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ジャズピアニスト「オスカー・ピーターソン」の名盤「ザ・トリオ」(1960~61年シカゴ録音)のLP・B面2曲目の「サムタイムズ・アイム・ハッピー」(時には幸福)が当時、ラジオから流れてきたのを聴いた菅原孝少年は、「曲の中間での124小節にも及ぶ長~いベースソロに、たまげでしまった!」のだ。以来彼は、レイ・ブラウン(1926~2002)を神とした。
そして「ブラウン」の名を冠したジャズ喫茶を水沢市の吉小路に開いたのは74年。21才の時だった。当時はジャズ喫茶全盛時代とはいえ「カッコばっかり、の人が多かった。いわゆるホヤモノョ」と厳しかった彼も、家庭事情から9年後の83年に店を閉じた。 70年代、レイ・ブラウン来日の度に親交深め、閉店5年後の88年の12月には、店のお客さんだった洋子さんと結婚。式の当日、来日公演中だったレイ・ブラウンはもちろんのこと、彼の奥さん「セシル」さんまでもが、アメリカからお祝いに駆けつけてくれたのだった。その宴には僕もご招待され出席。感動的な結婚披露宴だったのを覚えている。 家業だった「せんべい屋」春から秋の「公園の売店」冬期間の「日通」と体がいくつあっても足りないために23年間ものジャズ喫茶休業。それはもう、言い尽くせない程「悶々」の日々。「なんだあアイツ。とバカにされれば燃える性質だから、今に見てろ!にっしぁたち。」と思ってきて、2006年奥州市水沢の日高神社前に自宅兼店舗の家を建て「ジャズ喫茶・RAY・BLOWN」を再びオープンした。 マイクロのプレイヤー。マッキントッシュのアンプ。JBLのスピーカー。天井までの壁一面に膨大な枚数がビッシリと収まっているレコード。それを再生する生粋のジャズ喫茶復活激に、僕も激拍。 久しぶりに店を訪れてみたら、僕の天女・穐吉敏子の「TOSHIKO」をさりげなくかけてくれた。嬉しかったね。何せオスカー・ピーターソンに見出され、彼のサイドメンだった「レイ・ブラウン」と録音した穐吉敏子の60年程前のデビュー盤。孝と顕はビールでビバップ!。
高校時代から、ギターを持って歌い始めたという、シンガー・ソング・ライター「くつわだ・たかし」が、岩手を代表する詩人のひとり、村上昭夫の「動物哀歌」に出合ったのは1978年。早稲田の学生だった22才の時だったという。
以来彼は全国行脚する歌旅の友として、いつでもその詩集「動物哀歌」を持ち歩いていた。彼は石原吉郎。清水昶。村上昭夫。等の詩に曲をつけて歌い、もちろん彼自らも詩を書いた。村上昭夫の詩には「生きる希望が存在している」と語り、僕の店にやって来る度に“犬”や“ねずみ”“すずめ”“雁の声”を唄っては、僕の胸を振るわせた。 85年秋、「くつわだ」が旅の途中で盛岡に降り、街をさまよいあるき高松の池のほとりに建つ村上昭夫の詩碑と対面した時、どっと涙があふれたという。 昭夫の二つ目の詩碑が、彼の本籍地である父の故郷・陸前高田市矢作町に建立された98年、彼はその碑前にて動物哀歌の唄を捧げた。そして僕たちは「村上昭夫の動物哀歌をうたう」というCDを作ろうということになった。盛岡市青山に住む昭夫の弟,達夫氏宅をたずねると達夫ご夫妻はもちろん、昭夫の母・タマカ。昭夫の妻・ふさ子さんまで顔をそろえて待っていてくれた。 そんな話に感動してくれた榎並和廣という知り合ったばかりの方が、制作費の足しにとウン10万をポンとだしてくれてCD化が実現した。 出版されたCDを持って盛岡市立図書館をたずね、詩碑の前でコンサートをやろうということになり、それは2000年11月3日と2002年11月10日の2回、図書館集会室で開催され、一度目には詩人・宮静枝さん、二度目には昭夫の弟さん達、和夫・達夫・成夫と3人が顔をそろえてくれ、かつて昭夫が郵便局に勤めてた時の同僚だったという中村フミさんまでが集まってくれたのでした。 ふりかえってみればまだ10年そこそこ。だが、昭夫の母、妻、弟2人、それに宮さん。くつわださんまでもが、この世を去ってしまった。動物哀歌をしみじみと読み聴く。
1975年に開店した陸前高田のジョニーで毎日、何度も流れていた浅川マキの唄。その暗闇の底から聴こえてくる様な、ブルースともジャズともロックともつかない、まったく彼女独特の世界、そう、70年のデビューアルバムのタイトルそのものであった「浅川マキの世界」のスタイルを40年間変えることなく唄い続け、2010年1月17日に、公演先のホテルで亡くなった彼女はその時67才だった。
