盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.268 「橋本潤一の日本のことわざ米国編」2016.2.29.盛岡タイムス
 来る3月4日~9日(2016)「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」(JTB)に参加する人達のESTA申請をしていたら、NYから僕の店に来たのが、JUN!さん(橋本潤一・66才)。やあ久し振り!。彼はアメリカ・ニューヨーク在住のベテランデザイナー兼イラストレーターである。そこで思い出したのは2003年のこと。30年間持続した穐吉敏子ジャズオーケストラ、最後のコンサート(10月17日・カーネギーホール)とライブ(12月29日・バードランド)のNY公演。当時盛岡の広告会社に勤めていた森隆朗さん(現・41才)と知り合い、憧れのデザイナーがNYにいると聞き、名前を尋ねたら橋本さん。そこで12月NYへ僕と一緒に行ったら会えるよ!でNYへ。そこで橋本さん紹介の会社へ就職内定。6年後には日本へ戻るはずが、すでに12年のキャリア。
 森君憧れの橋本潤一さんは宮城県気仙沼市の出身。日本の諺(ことわざ)100編をイラスト入りで英訳。「猿も木から落ちる」として1987年に米国で本を出版した人。彼は気仙沼高校を卒業。岩手大学特設美術科へ入学。バイトで新聞社の広告局でイラストをやり、長澤節の本に感化されて大卒後に上京し、セツ・モード・セミナーの学校に入学。卒後広告代理店に入ってはみたが、アルバイトのイラスト仕事が給料より多くなり、1年半で独立。
 更に若いうちに自分の力を海外で試してみたいと思いをめぐらしていた1979年、ひょんないきさつからNY在住のステンレス版画家の佐藤正明さん(現・75才)が「日本での展覧会のため3ヶ月間空くNYのアパート、アトリエを含めて全部使っていいよ」となって奥さんとNYへ。そこでディスプレイのレタリングによる完成予想図などの仕事が沢山あって何百枚も描いたという。学生ビザのつもりが一年半後にはグリーンカードがとれたほど、人と仕事に恵まれ、困った英語も「JUN!英語下手でもガッカリするな!オレのイタリア英語はもっとひどかった。それが今では何人も使っている“ユーキャンドウ!”と言ってくれ、6人ものアート・ディレクターを紹介してくれ涙。その人達も次々と仕事をくれた。又、90年代に手仕事がコンピューターにくわれ始めた頃、ゴルフ仲間がリタッチという広告写真修正を教えてくれ、その頃出来た新会社の社員として現在があるのだという。持つべきは、友と仕事と、なぁ酒(情け)よ!。

幸遊記NO.267 「新沼好文のシンパシー・ナーヴァス」2016.2.22.盛岡タイムス
 2009年、東京のレコード会社「ウルトラ・ヴァイヴ」がディストリビュートしてくれた僕の自曲自演自唱CD「般若心経・照井顕&テクノ楽団」。その時のテクノ演奏(1997年7月録音)を担当してくれたのが宮古市在住のシンセサイザー奏者・新沼好文さん。あの世界一ポピュラーな、般若心経に勝手な節をつけて僕がギターで歌い、圧倒的な音圧のリズムにのせてシンセサイザーで演奏したそれは「生きるための経(今日)を楽しむ、明日のための今日(経)歌」。
 1970年代、テクノの草創者の一人であった彼は80~90年代「シンパシー・ナーヴァス」「Dr・NUMA」「O2・SOUL」と3つのネームで活躍、特にも95年のベルギーのKKレコードと専属契約を結んだ頃から、ダンスミュージック・テクノとして欧州に紹介され、97年5月には、何と!ラジオ・イタリア・ネットワーク・トップ100にて2週連続No1に輝き、その後もしばらくの間上位にランクされ、LP、カセット、CDなど10作以上が世界のテクノを席巻した。
 「シンセサイザーでやれることは全てやった」と言っていた彼。その原点帰りともいえる世界最古の電子楽器「テルミン」の試作研究を行い2002年から製作を始め、2年後には寒暖の影響を受けないチューニング方式を完成させ野外でも使えるプロ用器種を発売したら全国から注文が来て製作が追い着かない様子でした。テルミンとは、ロシアの物理学者・レオン・テルミンが1920年に発明した電子楽器(高周波を利用し楽器に手を触れずに空中演奏する)。
 そんな彼のスタートとなったのは中学時代、先生に「こんなに聴きやすい電子音楽があるんですよ」と聴かされたNHKFMの試験放送。「それをきっかけに未知の音楽をやってみたくなった」と言っていた。そんな話から僕が担当していたFM岩手の番組の第5週分を彼に譲って、テクノを放送してもらった時期もあった。そして彼のスタジオ兼工房があった宮古市鍬ヶ崎は、あの3・11の津波でさらわれ、町が消えてしまっていた。新沼さんはどうしているのだろうと、何人かに聞いていたら「品川に住んでいる娘さんの所に行っていたらしいが2年前(58才)に亡くなられておりました」と、2015年に探し知らせてくれた人がいた。

