盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.123 「吉田衛の横浜ちぐさ」2013.5.13.盛岡タイムス
 1954年から55年にかけて、横浜の海軍将校(シーメンズ)クラブに、穐吉敏子の伝説的バンド「コージーカルテット」が出演していた時、クラブに程近い桜木町野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」に寄ってレコードをリクエストして聴くのが日課だった穐吉敏子さん。
 マスターの故・吉田衛さんは、レコードを聴きながら採譜する穐吉さんのために、何度も同じ所をかけ直して聴かせた。この話は、すでに60年近くたった今でも、必ずステージでしゃべり続けている程、彼女にとっては大切な店であり、勉強の場だった。
 その「ちぐさ」は、吉田衛さん(1913・大正2年)横浜生まれが、昭和8年(1933年)に開店したジャズ喫茶の草分け。昭和17年太平洋戦争に召集され、中国大陸で終戦を迎えた吉田氏が横浜に帰って来たのが昭和21年(1946)。召集された頃は、一億総火の玉時代。政府は、一切の米英音楽を国内から追放しレコードも一掃させた。その時、吉田氏は天井裏にレコードを隠しておいた。帰ってきたら、「昭和20年の大空襲で街も店も焼失して、一面焼野原だった」と、スイングジャーナルの編集長だった大熊隆文氏と一緒に「ちぐさ」の2階で吉田さんから僕が聞いたのは、昭和55年(1980)のことだった。
 新生・穐吉敏子のニューヨーク・ジャズ・オーケストラを僕の店ジョニーの10周年記念として陸前高田へ呼んだ1984年吉田衛さんは「私は秋吉さんが生まれる以前から音楽を聴いているが、基本は照井さんと同じで、“日本にいいミュージシャンが生まれること、これが一番の念願なんだね”それだけに、あなたのやっていることには感謝しています」というメッセージをくれたのでした。
 その吉田さんが亡くなり、店を受け継いでいた妹さんも亡くなったが、店を閉める時、僕は女房や友人たちと共に、横浜野毛の「ちぐさ」の店の前に立っていた。あれは2007年の1月31日のこと。
 そして今年2013年10年振りに復活した穐吉敏子ジャズオーケストラを東京で聴いた翌日の5月2日、それこそ復活なった野毛の「ちぐさ」で「ちぐさ会」が、「照井顕を囲む会」を開いてくれ、昔が縁の友、知人たちが、岩手からの一行十数名を大歓待してくれたのでした。ありがとう、、、、、、。


幸遊記NO.122 「成田隆のRORANジャズ」2013.5.6.盛岡タイムス
 中国とヨーロッパの交わるあたりに、漢、魏時代のオアシスとして栄えた都市「楼蘭」から、名付けたというジャズ喫茶「RORAN」が秋田県鷹巣花園(現・北秋田市)に存在したのは1976年から2001年。
 店主だった1951年生まれの成田隆さんが店をたたみ、東京出身の彼女と一緒に暮らすため上京することになった2001年6月1日、彼は僕の店に現れ「ジョニーが盛岡に来てたこと知らなかったが、何故か呼ばれてしまった様だ」と笑った。以来これまで東京にて、医局の仕事人である彼女を支える専業主夫として家事の一切をこなしている。
 上京後丸10年、ジャズを封印し続けていた彼だが、2年前のある日ラジオから流れてきた、黒人開放のキング牧師への音楽「フリーダム」にゾクッときてからというもの、又、ジャズ喫茶通いをし、押入れに仕舞い込んでおいた、アンプやスピーカーを取り出し、音を出すための修理をコツコツ始めたという。
 最近、1年に397軒もの関東周辺のジャズ店を廻ったという、70代の平田さんという人に、お茶の水“アデロン・ダック・カフェ”で出会った彼。その人は音の聴き分けが凄く、「西早稲田の“ナッティ”の音が最高!美音じゃないが、高音域に荒さがあり“ジャズの熱気”を感じさせられた」と。そんな風に熱い会話は、久し振りだった。
成田隆さん(62)は、秋田県立二ツ井高校2年生の時に生徒会長を経験。卒後、札幌パークホテルでボーイ勤めをしていた時、上司にすすき野のジャズ喫茶に連れて行かれたのがきっかけでジャズに目覚め、のち神戸の飲食店で働き上京。ジャズ喫茶を見聞し地元に帰り翌年店を開いた。18~19才の頃に上に従うのでは満足出来ない人間だと、根拠のない自信を持っていたという彼。形態は飲食店だが、“ジャズの文化を伝える”という熱い思いでの開店だった。その資金は、明治生まれの父が、末っ子の彼に勘当料として出してくれたのだと。
以来懸命に働き店は繁盛、調理の勉強にも熱を入れ、グランドピアノを入れ、店を3度拡張改装し、ジャズファンクラブも結成し大活躍していた。「それらの全ては地元の先輩達やお客さんから教えてもらっていたと実感です」と、謙虚な彼。12年振りに北秋田に帰省したら、昔の友人、客達があっという間に集まってくれたのだとも。今彼は、妻・裕子オンリーに生きている。


