盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.273 「JATPの1944年7月2日」2016.4.4.盛岡タイムス
 1940年代に入って、盛んになったジャムセッションが注目されるようになった頃、純粋なジャズファンで証券マンだったロスアンゼルス在住のノーマン・グランツ氏が、41年に興行に手を染め、44年7月2日、ロスのフィルハーモニック・オーディトリアムで開催したことに始まる有名な「JATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)コンサート。
 その第一回目に出演したのは、ナット・キングコール(vo)レスポール(g)ジョニーミラー(b)リーヤング(ds)JJジョンソン(tp)イリノイジャケー(ts)等。エキセントリックなブロー演奏が受け、年々規模を大きくして、スタープレィヤーのほとんどが参加するまでに発展したという。そのJATPの日本初公演が行われたのは1953年11月3日、有楽町の日本劇場(日劇)。
 そのコンサートを聴きに行ったジャズピアニスト穐吉敏子さん。彼女はその時のオスカーピーターソン(p)の演奏が今なお印象に残っていると、近現代音楽人名事典のアンケートに答えている。そのオスカーが、翌日の昼、穐吉さんが銀座にオープンそたばかりの「テネシー」で演奏していると店にやって来て、彼女の演奏を聴き、夜にも彼女のコージーカルテットを「ニュー銀座」にて聴き、その腕をノーマン・グランツに推薦したことから、レコーディングが決定。
 メンバーはオスカー(JATP)のリズム隊でハーブエリス(g)レイブラウン(b)JCハード(ds)。53年11月13日の深夜から14日の朝にかけて録音され、アメリカで彼のレーベル「ノーグラン」(ヴァーブ)から「トシコズ・ピアノ」としてで発売されたその日本人初モダンジャズレコード(オリジナル曲を含む)は評判になり奨学金を貰っての留学に至った。それからすでに60年の歳月。縁の不思議は僕にもおき、NY2016年3月6日、日曜のアンチーク市でサラ・ボーン(vo)のセプテンバーソング他SPレコード7枚。その中にはテディウィルソン(p)46年盤2枚も。そうテディは穐吉さんがジャズに魅せられた最初のピアニスト。演奏、録音もあのスイートロレインと同じ頃だからなお嬉しく思い、穐吉さんに報告。更に翌日中古レコード店で見つけたのが、1944年のJATP初コンサート2枚組LPレコード(1976年発売)だったから、僕にとってはまさに穐吉敏子ジャズ誕生編への旅のようでした。どんと晴れ!

幸遊記NO.272 「1958年のJAZZ・DAY」2016.3.28.盛岡タイムス
 世界中のジャズ関係者に愛され大切にされている一枚の歴史的写真がある。ジャズ黄金時代の記念碑といえる決定的な「ビッグ・ピクチャー」がそれ!。1958年8月12日火曜朝のニューヨーク・ハーレム。当時ニューヨークで活躍中のほとんどのビッグ・ネーム・ジャズ・ミュージシャンが、アメリカの雑誌「エスクァイア」の企画、呼び掛けに応じて集まった白人、黒人合わせての57名と、12人の子供達が一緒に、アート・ケインのカメラにおさまったモノクロ作品は時が経てばたつほど、誰しもが見とれてしまう程の、奇跡的でクレィジーな写真。
 アメリカでは、それから60年近く経た今日でも、歴史的なJAZZDAYとして語り継がれており、何とその伝説の写真物語が絵本「JAZZ・DAY」となって今年2016年に発売になったばかりであったから、グット・タイミング!のビックリポン!18,99ドル+TAXを払い買い求めた。その翌々日、貸切バスで「ナショナル・ジャズ・ミュージアム・イン・ハーレム」を目指してたどり着いたら移転で、129th st58 Wの新ミュージアムへ移動。着いた所は小さくてとてもシンプルなたたずまい。
 入るとお客さんは誰もいなかったから、まるで貸し切り状態だったので、僕は、そこにあったSPレコード棚の中に、ピアニスト・テディ・ウイルソンの「スイート・ロレイン」がありますかと尋ねたら、パソコンで探してくれて、「デジタル化してあり、聴くことも出来る」というので、ヘッドフォンで聴かせて貰った。戦後満州から日本へ引き揚げた、穐吉敏子さんが1946年に別府のジャズコレクターから同盤レコードを聴かせられ、ジャズに開眼したという昔聞いた話を重ね合わせながらの鑑賞はその演奏内容と共に感動的でした。
 そして、ミュージアムには、先日穐吉さんとジャズピアノサミットに出演した、アーロン・デールの大きな写真。その向い側の壁には、更に大きな、1958年のJAZZDAYの特大写真ポスター!。僕は帰り際その学芸員に、写真を撮った場所を尋ねミュージアムのパンフにメモしてもらい126th stのレキシントンAveとマジソンAveの間にある17Eのアパート前に57人ならぬ僕達17人並んで感激の記念撮影!その2016年3月7日は、僕らにとっての新しいジャズ・デーとなったのでした。

