盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.123/125] Next
幸遊記NO.13 「みよし・ようじの“心情”」2011.4.4.盛岡タイムス
 「爺さまは歌う、婆さまは歌う、孫らは手拍子、父ちゃん母ちゃん踊りだす。家族皆
んな揃ってヨ~、金札米食べ食べジャズをする。みちのく江刺のジャズシンガーど~、おらのごど。鶏にぎやかコケコッコゥ、裏の畑でハ~ポチおしっこもらしたの~。」
 凄いジャズの演奏と共に熱唱した「みよし・ようじ」の「ながらジャズ音頭」は、1986年から87年にかけて、ラジオ日本の「オール・ナイト・ニッポン」で何度も流れ、聴きながら走っている深夜のトラックが思わず蛇行するとまでいわれた傑作。
 作詞・作曲・歌「みよし・ようじ」本名・柳田美吉。「ミキチ」を「みよし」とし、つまようじの柳に引っかけ「ようじ」としたシャレの芸名。このシングルレコード以前の84年に出したLP「心情」も、全10曲彼のオリジナル作品。自らのギター弾き語りの「青い鳥」をはじめ、二階堂修のクラシックギターをバックに歌った表題曲の「心情」そしてB面最後のメイン曲であった「浦島太郎」では、超!フリージャズの板倉克行トリオとの共演「ちれいな人魚ちらちらちらっとちらめいた、腐った魚のこだれだようなあの目つき、魚心あれば水心、ビッど水得た魚のように本能さっそぐくすぐった、こっちこっちと呼んでいる、釣った魚にゃエサやらん、おいしい話にゃ気ィ付けろ、ふぐはちょうちんなってもまだこわい」はまさに日本のジャズだった。
 彼独特のメチャクチャなチューニングでギターをかき鳴らし、ドラムの菊池コージ、サックスの高橋幸世と3人「ながらジャズトリオ」いわゆる仕事を「しながら」のアマチュアバンドを組んで、休日利用のツアーを重ね、東京のジャズライブハウスにまで出演し「出前一丁手前ミソ」という、エッセイ集の本まで出版し、笑えば顔半分を口にした人。2001年3月(僕は開運橋のジョニー・開店準備中)彼は亡くなった。
 あれから丁度10年、大津波後の11年3月28日陸前高田のジョニーがあった場所に立ってみた。街も店も、あった無数の物もあとかたもない。なのに離れた所でチラッと見えたたった一枚のLPジャケット、拾って見たらそれは何と!彼の「心情」だった。


幸遊記NO.12 「宮静枝のわたしはここにいる」2011.3.28.盛岡タイムス
 連日、東日本大震災の報道が続く。三月も下旬というのに、雪まで降る毎日。ふと、故・宮静枝さんの詩、二編が頭に浮かんだ。「海に雪降る 海うずめよと むなしく杳(とお)いそのいとなみの 海をうめつくした時 雪の衣を身にまとい 若者よ あなたは海の底からふたたび還ってくれるだろうか 海に雪降る 海うずめよと 雪ぞ降る」“さっちゃんは戦争を知らない”という詩画集に載っている一編だ。僕はこの詩を書にしたため曲をつけ、2007年2月11日彼女のお別れ会で唄わせていただいたのだったが、いつもベットで、このうたのカセットを聴いてくれていたと聞かされ涙が出た。
 宮さんが開運橋のジョニーにやって来たのは開店した年の2001年11月4日。そして02年の11月4日「村上昭夫の動物哀歌をうたう」というライブに来てくれて、村上昭夫について涙を流しながら語ってくれた光景が想い浮かぶ、あの時すでに92才。杖はついていたが地下から階段を一人で上がって行く後姿にはビックリしたものだ。
 もう一編は「わたしはここにいる 失うものはすべて失い 截(き)る者を切に耐え 来ぬ者を待ち続け さりげなくうたい 白いひとすじを下る 人はわたしを川と呼んだ 旅をここまで来た 静かな日だまりだから 過ぎこしは指折らず あの日より少し悲しく みちのくの城下町の川のほとり わたしはここにいる」これは03年に盛岡の馬場町に建立された宮静枝さんの詩碑に刻まれている詩なのだが、何故か僕の今の心境そのものなのだ。この詩を昭和38年4月19日に川原の小石に書いた少年?のこと、その石を拾って、ずっと持っていた当時の少年のことなどの記憶が戻ってくる。共に彼等は60代半ばだろうし、僕もすでにさしかかっている。
 この3月24日、陸前高田から新沼茂幸さんが開運橋のジョニーにやってきた。母が盛岡の病院に入院したのだという。彼の会社も津波で流されてしまい、醸造直販という配達方式でお客に届ける昔ながらのおいしい醤油をつくってた人ですが、陸前高田の街はもう、この盛岡のジョニーにしか残っていないと泣いた。