幸遊記NO.121 「境田憲一の音楽鑑賞絵画」2013.4.29.盛岡タイムス
 2005年11月から、毎月末頃の日曜夜に、開運橋のジョニーで開いているクラシックレコード鑑賞会は、盛岡クラシック音楽愛好会・LYRA(ライラ)の主催。現・二代目会長の境田憲一さん(66)は、音楽好きが高じた、根っからのオーディオマニアでもある。
 今から27年前、自宅を建てた時には、鉄筋コンクリートの基礎に力を入れ、6年前のリフォーム時には、更なる振動対策に万全を期し、オーディオルームをリニューアルした。
 大好きな音楽をクリアに聴きたいと、電源には最大限にこだわり、スピーカーをマルチチャンネルで駆動させるその再生音は、生命力と臨場感に満ち溢れている。
 胃を全摘出する病にも打ち勝ち、今は音楽を聴き、絵を描く悠々自適の毎日だが、16才から59才までの43年間、東北電力の社員として働いた彼。子供の頃から母子家庭だったこともあり、城南小3、4年の時には豆腐売り。5年生から下小路中学を卒業するまでは新聞配達をしたのだとも。東北電力の入社試験では、180人中16番目の成績だったらしいのだが、入社できたのは15人。だがその中の一人が高校へ入学することになってのラッキーな繰り上げ当選?。
 当時会社では、技術要員のための養成期間として3年間勉強させてくれたというが、彼は更に入社一年後に盛岡工業高校の定時制にも通って勉強した程の努力家。会社の寮で先輩に聴かせられた「電蓄」でのベートーベン・ピアノソナタ「月光」のSPレコードに感激し、自分の給料で買ったのが、ソノシート盤・ヨハン・シュトラウス1世の「ラデッキー行進曲」。そのせいか、のち会社でも“後進”のための教育担当となり、パソコンなども教えた。「社員時代の俺の財産?的設計は、盛岡の東北電力裏の中津川端通りにある、細くて色のついたカラー電柱かな」とニッコリ。
 絵は退職してから教室に通い、1年目から県芸術祭に出品入選、以後連続入選し続け年1度の個展もすでに3回。最近は、地元のジャズ演奏者たちを描き、これまでドラマー、トランペッター、ベースマン、サキソフォニスト、ヴォーカリストなど、モデルになった本人たちも大喜び。まわりのギャラリー達からも、よく似ていると評判。


