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札幌市を中心に、北海道で活躍していたジャズベーシスト・中山英二から、東北地方で演奏したいと、手紙とともにデモテープが送られてきたのは1977年の初夏。
カセットテープに収められた、彼のオリジナル曲「大地を走り抜ける風のように」を聴き、すっかり魅せられてしまった僕は、コンサートを主催することにした9月12日まで、彼等の音楽を、百回は軽く繰り返しながらそのテープを聴いた。 新鮮なメロディー、それを奏でるトリオの美しいサウンド。力強いベースラインとともにまるでリード楽器のようにメロディーを奏でる一人二役?の中山英二のベース奏法。何故にこんなにも素晴らしいミュージシャンが、無名のままで北海道に居なければならないのか!と、僕は彼等の生演奏を耳の当たりにし、一大決心をした。 ジョニーズ・ディスクの創設であった。大げさに言えば、岩手でレコード制作会社?を立ち上げたのである。当時、レコードと言えば、東京中心の大手メーカーが作ったものを耳にするだけの地方、それに反旗をひるがえし、地方から東京へ、全国へ、出来ることなら世界へと、第三者である僕の耳を通した作品を世に問うてみようと思ったのである。 だが問題はお金の工面。無一文に近い僕は、知っているほとんどの人に手紙を出して、一人一口一万円の出資者をつのって始めたレコード制作は珍しがられ即完売!同78年には、上京してスタジオ録音。一年で2枚もリリース。と、これまた話題となって再プレス。 ここから、中山英二は大躍進、二作目のメンバーと共にバンドごと東京へ進出して行ったのである。ギターの宮野弘紀(現在、歌手の綾戸智絵の伴奏者も務めている)彼は、その時が初レコーディング。今では二人共、世界的に見ても指折りのジャズミュージシャンの一人に数えられる程だ。 その記念碑的レコード「アヤのサンバ」「マイ・プレゼントソング」の2作が32年振りの2010年に渋谷のレコード会社・ウルトラ・ヴァイヴからCD化され再発売になった。
1969年、ステレオメーカーのトリオがレコード制作も始め、岩手県宮古市出身のジャズピアニスト・本田竹彦のデビューアルバム「本田竹彦の魅力」を発売し、渡辺貞夫との共演!で、話題になった。その本田の本格デビュー盤ともいえる自己のトリオで録音した「ザ・トリオ」も豪華な見開きジャケットのLP盤だった。
僕は当時」22~23才。寸時も惜しんで色んなレコードを夢中になって聴いていた時代であった。定時制高校を卒業と同時始めたレコードコンサートも続けていた。更にレコードが定価より安く買えるからと、片手間に、レコード屋まがいの店を開き、その時「本田竹彦」(竹広)の音楽に出合ったのだった。 それは運命的であったと今更に思う。本田竹彦の「ザ・トリオ」というレコードの中に収められていた「破壊と抒情」は、それまで夢中になって聴いてきた音楽の全てが、その一曲の中に集約されていると感じてしまったのだから。 その2年後位だったろうか、本田が故郷の宮古に帰ってきて、コンサートを開くと聞き及び、それこそホンダのNⅢで陸前高田から宮古小学校まで聴きに出掛けたのだった。その演奏の凄さたるや、ピアノの椅子には、まるでバネでも入っているかの様な本田の大スイング。 あれが、僕の最初のジャズライブ体験。打上げに残って色紙にサインを貰ったら「With・My・Soul」そう、演奏は彼の魂そのものなのだった。 そして念願の陸前高田での彼の初コンサートを市民会館ホールで開催したのは77年2月6日のこと。75年8月から開いた「ジャズ喫茶・ジョニー」に通う人達のサークル「三陸・ジャズ・クラブ」が主催した第2回目の企画。メンバーは本田のピアノ。岡田勉(ベース)、守新治(ドラム)、によるトリオ。 本田という凄いピアニストは岩手出身。しかも僕をジャズに引き込んでなお、陸前高田で開いた音楽喫茶をジャズ喫茶へとかりたててくれた男であり、ジャズに携わる僕らにとっては偉大なスターピアニストだったのだ。
僕にとって幸せなことは、何と言っても音楽を常に聴き続けてこれたことだ。 音楽は実態のない幻想。言葉もそう。演奏している時、しゃべっている時には実在しているが、終わってしまえば消える。だが、見たり、聴いたりした人たちが感動したものは、その人たちの心に記憶あるいは印象として残る。 やがて少しずつ薄れることはあっても、その人が生きている間は残り続ける。いずれ記憶はその人と共に消えるが、その消えた人を愛していた人の心の中には、その人が生きている限り存在する。 だが自分自身の記憶をたどってみれば、そのほとんどが消えかかっていることに、毎日のように気付かされる。その消えゆくものを消さぬようにとするためには、いつも記録する作業が必要なのだが、筆不精の僕は、そのメモすらしないで来た。 たとえメモを取ったとしても、そのメモをどこへしまったか忘れてしまえば、メモ(目も)あてられない。とシャレで過ごしてきた。そのことは、あいまいな記憶の話はできるとしても正確な記録とすることはできない。そのためには調べる時間が膨大に必要になる、僕自身へのツケなのだ。 少年の頃に読んだ五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」の一説に「ジャズを好きだってことは、人間を好きだってこと」という主人公・ジョニーの言葉があったと記憶する。自分が生きてきた道程を振り返ってみれば、さまざまな音楽と出合い、その音楽を歌い奏でる人や、それらを愛する人々との交流、そして親しくなった方たちからは、少なからず自分の生き方については影響を受けてきたのだと思う。 僕を、63年前に産んでくれた母・キノエ。父・省平はもうこの世にはいないが、僕が生まれてから中学を卒業するまでの間に、僕という人間の形成に大きく関わっていたのだと今さらながら考えさせられる。記憶には無いが、もちろん兄や姉の影響も、たぶんに含まれているのだと思う。ジャズを好きになり人を好きになった僕の「幸遊記(こうゆうき)」を次回からつづってみようと思います。 Prev [P.125/125] Next
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