盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.243 「片山秀光の三迦葉(カッサパ)音楽」2015.9.7.盛岡タイムス
 「寺のスペースは地域の人達との共有のものだから有効に活用したい!」と、行政主導の文化を速度規制のある国道にたとえ、自分がやっているのは国道から外れた横道の、いわばあぜみち文化!と言いながら、寺子屋コンサートなどを開催していた宮城県気仙沼市岩井崎にある臨済宗・地福寺の住職・片山秀光さん(75)が開運橋のジョニーに来てくれた10年前「彼・ジョニーのスピリッツは北上川の如く流れ続けている」との走り書きを残して帰った。
 先日又ひょっこりと現れた時、1989年9月13日岩手県民会館大ホールで「SEA・JAM・BLUE」コンサートを僕が開いた時、藤間登三寿さんの創作舞踊・鬼子母神。「ケセン鬼の国(鈴木周二・作詞/照井顕・作曲)」の演奏を担当してくれたのが7人編成の彼のバンド・片松三津男グループ。はたまた95年7月29日、松島の瑞厳寺で僕がうたう般若心経を、守口忠成さんの尺八と一緒にキーボード演奏をしてくれたことなどなど思い浮かんだ。
 江戸時代より続く地福寺本堂を建て替え、落慶3年目だった2011年3月、あの大地震で被災。地域の家々が姿を消した地にそれでも唯一骨組だけを残して建っていた寺。九死に一生を得た秀光和尚は本堂を修復再興。自ら「音楽で未来への光をさししめしたい」と「めげない・にげない・くじけない」をテーマに三迦葉(カッサパ)という音楽説法グループを、彼の弟で、プロの国際派ジャズドラマー・バイソン片山と共に結成し、CD「未来にむかって」をリリース。以来全国の寺々にて「涙の数だけ心には情けの花が咲く」と歌いながらの大震災復興支援コンサートを今日まで開き続けている。
 その彼「弟、バイソンがプロのジャズマンを志したのは、仙台にジャズメッセンジャーズが来た時、私が弟を連れて聞きに行ったのがきっかけだったと、それをプロになったのちに弟に聞かされて、きっかけの大切さを思い知った」と昔に語っていた。カッサパがハワイで公演した時、その演奏は放送され、日本でその放送聴いたという三陸遍路みちを立ち上げた米在住の駒幸夫さんが寺に訪ねて来てビックリしたと言うので、僕が持っている1978年の「みちのく慕情、三陸みなと音頭」という駒さんのシングル盤レコードを見せたら、和尚二度ビックリ!

幸遊記NO.242 「糸坂昭子のママのママさん」2015.8.31.盛岡タイムス
 盛岡の喫茶店で一番老舗である本町の「ママ」は僕が生まれる15年も前から続いていて、今年2015年が83周年。現在のママである糸坂昭子さん(78)は3代目。2代目ママ節子さん(1924~2005)の姪にあたる。
創業者の三浦小沙さんは節子さんの母、広島生まれ。店の名前をつける時、当時まだ8才だった節子さんは母から「何がいいかな」と聞かれ、「大好きだったセルロイドのキューピーちゃんがいいと言ったの!」と節子ママから聞いたのは1988年。その時僕は、小沙(こしお)さんというステキな名前からして、きっと「キューッピットなママ」だったんだろうなと想像したことが想い浮かんだ。
「創業当時の音楽は蓄音機でかけるSP盤レコード。ハンガリアンラプソディ、チゴイネルワイゼン、アベマリア、ウィーンの森の物語、美しく青きドナウ、ドナウ河のさざ波、パリ祭、只一度の機会、などなど、モダンな店だったんですよ」とせつせつと語ってくれた節子ママ。戦争中「ママ」は適性語だと言われて「街」と名を変えても終戦直後の一年間は喫茶店は贅沢とされ休業させられたそうで、又珈琲が入らなくなって、こぶ茶や番茶を出した時期あったと言っていた。
開店当初、小沙さんの妹てる子さんも店を手伝っていて、当時店の常連だった医専(現・医大)の学生の一人がてる子さんと結婚し、現ママの昭子さんが生まれた(昭和12年)。縁とは不思議なもので節子さんが手術入院した時、昭子さんが店を手伝いに、父が故郷青森の無医村に開業していた津軽中里からやって来た1960年~62年、ママの常連で県職員だった方と知り合い結婚。以来盛岡暮らしだったから、節子さんが亡くなってから、節子さんのご主人(パパ)が、「あんたがやるんだったら」と、店を改装して(雰囲気は昔のまま)再開し、すでに10年目。「8月13日ママ(節子)さんとパパ(昇)さんが夢に出たの」と昭子さん。
節子ママ生きていたならこの8月26日で91才。年に24回ママの店内で開かれてきた個展やグループ展はすでに1.000回余り。3代に及ぶママの継続。まるで寄せ返す波のようだと思いながら、展示作品に目をやれば、大船渡出身の女流画家・三浦千波さんの波濤の様な絵画。

