盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.248 「時源澪の風馬・飛天散華七宝」2015.10.12.盛岡タイムス
 前回、チベットの今を映したドキュメンタリー映画「ルンタ」(池谷薫監督作品)のことを書きながらそのルンタ(馬の風)と呼ばれる小さな旗のむれなす音がまるで疾走する馬の蹄の音の様に聴こえるシーンのことを思い浮かべながら、僕は盛岡の南部絵馬師・故・鐙庵(あぶみあん)つと無さんの言葉を思い出していた。「お金というものは受け取るとすぐにお足になって飛んで行ってしまう。ありゃ“おハネ”と言うべきだ。世界全体が貧乏にならなければオレの幸福はありえない。我れに我が身なし、されば我れに子等なし、我れに財なし」とまるでチベットの人々の様な世界の平和を祈って我が身を焼射する如き言葉。
 その「つと無さん」が描いた絵馬(馬の絵)を遺族から著作権の使用料なしで(つと無さんの名前だけは表示)誰もが自由に使える許可を得たことから、地元で活用してもらいたいと願いを込めて、収集保存と展示を続けている、盛岡市神子田町の嶋岡商店の時源澪さん(60)。 
あの映画「ルンタ」の“願いは風に乗って天空へ”の様に、時源さんは「飛天」という名のウッドバーミング作品や「飛天散華双図」と題した七宝作品を制作。その絵柄は音符のような花びらがメロディとなって天空を舞いながら、またやがて天女の元に還ってきて花となる洋風羽衣絵(銀線輪郭絵)。深い青の宙(そら)に浮く天女の体重を軽くするポーズとその衣装の美しさは、彼女のもう一つの仕事である仏教マンガ家としての輪郭線の描き方が生かされており、それこそ「えもいわれぬうつくしさ」を表現した作品なのだ。
 その銀線七宝作品「飛天散華双図」は2015年第17回「伝統工芸・巧技ソサエティ美術展」で準グランプリに当たる東京都議会議長賞に輝いた。僕はその賞名を見て頭に浮かんだのは仏教での散華。いわゆる華の道ならぬ、議員たちの赤ジュータンのことだった。それはさて置き、時源さんは大本教教主の出口王任三郎氏の却本的物語(小説)「霊界物語」(和歌のセリフ)を現代語に直してのマンガ化を進めており、すでに23年。ようやく最終段階にさしかかったという。それこそが、じげんを超えた、みおづくしに光をあてる、風馬に乗った千の恵みの申し子(天女)なのか、とも思った。

幸遊記NO.247 「池谷薫の映画“ルンタ”の願い」2015.10.5.盛岡タイムス
 9月19日から盛岡で上映中のドキュメンタリー映画「ルンタ」の池谷薫(いけやかおる)監督から「“先祖になる”でお世話になった池谷です。明日夜7時から盛岡中劇で新作“ルンタ”の試写会を行います。非暴力に込められたチベット人の心を描いた映画です。お忙しいところ恐縮ですが、ぜひスクリーンでご高覧下さい。本当に観て欲しい映画なので何卒よろしくお願いします」のメールが届いた。
 その非暴力とは、2009年以降、中国のチベット族居住地域で僧侶や住民による焼身自殺抗議のこと。チベットでの中国の圧政に対する抵抗を示すこの焼身は2015年3月3日で141名。彼からメールが届いた日の一週間前、8月31日北京共同通信は27日チベット族の50代女性の焼身自殺を配信。女性が住む村で警察や地元役人ら150人が違法建築だとして多くの村民の住宅を強引に取り壊したとあったばかりだった。その又一週間後中国政府は「チベットの各民族を指導し貧しくて遅れた古いチベットを活力あふれた社会主義の新しいチベットに発展させたと強調する最高指導部の祝賀大会演説。チベットの独立や高度な自治を求める動きへの引き締めへの強化をしめした形だ。
 「蟻の兵隊」(日本兵2600人山西省残留の真相)。「人間を撮る」(魂を、命を、欲望を、尊厳を)の2冊の本、そしてNHKアーカイブからの穐吉敏子DVDを持参し、2010年5月20日、僕の前に現れた(有)蓮(REN)ユニバースの池谷薫さんは、1958年東京生まれ、同志社大学文学部卒。12本のNHKスペシャルを含むTVドキュメンタリーを数多く手掛け、初監督した映画「延安の娘」2002年はカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞に輝いた他数々の賞を受賞。2作目の「蟻の兵隊」(2005)は記録的なヒット作。「先祖になる」(2012)は陸前高田で撮影され、ベルリン国際映画祭特別賞、香港国際映画祭グランプリ。文化庁映画大賞を受賞した。
 2015年9月16日中劇の幾田和美社長と一緒にジョニーに立ち寄ってくれた池谷さんは、あらためてルンタを観ながら、人を喜ばせる利他心,おおらかで明るく、いつもうたっている人々の姿から、宮澤賢治のことばが想い浮かんだという。そういえば昔、岩手は日本のチベットといわれていたことを僕も思い出しました。