幸遊記NO.266 「紺野郁夫の福服・シャイな人生」2016.2.16.盛岡タイムス
 あれは1981年2月。「マスター!オレ、グアムに行って来たんだけどさぁ、これ、おみやげっす!」そう言いながら、常連の紺野郁夫さん(現60才)が、照れくさそうに差し出した1枚のLPレコード「バード・オブ・パラダイス」渡辺貞夫(as)がチャーリー・パーカー(as)にちなんだ曲を、「グレイトジャズトリオ」ハンクジョーンズ(p)ロンカーター(b)トニーウイリアムス(ds)と一緒に1979年5月にNYで吹き込み1980年に出たアメリカ盤。とても嬉しかった記憶が今も強く残っている。
 「あの3・11、陸前高田から東京に行った時で、電車降りてホテルに向っていたら地震でさぁ、御蔭様で命拾いしたっすよ!父は入院中だったけど移されてすぐ亡くなってさ、母は今老人介護施設に、俺は一関でみなし仮設住宅のアパート暮らし、仕事は昔も今もスーパーマンで朝6時から夕方3時まで時給+アルファーの825円でさしみ切りっす!」
 そう言いながら、沖縄展をやってるっていうから盛岡来て、これ買って来たから一緒に飲もう!と袋から「千年の響」というかめ壺貯蔵7年の琉球泡盛!独特の香と深い味わい。それにしても千年の響とは!「山門くぐれば聴こえてくる千年の響・・・・」で始まる僕の自作曲タイトルと同名なので尚更うまい!!と話まで弾む。
 彼は根っからジャズが好き、特にも穐吉敏子さんのコンサートやパーティには欠かさず来盛してくれて、穐吉さんの曲「ホープ」を歌ってデビューした金本麻里のファンにもなってくれた。おれ!シャイだしー!と言いながら、人目を引くブランドで身を包む超個性的なファッションは誰も真似られない。
 そういえば1992年僕が呼んで主催した穐吉敏子ジャズオーケストラの盛岡公演の時、彼は「マスター、これ着てステージに立ってくれ!」と、彼のカッコイイ服を僕に一式貸してくれた彼の想いが浮かぶ。あの時、僕は穐吉さんに「ヒアカムズジョニー」という曲をプレゼントされ、感激のあまりステージに駆け上り穐吉さんに抱きついたっけ!。コンチャンあの節はありがとう!そういえば2012年、“穐吉敏子への旅”の時も一緒。あのNYでも際立った程、彼独特のサプール的ファッションが頭に浮かぶ。

