盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.228 「山川モリマサ・NAOのムラサキのわけ」2015.5.25.盛岡タイムス
 2003年から4年頃、頻繁(ひんぱん)に開運橋のジョニーへライブで歌いに来ていた山川モリマサさん(59)は、当時10曲入りのファーストアルバム「桜のつぼみのあの時に」を、宮城県古川市のジャズスポット「花の館」のコネクションにより、ジャズピアニスト・大石学さんの編曲と演奏(カルテット)をバックに自作曲を唄ってリリース。当時僕も担当していたFM岩手の番組「オールザットジャズ」に2003年9月出演して生で唄ってもらいCDも放送させて貰った。
 今「桜のつぼみ・・・」を聴き返せばあの3・11の大震災でなくなった友人達のことが浮かんで来る様な内容だが、彼にとってこの曲は、当時営んでいた山川電子という町工場の同僚だった故・高橋敬子さんに捧げて書いた追悼歌だった。そして2005年にリリースした「ムラサキのわけ」、2012年の「福は君鬼は外」のCDにも収録してきた程、大切な歌曲。
 1956年1月24日栗原市生まれの山川護正(もりまさ)さんは築館高校から横浜市立大学文理学科と関東学院大学社会学部で学びながら、オリジナルソングに夢中になった。卒後何年かのブランクの後に書いた「桜のつぼみ・・・」を「花の館」のマスター・佐々木栄寿さんがピアノで弾いたことから評判になってのデビューだった。仙台市で次の「ムラサキのわけ」を歌っていた2013年、聴きに来ていたファンが、居合わせた仙台在住のプロ歌手・NAO(安田直美)さんに「この曲、NAOさんが歌ったら」がきっかけとなってはじまった、ジャズ歌手が英語の歌を引っ込めて、山川モリマサの日本語の歌を唄うプロジェクト。
 キャバレー時代最後の歌手としてステージに立って以来、28年プロとして仙台国分町を中心としながらも月2回は上京して歌ってきた彼女。ジャズアルバム「アイム・ア・フール・トウ・ウォント・ユー」に次ぐ「ムラサキのわけ」を2014年にリリース、演奏はもちろん大石学トリオである。「・・・すみれは教えるムラサキのわけ、遠い記憶の秘密を」彼女・NAOさんは今年から「デート(Date)FM」(仙台FM)で毎週水曜昼12時から25分間「NAOのお昼だNyao」で、音楽、食、健康、美容、などに関するトピックスをNAO流に放送中である。

幸遊記NO.227 「柴田輝二の自我像の私」2015.5.18.盛岡タイムス
 先週、先々週の幸遊記に次ぐ2度あることは3度ある映画の話。「典子は今」を製作した活人堂シネマの代表・柴田輝二さん(1917~1999)は、あの「ああ直立猿人」が没った翌年の1984年、事故で中途失明したヒロインが、盲導犬と共に明日に向って生きる「しのぶの明日」(日本ヘラルド配給)を製作。当時はまだ皇太子でした現天皇陛下もご覧になり、主演した紺野美沙子さんと、原作、脚本、製作者の柴田輝二さんの2人は東宮御所に招かれご懇談。
 その後、夢野久作の代表作小説を発表から50年を経て映画化した「ドグラ、マグラ」(シネセゾン配給)を発表。この作品は88年ベルリン国際映画に出品され、香港国際映画祭招待作ともなった。その柴田輝二さんの思想背景は、一貫した社会的弱者救済の一助となること。それは「個の主張」に基づく、反骨、反権力、反体制型の社会貢献であり、劇的因子を持った娯楽的価値観の追求でもあった。
 そして1990年から、99年に彼が亡くなるその日まで、それこそ死にもの狂いで完成させ150万人を動員させようとした劇映画「自画像の私」は、企画・製作から脚本、監督と、全身全霊を傾けて取り組んだAIDSがテーマの作品。3人の男と女の出会いによってもたされたエイズ感染という性と死の純愛ドラマ。
 画家をめざしパリへ渡った主人公がエイズに感染し帰国、美術教師だった父親の故郷、陸前高田を訪ね父の同級生だった僕、照井顕の店・ジャズ喫茶ジョニーへやって来る。その日はもう一人の同級生、日本屈指のジャズドラマーの追悼ライブが行われるというシーンが折り込まれ、主人公は献体登録して死を見つめながら自画像を描き上げるという内容。
 百年余りの映画史上初となる「三万人映画製作委員会」を立ち上げマスコミに発表。一般から出資金を募って3億円の製作費を調達し、町田康、手塚理美、剣持たまき、などが出演、中島みゆきがテーマ曲を担当するという段取りだったが「八年の企画歳月のストレスと遺作覚悟のシナリオ補訂の苦労でしょう、鬼の撹乱で9月から現在まで病態で作品にする精神力と肉体との相剋(そうかつ)です」という手紙が柴田さんから届いたのは、なくなる20日前、1998年の師走だった。自らも白菊会に献体し、この世を去って行った。