幸遊記NO.246 「FM岩手・復活!一夜限りのオールザットジャズ」2015.9.28.盛岡タイムス
 この10月1日(2015)FM岩手が開局30周年を迎えるという。30年前の1985年は、まだまだジャズが熱かった時代である。メディアはレコードからCDに変わったばかりの頃で、新しいFM岩手はCDの枚数が日本一とか言ってのスタートでした。開局にあたっての自社番組として「ALL・THAT・JAZZ」の企画書を陸前高田のジョニーへ持参してくれた故・岡部敏男編成部長。
 内容は、一関・ベイシーの菅原昭二さん、盛岡・伴天連茶屋の瀬川正人さん。そして僕、陸前高田ジョニーの照井顕が、週代わりで担当するというものでした。実際番組が始まった時には菅原さんに代わって、大槌のクイーン(岩手最古のジャズ喫茶、3.11の津波で流失)の佐々木賢一さんによる三人でのスタートでした。
 数年して佐々木・瀬川の両氏が降板、その後10人程の様々なパーソナリティが去来したが、何故か僕だけは変わらず、結局番組が終った2010年9月までの丁度25年間、パーソナリティの一人として番組を担当した。FMのディレクターも岡部さん、斉藤純さん(現作家・石神の丘美術館長)、大川原義明さん(現・青森朝日テレビ)、小田島大さん(現・FM岩手)と変わってFM岩手開局からの職員は小田島さんと大野美栄子さんの二人だけの様子。
 僕は専門だった「日本のジャズ」をそのシンボル的存在でNY在住のジャズピアニスト、穐吉敏子さんを中心にすえ、彼女があのヴィヴァルディの「四季」を凌駕するつもりで書いたと言っていた組曲「森田村の四季」の全曲や「ヒロシマ-そして終焉から」(広島で初演した一ヵ月後に9.11のニューヨークテロ)の全楽章をノーカット放送したことは、僕にとっては誇り。もちろん幾度となく番組にも出演してくださった穐吉さん。たぶん民放では一番の回数でしょう。
 番組が始まって数年の頃からアシスタントとして全週のコーディネイト役を最後までやってくれた故・沼田智香子さんのことなどが想い出されますが、FM岩手では30周年を記念し、10月1日の深夜26時(2日午前2時~3時)一夜だけのALL THAT JAZZを復活してくれるという。案内役は石田麻衣さん、話し役は僕、よかったら聴いてみて下さい。

