盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.278 「木村一義のシェルター音楽ホール」2016.5.9.盛岡タイムス
 かつて僕等は陸前高田市に、気仙杉を使って気仙大工による木造建築の小さな300名程度のコンサートホールを建設しようという運動を起こしたことがあった。会を発足させコンサート主催の益金、出演料からの寄付、音楽ファンのカンパなど、活動は10年続けられたが、実現に至らず、心の窓から解放った美しい音楽だけが形として残されておしまいとなった。
 あれから30年が過ぎた昨2015年12月、山形県南陽市に、何と世界最大の木造建築コンサートホール(ギネス認定・1403名収容)の市民会館が完成した。山形産杉材を活用した耐火木構造部材「クール・ウッド」を柱とした建築で木材を石膏ボードで囲み、更に表面を木材で囲むことによって耐火性能を増すという四重層の特許柱。これを開発した株式会社シェルター(山形市)によれば2時間耐火という国の認定証を得たことにより、RC造、鉄骨造と同等の耐火性能を有することで、それこそギネス物の14階建ての木造ビル建築が可能になった!という。ホールの梁には山形産唐松の集成材を使用した、オールウッドの市民会館はこれまた「世界最大の楽器」といえるのかもと、僕はステージから客席を眺めて、その美しさにうっとりとした。そのこけら落としの一環として、初のピアノ・ソロコンサートが5月4日、一般と多くの高校生を集めて行われた。演奏者はジャズ生活70周年、渡米60周年の、世界的ジャズピアニスト・穐吉敏子さん(86)。主催したのは、シェルターの社長・木村一義氏を中心とする「シェルター倶楽部ジャズ愛好会」。穐吉さんのお世話をしたのが山形の老舗ジャズ喫茶「オクテット」のマスター相澤栄さん。
 前座には日本の中古楽器市場からサックスが消えたと言われた程ブームを巻き起こした映画「スイング・ガールズ」の後継者女子達による「おれまかJAZZオーケストラ」。ハツラツとした楽しさに溢れ、とても素敵でした。
 打ち上げは肉屋の奥座敷、米沢牛のスキヤキ。そのおいしさにこれまた“ウットリ”。シェルター社長の話を聞けば、なんと3・11の津波で枯れた気仙杉で、陸前高田に建てられた「みんなの家」(ベネチア・ビエンナーレ国際建築展で金獅子賞を受賞)を手掛けたのも彼だったので、きのきいた話に2度ビックリしました。

幸遊記NO.277 「照井澄の画家への執念」2016.5.2.盛岡タイムス
 五人兄弟の末っ子である僕の誕生日4月20日は、恒例の全員集合1泊(ワンパク)兄弟会の日でもある。今年は奥州市の胆沢ダム近くにある焼石岳温泉「ひめかゆ」にて飲めや歌えや話せや食えやの大賑わい座。当日翌日共に絶好の花見日和で温泉に続く古い街道(胆沢区若柳)沿いは延々と続く満開の桜トンネル。ゆっくりと車を走らせながら僕はこんなにも美しい季節に生れたのかと感慨無量の心地を味わった。
 その温泉駐車場で次男の澄(のぼる)兄貴から10点の油絵を預かった。連休明けの5月6日から月末まで僕の店「開運橋のジョニー」に展示する作品である。思えば兄の初個展は20年前僕が企画した「陸前高田まちかどギャラリーおおまち」が始まりで50点の展示だった。
 澄兄は昭和10年(1935)平泉生まれ。子供の頃から絵が好きで画家になる夢を持ちながらも父に反対され、陸前高田で父の弟が経営するクリーニング店で働き高田高校定時制に通った。(僕も同じ職場、同じ学校卒)だが絵への思い断てず、誰にも黙って卒業の日にトランク1つ持って上京。新聞配達をしながら美術学校へ通うつもりだったらしいが都会の現実は厳しく、押し戻されるように2年で岩手に帰った。
 次には父の妹が経営するクリーニング店で働いたが、やっぱり絵を描きたいと絵に通ずる職業を求め、実家の天井画を描いた水沢(現奥州市)の故・長谷川誉氏に師事して塗装と絵と看板の描き方を学び、1977年35才で「テルヰデザイン工芸」を立ち上げ独立。仕事が軌道に乗った10年後に描き始めたのは自分の生まれ育った田舎の情景へ回帰する祖母をモデルにした日本画だった。
 そして本格的に描き始めた90年代からは同昔の農村をテーマに油絵を始め、日本文化伝道師認定、国際文化親善大使栄誉証、日本芸術家連盟理事、ローマ芸術協会名誉会員、オスマン・トルコ芸術勲章、メキシコ国立図書館名誉作家認定、20世紀日本芸術遺産100選認定、等々100を超える不思議!「絵では食えない」と画家になる事を反対した父は歌舞伎の流れを汲むドサ廻りの役者兼座長だった。その子澄は自分の子には好きな道を進めと言ったそうだが3人の息子たちは皆親(兄)の家業を切り盛りしている不思議!