幸遊記NO.241 「伊藤ノリコの菩薩・ボサノバ」2015.8.24.盛岡タイムス
 話し方、話す声、歌い方、歌う声、笑う声、笑い方、その表情、そう全てが不思議としかいい現せない人が居る不思議。彼女は僕の36年来の友でギター演奏者の宮野弘紀さんの伴侶であり夫人の伊藤ノリコさん。年齢不詳の歌手である。生まれは岐阜県大垣市、国鉄職員だった父・新(あらた)と琴芸家の知江子(千恵子)さんとの末っ子。兄と姉の影響を受けて小学から洋楽ポップスを聴き、中学から声楽を習い武蔵野音大・声楽科を卒業。
 その後アドリブに憧れジャズヴォーカルを始め、ピアノの弾き語りでホテルのラウンジやピアノバーで日々の生活費を稼いでいたある日「セルジオメンデスとブラジル66」のヴォーカリストで、元祖ボサノバの人・ワンダ・サーに出会い「ボサノバのエキスを貰いたい!」と彼女に言ったら「ギターを弾きなさい!」だったと。
 それまでの人生設計になかったギター。リズム感を習いにカナリア諸島のツアーに行った帰り、運命的に、宮野弘紀さんに出会ったのだったという彼女は、ブラジル音楽の歌詞、そのポルトガル語の持つ言葉の美しさ、空気感、リズムとメロディが一体となる魅力にひかれ、すでに17年。自分で対訳詞もする彼女だが、歌は“カタカナ・ボサノバ”と謙遜し笑う。
 かのワンダ・サーは「私たちの世の中に現れた、驚くべき心地よさと才能を持つノリコ」と、2005年にリリースした、ブラジル・リオ録音の「A PAZ~平和」にメッセージ。一緒に演奏したジョアン・ドナートは「ノリコはこの上なく魅力的なカントーラだ。自分のスタイル、個性があり、自分が何をやりたいかを知っている。モダンで人の心をとらえる洗練された高い音楽性を持っている」と評価。
 2004年」、リオでワンダ・サーにギターの手ほどきまで受けている彼女は「本当に強く願う夢は叶う」と世界の平和を願いつつ録音した作品「平和」。2011年天災により多大な被害を受けた方々が一日も早く心安らぎ復興されることをと、願って制作した「フォト・グラフィア」それらの曲と共に彼女・伊藤ノリコさんは2015年9月6日に行われる「第9回いわてあづまね山麓・オータムジャズ祭イン紫波ビューガーデン」に夫でギタリストの宮野弘紀さんと初出演する。

