盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.102/125] Next
幸遊記NO.118 「堀内繁喜のBar Cafe the S」2013.4.8.盛岡タイムス
 僕がジャズにのめり込むきっかけとなったのは、1969~72年にかけて、宮古出身のピアニスト故・本田竹彦(のちの竹広1945~2006)のデビューアルバム「本田竹彦の魅力」。続く「ザ・トリオ」、「浄土」を夢中で聴き、彼の生演奏を初めて聴きに行ったことからだった。
 その後の77年に本田の「トリオ」を陸前高田に呼んで感激。85年の「日本ジャズ祭イン陸前高田」に彼の「ネイティブサン」。99年には盛岡のマリオスホールでの「本田ファミリー」など幾度となく主催した。僕が盛岡に店を移した翌年の2002年に、彼がご祝儀演奏をしに「開運橋のジョニー」に来てくれ、演奏とその想いに胸が熱くなった記憶。
 その本田が、彼の故郷に新しくジャズの店が出来たことを喜び、アップライトのピアノを持ち込んでコンサートした。その「Bar・Cafe・the・S」店主の堀内繁喜さん(現・43)はそれ以前の2年半ほど、DJバーをやっていて、更にそれ以前といえば宮古水産高校時代から、車が好き。バイクが好き。オーディオが好き。サーフィンが好き。バリ島が好き。と、その全部を実践体験。仙台自動車整備専門学校で2年間学び、宮古に戻って中古自動車販売会社を8年手伝ったのだと言う。
 開店10年目だった彼の店の「S」の字は、マイルス・デイビス(tp)が書いたShut UpのSを使ったおしゃれな店だったが、2011・3・11の津波で被災した。本田が生前「ピアノを買うなら、ベーゼンドルファーがいいぞ」と言っていたことから古いベーゼンを探し見つけ、群馬から購入したのは2008年、本田が亡くなってから2年後のことだった。
 どちらかと言えばクラシック系の人々に好まれて来たベーゼンのピアノ。それがジャズの店に入った。それも1つの話題になった。3・11では弦が被災を免れたのが幸いし、購入先だった「ピアノプラザ群馬」が無償修理してくれたことから、店を沿岸の宮古から県の都(みやこ)へ店を移したのは、被災から4ヶ月後の7月だった!。その素早さに拍手した僕。
 以来彼、堀内さんは一生懸命店をやり、客も一所懸命の店に通う。店はいつも繁喜に満ち、米国製JBLスピーカー「パラゴン」から流れるジャズの音もまた、もう1つのシゲキとなって、いまや盛岡を代表するカッコイイジャズの店と評判です。


幸遊記NO.117 「畠山宏樹の南部杜氏錦酒」2013.4.1.盛岡タイムス
 紫波町の名曲喫茶「これくしょん」で2013年3月に行われたマーラーのレコードジャケット展。珈琲を飲みながら大音量で、その第一交響曲「巨人」を聴かせて貰った。そのレコードが両面回っている間、僕はマスターの小畑さんに差し出された古い写真集に釘付けになっていた。昭和52(1977)年に主婦と生活社から刊行された「筬(おさ)音の残響」
 小畑氏は言う「ダスタフ・マーラー(1860~1911)の“巨人”は自分の心の扉を開いてくれた曲であり、最大の衝撃を受けた」と。僕は僕で目の前の写真に写し出された年輩の機織女性たちの表情に衝撃を受けていた。「たとえ錦の風吹く時も 外へなびかぬ糸柳、機織女(はたおりおなご)と馬鹿にするな 大和錦は誰が織る」(秩父機織唄)の歌詞の如く、その自信に満ちた内面が表れている女性たちの、まるで織物のようなシワジワの顔が並ぶ白黒写真。持って来たのは、秩父に行って来た杜氏・畠山宏樹君(紫波町出身)だと言う。
 彼は全国一位を誇る杜氏集団・南部杜氏協会(153名)中の最年少杜氏。昨年10月から今年3月にかけては会長の鷹木祐助氏とともに250年続く秩父錦の蔵、矢尾本店で酒造り。僕も先日その甕口酒(かめくち)という生原酒を頂いて飲んだが、絶品といえる、おいしい酒だった。酒造りの一番の要は「米ふかし」と言う彼。味覚を表現する言葉さえ世界の10倍、200余りの現し方があるほど、味に繊細な日本人。その日本独特の麹菌は「国菌」にすべきという発酵学の権威・小泉武夫氏(東京農大教授)もまた東北福島酒造の出身と聞く。
 宏樹さんは昭和46(1971)年1月5日紫波町生まれ。中2の時神奈川秦野南中学校へ転校し、方言でいじめられコンプレックスに悩まされ両親を恨んだとも。20~30代は祭りに没頭。真剣にいい加減に生きていたが、杜氏になってからは、自分との戦いだった。最近母に声でもらった愛のムチで「ようやく母親を理解し、我に返った」と彼。
 「咲くは山吹つつじの花よ、秩父なぁ、秩父銘仙機どころ、トントンカラカラ筬の音、トントンくるりと糸車」僕の好きな秩父音頭の一節が、酒の印象とともに味わい深く、頭の中に浮かんで来た。機織女たち、酒造男たち、それは大地に根ざした巨人たちなのだ。


