盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.223 「1947年の4月20日」2015.4.20.盛岡タイムス
 きょう2015年4月20日(月)は僕の68才の誕生日である。そのことから、僕が生れた1947年は一体どんな年なのだったか?と少し調べ書き。
 「日本国憲法」の施行。第1回参議院選挙(4月20日)。日本教職員組合(日教組)結成。6・3・3・4制発足し、9年間の義務教育。学問の自由。最高裁判所発足。独占禁止法。性の解放。田村泰次郎の「肉体の門」劇化上演。東宝「音楽五人男」(音楽を志す5人の男の友情を描いた映画で藤山一郎の唄「ゆめ淡き東京」(悩み忘れんと貧しき人は唄い、せまい路地裏に夜風はすすり泣く・・・サトウハチロウ詞)。二葉あき子の「夜のプラットホーム」。近江俊郎の「山小屋の灯」などのヒット。菊池章子の「星の流れに」を唄って大変な人気を得た天才少女歌手。“美空和枝”のちの“ひばり”出現。
 そしてジャズは、進駐軍(米軍)クラブに出演するバンドの格付け作業をGHQが終戦連連絡中央事務局(外務省下部機関)に依頼。「日本ミュージシャンズ・ユニオン」初代理事長・菊池滋弥の力を借り芝公会堂でのオーディションを手始めに横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、呉、福岡などで200バンドの格付けを行い、スペシャルA、B、普通A、B、C、Dの6つに分け、出演料が決められた。格付審査委員会(野川香文委員長)野川は淡谷のり子が唄った「雨のブルース」の作詞家で日本ジャズ評論の先駆者。
 それにしても戦中の昭和18年2月に廃棄すべき!とした米英盤「適性レコード」一覧表を公表し取り締まった国(情報局)。戦後は国(外務省)がその米英音楽を演奏する」楽団を率先して募集し格付け作業まで行ったという歴史の事実。
 又、アメリカではサッチモの“ペニーズ・フロム・ヘブン”、デジーガレスビー“ツーベースヒット”等のヒット曲。ノーステキサス大学で初のジャズ学位。日本ではジャズの専門誌スイングジャーナルが創刊された1947年、ジャズマンではピアノの加古隆、ベースの古野光昭、ドラムの小山彰太、ギターの川崎燎、サックスの大友義雄、ヴォーカルの中本マリ等が生まれている。僕は火事あとに先に建てた馬小屋にて生まれ、その後新築の母屋に移った同年、キャサリン台風での裏山崩落にあい家がつぶれ、その下敷きとなり顔にケガをしたが助かった。そして今もこうして生かされている。

幸遊記NO.222 「宮川武士のトヨタ、イオン、マーク」2015.4.13.盛岡タイムス
 1980年前後、三陸町(現・大船渡市)にあった北里大学水産学部の生徒だった宮川武士君(55)。丸くて大きな顔が口で二つに割れるみたいな、そうあの当時流行っていたTVゲーム「パックマン」の様に赤ら顔でテンション高く、僕の店「ジョニー」に来てはガハハ、ガハハと大声で笑っていた彼。すでに絵や版画に夢中だったが今も変わらず。
 当時大船渡市盛町にあった「第一画廊」の新津氏に見せられた一枚の絵。そして「この本物の画家をたずねて行き、話をききなさい!」と言われたが、彼はすでに大学1年の1977年、一ヶ月も荷物の受け取りを拒否し続ける人がいて、そのヤマト便の荷を手渡す役を買って届けた。差出人は宮内庁、受取人は画家・熊谷守一(1880~1977)その人だった。何度も断られたある日、玄関先で焚火をしながら虫メガネを片手にじっと蟻を観察していた彼に「僕も絵を描いてるんですよ」と言ったその一言で彼の表情が一瞬変わり「よし受け取ってやる。その代わり明日来て一週間泊れ」だったという。
 そこで体験したのは彼と奥様二人の和服での清貧この上無い生活や、昼にじーっと何時間も物を見、頭に入れたそれを夜に描く。描く時間よりも観察の時間がはるかに長いのだったと語る彼。将棋を誘われ知らないと言うと、「じゃ音楽を聴け!」と自らギーコギーコとひどい音のチェロを弾き聴かせ、ナイフとフォークでエビフライを食べさせてくれたという。
大学卒後、征矢(そや)広告デザイン室で働いていた時、入ってきた電通のコンペ仕事。言われたのは「Tの字のデザイン」をしなさい。何百と考え、最終的に次元を超えた宇宙をイメージしアンドロメダの大星雲をテーマに動いて見えるロゴを完成させた。使用社は、後、世界一のメーカーとなった豊田自動車だった。
そしてもう一つの日本一!それは、今をときめく「イオン」。そうあの楕円入りマークこそ、角ばったテクノロジーの字と、永遠に続く人間の愛の融合をテーマに彼が考え出した秀逸のロゴ。又イオンの前身、サティ(エリックサティ・作曲家1866~1925)の音楽からヒントを得た店名とロゴも彼の発案によるものだった。その彼は今も、赤帽で軽運送業をしながら、自ら手描きした小さな絵を各地のフリーマーケットにて百円で売る仕事?に夢中である。

