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「人間っていいものです 神様がつくった一番いいものです 人間は亡くなる時 なーんにも持っていかないけれど 言葉を残します 言葉は宝物です 一人一人みんな違うけれど言葉を残します 心の言葉です」詩集「瞳」と、手作りの詩集から僕がいつも持ち歩いている手帳に拾い書きをしたのは2003年の秋、とある喫茶店でのこと。それは手作りの詩集だった。
その翌年(2004)の秋、童話「かじやの権三」に出合った。その又翌年には、大先輩から「紫波の権三ほーる」さんからの個展話をいただき、出向いて見たら、館主はなんと詩集、童話集の作者・畠山貞子その人で、ビックリ!展示はその又翌年の2006年1月開催で「ジョニー・てるいけん・ワールド」と題され、僕の詩書、写真、アート、自作自演ライブという盛りだくさんの5日間でした。 以来貞子さんのもう一つの仕事でもある新聞配達、その休刊日前夜には開運橋のジョニーに手作り菓子を持参してくれたり、時には趣味のアコーディオンを弾いてくれたりと他人の空似みたいな、きょうだい付き合い。2009年には彼女が出版した心で語る童話集「一杯の御飯」の題字を僕に書かせてくれたりした。 「水に学ぶ物づくり」と称し自宅の井戸水を使っての和紙づくり。その和紙でつくった、和とじ手作り本の数々。「お話童話・いじわるをしたお地蔵さん」「テコのおしゃべり集・心のすきま」「おばあちゃんが語る12のお話」「たつみせいかのどうよう詩63」などなどの他「はるかなる満州・畠山アヤ子」「紫波町日詰の先人録」「紫波の鐘つき堂・横澤重雄」などの編集、出版などすでに20冊近い手仕事はまるで物語の亀さん!。 畠山貞子(恭三の二女)昭和23年2月(1948)紫波町日詰生まれ、盛岡二高卒。職業訓練校でOAデザインを学び、歴史と文化活動の「どっこ舎」に所属し内城弘隆氏著の「巽聖歌の詩と生涯」の版下を制作。平成10年(1998)から6年間学んだ杜陵高校通信科。そこの先生、故・遠山英志さんに彼女が文章をほめられたことから文を綴ることがやみつきになったという。その師・遠山さん(盛岡タイムスに連載していた伝承の周辺・盛岡真人)の拾遺集を2012年に編集を手掛け恩返し!コテコテのテコテコ流石です。
「36年間務めて定年になったけど、まだ仕事しててさぁ」とニコニコしながらビールを飲んでひとりジャズを楽しむ富樫和由さん(64)は、横浜在住だが昭和から平成にかけての3年間程盛岡に住んで、一生懸命仕事をした。県営野球場やアイスアリーナ、産業文化会館アピオ、北上詩歌文学館、大槌中央公民館、宮古球場、山田球場などの椅子。矢巾田園ホールの陶板壁画、陸前高田の野外活動センターの遊具やベンチテーブルなど、相当数手掛けた人。主はコンサートホールやスタジアムの椅子納入の仕事。国立競技場、サントリーホール,埼玉アリーナ、日産スタジアム、大阪城ホールなどの外、東大、早大など学校関係。
今、盛岡に来ているのは16年前に設置した岩手県立大学野外オブジェ(大理石で創った彫刻・5つのエレメント、アメリカ人・ラリー・カークランドの作品)を、メンテナンスしに来ているのだという。彼は北海道釧路市出身。釧路市といえば、僕が高校の修学旅行の時に見学した歌碑「しらしらと 氷かゞやきやき千鳥啼く 釧路の海の 冬の月かな」の石川啄木の歌がいまだに忘れられなく、あの時見た釧路の海の風景と共に、すらすらと浮かび上がってくる不思議。 あの釧路で、美術大学を志望し、札幌に出て予備校に通っていた苦い時代に、彼が出合ってしまったのが「ジャズ」だった。札幌に現在もある「ジャマイカ」というジャズ喫茶に通い、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、ジャック・ジョンソン、ジョン・マクラフリン、ウェイン・ショーター、ミロスラフ・ヴィトス等にはまりにはまって、東京に出てからはマイルスを聴き、リターントゥフォーエヴァーのチック・コリアにはサインまでもらった。あの1970年代は自分にとっての「ジャズの宝庫」だったと言い切る。 彼は旭川東海大学のデザイン科を卒業してから、現在の会社でずーっと、椅子をはじめとするタウンアートコーディネイター役を、営業というかたちで今日まで果たしてきた。スポーツや音楽を観戦・鑑賞する側の満足度合いは、座る椅子に大いなる関連性があるということを、彼は、きっとジャズ喫茶の居心地の良さに置き換えてきたのかも?。
2015年の今年30周年を迎えたFM岩手、その記念の特番で10月1日の深夜に「復活一夜限りのオールザットジャズ」が放送され、僕の声を聴いたよ!という方が何人か居て気を良くしていたら、翌11月、岩手大学や名古屋大学の教授たちと一緒に来店した宮城県砕石協会・専務理事の高橋幸悦さんがマスターも一緒にと言うので、ワインを御馳走になりながら会話。
彼は、かつて陸前高田にあったジョニーにも盛岡の地下にあったジョニーにも来た事があって、一度は僕が長崎に行く(穐吉敏子さんのコンサート)時で、店の中ですれ違ったという。すみません。その彼から出た話が「FM仙台に出たことありましたよね」だった。「あー!とっくの昔に忘れていましたが、出た記憶があります。たしか板橋恵子さんの番組だったような?」と僕。 彼は「ジャズ喫茶といえば外国ミュージシャンの演奏が定番なのに、陸前高田のジョニーは、開店10年目を迎えても、ずーっと日本のジャズ専門。しかも日本の知られていないミュージシャンのレコードまで作って世に売り出すことをやっていて、そのレコードをかけていましたよね」と、彼の口から出て来た内容に僕はビックリした。「当時僕は30代半ば、のめり込んでジャズ番組を聴き、録音し毎日寝る時に聴いていた。ところがあの放送を聴いて照井さんにあこがれ、リタイヤしたらジャズ喫茶のおやじになりたいが夢でした。なのに、まだサラリーマンやっててね」と笑う67才の彼。そのFM仙台の放送(1984年11月24日)がCDにダビングされ2015年11月18日僕の手元に届いて感激! 更に、数日後には、失業して奥様の実家(山形)で世話になっていた時、関わったサックスの故・アート・ペッパー・コンサートを録音したそれが2枚組のCDになってるんですよと、その「ライブアット・ヤマガタ‘78」(販売・バップ、1990)のCDも送ってくれた。もう少ししたら、当時の秋吉敏子さんが出たNHK-FMやスタジオライブの放送などCD化して贈るという。奥さんに捨てると言われて車のトランクに緊急避難させたカセットテープがこんなに喜ばれるとは!と電話の向うでうれしそうでした。
FMチューナー、Wカセット、レーザーカラオケ、CDプレイヤー、AVアンプ、スピーカー等、かつて主人が使っていたものを自分でも鳴らしてみたいと、俳人の菊地十音さんに頼まれて、それらのステレオ・システムのメンテナンス修理をし、簡単に使える様セッティングし直したら「こういうものもあるんです」と持ち出して来たのが、なんと蓄音器!
