盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.452 「草津国際音楽祭の穐吉敏子」2019.9.16.盛岡タイムス
 「草津国際音楽祭の20周年に引き続いて、40周年にもジャズ界のレジェンダリー・穐吉敏子さんをお迎えしての特別コンサート。草津のステージがニューヨーク・ジャズハウスになる一夜をお楽しみください」と音楽祭パンフレット。穐吉さんはこの日のための帰国であるが、共演するテナーサックスのルー・タバキン(穐吉さんのご主人)は、毎年9月に自己の国際トリオを率い日本に来るので、一足先にご夫婦でいらっしゃった様子。
 会場ロビーには僕も知る穐吉ファンも各地から訪れていましたが、全体的な雰囲気はやはり草津特有のものと感じた僕。プロデューサー兼司会役の井阪紘氏がステージ中央に出てきて言う「僕は仕事ではクラシックですが、プライベートではジャズを聴いてます」手には彼・カメラータトウキョウのジャズレーベル・インサイツが1979年に発売した穐吉敏子=ルータバキン・ビックバンドの「すみ絵」(再発CD)とルータバキンのLPレコード「デュアルネイチャー」。そして昨年僕が出版した穐吉敏子の全作品集「穐吉敏子への旅」を持ち、説明してくれたことに感激と感謝の気持ちでいっぱいになった。彼は1971年2月カーネギー・リサイタルホールでのカルテットのLPや74年のビックバンドデビュー作「孤軍」に始まるロサンゼルス時代のレコーディングのほとんどを手掛け、穐吉敏子さんを世界№1の座へと押し上げた黒子役のいわゆる名プロデュサーなのだ。
 ステージは穐吉のテーマ「ロングイエロー・ロード」と「おいらんたん」のデュオ。森田村の四季よりリポーズをピアノソロ、そしてステージ後方の壁際に移って、次の曲、ルーさんのサックスソロを立って聴く穐吉さん。曲は「ボデイ・アンド・ソウル」そうだ!これは、バドパウエル(p)の1950年録音曲。穐吉さんが九州から上京して2~3年たった頃に、ラジオから流れて来た演奏を聴き、放送局に問い合わせ、バドパウエルにのめり込んでいくきっかけとなった曲。それをじっと聴き入る彼女の姿に「もしかして当時ラジオで聴いたバドのピアノをオーバーラップさせているのではないだろうか」と思った僕。休息をはさんで最後のアンコール曲・月の砂漠、ハンギンルースまで13曲、あい間には「テルイさんどこにいますか?」と呼びかけられ手を振れば「今夜泊まりますか?」「ハイッ!」「じゃああとで」と手まねき!僕はもちろんのこと、同行の皆さんも「ビックリ!した」とのことでした。

幸遊記NO.451 「上皇后美智子様の特別演奏会」2019.9.10.盛岡タイムス
 草津夏期国際音楽アカデミー&フェステイバル第40回目のテーマはバッハからシューベルトへ。8月17日(土)から31日(土)まで2週間の開催。日本の若手音楽家に世界の優れた演奏家から直接指導を受ける機会を設け、更には、その講師のステージを見聞し交流することによって、音楽をする意味をも問い直すことを目指したことから、ソロやオーケストラで活躍する演奏家が数多く育っているという話を聞く。40年といえば、当時20才だった人は60の還暦である。音楽祭はヨーロッパのクラシック音楽の伝統を学ぶ構成がなされ、日本で演奏されなかった珍しい作品の多くの初演を行ってきたことで、今では世界で最も重要な室内楽フェステイバルとの評価を受けている様子なのだ。
 さてその28日(水)午後4時から始まったシューベルトの室内楽(八重奏曲・作品166)ウイーンのやわらかな弦楽にファゴットなど管楽器の音色が絡む美しい調べの音に身を包まれる心地良さ。夜には同会場での特別演奏会に現れた上皇上皇后両陛下は同会場最前列中央にご着席。9列目には音楽評論家の瀬川昌久・摩里子ご夫妻。7列目には穐吉敏子さんとご主人のルータバキン氏等の顔。最初のステージは、チェロをおやりになる上皇様のためにと、ウイーン国立歌劇場管弦楽団の首席チェリスト・タマーシュ・ヴァルガ氏によるバッハの無伴奏チェロ曲の献奏。感激した上皇様は終演と同時に立ち上がって拍手。
その後上皇后様がお立ちになり上皇様に一礼しステージに登られ、ピアノに左手を添え一礼し、同楽団首席フルート奏者のカール・H・シュッツ氏とグノーのプレリュード、アベマリアを二重奏、次に室内楽オーケストラとともにピアノを弾く上皇様。ピアノソロに始まりオーケストラが鳴り出すと左手のみで重奏し、またソロへと続くそれはまさに、大きな美しいサンサースの白鳥の姿を見ている様な雰囲気であった。そして御席に戻られた上皇后様に呼びかけるプロデューサーの井阪氏、「只今の演奏はピアノとオーケストラのチューニング(音合わせ)をせずに始めてしまったのでチューニングをしてもう一度演奏します」ということで上皇后様ふたたびステージへ。「指揮者もつけます」とトーマス・I・ミューレ(オーボエ奏者)が指揮し、まるでリハと本番を見聞しているようなハプニング?の再演奏に招待客は喜びと上皇后様のご体調を心配する気配もただよう雰囲気に包まれたのでした。