幸遊記NO.271 「ジャズのウエスト・エンド・ブルース」2016.3.21.盛岡タイムス
 かつてビレッジ・ストンパーズの演奏で世界的にヒットし、日本でも大流行した「ワシントン広場の夜は更けて」今でも聴けばすぐさま10代の頃に戻ってあの曲でフォークダンスを踊った光景が目に浮かぶ。実はあれがデキシーランド・ジャズだったんだと気が付いたのは20代になってからのことだった。
 その舞台となったニューヨーク・マンハッタン島の南方、グリニッチ・ビレッチにその広場(公園)はあり、今なお昔を懐かしむかのように中年とおぼしきカップルたちが、ベンチで抱き合い、灯下に立ったままでキスをする目の毒的光景を見てきたばかり。
 その広場から程近いところには、世界一有名なブルーノートやヴィレッジバンガードといったジャズクラブがあり、僕が必ず行く「スモールズ」もある。この店は地下へ降りる階段の途中で10ドル払えば店に入ってバンド演奏が聴けるし、演奏出来る人なら朝方のジャムセッションにも参加出来る、新人登竜門の良心的な店。ステージのバックには、帽子をかぶり、トランペットを持ってニッコリ笑うルイ・アームストロングの大きな写真パネル。
 僕が行ったその日は3月6日の深夜だが、前日の5日ニューヨーク入りした僕等17名は、50人乗りの大形バスをチャーターして、ラガーディア空港に近いコロナという地区にあの、ルイ・アームストロングのハウスミュージアムに行き、彼の晩年の生活ぶりを見聞、彼の奥さんがカトリック教徒だったことから信者の多いコロナに居を定めたことや、近所の子供達のために寄付したり、楽器を教えたりと、住民からも尊敬された人だったという。
 サッチモと同じ時代に生きたコールマン・ホーキンス(ジャズテナーの元祖)は知る人ぞ知る存在の人で、現在穐吉敏子さんの住んでいる、セントラルパークウエストの同じ通りのななめ前位に住んでいたそうです。「サッチモは“ハロードーリー”のコマシャールで子供にも知られる人になったけれど、彼の“ウエスト・エンド・ブルース”は、あんなの一本あったら死んでもいいってくらいの演奏ですよ」と穐吉敏子さんは僕に言う。そういえば穐吉さんが一番最初に買ったレコードは確かそれだったはず!と、 とっさに僕の頭が反応した。