幸遊記NO.221 「千葉岳洋のジャズの架橋」2015.4.6.盛岡タイムス
 大きな体をして、どっしりとピアノに向い素早い音も出す若きジャズピアニスト・千葉岳洋(たけひろ)君(24)。その彼を見ているとなぜかあの故・オスカーピーターソンの姿が想い浮かんでしまうのだ。開運橋のジョニーの卒業生で、プロのジャズドラマーになった柿崎幸史(たかふみ)君とのT・T・T・Trioライブで東京からの来盛演奏終了後、泊まるところが無いというので泊めることにし、二人でウイスキーを飲みながらおしゃべりをした。
 僕が、先ず驚いたのは、彼は東大を卒業してジャズピアニストになった点であった。8才の時自分で見つけた教室に通いピアノやエレクトーン。その後にファゴットを5年習い、仙台の東北学院高校時代には吹奏楽部に所属し、ほとんどの楽器をやったと言う程演奏が好き。だから当然なのだろうけれども、進学指導で進められたのは音大ではなく理系。一ヶ月で自分に向いていないと、文学部で美術史を専攻。19世紀頃の絵や文献に夢中になった。同じ絵を先生と生徒が見て言葉と目を磨く、それは楽器も一緒だという思いに至った。
 東大にもジャズ研究会やビックバンドがあり、一年の時から東大と慶応のビックバンドに出入りしトロンボーンを吹いた。高校生の時、吹奏楽の譜面を編曲していたことを活かし、大学時代からコンボやビックバンドの曲を作り始めて、その数は現在50曲余り。「コンテンポラリー、クラシック、ロック、様々な要素を取り入れ、あまり聴いたことの無い感じがする、自分の理想の曲を創る作曲家に!そして世界に爪跡を残せるピアニストになりたい!それが、漠然とした一番の目標!」という若い彼。
 ライブで印象に残った彼の曲「トナンクイロ」(イタリア語でかすかな星の光)同じフレーズの中でハーモニーの色が少しずつ変わってゆくブルース曲。「以前の僕はソリストの音に後から反応するというごまかし!今はバックに回る時、ソリストがどういう筋書きを考えているか、どういうプレイをしたいのか、普段の人隣りから読み取って先回りの音を出す。するとソリストもバンドのサウンドもアップすることに気付き、その架橋になる演奏が出来る様、自分でもソロの右、バックの左手で、言いたい事を音にする練習に打ち込んでいるという。

