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地震、大丈夫でしたか?と、電話をくれた、ジャズドラマーの川口雷二さん。彼の温かな気遣いの声を聞きながら、思い出したのは、菊池コージさんのことだった。
彼は遠野市で看板業を営みながら、アマチュアのドラマーとしても活躍し、2007年1月6日、71才でこの世を去った人。本名、幸吉。かつてのクラブやキャバレーでの歌謡ショウのバックバンドやジャズの演奏などなどで食べてた人だが、病気になったのを期に、中学時代から描かされていたという肖像画の才を生かし、絵も描ける看板屋さんとして独立し、年間数百件を超える、こなしきれない程の仕事を30年余り続けた。 だがどんなに忙しい時でも、ドラムを叩く話が来れば、仕事よりも優先し、ドラマーな看板屋と言われ親しまれた。自ら企画した「民話の里にジャズが流れる」をテーマとした「ジャズ・イン・とおの」を何度も何度も開いた人だった。それに出演するプロのジャズ演奏者たちの調達係と司会役は僕だった。 1987年5月11日・遠野市民会館での「ジャズ・イン・とおの」に出演したのは、かつて、人気・実力共に日本一のドラマーとして知られ、親しまれた、あの「ジョージ・川口」(川口雷二の父)率いる「ニュー・ビック・フォー」。そのステージ上で、ジョージ・川口と菊池コージが、ドラム・バトル(競演)を演じるのだから、遠野の市民が喜ばない訳がなく、当時の遠野市長だった小原正己氏も大興奮し、打上げの席に現れた程だった。 「東京新橋あたりで一流芸者として知られた母(キミさん)の子として仙台で生まれ、母の仕事柄、小学校は東京、中学は岩手等8回も転校したもの」と話してくれたことがあった。「今でも母は三味線だけは離さず弾いてるけど、やっぱり凄いよ」と誇らしげに笑った25年前の顔も忘れられない。 彼、菊池コージさんが遺(のこ)した音は、フリージャズ・サックスの怪物と言われた、故・高木元輝(リー・ウォンヒー)とのデユオ・アルバム「グロー」で聴くことが出来ます。
3・11の夜、大丈夫やったか?と久し振りに聞く声の主は、榊原匡章(きょうしょう)さん(71)からの電話だった。三日後には、四国八十八箇所を車で回って来たとこや。だったか、回って来てから、だったか、うろ覚えだが「兎に角、絵を描くから被災者に届けてや。津波に家も家族も寺も墓も仏壇も位牌も全部流されてしまった北国の人達、手を合わす対象となるものがないだろう。その人達に仏様の絵を描いて、あんたに送るから、届けてや!」
それからしばらくすると、手すきの和紙に墨で描いた仏画が数十枚送られてきた。般若心経の終章を書き入れた仏画を中心に、ノート大のものから、携帯用の小さなものまで、一枚一枚手描きしたもの。何度か沿岸に足を運び届け、盛岡の陸前高田だと思って「ジョニー」にやって来る被災者や、その関係者たちにもあげたら、有難がられ、喜ばれました。 彼と出合ったのは1983~4年頃の事。彼と同じ三重出身のギタリスト・中村ヨシミツのレコード「魂のギター」を制作する時、ジャケットの絵を描いて頂いたのが始まりだった。当時彼は「神のお告げでな、突然絵が描けるようになったんや、その絵を東京の小田急百貨店で個展やったら、一枚10万円で飛ぶように売れたんや」と言っていたけれど、その個展を16年間も連続でやった手描きの版画家である。 彼、榊原匡章は伊勢神宮神官の子として生まれ、伊勢神宮神事写真家として活躍。東京で写真展などを開催のほか、雑誌などに掲載されたが、彼の最大の仕事となったのは、画家になってからの90年代に10年かけて、北は弘前から南の沖縄まで50城の絵を一枚の和紙に描いた事だった。一枚の和紙とは言え、巾2m30cm、長さ270m、重さ300kgという想像を絶する和紙ロールを、車載し持ち歩き、現地に広げて描いた作品。勿論ギネスモノ。三重伊勢道開通時には、108m(煩悩の数)に及ぶ1200ピースの現代版・東海道53次を描きジグソーパズルにして、インターで展示。福井県今立町「紙すき・おすまさん」の絵本(1ページ四畳半)という巨大本を作った男。黒鍵だけを使うホワイトロック・キーボード奏者でもある。
開運橋のジョニー開店記念日4月8日付けの東海新報に「津波に負けず無傷でケース入りの漁船模型が見つかる」という記事が載っていた。この模型の漁船を作ったのは、大船渡市大船渡町赤沢在住の及川正雄さん(83才)。
今から19年前の1992年4月、白血病で49才の若さで亡くなった義弟、佐藤進一さん(妹福子さんのご主人)の供養のために作った船だったという。進一さんが機関長として乗船していた「第18昭福丸」の50分の1の模型で四十九日の法要に合わせて仏前に供えたものだったらしい。家は津波で流されたが、アルミフレームをボルトで固定した頑丈なプラスチックケースに入っていたため、沈まずに航海し自宅近くに戻っていたというのだから、まさに奇跡。今は高台にあって無事だった造船所(及川さん宅)に帰って、あったかいシャワーで洗ってもらい、日なたぼっこしながら、津波を乗りきって戻った船体を休めている。 製作者の及川さん自身は、かつての東京大空襲から逃れ、両親の故郷、大船渡市に17才で疎開して来た。