幸遊記NO.226 「斉藤耕一のああ直立猿人」2015.5.11.盛岡タイムス
 「斉藤耕一映画音楽の世界」というアルバム(1975年発売)が今僕の手元にある。このレコードは当時ビクターRCAのプロデューサーだった井阪紘さんが、2013年8月30日、何十枚も僕のところへ贈ってくれたレコードの中に入っていた一枚。その収録曲の中で目に付いたのは「旅の重さ」「約束」「津軽じょんがら節」。あの時僕の頭は1983年に戻って行き、その夜、柴田秀司さんに電話をして頼み事をした。それから一年半経った今年2015年3月26日、彼から電話があり「トランクルームの奥からやっと“直立猿人”の台本が見つかりましたので送ります」。で届いた本というのが、「ああ直立猿人」のあらすじ本と、映画撮影稿の台本。
企画制作・柴田輝二(活人堂シネマ)“輝二さんは柴田秀司さんの父”。脚本・監督・斉藤耕一(1929~2009)。登場人物、市原俊幸(藤岡琢也)、照井顕(松崎しげる)、三上寛(三上寛)、宮利恵(中原理恵)、照井美佐子(照井泉沙子)、他ジャズミュージシャンが多数出演する、夫婦三人、子供一人、犬一匹の三角四角関係ジャズ物語。それがなんと、撮入の一週間前、藤岡琢也扮するピアニスト・市原俊幸(当時63才)が急死したことから色々あって結果的に撮影に入れずじまいになった、又してもの幻の映画。
 柴田、斎藤両氏と新宿にあった市原俊幸さんの店に行き、彼の二枚組アルバム「わが青春わがピアノ」にサインしていただいたら「照井さん江、映画楽しくやりましょうね。」(83年3月3日)だった。飲んだその夜遅くタクシーで斉藤監督と一緒に自宅へ。ジャズのオーソリティとしても知られていた彼の家の中には膨大なレコードコレクションがあったが、僕は斉藤耕一さんが監督した映画を見たいと言ったら、レーザーディスクや、業務用大形プロジェクターで、先の三作を朝まで付き合って見せてくれた。
 四国へ放浪の旅にでた少女の物語「旅の重さ」。汽車の中で知り合った男と女の三日間の出来事と繰り返される音楽が印象的だった。「約束」。高橋竹山の三味線と斎藤真一の絵に触発されて作った音楽彷徨映画「津軽じょんがら節」の三作は今も僕の記憶に鮮烈に残っている。ああ、それにしてもあの幻映画で生れた子・直立猿人は今どうしているんだろうか?