幸遊記NO.220 「熱田純生(あつたすみお)の響とコーヒー」2015.3.30.盛岡タイムス
 最後の名曲喫茶とも云えた「これくしょん」(紫波町高水寺土手)のマスター・小畑倉治さん(81)が、3月22日の朝(7時50分)膵臓(すいぞう)ガンのため、盛岡日赤病院で亡くなられました。翌23日午前11時、紫波町かたくりの丘斎場での火葬。喪主は小畑さんの長男・博司さん(初めてお顔拝見)でしたので、小畑さんが若返って目の前に立っている様な不思議な想いにかられる光景でした。
 その23日は僕達の店も休日だったので、昼は久し振りにジャズが流れる十割そばの「はらぺこ」で“だったんもり”をたべた。この店には様々な方達の色紙が沢山飾られていますが十年余り前に書いた僕の色紙、ソバとジャズをかけた「体によく聴く」もあるのですが、あの時「お礼です」とソバ代を受け取らなかったことも想い出しました。
 想い出しの連鎖で「東緑ヶ丘の新しい喫茶店“響”に行って来たよ!」と言っていた医師の八木淳一郎さん(“開運橋のジョニー”と“これくしょん”で、時折開いてきた“小泉とし夫・口語短歌朗読ライブでのギター伴奏者)のことをふと思い出し、女房と一緒に行ってみた。
 店に入るとすぐ、“響”という店名の由来がわかる大型のスピーカーが、4本専用のステージに立ち並び音楽を響かせているのでした。その中央には炎の見える薪ストーブ。カウンターに座ったら、かけてくれたレコードが「ジョニー・ハートマン」の歌、それにビックリしていたら、何と!次のレコードはフォーレの「レクイエム」、まるで古い友人が当然のように気を使ってくれた様な偶然に、女房は泣き出してしまったのでした。
 僕の店で使っている豆はKEY・COFFEEなのだが、何と“響”のマスター・熱田純生さんは、34年間KEY・COFFEEで豆の買付けや鑑定をしてきた人なのでした。定年で奥さんの出身地盛岡に来て土地を探し、店舗兼住宅を建て、昨2014年12月30日にオープン。本格的なロースター機を導入しての自家焙煎。昼にクラシックをタンノイで、夜はジャズをアルテックのスピーカーを、ウエスギの真空管アンプで鳴らす本格的な音楽喫茶。不思議なほどの自然な出会いに、僕は心の中で感謝しながら“小畑さんありがとう”と手を合わせた。

幸遊記NO.219 「佐々木茂光の県議ラッパ」2015.3.23.盛岡タイムス
 「気仙中学校の同級生だった畠山直哉君(幸遊記№63)が、銀座ニコンサロンで「陸前高田2011~2014」という写真展を開く(2015年3月25日~4月7日)ので、初日に行って来ることにしました」と、僕に言う佐々木茂光さん(57)。彼は陸前高田・住田地区選出の岩手県議会議員である。議会の会期中盛岡に居るので、僕の店にも友と連れたってやって来る。彼が県議になる前は、陸前高田市議を3期やって、県議選に立ち、2度目の挑戦となった震災の年に当選。現・県土整備部の常任委員会副委員長、県政調査会理事。
 市議会では現陸前高田・戸羽太市長と同期だった。津波で一千年前の姿に戻った陸前高田を、せめて高田松原だけでも12、5Mもの防波堤や水門を造らず、昔のように海水が行き来出来る自然的な古川沼や高田松原の再生をして欲しいと言う多くの人達の声を聞くにつけ、執行者である市長がそういうことに配慮しながら街づくりをしなければと気をもむ。かつてのリゾート(利増都)計画によって600億円もかけた「コースタル・コミュニティ・ゾーン」が地震津波という天災により一瞬にして消え去ったことを、教訓として重く受け止めている様子。
 県議選に当選した時、中学校時代バンドをやっていた同級生たちから、お祝いだ!と贈られたのがアルトサックス。「俺はバンド仲間ではないのだが、還暦の時に一緒に演奏しよう!ということだったのさ!」と笑う。「教育の原点って、俺は音楽だと思うんだ」と真顔で言ってニコッとする。宮城県北の気仙沼高校時代は「ヴァンガード」「ガトー」といったジャズ喫茶にも通った程の音楽好きで、地元消防団ではラッパ隊で吹いていた。
 かつての陸前高田には「喜のじ」という焼き鳥屋があった。うちわを使っての炭火焼「だっつぁん」と呼ばれた店の主人は、ギターを奏で、唄う客たちの伴奏をする歌声居酒屋。「先輩市議が新米市議の俺を喜のじに連れてってくれたことは、今でも忘れられない」。その時の常連客たちから聞いた音楽のような市民の声、それらを市議会に県議会に届けて来た漁民議員なのである。「広田湾産のカキは今、日本一の値を6~7年間キープし続けている」と誇らしげだ。

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