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この欄「幸遊記」の第113回(2013年3月4日付)で紹介した遠藤広隆さん(37才・ブライダル写真家)、彼は幼い頃から親しんできた馬たちをテーマに見すえ日本写真芸術専門学校入学時から、自然に写してきた南部馬のネガフィルム(36枚撮り)は、間もなく一千本に達するという。その甲斐あって今年2015年、写真集「南部馬の里」が岩手復興書店から発売された。それを期に、開運橋のジョニー15周年記念に開設した店内ギャラリーの第2回展として、彼の写真展「丸泉寺牧野」(岩手町の馬)を昨日(6月28日)まで一ヶ月間開催した。
馬好き高じて“馬のそばでくらしたい”と東京から最近盛岡に引越して来たという方のお話を聞かせて頂いたことも貴重でした。最も嬉しかったのは今月発売7月号「アサヒカメラ」誌に6ページにわたり、7枚の写真「南部馬の里」というタイトルで遠藤広隆さんの特集が組まれたことである。「農耕馬としては役割を終えた南部馬」と題す彼の文章も添えられていて「最近ではフィルムでの写真はやりづらい。それを考えると、フィルムや印画紙が減っていくのも、馬が減っていくのも同じだなと思う。馬たちが私の中で同調している」と。 写真展開催中の第2土曜日「五月柳の北上川へ鈴コチャグチャグ音響く」。ベランダから開運橋を眺めれば、渡り来る無形民族文化財・チャグチャグ馬コの行列。カメラ(フィルム用)を持って店を飛び出す僕。南部馬の立派な体格に圧倒されながら、目を馬の背に乗って手を振るかわいい幼子に移せば、とっさに浮かぶは「去年祭りに見染(初)めて染めて、今年や背中の子と踊る」の一節。80数頭の馬に見とれてる間には、頭の中ではビクター少年民謡会や井上一子、菅原やす子、古館千枝、佐藤みどり、坂下誓子、菊池マセ、高八掛智恵子等、レコードに吹き込んだ1960年代から80年代までの民謡歌手たちによる歌の競演。はたまた、チャング、チャングと創然な唄のように、又、蒼前とした神のように鳴り響く民謡の歌声。 かつては農耕馬の休息日と無病息災を祈願する素朴な民族行事だった様ですが、今ではそのチャグチャグの日だけが年に一度の大仕事になってしまった馬たち、ごくろうさま!ありがとう。
「無駄な語を省き、一語一語に意味を濃縮させた、短い美しい文章を書く。そのコツを小中学時代に徹底的に叩き込む教え方の米国。大学入試すら学力テスト以上に、文章での自己表現の方に一番ウエイトが置かれている」というようなことを、英会話教師として盛岡にやって来た石戸谷愛さんが語っていた。
あれからもう10数年もたったけれど、当時僕の店によく来ていたお茶屋の田代正さんを気に入って、こういうお父さんの息子さんとなら結婚したいと、まだ見ぬ男性に想いをはせたことから出会い、2007年に結婚。その朗さん(38)との間に生まれた祐詩(ゆうた)くんも間もなく8月で5才になる。 時折愛ちゃんと店にやってきて、都道府県庁所在地を各ブロックごとに言い、たし算、九九算、日本地図から世界地図、国旗、最近は元素記号やピアノに興味を持ち、そのすごい暗記力の一端を披露して僕達を驚かす祐詩くん。母の愛ちゃんも、今88才になった弘前の治子おばあさんに、編み物から、ソロバン、習字、ピアノなどに自然に誘導させられ、おだやかに育てられた子供だった。