幸遊記NO.270 「イエール大学のジャズサミット」2016.3.14.盛岡タイムス
 アメリカの日時で3月4日(金)夜7時半(2016)に米国屈指の名門校「イエール大学」にある「SPRAGUE・MORSE・リサイタル・ホール」にて行われた、デューク・エリントン・ジャズ・シリーズ「ピアノ・ジャズ・サミット」(出演・穐吉敏子。バリー・ハリス。アーロン・デール)を聴く為「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」を企画、盛岡を中心に北海道や宮城などから17名のファンが集まって行って来た。
 イエール大学にはジャズ科もあり、その責任者ウィリー・ラフ氏から、今回は穐吉さんが他の2人の人選も頼まれ、選んだのがNEAジャズマスターのバリー・ハリス。このピアニストは穐吉さんと同じくバド・パウエルの直系で、生年月日も穐吉さんと3日しか違わない1929年12月15日生まれ。穐吉さんは12日生まれ。そして、3人目を誰にしようか相談したら、彼は若手のアーロン・デールを推薦したという。
 アーロンに関して、彼女は「ピアノはうまいけど、私はちょっとね!」と、昨年言っていたのを思い出し、アーロンのことを一緒に行った皆さんとの夕食会の席で彼女に聞いてみたら「彼は、ABCのレインボー・ルームで演奏するような人ですから、ジャズバンドにはやとわれない。でもピアノは洗練され、礼儀をわきまえ、個人的にも正しく、主にイーストサイド(お金持ち達の地域)で演奏する人です」。又彼は穐吉さんに「若者たちから“イエスマン”と呼ばれています!」と語ったそうです。ホールには3台のスタインウェイピアノが置かれ、トシコ、アーロン、バリー、の順にソロを数曲ずつ弾き、その後3人でのサミット演奏。
 僕は隣席の米国ご夫人に話かけられ「日本から聴きに来ました。NYからNHへはバス(風呂)を使いながらバスで来た!」とダジャレを言ったら話通じて笑いころげ、彼女の隣りにいるご主人に僕のダジャレを説明して2人共又笑い、「私は、イエールでいろんな国の子供達に英語を教えている先生よ!」と言ったので、僕は又いい気になって「日本ではティーのことを茶と言います」と、ティーを飲むしぐさをしながらティーチャーとダジャレを言ったら、これまたバカウケし、Eメールアドレスを教えてくれたE!日でした。

幸遊記NO.269 「坂野のぼるのひとすじ音楽人生」2016.3.7.盛岡タイムス
 「愛の浜旅情」「太平慕情」「大橋旅情」「さらば高炉よ!」。ご当地ソングの更なる地域版カセットテープ制作のための選考会で選ばれた4名の新人歌手が、生バンドをバックに唄い録音制作した、釜石オリジナル歌謡曲集が発表になったのは1989(平成元年)のこと。そして2015年に橋野鉄鉱山・高炉跡が世界遺産登録となった原動力のひとつにもなった歌「夢高炉」「橋野川残照」に至るまでの20曲余りの作曲や編曲を担当したのが坂野のぼる(本名・友雄)さんでした。
 彼は釜石在住のピアニストで今年2016年1月5日に91才を迎えたばかりだったが、2月21日帰らぬ人となった。昨年11月釜石で行われた作詞家・長柴政義さんの出版記念パーティに元気な姿で現れ、久し振りに話をしたばかりだっただけに残念です。奥様の百合子さんが倒れられてから、何年も病院に毎日自転車で通っていたそうですが、亡くなられてから、少し元気を失していたらしい。
 坂野さんは1925(大正14年)山形県米沢市生れ、幼少よりハーモニカ、小学でピアノ、中学でギターを独学で覚え譜面も読めたことから音楽学校へ進むつもりが、戦争が始まり、兵隊へ。満州で軍曹になり少年兵の教育。1945(昭和20年)陸軍病院の警備隊に転属となった時その倉庫にあった楽器を見つけて、ひそかに楽しんだという。終戦後日本に戻り音楽家を目指し上京。神田でギターを買い、若原楽団で弾き歌手や踊り子、浪曲師、たちと学校回り。ためたお金で私立仙台音楽学校へ入学。卒後まもなく自己のセクステットを編成。黒人演奏家のアドリブを参考にして譜面を写し書き進駐軍クラブで演奏。
NHK昼のプレゼントで1年半ギターを弾き、東北・北海道のキャバレー、クラブ回り中に、釜石のキャバレー「ゴールド」の立て直しを依頼され4年演奏。「銀河」では16年。その後自分の店「夜想曲(ノクターン)」を百合子夫人と開店。お客さんの歌伴をしながら、そこで多くのオリジナル曲を作曲し著作権協会の会員にもなった。そういえば1989年9月、僕の県民会館大ホールでの初コンサートでは、何曲かバンド演奏や伴奏もして頂きましたね。来る3月10日正午より釜石シーガリア・マリンホテルにて故・坂野ご夫妻を偲ぶ歌の会。お二人のご冥福をお祈りいたします。

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