幸遊記NO.450 「第40回の草津国際音楽祭行き」2019.9.2.盛岡タイムス
 「草津よいとこ一度はおいでハードッコイショ」で知られる温泉のまち群馬県草津町で1980年に始まり、今年2019(令和元年)で40周年を迎えた「第40回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」にジャズの穐吉敏子さんを招くという話を、同祭事務局長で、プロデューサーのカメラータ・トウキョウ・社長・井阪紘氏から昨年聞かされていた穐吉ファンの僕は彼女の出演する8月29日(2019)に聴きに行く!としていたら、なんと盛岡を中心に全国・北海道から九州まで60名もの人たちが、参加し聴きたいとのことで、チケットを先行予約して最良席をキープ!
 まもなくと思っていた24日一通の封書がアカデミー事務局から届いた。封切ると中からは照井顕様・照井夫人様と書かれた、穐吉コンサートの前日・28日午後7時20分からの出演者名が記載されていない特別演奏会の招待券2枚。その注意書きを読むと「受付18:40~19:00までにご着席下さい。終演後は上皇上皇后両陛下のご退席をお見送りいただいたのち、A扉からご退出ください」とあった。ワーオ!これはなんとしても行かなくちゃ!女房は「私は29日皆さんとご一緒しますから、1人前乗りで行って!」という。ありがとう!
 盛岡、大宮、軽井沢、草津と新幹線と急行バスを乗り継ぎ約4時間で現地到着。そこからホテルの送迎バスに乗る。まもなく運転手が「ご到着です」というので皆と降りたら、そこはホテルではなく湯畑という源泉地、時計を見れば、ホテルのチェックインまで1時間半はあったので散策しながらホテルへ行くこととし湯畑に立てば、草津町民憲章「歩み入る者にやすらぎを、去り行く人にしあわせを」(東山魁夷・書)の石碑。広い湯畑を囲む柵の石柱には「草津に歩みし百人」として、有名な(故)人の来草年が刻まれていた。音楽関係では中山晋平1928、野口雨情1928、西条八十1930、服部良一1970、高峰三枝子1987等々。著名人では小林一茶1808、良寛和尚1827、志賀直哉1904、横山大観1915、若山牧水1920、竹久夢二1929、岡本太郎1975等。そして岩手関係では高野長英1830や高村光太郎1927の名があり、なんとなく「ゆったり」とした気分で読み進めば未だ空白の柱あり。この先いずれは穐吉敏子さんの名も必ずや刻まれるであろうと想いながら、山中にあるホテルまでの長い長い坂道を歩き登った。