と振り返る。 愛さん9才の時アメリカの人と再婚した母と弘前で2年。デトロイトで半年。ヒューストンに8年住み、大学時代はボストン暮らし。そのボストン大学では言語学を専攻し首席での卒業。学生時代ロシアの男性歌手ヴェルティンスキーの「水兵の歌」や「私たちの部屋」にはまり、その歌を唄いたいがためにロシア語を、次にはシャンソンのフランス語などと、次々と何ヶ国語も勉強し覚えての帰国だった。 盛岡との縁は、ボストンに「イーオン」のオフィスがあって、そこで採用され、ラッキーにも、ふるさとの弘前に近い盛岡に配属されて来たのでした。2002年、会社のクリスマス会の会場探しのために僕の店に来たのが愛ちゃんとの出会いだった。確かに彼女はその会で歌も唄った。その後、翻訳会社や短大に勤務。現在は子育て中のため、自分自身の能力を生かしきれていないことから、経済的安定と社会貢献を考え、他国の人にどんな盛岡を発信してゆくのが良いのかを、日本人なら日本人らしく、それこそ真剣に、味噌汁やお茶で、顔を洗って出直すくらいの気構え心構えで自らに臨んで行こうとしている。
「開運橋のジョニー」が盛岡に来た2001年時の名は「陸前高田ジョニー」だった。行きたいが場所がわからない!といろんな人から言われ続けたことから、陸前高田を、開運橋に変えたのが2003年、あれからちょうど12(ジョニー)年になる。「開運橋のジョニー、いい名前ですね」遠来のお客さんが皆口をそろえる。地元や盛岡を知る人には開運橋だけで場所の説明にもなり、郵便も盛岡市と店の名前だけで届く有難さ。
その開運橋は今、塗り替えのための足場組立工事が、深夜10時から朝6時まで行われ化粧直しが終るのは12月。橋の歩道上に工事用のチカチカ灯が並んでいるのを見て浮かんで来たのは宮澤賢治の「そら青く開運橋の瀬戸物のランプゆかしき冬をもたらす」の大正時代のうた。平成27年(2015)の3月まで400回以上も本紙盛岡タイムスに「賢治の置土産」を連載した岡澤敏男さんの小泉とし夫名による「開運橋、大河の岸のネムの木の、茂みに今年も、泳ぐきんとと」のうた。 賢治作は当時出来たばかりの鉄骨製橋の欄干に瀬戸物製の油壺付ランプが灯されていた様子をうたったもの。とし夫作は、最近まで橋のたもとにあったネムの木に咲く、あかい金魚みたいな花が、それこそランプのように灯っていたうた。また「開運橋、遠い旅から戻って来た、雪のアーチの、白いリベット」では「2度泣き橋」(開運橋の別称)の由来話まで頭に浮かぶが、盛岡に転勤で来た人は、その後皆、出世するとの噂を聞くが、何せ2度泣き橋と言ったのは、かつて日銀盛岡事務所長の古江和雄氏だったそうだから、うなづける話。 僕の店も今はアメリカの古いジャズもアナログレコードで聴かせる様にしたが、それまで35年間続けた日本ジャズ専門からの大転換だった。それは僕にとって不思議ともいえる自然さだった。その原因もやはり橋にあったのだと今にして思う。盛岡駅が出来た明治23年、石井知事が有料橋として造った開運橋。その木造橋は何度か流され、大正3年に永久橋としてアメリカに発注した2連のトラス橋。当時は第一次世界大戦の最中、届いたのは1連、もう1連は海に沈められたために日本で製造、大正6年6月完成。まるでジャズ物語のような日米合作開運橋なのでした。現在の橋は昭和28年(1953)の完成!