幸遊記NO.276 「藤原進のみちのく浪漫CD」2016.4.25.盛岡タイムス
 11年前の2005年、僕は「T・STEP・BATTLE・IWATEKEN」という1枚のCDをプロデュースした。当時、岩手県内で活動していた、個人やグループなど16組。ジャンルを問わない、オリジナル曲を募集しての制作だったから、岩手音楽カタログとして全国からそこそこの好評を得、これをきっかけとしてプロになった3人。セミプロで歌手や演奏活動している5人などと、その数指折ってみれば、たいしたもん?で中には僕の曲「君は帰ってきた」を唄ってくれた大船渡の二人組もいた。
 そんな中にあって、1番の注目を集めたのが「未知国浪漫・藤原進」(現60才)だった。「あなたと出合った あの十和田の湖畔 二人で歩いた奥入瀬も 今はただひとつの青春の楽しい思い出に・・・」エレキギターを弾きながら,青春時代のあわい恋心を歌ったそれは、懐かしい様なメロディとサウンドで郷愁を誘い、制作発売元の若い社長でさえ、シングルカットして全国発売を考えた程でしたが、発売に至らず残念だった。
 彼、藤原進さんは「エムズ・ポケット」という5人編成のエレキバンドを率いてイベントや温泉施設など中心にLIVE活動しているのですが、今年2016年2月、「マスター!CDを作りましたのでよろしく!」と持参して来た。タイトルを見れば「みちのく浪漫」「夜霧のコテージ」(カラオケ付)。久しぶりに聴く曲に青春さえよみがえり、幾度となく聴き返しているうちに、僕がFM岩手の番組を持っていた時、この曲放送したことも、思い出しました。
 彼がギターを最初ににぎったのは小学5年生の時。中学に入る時にトンボ学生服を買えば白いギターが付いてくるはずだったが、親がトンボを逃がし?替りに先生がフォークギターをくれたのだったという。以来、エレキバンド、GSなどを独学コピー。松尾町屋敷台中学を卒業して千厩専修職業訓練校の自動車整備科へ進んだ時、おふくろが当時3万円もしたエレキギターを買ってくれたのだったと顔をほころばす。
 自動車修理工、松尾鉱山鉱毒水中和処理施設、電気関連の会社などを経て、現在は学校給食センターの配送係として働く藤原さんだが、オリジナル曲を口ずさみながらCD宅配にもいそしむ毎日である。

