盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.23 「カンノ・トオルの雨の慕情」2011.6.12.盛岡タイムス

 「高田の火葬場で避難生活している人達は大分減ったが、今も十数人居る。でもここには、誰もコンサートなどの慰問に来てくれる人がいないから、マスター!誰か連れて来て演ってくれませんか」。陸前高田斎苑の隣にある光照寺の住職・高澤公省和尚からの電話だった。
 それから三日後の5月25日の午後3時からと日時を決め、盛岡から僕と、ホープガールでCDデビューしたばかりの金本麻里。伴奏者は矢巾町から澤口良司(ドラム)奥州市から後藤匡徳(ピアノ)一関から菅原修一(ベース)。それぞれ現地で拾い、合流しながら陸前高田へ。
 斎苑に着くと、高校生だった頃の石井先輩や昔に知った顔が並んでて、その中の一人,
及川兵而氏から「照井さん、これカセットにダビングしてくれないかなぁ」と言って差し出されたレコードは「ギターで綴る演歌大ヒット曲集・雨の慕情」だった。水をかぶった跡があったけれど中味は無事。預かって来てダビングして送った。そのレコードは僕にくれるという。ありがとう!。及川さんはカンノさんのファンだったというのが話の内容で解かった。
 ギター奏者・カンノ・トオル(本名・暢)は、岩手県住田町の出身で大正十一年(1922年)生まれ、盛岡中から慶応大へ進み、マンドリンクラブでギターを弾いた。入社したテイチク・レコードでは制作部長まで務めた人で、自らギタリストとしても大活躍。映画音楽やポピュラー、タンゴ、ラテン、歌謡曲など幅広いジャンルを演奏した。レコードはLPだけでも200枚近いはず。「カラオケ」の名付け親でもあった。
 そういえば昨10年6月5日、紫波町「あらえびす記念館」で行われた「ピアノと南部鈴の調べ」(小川典子・ピアノ。菅野由弘・作曲)のコンサートの時、由弘氏にカンノ・トオルさんの息子さんですよね?と声をかけた事を思い出した。由弘氏はNHK大河ドラマ、高橋克彦氏の「炎立つ」。宮澤賢治の「グスコーブドリの伝記」のアニメ映画などの音楽も担当し、芸大在学中にはヴィヴァルディ作曲賞などを受賞した才人だが、彼もすでに57才。
それはそうと陸前高田“斎苑”での“再縁”コンサートはNHKのTV、ラジオ、のニュースで全国に流れたらしく、見た!聞いた!と、口々に聞く。


幸遊記NO.22  「疋田多揚のスイングな日々」2011.6.6.盛岡タイムス

 朝日新聞盛岡総局の記者・疋田多揚(ひきた・さわあき)さんが、5月末久しぶりに開運橋のジョニーにやって来た。本社政治部への転勤だという。そう、あれは3年前・・・古い歌の文句がふと浮かぶ。「スイングな日々」という、僕がジャズピアニスト・穐吉敏子さんに魅せられた様子を読者に伝えるべく、同誌の岩手県版に08年5月10日から一週間6回の連載記事を書いてくれた若き記者である。
 「穐吉敏子」の資料が未整理のまま、ほぼ肥料化していたものを発掘させられ、あいまい極まりない頭の中の整理までしなければならないことになった、大変な取材だった。彼は、自分の休日までも返上して何度も何日も店や自宅に通ってインタビューし、それを裏付ける資料を探し出し、記事にまとめるという作業をやってのけたのだった。
 お陰で僕はその翌年(09)から10年までの2年間、盛岡タイムスに「トシコズ・ドリーム」と題するコラムを百回連載することが出来たきっかけを作ってくれたと感謝している。
○1「店主の熱意に根負け・ソロコンサート」○2「秋吉の“孤軍”に衝撃・日本ジャズ専門店」○3「企画次々借金膨らむ・500回ライブ」○4「人間秋吉が身近に・曲のプレゼント」○5「最後のCD録音も・記念館の夢」○6「夢追う楽しさ見守り・巣立ち」というタイトルでの連載は僕にとっては「恥ずかしくも誇らしいもの」でした。
 その彼・疋田さんが「3・11の津波で街がさらわれた陸前高田へ行った時、“ジョニー”があった近くの泥の中から、掘り出してきたレコードです。」と言って僕に差し出した一枚。
それは、ズタズタに傷ついた裸のもので、ラベルを見れば、これまたビックリ!の、30年前に僕が制作・発売した(和ジャズ名盤200選)新潟のピアニスト小栗均(山本剛の師)トリオの「みどりいろの渓流」だった。
何という“再会”だろう。まるで6月の今を想わせる「霧にけむる深い山々の懐を、透明な美しさを湛えて流れるジャズのひととき。新潟のベテランピアニスト・小栗均のブルースをあなたに」のキャッチフレーズを想い出させたそれは、幻想の縄文ジャズレーベル「ジョニーズ・ディスク」の盤だった。


