盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.34/125] Next
幸遊記NO.457 「穐(秋)吉敏子の満州証言映像」2019.10.21.盛岡タイムス
 8月末2019、東京目黒区の株・ザイヤの在原義男氏から「秋吉敏子・わが故郷 満州」という証言映像・特別上映の案内ちらしが届いた。それによれば「米国紐育(ニューヨーク)在住、89才のジャズピアニストが語る満州、戦争、引き揚げ、そしてJAZZとの出会い、、、。ナレーション・坂本美南」映像上映9月1日~29日。1日1回午後2時から40分間で、場所は西新宿2丁目の新宿住友ビル33階にある「平和祈念展示資料館」とあった。9月16日16時から、板橋の安養院にて、穐吉さんのご主人、ルータバキンさんの国際トリオ・コンサートの手伝いがあるので翌17日行こうと思ったら祈念館は代休日。しかたなくもう1泊して見て帰ることにした。その資料館はさきの大戦における兵士、戦後の強制抑留者、海外からの引揚者の労苦につい親から子、子から孫へ、次世代へと語り継いでゆくことを目的に、関係者の労苦を物語る様々な実物資料、グラフィック、映像、ジオラマなどを戦争体験のない世代にもわかりやすく展示。関係図書も多数ありました。
 ジャズの生きた遺産受賞者・穐吉敏子さんは満州、遼陽の生まれ、小学6年から大連で過ごし弥生高等女学校4年生の時、戦争苛烈となり、愛国心に燃える穐吉さんは陸軍看護婦に志願、興城市の陸軍病院で実習。いざ最前線へという時点で終戦となった運!。その時彼女は15才だった。ソ連兵が乗り込んで来るからと軍医が毒薬を注射する自決の噂。とある少尉の猛反対でとりあえず親元へ帰されることとなった運!。髪を切り軍服を着てゲートルを巻き少年兵にみせかけ集団列車に乗せられ遼陽へ。自宅に着いた時、ソ連兵が略奪をしている最中だったため敏子には目もくれなかったらしい運?。その日からは外にも出られない日々。ソ連兵が来ると父が「空襲」と叫んで合図、4人姉妹は床下へ隠れて息を潜め見つからなかった運!。父は全ての財産を失い、姉は肺浸潤を病んでいたため日本へ引揚げてから別府の戸建てサナトリウムに家族ぐるみで住み、末っ子の敏子は街で見かけたピアニスト求むの貼紙を見つけピアニストへの道を歩み出したことで、今日に至るきっかけをつかむことが出来た不運の中の強運な物語りでした。帰り際本棚から「ケンちゃんとトシせんせい」という絵本(高木敏子著・小学館1994)を見つけ読んだら「日本の兵隊さん早く戦争やめてくれ」と叫んでいました。

幸遊記NO.456 「高橋幹夫の藍色の蟇(ひき)」2019.10.14.盛岡タイムス
 前回の幸遊記1984年の秋吉敏子NYBBパンフに、実はもう一枚紙が挟まれていた。それは2015年6月5日に書かれたネットのブログコピーで「JAZZの彼方に・心の軌跡……横浜のみなとみらいを海から望む 去年一月亡くなった姉の暮らした街 僕が学生時代の‘60年代から’70年前半暮らした街、あのころ入りびたっていたジャズ喫茶「ちぐさ」の親父さんも今はもういない……」それこそ今年2019年10月12日,13日、第27回を迎える「横浜ジャズプロムナード」が大型台風直撃予報の為急遽中止に!。盛岡大通ビックストリートジャズライブフェス常連の歌手・金本麻里さんも、横浜のジャズプロに六年連続となる今年は「NHK・横浜放送局のサウンドクルーズ」への出演予定だった。
 それはそうとブログの主、高橋幹夫さん(70)はかつて「藍色の蟇(ひき)」という写真詩をネット上に書いていた。“ひき”とは“ヒキガエル=ガマガエル”のことである。一度見てしまったら、生涯忘れられぬヒキの強い顔と姿。ブログとて一度黙読したらヒキ寄せられてしまいそうだが、それを書いている彼自身すら実は、大手拓次(1887~1934)の詩集(神保光太郎編・白凰社刊・1965)の中の「藍色の蟇」の舌にからめとられた?一人なのだ。「森の宝庫の寝間に藍色の蟇は黄色い息をはいて 陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく…」
又「灰色の蝦蟇(ガマ)」では「まよなかに 黄色い風がふくと この灰色のガマは みもちのようにふくらんでくるのだ…」と、少年の空想が浮かぶ詩だ。群馬磯部温泉の生まれ。17才で詩人として立つ希望持ち、40代で亡くなった時には北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、大木惇夫等のお見送りを受けたという詩人。
 その詩に引き込まれた高橋さんも「眩しきもの・憧憬」で「心うつもの 梢よりもれる陽射し 夕凪の渚…名をなした人々 ましてや歴史に埋もれた先人達 なによりも 貴女の笑顔」と、その、今も笑顔のステキな奥様との新婚旅行は沖縄。僕とはNYとワシントンDC「穐吉敏子への旅」(2000年)その時一緒に聴いたコンサートはCDになり、僕達一行を歓迎してステージで話してくれた穐吉さんのことばも入っていたし、僕にもCDへのライナーノートの依頼が来て、それを買った高橋さんからCDにサインしてといわれて「日本→アメリカ、心の中の高い橋を渡った時に」と書いた僕。