幸遊記NO.240 「柳澤信広のJAZZANA人生」2015.8.18.盛岡タイムス
 夏になると、予告無しに横浜から来る柳澤信広さんも59才になった。「初めてジョニーの店に行ったのは1980年の8月だったけど、陸前高田市民会館で1977年に行われた、本田竹曠トリオの演奏会にも行ってたし、81年ジョニーズディスクを全作買って、会員にもなった。この旗持って富士山に登れ!とマスターに棒ごと渡され、登りましたよ。86年には秋吉敏子オーケストラ98年、秋吉・マンデーの親子初共演」と昔話に花咲く。
 85年8月に僕等が開いた「日本ジャズ祭・イン陸前高田」当時としては出演バンド数、日本最大のイベント。出演したドラマー・野中悟空はその直前の3日間、トラック荷台上での宣伝走行演奏で県内を廻り、道行く人々のドギモを抜いた。
 その悟空、ジャズ祭直後の8月下旬、閉山直前の日曜日、富士山頂ライブを決行。タイミングよく横浜から来店した柳澤さんに日本ジャズ祭の旗を持たせ、ジョニー特命係として登って貰った。ピアノやドラムをブルドーザーで山頂に運ぶ大胆な企画。フライデーという写真週刊誌を開いたら、演奏者の脇方で「日本ジャズ祭イン陸前高田」の旗を誇らしげに立てている男の姿(柳澤さん)がしっかりと写っていた。山の話に「一度も登らない馬鹿、二度登る馬鹿」というのがあるそうだが、彼はあの時一度だけ登った“利口者”。だが、見学した外人は「日本にもこんなクレイジーな者達が居たのか」と驚いた記事でした。
 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんのニューヨーク・自宅リビングに今も飾ってある一枚のパネル写真。それは1986年10月13日陸前高田市民会館(2011・3・11東日本大震災で流出)で僕等が主催したジャズライフ40年滞米30周年記念・穐吉敏子ジャズオーケストラ日本ツアーの一コマ。市民会館ロビーに並べた900枚の気仙杉にオーケストラのメンバーが全員でサインし、ナンバーリングしたその板を聴衆に配る直前の集合写真。オーケストのメンバーと一緒に並んで写っている熱々のカップル。それは新婚ホヤホヤだった柳澤信広・淳子夫妻の姿。縁は不思議なもので、彼は穐吉さんが昔から利用してぃる航空会社・ANAの整備士として格納庫でずうっと働いてきた人なのでした。

幸遊記NO.239 「山谷眞行の語らいの家・ゆう」2015.8.10.盛岡タイムス
 山谷さんと初めて会ったのは2003年~2004年頃。北上川上流の四十四田ダム近くで「カレー&喫茶ギャラリー・1244」という昼だけの店を、僕達が二人で一年間だけ開いていた時でした。そのギャラリーで彼の長男・悠人君たちが集う「工房・ヒソプアトリエ」で、橋場あやさんの指導のもとに創作した障害児たちのアート作品を展示した時だった。
 作品展の相談に来た山谷さんの奥さん・恵子さんは、その後開運橋のジョニーにまで、何度もご主人と一緒に、当時店に出演していたティアラ(ピアノ・さかもとちえ。ヴォーカル・はとおかみか“現・アンダーパスのヴォーカル”)の坂本さんと家が近所だからと聴きに足を運んだ。又、穐吉敏子さんが来演する時には必ず来てくれていたご主人・眞行さん(65)。
 彼は花輪鉱山の出身。田山中学、盛岡四高を経て上京。父のすすめで日本測量専門学校へ。その後4年会社勤めをしたのち、24才の時、土木の勉強もしたいと、新聞配達をしながら読売東京理工専門学校土木科で学び、30才でUターン。岩手で建設会社に25年勤務。55才でリストラになった時、年老いた母を引き取り、一年半一緒に暮らした。老いる、年をとるということと、介護する自分の姿を、二人の息子に見せたのだと言う。
 「その母の導きで今の仕事、デイサービス、“語らいの家・ゆう”を、岩手県立博物館近くに開くことが出来た」その名「ゆう」は彼の長男の名前からだが、さかのぼれば20代の新聞配達時代に、ジャズファンの間で評判の高かった評論家・悠雅彦氏にあこがれ、会社の近くにあったジャズ喫茶「ちぐさ」にも通ったというジャズファンらしい名付け方。
 最近になってその横浜の新聞販売会社の社長・佐藤さんがジョニーに現れた話をしたら山谷さんは「当時、中学生だった息子さんか?」とビックリ!。僕も山谷さんに「サインして下さい」と、30年前に出版した僕の本を差し出されてビックリ!。そういえば彼の奥さんから、1994年の「アルビレオ」創刊号に書いた僕の文章を何度も読み返していますと、手紙を頂いたことがあった。そんな山谷さんたちは今、次男の庸祐(ようへい)さんと一緒に、平均年齢86才の先輩たちと共にもう一つの未来物語を生きている。

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