幸遊記NO.21  「小畑倉治のこれくしょん」2011.5.30.盛岡タイムス

 本日2011年5月30日・77才の誕生日を迎えた小畑倉治さんは、紫波町高水寺の国道4号線のJA古館支所交差点を西へ100メートル程入ったところにある喫茶店「これくしょん」のマスターである。
 僕がこの店を知って通うようになって9年目になるが、この店は盛岡から紫波に移ってから19年になるという。「昭和20年代、盛岡の柳新道に出来た名曲喫茶“田園”から始まり“ボア”“文化”“ウイーン”といった店を一人黙って、ぐるぐると聴きに歩いたものでした」という小畑さん。
 4年前から店内の壁を、ギャラリーとして開放。書・写真・絵画・手芸・切手・などなどの展示を約1ヶ月という長期間展示してくれることから、いろんな方面の方たちが店を訪れる様になったが、初めて来た方たちが一様にビックリするのは、もうほとんどの喫茶店から姿を消した、アルコールランプサイフォンで珈琲をいれてくれること。LPレコードでクラシック中心の音楽を聴かせてくれること。そう、昔の喫茶店は,皆こうだったと、すっかり忘れ去ってしまっている記憶を呼び戻してくれるのだ。夏ともなると“かき氷”さえも出す。
 ドイツの通俗音楽作曲家といわれたブルック・ミュラーの「天使のささやき」に魅せられてしまったのがレコード収集の始まりだったというが、ある時SP・EP・LPの何百という数のいやし系レコードを全部捨て去った。その絶望から彼を、救ってくれたのは同悲の音楽・マーラーの「第一交響曲」だった。悲しみの渕から、自分を甦えさせる力を与えてくれたマーラーが生涯に書いた11の交響曲を聴き、特にも9番4楽章の「アダージョ」からはいやしとは違う、安らぎの境地を見出すことが出来たのだという。
 かつて中学の美術の先生だった小畑さんは何十年振りかに、鉛筆をにぎり、店の近くの城山公園に通い、そこにいる今年の干支(兎)の絵を描き「半年間のいきものがたり」という素描画展を「これくしょん」で昨年12月に開いた。一度引いた線は決して消さないで描いたという兎は美しく、そして優しかった。