幸遊記NO.455 「35年前1984年10月の穐吉NYBB」2019.10.7.盛岡タイムス
 2019年7月14日(日)正午からの「第32回・盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズライブ・フェス」に、40年来の友・高橋幹夫さんが走り寄って来て僕に手渡してくれたプラケースを開いて飛び上がらんばかりに驚いた!入っていたのは35年前の1984年10月27日、陸前高田市民会館大ホールで行った「ジャズ喫茶・ジョニー」の10周年記念コンサート「秋吉敏子・ニューヨーク・ジャズ・ビックバンド」16ページのコンサートパンフ。
 更には東海新報社で印刷して貰った「ジョニー情報」(新聞見開き4ページ分)、その一面左上に作家・五木寛之氏からのメッセージ「10周年おめでとう。持続することのむずかしさを、最近つくづく感じています。これからも、われらの幻の共和国として頑張ってください。横浜にて・五木寛之」とある。コンサート開催を知らせる新聞記事、「毎日新聞」、「河北新報」、「岩手日報」。そして2ページに渡る見開き全面広告の東海新報(10/9付)と1ページ全面広告の岩手日報(9/20付)をまとめて新聞紙にスポンサー広告100余りをつけて再印刷した22.000部の新聞?それを新聞に折り込んだもので、当時の駐日アメリカ大使・マンスフィールド氏は「秋吉敏子さんは自国(アメリカ)の最高の宝です」と紹介メッセージ。
 パンフレットには、秋吉敏子さんニューヨークからのメッセージ「ジャズは大変に個人的な一種特別な音楽で聴く方も大変な努力が要る為、誰にでも向いて居る音楽とは言えません。又クラシックと違い、ジャズに対する認識が余りなくて、非常に誤解されて居る音楽とも言えます」。当時のジョニー後援会長だった医師の鵜浦喜八氏は「陸前高田市にとってはかつてない大事件であり、このことによって陸前高田市民が世界の檜舞台に進出したことを意味するものであり、この上ない栄誉、、、。この友情の輪が世界平和につながることを祈念します」他10名余りの賛辞。1975年の開店時から84年までの間に開催した200回余りのコンサート、ライブ出演者名、又ほぼ同数の報道インデックス。そしてジョニーがコレクションしていた秋吉敏子のLPレコードが当時、すでに48枚あったことを再認識。手売りの他、車を運転してチケットを頼み歩いたプレイガイドは県内全域と宮城県南まで100ケ所近く。もちろんコンサートは補助席までの超満員。僕も実行委メンバーも若くてバリバリだったなあ。幹夫さんありがとう!