幸遊記NO.11 「照井顕の希望音楽会」2011.3.21.盛岡タイムス
 3月11日マグニチュード9.0という大地震に見舞われた直後、巨大な津波の襲来により東北沿岸の街のほとんどが甚大な被害。その沿岸部では一番平地の多い陸前高田市の惨状は想像を絶する壊滅状態。
 平泉中学卒業時の1963年3月から2001年2月までの38年間住んで、お世話になった第二のふるさと陸前高田市、僕の父の弟が経営する照井クリーニング工場に住み込みで働きながら、、高田高校の定時制に通わせてもらった4年。足掛け10年間に及んだ、洗い場と集配業務のお陰で、市内の隅々までの地理や、多くの家庭と人を知った。
 1967年に開いた希望音楽会を継続して、75年8月。五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」に由来する「ジョニー」という名の音楽喫茶を開店。2年後には列島唯一の日本ジャズ専門店としたジョニーのテーマは、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの曲「黄色い長い道」。
経営苦にあえぎながらも、中央のプロミュージシャンを陸前高田に呼び続けていた時、その孤軍奮闘ぶりを見かねた市内の医師たちが中心となって会員をつのり、「ジョニー後援会」という資金援助団体まで結成して応援してくれた文化の薫り高かった陸前高田。
 日本で初めての「日本ジャズ祭」を開いた1985年8月。その会場となった酔仙酒造が津波によって押し倒される光景をTVで見た時、陸前高田の街の全てが消えた事を想像出来た。もちろん、元妻が続けていた「ジョニー」とて形跡もないだろう・・・・・と。
 その元妻や大船渡の2男夫婦、クリーニング関係の親戚の無事などを知ってホッとしたのは数日も過ぎてからで、全て東京経由の情報によってもたらされたが、友知人の無事を祈る毎日。その一方で何十年振りの人たちからまでの電話やメールによる安否確認や見舞いのたくさんのはげましの言葉。本当にありがとうございます。ニューヨーク在住の陸前高田ふるさと大使・穐吉敏子さん(81歳)からは、8月は復興に役立つコンサートにしたいとFAXが来た。「希望音楽会」の開催だ。


幸遊記NO.10 「高田和明の三陸旅情」2011.3.7.盛岡タイムス
 「樹氷エレジー」(関根恵子主演・大映映画主題曲)を歌って、1970年にコロムビアからデビューした歌手・高田和明(本名・菅野健一)には、10万枚を記録した「三陸旅情」と「夜の指輪」という二つのヒット曲がある。
 メディアにのり、火がついての10万枚という一般的なそれとはまったく違い「地道な努力」という言葉がよく似合う、自らの手売りによってのみ達成したヒット曲なのである。それにかけた情熱もまた9年、10年と、気が遠くなりそうな年月をかけて、キャンペーンしながら唄い歩いた不屈の根性が成せたもの。
 単純計算で一日30枚づつ10年間も自らの出前歌唱のみでの達成となれば、そこそこの歌手が逆立ちしたって出来るものでも、続けられるものでもないことは誰の目にも明らか。だから当時の所属元であったビクターは「特別賞」としての「ヒット賞」を2度、彼に贈った。
 「マニキュア占い」のB面だった「三陸旅情」を、発売から7年後の1983年、三陸鉄道の開業(84年)に照準を合わせ再発売し、三鉄ブームの火付け役として、3年で4万枚を売り上げた彼の一生懸命な姿に、ジャンルは違えど、同じ音楽に生きる者として感動を覚えた僕は、まだアルバムの無かった彼のLPレコードを作ろうと決心したのだった。
 全12曲、書き下ろしのオリジナル。僕も一曲作った。演奏はジャズ系のミュージシャンに頼んで、東京でスタジオ録音。その「去りゆく季節」(86年)の発売に合わせて、東京杉並公会堂で、オーケストラをバックに初のワンマンリサイタル。彼の出身地で、僕の店ジョニーがあった陸前高田からは、大型バス一台を貸し切って応援に駆けつけた。会場は超満員、これも彼の手売りだった。
 8枚のシングル。1枚のアルバム。この数もまた歌手生活40年余りの彼、高田和明にとっては、少なすぎる数字ではあるが、自ら手売りした数十万枚もの数となれば、何十タイトルものリリースに匹敵するだろう。最新盤は2007年にキングレコードから発売した「棄てましょう / その名はフジヤマ」のシングルである。


幸遊記NO.9  「明田川荘之のカリフア」2011.2.28.盛岡タイムス
 僕の店「ジョニー」が「音楽喫茶」から「ジャズ喫茶」へと一度目の変身を計った1976年8月23日。類希れなる日本のジャズを生み出す男に出会った。その人の名は「あけたがわ・しょうじ」。
 「センチメンタルな、レッグのリズムに乗って、野蛮なスキャットが舞う。強靭な指が、今一挙に振り落とされた。荘厳なるピアノは、真っ黒い鳥肌を立て、地軸を揺るがす程に身震いをした。一人三役、奇妙なるセッションは、不思議なまでの興奮を撒き散らし、人々の息を喘がせ、行進してゆく。そして、何の前触れもなく、突然の絶頂感。けだるさの中で、気がつくと、いつの間にか、ホールの中に降り出した雨は、紛れもなく、天才と称する男の、エネルギッシュな汗のシャワーだった。」
 これはその時の私的な詩的な感想文だが、以来彼は35年間、毎年ジョニーにやってきて演奏すること50回は優に超える、最多出演プロジャズマン。ピアニスト・オカリナ奏者・作編曲家・オーケストラリーダー・エッセイスト・評論家・ジャズライブハウス「アケタの店」とオカリナ製作所の「レル民族楽器研究所」とレコード会社「アケタズディスク」社長兼プロデユーサーと、いくつもの顔を持つ。
 彼との出合いは、74年に店を開き、彼自身が立ち上げたレーベルの第一作「エロチカルピアノソロ&グロテスクピアノトリオ」という彼のデビュー盤の「カリフア」というアフリカのような曲。そのレコードたるや、シロジャケットと称された何も印刷されていないサンプル用ジャケットに手書きしたジャケットコピーをベタッと貼り付けただけの、まさに手作り。
 「このレコードは佳作。僕は天才。ちょっと気軽に聞くレコードじゃない。人間修練の聖者みたいなレコード。理解に苦しめば未だ人間未熟だと思いなさい」というライナーコピーに、何ともいえない味わい深さを感じた僕も、書いた彼も当時はまだ20代。彼の店に出演するミュージシャン達のレコードやCD発売もすでに百数十タイトルを超え、今や押しも押されぬ業界一、二の名門レーベルとなった。


Prev [P.123/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.