幸遊記NO.116 「土井一郎のプレリュードとフーガ」2013.3.25.盛岡タイムス
 僕が陸前高田で「ジョニー」という名の音楽喫茶を開いた翌年の1976年5月21日陸前高田市民会館大ホールでヴァージンジャズと題して初コンサートを主催した。バンドは東京からの「山口真文(ts)カルテット」。その時のピアニストが土井一郎(当時24・現61)であった。
 「幼少からピアノを習い高卒と同時にプロ生活に入り、よくピアノが弾けたことから大坂の先輩バンドマンたちには随分いびられた!」。その事から大阪教育大・特音作曲科で学び卒業。上京すると「東京の方が自分にあってる」とすぐに思ったと言う。以来大阪には
絶対近寄らないで来たのだとも。
 新宿のクラブで弾いていた時、ゲストで吹きに来た、故・松本英彦(ts)に認められバンドに誘われ、以降、山口真文。ジョージ大塚(ds)。鈴木勲(b)。小宅珠実(fl)等のグループで活躍ののち、独立。自己グループ「ミリオンパラ」を結成し、クラウンレコードから8枚のリーダーアルバムを発表。
 その間に何度か陸前高田にも演奏に来てくれて、おしゃれな彼らしく、いつぞやは、僕にも花柄のカッコイイシャツをお土産に買って来てくれた。僕はよくそれを自分のステージで着たものでした。盛岡へ移ってからは、全ての経費を自分で負担し、東京からバンドを連れて来てジョニーで演奏をプレゼントしてくれもした。
 あれからもうすでに10年。僕は久し振りに彼に電話をし、店を移転したことを伝え、ピアノソロとジョニーで育ったヴォーカル・金本麻里の歌伴と二つ引き受けて貰い、この2013年3月20日に、それは実現した。久し振りに聴く彼の生演奏の音に心奪われ、思わずジーンとなった。ありがとう。
 日本でも人気の高かったピアニスト・ビル・エヴァンス(1929~80)に憧れ、朝から晩まで聴いてはコピーしまくった学生時代の1973年1月、エヴァンス初来日の時、最前列で聴き何もかもが解からなかった程のレベルの違いに物凄いショックを受け、以来むちゃくちゃ練習し今日まで来て、遂にはショスタコビッチの作曲時間にヒントを得て、24のプレリュードとフーガを作曲し楽譜(カワイ出版)と自演の2枚組みCD(スタジオソングス)を発表してしまった、不思議なジャズマンである。