僕は、その死を新聞の記事で知り、開運橋のジョニーに時折やって来る鶴飼曻さんに電話を入れると、何で電話が来たのかということを彼はすでに知っていた、後日、僕達は深夜に、涙をこらえながら、彼女の古いレコードを聴き口ずさんだ。 盛岡にジョニーを開いてから10年、僕の知る盛岡の浅川マキファンは彼以外誰も知らない。だから、浅川マキのレコードをかけるのは、彼が来た時だけなのだ。それも決まって他に客の居ない深夜に、「ジョニー・ドラム」というバーボンウイスキーを片手に、彼女の唄に聴き入るのだ。 僕が生の彼女に出合ったのは、たしか78年東京西荻窪のジャズライブハウス「アケタの店」でだった。店のライブが終ってから全身黒服に身を包んだ彼女が店にやってきてベースとのリハーサルを始めてビックリ。それから、彼女と何度も何度もコンタクトを取り、岩手に陸前高田に来てくれる様に頼み続けて、4年後の81年7月1日、30人入ればギッチリの店に60人も座らせて、まさか、まさか、のジョニーライブが実現したのだった。 メンバーは、浅川マキが亡くなる直前までピアノを弾き続けた渋谷毅。そしてトランペッターの近藤等則。ベースの山崎弘一。彼女は椅子の並べ方にまでこだわり、僕を感動させた。 20枚の色紙やレコードにサインをお願いした時、彼女は、タタミの上に正座して、机に向い、その、すべてに歌詞の一節を書き添えてから、浅川マキとサインを入れた。僕はそれまでも、これまでも、沢山の人にサインを頂いてはいるが、彼女程とても丁寧な、美しい字でサインをしてくれた人は、今だかつていない。
2010年31年振りにCD化され再発売された「片山光明・ファーストフライト」を聴きながらライナーノーツを読んだ。その冒頭に、ジャズドラマー。作曲家。教育打楽器専属講師。CMタレント。映画&舞台俳優。気仙沼大使。の文字。当時彼は28才。
その最初の肩書き“ジャズドラマー”兼作曲家として、レコードデビューさせようとしたのは1979年。彼はすでに東京に出て活動していたのだったし、宮城出身とはいえ、となり街の気仙沼出身だったことも、陸前高田でジャズ喫茶をやっている僕にとっては地元からジャズスターをと、友知人、彼の兄や姉たちの協力のもと“初飛行”させたのだった。 演奏のサポートをしてくれたのは、当時彼の師であったピアニストの故・杉野喜知郎さん。東京六本木交差点角のビルにあった「パッサ・テンポ」という店のオーナー。彼のピアノも曲も、若い僕らにとっては食べ足りなさを感じさせる位、渋くてカッコいいジャズだった。ベースの詩人北原の音も心にしみた。おかげで初飛行は成功しバンザイ三唱。 気仙沼在住の画家・あい沢一夫氏(心象作家協会)がレコーディング風景を見て描いてくれたジャケットも評判になったものだった。2007年に「ジャズ批評誌」が選定した「和ジャズ1970~90年の200選」の巻頭カラー100選の中に3枚僕がプロデュースした当時のレコードが選ばれており、その中の1枚が、現バイソン片山の「ファースト・フライト・片山光明」というアルバム。 録音当初から僕は、このレコードは名曲名演オリジナル名盤になると思ったが、時を経て、やはりそうなったことが、ことさらに嬉しい。 この初飛行から5年後にはアメリカに飛行して活躍。帰国後に即、バイソンバンドを結成し、サッポロビール・ジャズオーディションで「ファーストフライト」を編曲し直した「ホライゾン」で見事グランプリを獲得し、87年のスイス・モントルージャズ祭に出演。ハービーハンコック。パットメセニー等を向こうに回し、岩手出身のトランペッター・臼沢茂を加えた「3管編成の彼等の熱演は曲毎に大きな拍手が沸き起こった」と報じられた。
「陸前高田のジョニーでジャズを聞く/ 古澤良治郎のドラムを聞く/ 渋谷毅のピアノを聞く/ 海鳴りが聞こえてくるすぐの街にジョニーはあった」で始まり「僕はなぜかジョンコルトレーンになった様な気がしたのである/ それはなぜだかわからない/ わからないけれど/ 頭の上を/ うんざりするほどつまらない照井氏の駄ジャレが/ はっきりとした意志をもってむしろかがやきながら/ ものすごい/ いきおいで/ 通りすぎてゆくのだ/ 遠くで誰かが言っている/ 「楽しそうだノオ」で終る70行からなるこの詩「海鳴りが聞こえてくるすぐの街に」を「80年代」という雑誌(80年9月号)に発表した、シンガー・三上寛。
その三上寛が79年6月9日、陸前高田市民会館で、脈動のドラマーと呼ばれた古澤良治郎とコンサートを行ったのだ。その模様を記録しとこうと、僕は当時ソニーが開発したエルカセットで録音しておいた。その後三上寛は、どうしてもあのコンサートが忘れられないと、唄いに来る度言い続けたので、僕はそれを10年後にレコード化した。1000枚完全限定のモノラルLP。ホールが興奮のルツボと化した、すさまじくも感動的で、幸せな一夜の記録。 あの日から30年過ぎた2010年7月8日、三上寛が盛岡の東家本店隣の「九十九草」でライブを行うという日、東京のレコード会社ウルトラヴァイヴの前田氏から連絡が入って、10月にあの三上・古澤のLP「職業」のCD化が決定とのこと。その日「九十九草」からご招待を受けていた僕は、三上寛のステージを感慨深く見聞させて頂いた。感謝感謝。 再発CDの解説の中に三上の言葉「当時、ライブハウスは極めてアンダーグラウンドな場所で、今より特別な意味があった。その関係者の中でも照井は日本人というものに強いこだわりがあって欧米との音の違いを追求していたひと。そういう稀有な存在があって、今という時代があることをみんなに知ってほしいね」とあって、僕はジーンとなった。 職業というタイトルについては「当時は非常に厳しい状態だったから“天職=仕事”と自己暗示して乗り切ろうとしていた」のだと三上。ジャケット絵は黒田征太郎。 |
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