幸遊記NO.454 「コウKOWハチ公ジャズ物語」2019.9.30.盛岡タイムス
 5年前の2014年5月27日、インターネット(Amazon.co.jp)に「KCF-KOW」氏が書いたCDレビュー「歴史に残る名盤となるでしょう。秋吉敏子トリオ1980in陸前高田」を見つけてコピーを持参してくれた人がいた。それを読んだ僕はその文章の一部を今でも空んじることが出来る「驚いた!という表現では足りない。スゴク驚いた!とんでもなく驚いた!!!感動のあまり言葉が見つからない。ジャズを聴き始めて40年、なぜこれまでジャズを聴き続けてきたのかという答えがこのアルバムに凝縮されています。こんな感動は一生のうちに何回も味わえるものではないと思います。秋吉のピアノトリオでのライブアルバムはこれのみで、とても貴重。そして何より演奏が最高というのはあり得ない」でした。
 「KOW」とは秋田県大館市の加賀珈琲店の店主・加賀公氏。昨今の喫茶店はネコもシャクシ?も自家焙煎ですが、彼こそ本格派の先駆け。生豆の輸入、焙煎、販売、の「珈琲店」(メーカー)とその二階でのレコードジャズの珈琲専門店(ジャズ喫茶)「KOW」を始めたのは1972年のこと。ジャズに対しても客に対しても名のように公正でまんべんなく、かたよりのない人柄。地元紙「北鹿新聞」に「紙上喫茶・KOW」をも開店しエッセイ「遊々楽々」を連載。自分の珈琲初体験(中学時代)「クァー!まずい!こんなもの二度と飲まない!」のはずが「コーヒールンバ」のうたに誘われいつの間にかこの道へ。そこで学んだことは「30年やってわかることは、20年ではわからないということ。歳を取ることが思ったよりも楽しいことだと気が付けばたいしたもの」と古木珈琲の熟成風味に至るような話。
 いつぞや、ひょっこり開運橋のジョニーへ現れた彼。僕も僕もと思いつつ何年も経ってしまったが、今年2019年8月ようやく照井ケンも、秋田犬(正式にはアキタイヌと呼ぶ)の故郷・大館での演奏会に行くピアニスト・和賀寿彦ご夫妻が運転するアウデイに便乗させてもらい「KOW」に初見参。すると「これはオーデイオ音楽界の革命児じゃないだろうか?、レコードやCDの手軽さとは次元が違う話」とハイレゾ対応HDDプレイヤーで秋吉敏子の1980年を呼び出し、TVモニターにジャケットと曲名をデイスプレイして再生する新感覚ジャズ喫茶へと進歩していて真にこれは現代の忠犬ハチ公!と驚いて珈琲2杯飲んだ僕。

幸遊記NO.453 「草津の竹久夢二ギャラリー」2019.9.23.盛岡タイムス
 女優兼歌手だった高峰三枝子(1918~1990)のデビューヒット曲となった松竹映画「宵待草」(昭和13年)の主題歌を、僕は時折レコードを引っ張り出して聴く。「待てど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬそうな」は画家で詩人で装本美術家(今日のグラフィックデザイナー)の先駆けだった竹久夢二(1884~1934・本名・茂次郎)の作詞なのですが2番の歌詞「暮れて河原に 星ひとつ 宵待草の 花の露、、、、」は西条八十(1892~1970)作詞のめずらしい歌。作曲は多忠亮(おおのただすけ)(1895~1930・宮内省雅楽部・バイオリン奏者)
 大きな瞳と女性の持つしなやかさを表す和服姿の美人画はどれ見ても一見して夢二とわかる彼独特の表現だが、詩にしても「待てど暮らせど君いでず日は暮れ果ててほのしろき    門のほとりの丁子の花よ」などと似る。彼の最初の妻・岸他万喜(金沢出身)は目の大きな夢二式美人画のモデルとされるが、宵待草のモデルは離婚した他万喜と旅した千葉の海鹿島で出会いデートを重ねた人長谷川タカ。夢二の名作「黒船屋」は夢二に絵を習い、同棲し、金沢の湯涌温泉に2人で3週間も滞在した程夢二最愛の恋人だった笠井彦乃が父親に連れ戻され、1人東京本郷のホテルで悶々していた時に、近くの表具店彩文堂の主人から表具展に出品する絵を頼まれた夢二が黒猫を抱いた彦乃?を描いた傑作ミステリー画。その後モデル・お葉と暮らす。この3人の女性たちは、どこか共通する夢二好みの美人であったことは、当時の写真からも見てとれる。岡山県生まれの竹久夢二、今年は没後85年。彼の魅力を伝える施設も岡山市、文京区、豊島区、酒田市、金沢市、渋川市、草津町、由布市など十指を数える程、交歓的な大正ロマン天才画家人気は上昇の一途である。
草津・竹久夢二ギャラリー(草津ナウリゾートホテル内)の代表・萩谷栄彦(まさひこ)氏は東京生まれ、彼の祖父・萩谷秋琴(しゅうきん・1875~1952)は茨城下手網生まれ、県師範学校を卒業し、小学校の先生をしながら日本美術院の研究生となり岡倉天心や横山大観らに学び、その後山水画の橋本雅邦の後継・川合玉堂に師事し日本画の技法を学んだ人物で1904(明治37年)より岩手の一関中学で絵画と書を教えた人物、彼の作品は高萩市歴史民俗資料館に収蔵され、時折秋琴展が行われている。

Prev [P.34/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.