幸遊記NO.245 「大野加奈の銅板画・木曜日の花束」2015.9.21.盛岡タイムス
 只今(2015年9月)僕の店「開運橋のジョニー」で開いている銅板画展「木曜日の花束」の作者・大野加奈さん(62)のことを知ったのは1990年代なかば。加奈さんの大親友だった故・黄川田芙美子さんからの紹介だった。当時僕の店があった陸前高田市大町商店街が運営していた「まちかどギャラリー」の隣りが「ジョニー」だったこともあり、98年10月、ギャラリー開設5周年企画として僕が看板を書き展示させてもらったのが大野加奈さん(さいたま市在住)の銅版画展「うさぎの招待状」だった。
 芙美子さんは犬猫を飼い、うさぎも好きだったようで、僕の店に置いていたマイカップにはピーター・ラビットの絵が描かれていた。彼女は加奈さんと同じ1953年生まれでしたが、2011年3月11日の東日本大震災で57年の生涯を閉じてしまったのです。あの年は卯年。「うさぎの招待状」ならぬ芙美子さん用の「蔵書票」を加奈さんが制作して出来上がった途端の出来事だったと、まもなく加奈さんからその芙美子さん用の一票が僕の手元に送り届けられたのでした。
 1980~90年代の頃、僕等が主催する大きなジャズイベントの時には必ずスタッフになり、前売券をさばき広告までも出してくれたし、頭が良く心顔の美しい人。津波直後、陸前高田駅周辺唯一の目印は、彼女が経営していた「黄川田薬局」のビルだった。「彼女とは東北薬科大学時代の1年生の時から下宿先が同じ、3年生から卒業まではアパートの同じ部屋でくらしたのよ」と加奈さん。
 新潟生まれの彼女は今老いた母の介護でふるさとの新潟と埼玉の二重生活。作品は何かを手本とするのではなく、本を読んだり空想したりと、頭の中に浮かび上がってくるものを作品にしているのだと言う。その作品一つ一つのタイトルみたいな「マリーの休日」「夜明けの夢」「旅物語」「アリスの庭」「朝のリズム」「午後の夢」「蔵書票」等々、それぞれの物語が書けそうなくらい不思議な魅力に満ち溢れている。そういえば、去る7月盛岡の「盛久ギャラリー」で行われた巡回展「私の蔵書票展」に、彼女の作品も展示されていたはず。なのに僕は顕(けん)忘性にかかって見そびれてしまったのです。ごめんなさい。

幸遊記NO.244 「騒恵美子のGAYAと阿部薫」2015.9.15.盛岡タイムス
 つい先日の2015年8月下旬、静岡から木戸良・容子さんという40代のご夫妻、9月上旬、栃木県那須から井戸田秀行さん、彼らは共に中学、高校生の頃に見たTV番組「PRE・STAGE」(1991年12月19日の午前零時55分から午前4時30分までの生放送)の記憶をたどって、僕の店「開運橋のジョニー」にたどり着いたのでした。当然僕の頭の中も24年前に戻って五木寛之、平岡正明、相倉久人、三上寛、芥正彦、山川建一、PANTA等の寄せ書きがあったはず!と五木寛之ファイルの中から取り出して彼等に見せながらの想い出話。その番組は、作家の五木寛之さんを中心に進行、司会はあの蓮舫女史。伝説のサックス奏者・阿部薫を特集した異形の天才シリーズの第一回目だった。
 1979年9月9日29才の若さでこの世を去った阿部薫。生前「なしくずしの死」というアルバムのみを発表していた彼だが、死後は「阿部薫覚書」「ぼくらの阿部薫」等等の出版をはじめ、ライブ音源がレコードやCD化されて続々と発売になり、まるでブームの到来だった。20才にしてすでにインプロバイズドミュージックとしての自己スタイルを確立していた彼を様々な角度から語る番組。当時僕が月刊・農業富民(毎日新聞社刊)に連載していた「音楽の種まき」に書いた「阿部薫のラストデイト」を読んでくれた五木氏から彼のゲストとして呼ばれ出演したのでした。
 その番組には、阿部が根城とした東京初台のライブハウス「騒」(1977~1984)の恵美子さんと福島のライブハウス「パスタン」の松坂敏子さんの二人も出ていて、阿部を知らない人の話にはニラミを効かせていた顔やことばが浮かぶ。その騒恵美子さんは現在の僕の年令と同じ68才の2011年10月20日癌で亡くなっていました。
 それを知ったのは彼女が書いた本「ライブ・アット騒」(2011年12月発売)でだった。彼女は本の全原稿を提出した9日後に、地元静岡の病院で永眠したとある。この本の副題である「阿部薫・鈴木いづみ、フリージャズメンとの日々」に当時陸前高田のジョニーにも出入りしていたジャズメンも続々と登場する。おもいのほか読み易い文章で、プレステージTVの第8章では、僕の名前と僕の言った一言まで拾い書き出されていたし、五木氏の奥様玲子さんとのその後の電話のやりとりも興味深く読んだ。

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