幸遊記NO.120 「さいとうれいこの絵本ミサミック」2013.4.22.盛岡タイムス
 「おしゃれっぽきつねのミサミック」という絵本が、昨2012年12月25日、東京新宿区の(株)草土文化から発売になった。その作者・さいとう・れいこさんは1977(昭和52)年9月盛岡生まれ、現・東京在住の主婦。
 「ミサミック」は森一番のお洒落なきつねの女の子。自分で作った赤い花のワンピースを着て、大好きなお絵かきムウムさんに見せに行く。ミサミックは絵に、ムウムは服に、お互い感動しあい、その感動がまたそれぞれの作品となった時、ムウムは絵に合わせて作ってもらったお日様色の服を着、ミサミックはムウムが夜に描いた星空色の服を着て、野原でたった一枚の絵の展覧会。集まって来たのはたくさんの森の仲間たち。るーらららー、 るーらららー。
 この素敵な絵本に登場するほかの動物キャラクターたちも、実は別キャラとしての名があって、すでにその新作展示をこの2013年3月東京・綾瀬市のナチュラルカフェ「コンポステラ」で絵本の販売と合わせて行った。
 さいとう・れいこ(斉藤玲子)さんは、松園中から盛岡一高、武蔵野美術大卒・同大学院造形研究美術専攻を終了。これまでに「文学の教室」「文章の教室」「新文章の教室」等の本の扉絵や「日本語の教科書」等の挿画に採用され、今回の文と絵、いわゆる彼女の処女出版へとつながった。主人公の「ミサミック」は玲子さんの姉・聡子さんの子供たち「ミサキちゃん」と「未来ちゃん」二人の名を合わせて出来たキャラクターの名前と言うからなおカワイイ!
 この本を僕にプレゼントしてくれたのは、玲子さんの父・國忠さん(66)。彼と出会ったのは2004年北上川上流の四十四田ダム入口で僕等夫婦が一年間だけ開いたカレー屋「喫茶ギャラリー1244」来てくれたのが始まり。その後は「開運橋のジョニー」へもよく来てくれるようになっての今日。彼は市の会計課に始まり資産税課で卒業した盛岡市職員。定年後は、憧れ続けていた自由人となりヒゲをはやし、好きだった庭を心ゆくまで観たいと京都で一ヶ月以上もの一人庭三昧。音楽好きが高じてのサックス三昧。夫婦での絵画鑑賞。そんな彼だから娘の絵本作家としてのデビューは、ことさらに嬉しそうなのだ。


幸遊記NO.119 「松永裕平のタンゴピアノ」2013.4.16.盛岡タイムス
 「国立音大音楽教育学科・ピアノ教育専修4年生の12月、学校の掲示板で、岩手県盛岡市にある“アンサンブル”でピアニストの募集をしてたよと、同期の学友に言われて、オーディションを受け2曲弾いたら、一週間程した元旦に電話があり採用されました。応募は30人程だったらしいです」。
以来2004年4月から2013年3月まで、その「アンサンブル」のオーナー兼バンドネオン奏者の森川倶志(ともゆき)さん、ヴァイオリンの花田慶子さんと一緒に、「タンゴ・アンサンブル」のピアニストを務めてきた松永裕平君(32)が、フリーのプロピアニストに成るべく、盛岡を巣立ち上京する。盛岡在住時代に知り合った、タンゴやジャズ系のミュージシャン達と、都内を中心にした演奏活動やコンサートなどで生計を立てると決めた。
彼は埼玉県浦和に1981(昭和56)年に2人兄弟の弟として生まれた。父が好きだったレコードを聴いて育ち、母のピアノに座っては、ひたすら指を動かすピアノ遊びが好きな少年時代を過したことから、ピアノの成績だけは、1番だったが、弾くこと以外の知識、楽典など勉強しなかったが芸大を受け2浪したのだと。
盛岡に来てからは「ジャズも勉強したい」とトランペッターでピアニストでもある箱石啓人(ひろと)氏に師事し、開運橋のジョニーで店の開店時間前に箱石氏等と随分ライブ練習をし、僕もその度付き合って聴かせて貰った。彼は本当に古いジャズのスタイルまで遡って、音の研究をよくしていた。時折、タンゴでも、その根元的なリズムが、メロディの様に聴こえるアルゼンチンタンゴ的な激しさと、感情の発露が垣間見える彼の演奏に、彼の将来を期待してしまう自分もいた。
アンサンブルの森川さん花田さんに厳しく鍛えられ、毎日のお客様方にも育てられた彼。最近は「客を一歩リードする必要」に目覚めたのだとも。また「ピアノも音楽も知れば知る程、その存在が大きくなる。あたりまえのことが、あたりまえに出来るって事が凄いことなのだと思う様になった」と松永君。そう言えば穐吉敏子さんのピアノクリニックを彼にも受けて貰った時、彼女から指の長さを羨ましがられ、リズム感をほめられていた。また彼には彼女の曲「ホープ」を採譜してもらったこともあった。ガンバッテネ。


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