幸遊記NO.225 「大和屋竺の幻のジャズ映画」2015.5.4.盛岡タイムス
 あれは1982年(昭和57)のことだった。前年、全国的なヒットを見せた映画「典子は今」(サリドマイド児の辻典子さんを描いた話題作)“松山善三脚本・監督”の次回作品として企画されたのが僕をモデルにした本格ジャズ映画。制作はシバタフィルムプロモーション(株・活人堂シネマ)代表の柴田輝二氏はとても意欲的で、元日活映画の監督で当時フリーだった大和屋竺(あつし)さんが脚本を書き、直接メガホンをも取るというものだった。
 当時ジャズは軽いロックのようなフュージョンが持てはやされていたが、僕は「日本人による日本のジャズの復権」をめざしレコードを制作、全国に向けて発売していた事から朝日グラフ、毎日グラフ、週刊宝石、などがジョニーを取り上げ、NHKでも全国放送したことなどから持ち上がった話。水谷豊、根津甚八、秋吉久美子、山下洋輔、等の出演による「ジャズに魅せられた男が地方の小さな都市でジャズを生活の中に持ち込んで活発な活動をしながら、日本ジャズの拠点を作るという軽さや、やるせなさをテーマ」に、制作日数5ヶ月、制作費7千万円、1983年1月に全国での封切予定!と、陸前高田にて記者会見したのが7月16日。しかし肝心要の脚本が年明けても出来上がらずに没となった。
 「映画を撮る時、僕は先ず音楽を先に考えたい。そうすりゃ映画ってのは、何とかなると思ってるんだ。だからジョニーの映画はやろうと思ってんだ。もちろん表現として世界に通ずるものをですよ」と、お世辞にも大和屋さんは7年後の平成元年に僕を東京日野市の自宅に招き語ってくれた事が、嬉しかった。
 大和屋竺(1937~1993・北海道三笠市生まれ)私立足立高校、早稲田大学文学史科卒、日活助監督八期生。監督作は若松プロの「裏切りの季節」「荒野のダッチワイフ」「毛の生えた拳銃」など。脚本は「野良猫ロック・セックスハンター」「八月の濡れた砂」「悲愁物語」「マタギ」「ドグラマグラ」「ルパン三世」などなど。彼が映画に憧れた決定的作品が黒沢明の「七人の侍」。本当は黒沢氏の弟子になりたかったそうだが叶わずじまいで、今村昌平氏のいた日活へ。「やるからには徹底的にやりたいと思うし、やってもらいたいのだ」と、それを実践した人。1971年の映画「八月の濡れた砂」(主題歌・石川セリ)は、今も数少ない僕のカラオケ用愛唱曲の1曲でもある。

幸遊記NO.224 「大場文隆の大般若縁」2015.4.27.盛岡タイムス
 68才の誕生日で「幸遊記」掲載日だった4月20日朝、僕はギターを鳴らし歌を唄った。所は宮城県気仙沼市南最知の太白山・海蔵寺(大場文隆・住職)の本堂。曲は摩訶般若波羅蜜多心経をうしろから唄う、僕流の「逆説般若心経」や「千年の響」「明日の今日(経)」「南無大悲観世音」「光の羽根」「潮騒の森」などの自作曲。
 「20日に寺で行事あるんだけど、始まる前にチョット唸(うな)ってみない?」。そう電話があったのが数日前で「前泊でもいいし、当日なら朝8時までに来て!」だった。寝たら起きれないので夜中に盛岡を出発して、気仙沼に着いてから、車内でウトウトし以前に何度か海蔵寺で唄った夢まで見ていた。目覚めて見れば、すでに多くの車々。くりに入って座ったら、和服姿の女性が運んで来たのは抹茶、そのおいしさに大感動。和尚は「持って来た(ギター)?」僕「はい!」「じゃ始めるから」と本堂へ。「盛岡からジョニーさんに来てもらったので唄って貰います」と和尚のあいさつで、僕へバトンタッチ。
 唄い終わって間もなく、本堂に出て来たのは白足袋、白衣、黒衣、木蘭の袈裟の和尚達30名程。机の上に置かれていた経本を物凄い速さでもって、パラパラ・パラパラ・波羅蜜多の如き開経掲。流れ落ちる滝の如きその圧巻的な美しさに只々見とれ、和尚さんたちの大合唱般若心経を聴く。集いとは、そう、全六百巻にも及ぶ「大般若波羅蜜多経」をひもとき読破する行事「大般若大施餓鬼会」だった。
 主催者、大場文隆和尚は、昭和24年(1949年10月4日生まれ)。考え方は血液型と同じ大(O)型。かつては気仙沼の鼎ヶ浦女子高校の教師だった人。もう一つの男子校だった気仙沼高校から駒澤大学へ。卒業後総持寺で修業、笹川財団に就職した経験から、単なる教科書解説員としての先生にはなりたくないと、人生を裏側から教える不良先生を自認。血の通った授業を実践し、地域紙・三陸新報にもよく投稿していた。外では歩くイベンターとも呼ばれ、好きなジャズピアニスト・穐吉敏子さんのコンサートを寺の内外で開いたりもした。そして今、気仙沼に「やすらぎ観音」の奉安を提唱し円成を願いながら、京都清水寺・森清範貫主と釜石大観音の石應寺との仲を取り持ち来る5月6日には「縁」の講演と一字揮毫会への協力に奮闘中である。

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