その立派な美しい姿に見惚れていると「持って行って!」というので頂戴して来た。それは、1900年代初頭に一世を風びしたラッパ式蓄音器を、桜材を使った本体と10枚の真鍮(しんちゅう)材を張り合わせラッパを手工復元した1973年製電気蓄音器。とても音がいいのにビックリ! 僕は自分の店の音響システムでも、78回転のSP盤も聴ける様にしてあり、兄が集めていた昔のラッパ式蓄音器も1台貰って来て時折鳴らしてはいるのですが、電蓄の音はとても気に入った。興味を持ったお客様には1曲かけると感激してくれる日々。このラッパ式電蓄はリムドライブ方式でセラミックカートリッジを使用。最大出力5ワット、重さは7kg。そこはかとなく時代を感じさせる。 僕が持っているSP盤レコードは昔日に貰ったものがほとんどですが、最近もチョコチョコくれる方がいて、その数300はあろうか!だが、その半分以上は、かつて「おじいさんが聴いていた浪曲ですよ」と、店に来る度に、10枚、20枚と持参してくれたのがこの電蓄をくれた菊地十音さんこと章子さんでした。おじいさんが使っていた立派な蓄音器は、小屋に置いていたら、雨漏りでだめになってしまっていたことから、亡くなられたご主人が、この復元されたラッパ式電気蓄音器「グラフォフォン」を買ったものだったという。 あらためて聴き直した川田義雄の「浪曲セントルイスブルース」、サッチモの「ニューオリンズ」、大西玉子の「外山節」、美空ひばりの「あきれたブギ」、島倉千代子の「りんどう峠」、織井茂子の「黒百合の歌」、等等に気持ち新た。2015年11月25日付朝日新聞には、20代~30代を含む全世代でアナログレコード(LP)の人気が再燃し、TOKYO-FMは10月から「アナログ、ガラパゴス」という番組を始めたとあった。
今年(2015年)8月「さんさ踊りを見に行ったのですが、店に寄れず残念でした」。とメールがあった翌日の13日、1冊の本を「宮城健さんから預かってきました」と店に持参してくれた方がいた。その本は「奈知安太郎画集」で1979年6月、奈知安太郎画集刊行会、吉田孝吉代表が出版したもので第119番のナンバー入り。「僕が持っているより、ジョニーにある方が宜しいかと、、、、」とメールも届いていた。奈知安太郎さんという人は1909(明治42年)盛岡仁王小路生まれの画家。橋本八百二、松本俊介、野村千春、栗木幸次郎、藤田嗣治、草野心平、シャガール等と親交を結んだ洋画家で裸婦や裸婦の群像画を得意とした方。
その中にある裸婦習作2点のモデルになったという人に、ある時仙台で出会った宮城さんが、古書店を探し歩いて10年前に見つけたものだったという。そのモデルさんは八戸出身で学生時代に盛岡でのこと、その女性の祖父は宮澤賢治からのハガキを持っていた人で、そのハガキを彼は彼女に見せてもらい、コピーも取ったと自慢する。 その宮城さんは宮城県生まれの父母の間に1944年5月11日東京にて生まれたが、誕生から45日後に兵員として父が出征したため、宮城県塩釜市で育てられた。終戦後戦死したはずの父が戻って来て94才まで生きたのと笑う。彼は仙台商業高校を卒業してサントリーに就職。宣伝、営業、物流の仕事に携わりサミーディビスJrのホワイト、オールドのCM音楽、トリスのジャズゲーム、などなどCM撮りの場にもいたので音楽と美術に親しむようになり、ジャズに興味を持ったという。 3・11の震災後には音楽家協会が東北のジャズを応援しようと開いたコンサートを聴き、パンフレットに載っていたジャズ喫茶の全てを廻って歩いてみようと、何度も東北に足を運び、それこそ仮設で再開した陸前高田のジョニーへも行ってきましたよ!と笑う宮城さん。開運橋のジョニーにも何度も何度も足を運んでは、各地のジャズ喫茶の状況を写真とともに知らせてくれる根っからのジャズファン!。そのミヤギケン、テルイケンのケンケン遊びは古くて、懐かしく、新しくて、楽しい。 |
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