幸遊記NO.115 「ジョン・バーネットのNPRニュース」2013.3.18.盛岡タイムス
 国際ジャーナリストのJohn・burnett(ジョン・バーネット)氏が、NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)から2人目の通信員として、3・11の津波被災地・陸前高田を取材に来た日の夜(2011年4月1日)、彼は僕の店・「開運橋のジョニー」へもやって来た。
 なんでも東京から一緒に来た通訳者・小林智恵さんと盛岡駅前の焼鳥屋「いこい」で一緒になった気仙沼出身の主婦・佐藤律子さんとジャズの話になり、店に来たのだと言う。そして彼は、NPR・ニュースブログに「ツリー・オブ・ホープ(希望の木)」として唯一残った一本松をいちはやく世界報道したのでした。
 その時の通訳者だった智恵さん(47)が2年振りにジョニーにやって来て、ホープガールの歌を聴き、翌日には律子さん(61)と連れ立って又来てくれたのです。話は当然あの日の夜に戻って行くのだが、智恵さんは「東北に来たことで、日本は手、足、体を動かして考える東北から学べば良い国になるのに!と感じました」と言う。律子さんは昔、七十七銀行員時代に通った気仙沼の老舗ジャズ喫茶「ヴァンガード」の復活話なども聞かせてくれて、僕はとても嬉しかった。
 ジョン氏は1986年以降、野蛮で恥知らずな暴れん坊通信員といわれながら、世界各国の隠された事実を調査報道し続け、エドワード・R・マロー賞。ナンシー・ディカーソン・ホワイト・ヘッド賞。海外記者クラブ賞。などの賞を受賞した有名人。生まれ故郷・オースチンのテキサス大学でジャーナリズム学士号を取得卒業。父はテキサスケーキを宣伝し有名にした人だと言う。「テキサスといえば、我等が世界に誇る、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんから、30年以上もXマスに贈って頂いているフルーツケーキがあるよ」と、その空き缶を見せたら、彼は飛び上がって驚き「これだ!僕は生まれた時から食べている!」と。何という偶然?。
 彼はとても気を良くし、カバンにしのばせていたハーモニカを取り出して金本麻里と「テイクジ・A・トレイン」をアドリブセッションまでしてくれたのです。後日、彼のブログには「開運橋のジョニー」のことや、僕のこと、麻里さんとセッションしたこと、ジョニーが津波後も欠かさずジャズのライブを続けたことなどが、写真入りで書かれていました。


幸遊記NO.114 「菅野信夫の音楽船」2013.3.11.盛岡タイムス
 先日、音楽の友だった村上軍記さんの三回忌に陸前高田の光照寺(高澤公省・住職)に、軍記さんと共通の音楽の友・陸前高田の菅野信夫さんと一緒に行って来た。3・11の津波で逝った軍記さんの三回忌を知らせるメールが彼の息子さんで埼玉に住む聡さんから届いたからだったが、僕達の顔を見て驚いたのは軍記さんの奥様・順子さん。でも聡さんが撮ってくれた写真には、三人とも顔がほころんでいた。
 その菅野信夫さんは、僕が平泉から陸前高田へ行った頃だから、もう50年にもなる最も古い音楽で結ばれた親友である。歳も同じ65才。血液型も僕と同じAB。違いといえば、僕は二度結婚したが、彼は今も独身。彼の妹で故人となった愛子さんは、青春時代に「高田わかもの会」なる団体で一緒に活動、明治百年を記念し、20才前後の僕達が、おじいさん、おばあさん達に、昔の時代劇(チャンバラ)を観せようと「松平朝之助劇団」を呼んで、昔あった映画館「セントラル劇場」を借りて主催した記憶もまるで昨日のようによみがえってくるが、止まれ!
 菅野信夫さんは出会った時から、今尚船大工一筋に働いてきた人。彼は兄や姉たちの影響で音楽が好きになり、働き始めてすぐポータブルプレイヤーを買い、間もなく足付のアンサンブル。セパレーツ、そしてコンポとグレードアップし、スピーカーも30センチウーハーを使った、独自のデザインによる立派なボックスを作り聴いていた彼だったが、自宅もろとも津波に持ち去られ、現在は仮設住宅住まい。そのため、唯一の楽しみである音楽を普通の音で鳴らせない住宅事情も、僕もだったらと思うと悲しくなる。
 中卒後、気仙沼の浦島造船所、木戸浦造船、大船渡のFRP造船と、木造船、鉄工船、FRP船と時代とともに進化しながらの船大工仕事は、図面を原寸に起こすことから始めるのだという。
 そういえば彼の父、故・良平氏も船大工。三井造船で働き、労組を立ち上げた人。リストラで社員が首を切られる時、自分だけ社に残る訳にはいかないと、辞めたいさぎのよい人だった。慰留させようとした会社も、良平氏が辞めた後、丸3年彼のために年金をかけ続けていたのだったという。


Prev [P.102/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.