話といい絵の公募展に出さずに来ても、それ以上のものを与えてもらいました」と目を潤ませた。


幸遊記NO.109 「小泉とし夫の復興電子書籍」2013.2.4.盛岡タイムス
 「82歳の朝とエリーゼのために」という小泉とし夫さんの歌集が、岩手復興書店から電子書籍として発売になった。いわゆるパソコンやタブレット、アイホーンなどで買い、ダウンロードして読んだりする、デジタル本。500円+税なのです。ダウンロードがむずかしいという方には、CD版の書籍も同時発売になっており、直接パソコン等に取り込んで観れるこちらは800円+税。
 中味は小泉とし夫さんが創作した口語短歌を、右利きの僕があえて自由の利かない左手に毛筆を持って書いた「書」の籍。自由が利かない分、書は、自分の意志というよりも、歌の力によって書かされているという感じ。
 第一章「赤いベレー」に始まり「エリーゼのために」「むずがゆい春」「ツユクサのブルース」「渡りの季節」「しんしんと雪が降る」「今日も暑いぞ」「木枯らし紋次郎」「ソネット風/バラとの対話」「こいわい・四季の手帖。春、夏、秋、冬」「穐吉敏子の世界を詩う」の14章からなる百数十首の作品が収められていますが、それぞれの章ごとに全部書体が違っていて、自分で言うのも何ですが、中々に良い出来。とはいえ第一章の第一首「走り去る車にまかれからからとわらうほかない団塊落ち葉」まさにそのとおりの1947年(昭和22)生まれ団塊世代の僕。ちなみにこの作品は2006年6月盛岡市立図書館で開催して頂いた「短歌DE書展」小泉とし夫・詩、照井顕・書の全作品に最終章をプラスしたもの。
小泉氏は1949年創刊の県内で最も歴史ある「北宴」文学会の現編集長。本紙盛岡タイムスには本名の岡澤敏男名で「賢治の置き土産」を連載中。以前連載の「賢治歩行詩考・長編詩“小岩井農場”の原風景」(未知谷刊)で2006年、宮澤賢治奨励賞を受賞した。1927年(昭和2)盛岡市生まれの85才。盛岡農林専門学校獣医畜産科(現・岩手大農学部)卒。釜石の高校で6年教鞭を取り、最後は、小岩井農場展示資料館長を97年まで務めた。彼は詩人・故・村上昭夫の同級生でもあり、昭夫の肖像研究については、最終編を書くにあたり、どうしても満州(現・中国)へ行って見聞しなくてはと、ロトくじで旅費の当たるのを待っている日々。


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