幸遊記NO.265 「斉藤憲司の幸せを得る笑顔」2016.2.8.盛岡タイムス
 誰しもがいい笑顔を持っているものですが、その笑う時のえもいわれぬリアクションにこちらも笑わずにいられぬ幸せ感をもたらしてくれる斉藤憲司さん(62)に、今何してるの?と問いてみたら「ガスの検針を月に10日間。広田湾での防波堤釣り。あとは趣味のギター三昧。友人の佐々木功一さんと“K&K”というグループ作って週一の練習100回やったかな?たまにライブもね」。そう言ってガハハと笑う!実に楽しそうだ。
 ギターにはまったのは、秋田商業高校を卒業して日本電子工学院に入った頃で、吉田拓郎や井上陽水に憧れ、バイトしてギターを買ったことから。卒業して入った会社は写真用品卸業の「株・堅村」そこで20才から54才までの34年間、富士写真フィルムを中心に卸した人で東京3年、仙台3年、岩手盛岡出張所で28年間「県内の100軒余りある写真店のうち50軒の得意先を回って歩きながら、フィルムとカメラ。そしてアブラを売ってあるいたのさ!ガハハッ!」
 彼と出会ったのは、陸前高田駅前にあった和光堂という写真店で、だった。何度か顔を合わすようになったら、僕の店にも立ち寄ってくれてジャズを聴きながら、必ず特大焼きうどんを注文し、汗をかきながら汁まで飲み干す豪快な食べ方をしては、ガハハ!と笑った。当時彼のニックネームは“百獣の王”(体重・110kg超)だった。
 1980~2000年代、僕はよく写真展を開いていた。テーマは一貫して日本ジャズの原風景。人は写っていないが人の痕跡を絵を描いている様な気持ちで拾い集めていた。例えばゴミの様な物にも美しさを感じながら撮っていた。そんな写真を、彼・斉藤憲司さんは見せて下さいヨ、いいなあ、これ欲しい!と言っては、何点も買ってくれたことさえあった。
 僕が盛岡に来てからは、奥様と夜の散歩がてら!で寄りました!と、ニコニコしながら、ウイスキー。一人で来てもニコニコ、ニコニコウイスキー。ガハハッ、とウイスキー。そんな彼の顔を見る度、僕も幸せ気分。そう言えば50年以上も前の「幸せを売る男」といううたを思い出したら「幸せを得(う)る男」なんてシャレが浮かんだ!

幸遊記NO.264 「穐吉定次の双葉山横綱」2016.2.1.盛岡タイムス
 平成28年大相撲初場所は1月24日、東京両国国技館で千秋楽を行い、大関琴奨菊(31.本名・菊次一弘、福岡県出身、佐渡ヶ嶽部屋)が、大関・豪栄道を破り、14勝1敗で初優勝を飾った。平成18年初場所での栃東以来実に10年振りの日本人力士の優勝。大関在位26場所目で、白鵬,日馬富士、鶴竜、の3横綱を破っての頂点。その琴奨菊に唯一人土をつけた豊ノ島は東前頭7枚目で3度目の殊勲賞(12勝3敗)。新入幕の正代(西前頭12枚目)は10勝で敢闘賞に輝いた。これは初代若乃花に次ぐ史上2位の速さだという。
 この嬉しさで想い出すのは、昭和の名横綱双葉山。彼は明治45年(1912)2月9日、大分県宇佐郡天津村布津部(現宇佐市)に木炭業と船舶運搬業を営んでいた父義広、母美津枝の次男として生まれ、15才の時身長172cm、体重71kgの体を見込まれ、大分県警部長で立浪部屋の後援者だった、双川喜一氏の世話で入門。昭和2年3月初土俵。276勝68敗1分(33休)の成績。昭和11年(1936)1月場所7日目から連勝を続け、翌12年5月場所後に横綱となり、前人未到の69連勝(13日制)の大記録を打ち立てた人。
 昭和14年1月15日(4日目)安芸の海に70連勝を阻まれ、5日目両国、6日目鹿島洋に連敗し、9日目には玉の海に敗れた。その原因は前年の中国大陸巡業で、アメーバ赤痢にかかっての体調不良。だが一言も弁解しなかった人らしい。入院中の大阪に小結時代からの双葉山ファンだった小柴澄子さんと結婚。その直後の15日制となった5月場所で全勝優勝!それは新婚旅行さえ取りやめ、けいこに打ち込んでの復活だった。その後は終戦の昭和20年まで土俵の王者として君臨した不世出の力士。
 「昔のお相撲さんで双葉山という横綱がおりました。あの人は穐吉定次と言って、私の近い親せきです」そう言ったのは、今年渡米60周年を迎えた、NY在住のジャズピアニスト穐吉敏子さんだった。そのことから僕は昨2015年10月、彼女が東京文化会館でコンサートを行った翌日、荒川区の善性寺をたずね双葉山の眠る穐吉家の墓と対面しながら、ジャズと相撲の道は違えど、心の中に持つ確固たる信念と精進の精神は同じだと思った。

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