幸遊記NO.275 「瀬川昌久の自選著作集出版」2016.4.18.盛岡タイムス
 今年(2016)1月23日、新橋のカフェ・コットンクラブで行われた「瀬川昌久先生の文化庁表彰をお祝いする会」にお呼ばれし女房の小春、歌手の金本麻里の3人で参加させて頂いた。瀬川先生は60年に及ぶジャズとミューシカル普及の功績により、2015年文化庁長官表彰の栄誉に浴された事と、1月に河出書房新社から刊行された500頁余りの「瀬川昌久自選著作集1954~2014」出版祝とを兼ねた二重の祝賀会。
 瀬川氏は1924(大正13年)東京に生まれ、東大法学部卒。幼少からジャズを愛聴「戦争に疑問を持ちながらも戦地に赴かざるをえなかった」その体験からか1950年富士銀行(現みずほ)に入行しニューヨーク駐在員になった時には、ジャズを聴き歩きそのレポートを日本の音楽雑誌に寄稿し続けた。帰国後は日本のジャズ発展のため、寝る間も惜しみ自らの足で体験と実践を重ねながらの執筆活動。
おすすめ、気持ちよさ、楽しみ、美しさ、新鮮、進展、進歩、豊かさ、深み、実力、研鑽、信望、可能性、期待、魅了、魅力、明澄、高水準、意欲、興奮、流石、流麗、熱唱、活発、活況、立派、成果、絶対、発展、格段、強味、結合。これらの言葉は90才を過ぎた現在もなお、電車と、徒歩で現場に通い、その見聞をファンに書いている文章の中に出てくるもので、氏は温かい目で観察しながら、耳でその良きところを聴き分け語る評論家であり、特にも演奏者たちからは絶対的信頼を受け、CDライナーの依頼などは、今なお引っ切り無しの状態。
 僕も2006年にプロデュースした「穐吉敏子・渡米50周年日本公演」並びに「1980・秋吉敏子トリオ・in・陸前高田」(2014年発売)2011年の「ホープ・ガール・金本麻里」の3作にライナー・ノート(解説文)を書いて頂いており、“開運橋ジョニー”の重要なパーティなどにも参加下さっている。
 「私自身は、生い立ちの関係から、戦前の日本のジャズの歴史に限りない愛着を抱き続けている」としながらも、今日のジャズにもあくなき探究心を持たれ、現役最長老でありながら、若者の様に心弾ませ、体をゆらし、ジャズと共に生きる人生の素晴らしさ!!!

幸遊記NO.274 「トシコ~スイングする日本の魂」2016.4.12.盛岡タイムス
 来る5月3日(火・祝)午後2時から盛岡駅西口の市民文化ホール(マリオス・小ホール)で、ジャズ生活70周年、渡米60周年を記念して行われる、ジャズの 生きた伝説、全米、NEA・ジャズマスターの穐(秋)吉敏子、ルー・タバキンご夫妻による、ビンテージ・デュオ・コンサートが行われる。
 これに先立つ3月27日夜、1時間40分に渡ってBS1で放送されたスペシャルドキュメント「TOSHIKO・スイングする日本の魂」。日本人で唯一人アメリカでジャズの殿堂入りを果たし、グラミー賞にも史上最多の14回ノミネートされた穐吉敏子。独自の世界を切り開き、ピアニストとして、作・編曲家として、日本女性として、想像を絶する苦難を乗り越え、一人アメリカで戦い続けて来た彼女。デビューから70年の今年、又新たな挑戦を始めた最新映像までを生誕の1929年からたどった特別番組。
 僕がハーレムのジャズミュージアムで3月(2016)に初めて聴いた、テディ・ウィルソンのSP「スイート・ロレイン」。彼女はそれを70年前に聴き「その瞬間から私の人生は変わった!真珠の珠(たま)がワーッと流れたみたいに物凄くきれいなスケールなんですよ!」と語っていたところで僕の頭の中に、心地よい粒ぞろいのピアノの音が流れた。
 1950年頃に、ラジオから流れてきた“バドパウエル”の胸を打つ音を聴き、バドのようになりたいと猛練習を重ねた彼女が「1956年1月、留学のためボストンに着いたその日の夜に、偶然聴いた演奏家はあこがれのバドパウエルだった」そのことに穐吉さんは運命を感じたという。
「勝つことは出来なくても挑戦する事は出来る」。その後彼女は作、編曲、ビックバンド部門で世界ナンバーワンとなり前人未踏の道を切り開いた。このことで思い出すのは穐吉定次(双葉山)が昭和12年~13年に残した大相撲69連勝の大記録。彼は穐吉さんの親せきにあたる。今回BS映像にも出て来た穐吉さん昨15年秋、上野での演奏会。その翌日僕が双葉山の墓前に行ったことは以前にも書いたが、偶然にもその時双葉山の孫・穐吉次代(つぐよ)」さんが「両国浪漫夢模様」で歌手デビューしたのでした。

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