「今、外山森林公園で“ハタケシメジ”が大量にとれてるんだって」とタブレットを見ながら女房の小春。「キュースケくんか?」と聞けば「そう、配達もしてくれるって!」というので「じゃ頼んで!」で5月4日持参してくれた。
その彼、高橋久祐さん(36)は盛岡森林組合の職員で盛岡市外山森林公園の管理人。外山から浮かんで来るのは、民謡外山節にうたわれる“日陰のわらび”。公園内入口の「外山そば屋」売店にある“わらび漬け”は正に絶品!年に1、2度外山に食べに行くようになって10年余りになる。 昨年の秋には、スエーデン在住のジャズピアニスト・ケイコ・ボルジェソンと一緒に行ったら久祐さんが公園内を案内して、キノコの話でケイコさんと盛り上がり「スエーデンにキノコ採りにいらっしゃいよ!」となった。それは、山に関することに精通する久祐さんという若者の研究熱心さと、その実践している姿に感動したからなのだった。 彼は紫波町上平沢自宅から1時間以上かけて車で通勤するスーパー木こり。現在90才になる俊子おばあちゃんに、家の跡継ぎとして洗脳?されて育ち、幼少から田畑の手伝い、ニワトリの世話、犬の散歩、牛の乳しぼり、牛乳缶を道まで一輪車で運ぶ等しながら紫波高校農業科、そして秋田県立短大農業科へ進んだ。小学校の時、友だちに誘われて入ったボーイスカウトは大学時代までやり、指導者にまでなった程のアウトドア派。 その趣味が高じての林業作業士。グリーンツーリズム・コーディネーターなどなど、様々な資格と顔を持つ。「何事も、興味あればとことんやるもの!運は努力の積み重ね」そう言いながら、しいたけ、まいたけ、ひらたけ、くりたけ、たもぎたけなど12種類ものキノコ栽培。そのキノコや山菜をのせた、外山の地粉で打ったそばを食べに、1日数百人が訪れる凄さ。 東京ドーム20個分もある91ヘクタールの森林公園は山菜の宝庫でもあり、彼は毎日ソバを食べ山を歩くこと半日。草刈、植林、木登り、炭焼き、リース作り。夏のキャンプ、野活ゲームの指導等々、体がいくつあっても足りないのに、何とその満ち足りた毎日を12年間も続けている自然体児なのだ。子供は5才になり、親戚のアベがいるサッカーに夢中だ。
千厩町(現一関市)の農村勤労福祉センターで1984年9月2日に開かれたシャンソンとタンゴのミュージック・あらかると「泉れい子&森川倶志(ともゆき)とアンサンブル・フォンティーヌ・ジョイント・コンサート」を、実行委員長の佐藤広徳さんに誘われて聴き、感激したことから、僕は、盛岡にあるタンゴの店「アンサンブル」に行くようになった。
アンサンブルは当時、3周年記念に藤沢嵐子。5周年記念に菅原洋一をゲストに迎え森川倶志(バンドネオン)花田慶子(バイオリン)熊田洋(ピアノ)による岩手県民会館大ホールコンサートを開催していた。あれからすでに30年、時折店に行く程度の僕に丁寧な手紙を添え、店の通信を送ってくれるタンゴ・アンサンブルに尊敬の念を持ち続け、今日に至っている。 森川倶志さんは1936(昭和11)年1月10日東京生まれ、中央大学在学中よりバンドネオン奏者としてデビュー。「坂本政一とボルテニア」の一員として1966年にタンゴの地アルゼンチンをはじめ、南米やヨーロッパを巡演。帰国後、タンゴの女王・藤沢嵐子が所属する「早川真平とオルケスタティピカ東京」に入団。のち自己トリオ結成。77年盛岡に出来た店「ローレライ」に3ヶ月契約で来演。それが好評で1年半も出演した。東京へ戻った半年後には、又、ファンに呼び戻され再び盛岡へ。そしてバイオリンの花田慶子さんと大通に自分たちの店、「アンサンブル」を79年に開店。 89年1月TVIで特集されてからは、バンド名を「森川ともゆきとタンゴ・アンサンブル」に改めた。同年夏、僕等が主催した「第2回日本ジャズ祭in陸前高田」の時、森川氏からお祝の金一封が届いてビックリ!胸が熱くなった記憶が今も残る。 10周年記念レコードを熊田洋。20周年記念CDを高田菜穂、平山(旧姓・渡辺)順子。30周年記念に松永裕平、工藤溶子、と店で育った各ピアニスト達と一緒にアルバムを録音、北の街盛岡にタンゴの砦あり!を全国に知らしめてきた。昨今タンゴが又昔日のように若い演奏者達によって復活してきたが、2013年88才で亡くなった藤沢嵐子さんと最後まで親しく心の交流をし続けた森川さんと花田さんは、今尚、日本唯一とも言えるタンゴの店を経営しながら日々演奏し続けている。 |
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