幸遊記NO.20 「坂元輝の“海を見ていたジョニー”」2011.5.23.盛岡タイムス

 渋谷ジャズ維新シリーズの一枚として、2007年に初めてCD復刻された、ジョニーズ・ディスクの「海を見ていたジョニー」。坂元輝ピアノトリオの演奏によるLPレコードが、この11年5月16日にHQ(ハイクオリティ)盤のCDとして、再復刻された。
 “五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」に捧ぐ・坂元輝のレフト・アローン。バッファロー・ジョニーの魂が今、陸前高田ジョニーで甦る”。として発売したものだった。ジャケットは、故・朝倉俊博氏が「アサヒグラフ」81年4月10日号に発表した「日本人のジャズを夢見る東北のジョニー」で使用した写真。演奏者ではなく僕が写っているジャケットなのだ。(撮影場所・陸前高田市黒崎仙峡の突端)
 ライナーノーツ(解説文)は、当時、休筆中だった五木寛之さんに無理言ってお願いし、半年かかって書いて頂いたもの。その400字詰原稿用紙数枚に、万年筆で書かれた生原稿は僕にとって「聖書」のような感じで、時折引き出しから取り出しては何度も読み返した。
 このレコードが注目を浴びだしたのは、僕が本業として掲げ続けてきた「日本のジャズ」が「和ジャズ」という表現に変わり、その和ジャズとしての名盤が様々な本に特集されるようになった。その中に当時の大手レコード会社が制作した作品に混じって、僕の自主制作レーベル「ジョニーズ・ディスク」の作品が必ずと言っていい程紹介されている昨今だが、その和ジャズ名盤の筆頭的作品として頭角を現しているのが、本作品「海を見ていたジョニー」(陸前高田ジョニーに於ける1980年の実況録音)なのだ。
 今回の再復刻盤は、発売当時のまま復元。CDではあるがLP盤紙ジャケットと解説書まで当時のまま縮小した、原盤オリジナルにこだわった装丁。制作発売元は、ソリッド・レコードの「株・ウルトラ・ヴァイヴ」で、社の25周年記念盤としての位置付けである。
 小説よろしく僕も「海を見ていた・・・・」と過去形となり、今、盛岡北上川辺りの「ジョニー」にいる。30年振りに坂元さんと電話で話をした。彼は当時と変わらず今も高田馬場でジャズピアノ教室を開いていた。


幸遊記NO.19 「向井田郁子の太鼓の響に誘われて」2011.5.16.盛岡タイムス

 5月10日「開運橋のジョニー」への手紙が届いた。差出人は向井田郁子。一瞬目を疑った。
えっ!もしかしてあの人?そう、かつて「盛岡タイムス」の記者をしていた方で、今でも時折紙上でその文章を見かける名前。封を開くまでの間に、僕の頭は26年前の1985年8月2日へとさかのぼる。
 陸前高田市の酔仙酒造の中庭で8月4日(日)に開く「日本ジャズ祭」の宣伝の為に「悟空」という名のジャズドラマーにトラックの荷台でドラム演奏してもらい、陸前高田から盛岡へとやって来て「さんさ」が始まる直前の街で人々の目と耳を釘付けにしながら、上盛岡駅へ着いた時、「盛岡タイムス社」から飛び出して来て、名刺を差し出した人。それが向井田郁子さんだった。多分、お会いしたのはその時一度きりかも?
 どうして忘れ易い僕がその時の事を覚えているかというのは、多分に作家の故・向田邦子に字が似ていることからの印象かも知れない。なぜか僕は今、向田さんが愛聴していたという「ミリー・バーノン」という幻のシンガー唯一のアルバム(‘56年の2月録音)
の「イントロデューシング」を聴きながらこの原稿を書いていて「スプリング・イズ・ヒア」の歌詞・春が来たというのに私の心は浮き立たない・・・・「セントジェームス病院」「今年のキッス」(37年の映画・陽気な街の主題歌)など心に沁みる。
 そう、向井田郁子さんからの手紙には、彼女が書いた70行からなる一編の詩がそえられていた。「水仙の花咲く海辺で」というタイトル。「太鼓の響に誘われて 水仙の黄色い花を見に行った 南の街で 春の日の晴れた午後 大地が揺れた 中略~ 時間の流れが 一瞬止まり 水仙の花がいち早く咲く 川原の土手も 朝日に賑わう港の街も ジャズが似合う街並みも みんな呑み込んだ 中略~ ここは太鼓の命が息づく南の街 春の息吹がいちはやく訪れる街 その時が再び来る日を 私は信じて約束しよう その時、私は必ず訪れる この街の素敵な季節を探しに 会いに来る」。彼女もまたジャズ・ピアニストの穐吉敏子さんと同じ中国の遼寧省遼陽市から引き揚げてきた女性でした。


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