幸遊記NO.449 「文学のまち・金沢さんぽ思歩」2019.8.26.盛岡タイムス
 金沢の街へ僕を招待してくれたA氏はジャズファンであり、文学ファンである。2013年勉誠出版発行「東北近代文学事典」(日本文学会東北支部が5年の歳月をかけ編集、234人が執筆した、東北関連の作家800余名の人名事典)が発売になった時、A氏は開運橋のジョニーでその本を手に取り「人名事典というものを1冊手元に置きたいと思っていたが、ジョニー(照井顕)が載っているこれにする!」と言って僕を見つめた時の真顔が浮かぶ!。
 あれから6年、あと1年!と、彼が文学のまちといわれる金沢で仕事をしながら、休日には自転車に乗って金沢をくまなく散策し、文学と現在の音楽ジャズを体験学習して楽しんでいる様子なのだ。金沢の三大文豪といわれる泉鏡花(1873~1939)徳田秋聲(1872~1943)室生犀星(1889~1962)そして金沢と縁故の作家・芥川龍之介、五木寛之、井上靖、加藤楸邨(しゅうそん)、曽野綾子、高橋治、竹久夢二、中野重治、中原中也、古井由吉、三島由紀夫、森山啓、与謝野晶子、吉田健一、等々豪腕の作家たちの舞台となった金沢を彼に案内されながら市内を歩き回れば「歌手というものはバカですよ!バカじゃないと唄えない」と言った浅川マキのことば。「おしみなく奪う種類のものでなく、おしみなく与える種類のものジャズ」と五木寛之小説の一節を彼・A氏背中に見る想い。真夏日の犀川べりを大橋から桜橋まで歩き寺町へのダブル坂というW字の様な石段を登り下り楽しめば、曽野綾子も戦争末期から戦後の一時期にかけてここに疎開した時、この坂を登り下りしたのだろうな、などと桜橋へ下り、橋を渡りながら下流の大橋見れば「川の岸辺にかげろうゆれる、流れる雲よ空の青さよ犀星の詩をうつす犀川」と金沢望郷歌・五木寛之作詞が頭に浮かぶ。そういえば五木氏は九州出身で姓は松延。夫人は金沢出身で岡。じゃあ五木は子守唄?と連鎖するが、実は奥様の母縁者姓五木を継ぎ金沢で新婚生活を始めたことからの名前の様。
 それはともかく、彼のエッセー「風に吹かれて北陸路」(1998年3~4月)には「金沢には犀川と浅野川という二つの川が流れています。二つの川が流れている街は本当にすばらしいし、めったにないのです。中津川と北上川が流れる盛岡がそうです。中津川系と北上川系カルチャーがあり宮沢賢治と石川啄木の世界だと、僕は勝手に決めています」だった。さあ僕も金沢から盛岡に帰らなきゃ!ありがとうAさん、女房への手土産までも!

幸遊記NO.448 「金沢リバーサイドの篠崎文・川東優紀」2019.8.19.盛岡タイムス
 金沢の夜は長い!そう思ったのはA氏が深夜連れてってくれた犀川大橋から2軒目のビル最上階にあるリバーサイドという店のベランダから川を眺めた時だった。盛岡・開運橋から2軒目の最上階、開運橋のジョニーのベランダと同じ様なロケーションに思わずビックリ!A氏もどうやら僕の驚く顔を見たかった様子だ。リバーサイドといえばアメリカの名門ジャズレーベルだが、日本じゃ井上陽水の「リバーサイドホテル」が超有名。けれど美しい川で想い出すのはリバーサイドに建っていたホテルの窓から眺めたシカゴの夜景と「長い夜」。A氏との「約束の地へ」来て50年前のジャズっぽいブラスロックグループ「Chicago」の曲まで思い出した!という訳。
 そのリバーサイドというジャズバーでは小柄な女性ベーシストがギターをバックに浅川マキの“ちっちゃな時から”をうたい僕を感激させた。名前を聞けば中学2年の時からなぜか“ジョニー”と呼ばれてきたという川東優紀さん(34)。母校金沢高丘中学の大先輩があの森喜朗氏。彼女の母・麗子さんは浅川マキさんと一緒に働いていたことがあり、マキさんは当時、美空ひばりのうたが得意で、家にはマキさんの色紙「夜が明けたら」もあるという。「自分は体が小さいので大きいものにあこがれ、金沢大学時代からジャズ研究会で大きなベースを弾き、現在に至る。浅川マキが自分の中では最高、最強で“ふしあわせという名の猫”が一番好きなの」だとも。
 A氏がブンさんと呼ぶ篠原文(あや)さんの店「リバーサイド」は東京からのツアーミュージシャンの受け入れ、地元ミュージシャンのライブやセッションの采配、サンデー昼ジャムやジャズイベントの企画、ミュージシャン派遣、自らもジャズ歌手として店やホテルや野外のステージにも立つ才女。セッションではデイバイデイ。クロス・トウ・ユーなどを軽く歌い切る歌唱力とステージングの上手さ。A氏のいう「地方に埋もれさせたくない歌手ですよ!」を納得した次第。僕はその時、1980年代初頭に、新潟在住ピアニストの演奏を聴いて欲しい!と陸前高田まで一本のカセットを持参した女教師のこと。それを縁に住田町の農林会館で録音し、LPレコードにして全国発売、今や和ジャズ名盤の一枚に数えられるに至った小栗均さん(山本剛の師)のアルバム「みどり色の渓流」のことがフィードバックした。

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