北海道から東京へと巨大な筏(いかだ)の木材を曳航する、タグボートが大船渡に寄港した際から、その蒸気船の釜焚人夫として乗船した経験を持つことから、定年後は、自宅の四畳半に「サンアンドレス造船所」と名付け、数十隻も造ってきた。 模型の船とはいえ、実船の設計図と、現地の港へ足を運びあらゆる角度から船体の写真を撮り、それを元に、木、ゴム、銅、真鍮などの本物素材を用いて部品作りから始め、船上の機械器具や手すりに至るまで形状や色、その位置、灯まで、正確に作り付ける入念さには驚くばかりだ。 90年代中頃だったろうか、及川さんは陸前高田まで時折「やぶや」のそばがおいしいと食べに来て、帰りに「ジョニー」に寄って珈琲を飲んでくれた。ある時その美しい木造船をジョニーの窓に飾ってくれと持って来た。それは何と1910年代から20年代にかけてジャズ誕生の地、ニューオリンズからジャズを乗せて、ミシシッピー河をシカゴへと上っていったリバーボート「ミシシッピー号」だった。あの船も津波を乗り越えニューオリンズへ向かっているのだろうか。
気仙沼市の「宮城の名工で銅板打出しの第一人者・小山忠五郎」さん宅に、何年か振りにおじゃましたのは2010年11月のことだった。久し振りの再会に顔をくちゃくちゃにほころばせ迎えてくれた彼も73才になっていた。
父が創業した「ブリキ屋」を子供達が一心同(銅)体になって、「小山金属板金工業」へと家業を発展させた仕事一筋一丸の努力社。忠五郎さんの父は大五郎という名。1970年73才で亡くなったのだが、その命日は父が叙勲を受ける日だったらしい。 小学4年から板金のハンダ付けを手伝い、中卒以来、大人になっても酒・たばこ・バクチに一切手を出さず、仕事のかたわら、朝・夜・休日を返上し銅板打出しに熱中。他に一から十まで全て銅板製のお宮、寺院、五重塔など十指をこえる建造物も制作。自宅の庭にそびえる五重塔などは高さ7メートル、7.000枚の瓦葺、瓦は3センチ角の銅版で出来ており十坪の屋根が葺ける量、塔全体に使われた銅板の総重量は1トンにも及ぶ。制作年数6年。しかもその建築は宮大工が虎の巻とする「実用差金宝典」を元に設計図を書きステンレス魂で型をおこし、瓦や銅柱、垂木などを一つ一つ作る気の遠くなる作業。 家の中に安置されている色んな観音様の打出し像もその出来の美しさから、毎日近隣の人達がお参りに訪れて、その観音様をなでて行くのだと言う。だから観音像の全身が鈍色の光を放っているのだった。縁側に置いてあった銅額装の打出し「魚濫観世音像」を僕に渡し、「盛岡の店さ持ってってけろ」と言った。魚濫観音とは三十三観音の一つで、何種類もの形態があるようですが、小山さんの打出した図柄は「葛飾北斎」が描いたものを参考にした仏様。巨大な鯉に似た魚の背に衣姿の観音様が立ち、まるでサーフボードのように、魚を操って波に乗っている姿なのだ。 数年前、宮城県庁内で行われた「宮城名工展」で、ただ一人実演を頼まれ二時間内に打出した作品だったと言う。「盛岡に持って行ってけろ」まるで津波を予知してたかのような言葉だった。今回の東日本大震災、小山さん家族そして家も無事でした。
「希望/それは/こころ/あふれやまぬ/ひとのいのち/よみがえる草木/朝日とともに/明日へとこころは/かがやいて/忘れられぬ/日々も/子どもたちの/未来のため/こころよ飛べ/夢見る世界へ/希望/あふれて」
この3月16日、全国発売になった「ホープガール」こと「金本麻里」のデビューアルバムのタイトル曲の歌詞である。ジャズピアニスト(NEA・ジャズマスター)の穐吉敏子さん作曲「ヒロシマ組曲の最終章・第三楽章“希望”」に、あとから詩人の谷川俊太郎氏が詩をつけたもので、穐吉さんの娘さんで歌手の「マンディ満ちる」が歌い話題となった曲。穐吉さんはこの曲を、あのいまわしい9・11のテロ以来、自身のコンサートの最後に必ず演奏する曲。 金本麻里もこの曲を歌うようになってから、自身のコンサートやライブではもちろん、リクエストによる2~3曲の時でも、穐吉さんの心を受け継いで必ず歌い、すでに何百回も人前で歌い続け、ホープガールとして定着している。 さてその気になるCDの評価、報じられ方ですが、CDの解説者・後藤誠一氏は「歌に込められた作者の魂を表現する歌唱力には聴く者が皆圧倒される」とし、瀬川昌久氏は「9曲中6曲をアカペラで歌ったのが大特色、声量が人並み外れて豊かで音程も確実な未完の大器」という。 盛岡タイムス(2月4日付)は「大器の予感、豊かな声量と歌唱力」。朝日新聞(2月11日付)は「修行4年ジャズ喫茶に通い磨いた歌声、豊かな太い声量で勝負」。岩手日報(3月5日付)「ジャズ歌姫のホープ、歌唱力に自信がなければ出来ない構成、のびやかな厚みのある声が魅力」。ジャズジャパン(4月号)は「スケールの大きいソウルフルな歌唱でその存在感を印象づける。ある意味挑戦的な構成には彼女の決意も感じられる」。ジャズワールド(4月号)「日本ジャズを標榜する盛岡市“開運橋のジョニー”の照井顕が世に送った新人歌手」。 インターネットのジャズページ(4月3日アップ)では「穐吉敏子のお墨付きをもらったデビューアルバム。今、筆者が聴くと東北関東大震災の被災者への励ましにも聞こえる。会心作」とある。 |
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