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盛岡近郊の大釜駅前に、昨2010年9月にオープンした、オーディオ・ショップ「オーディオ・ベースマン」の店主、細川茂雄さん(57)は、盛岡大通りにあった県内最大手の「佐々木電気」のオーディオ部に、30年余り勤めてきた人。 その佐々木電気が店を閉めてからというもの、行き場を失ったオーディオ(ステレオ)ファンから、独立再開を求められ、部長だった彼は、オーディオのトップメーカー・アキュフェーズなどからバックアップを受けてオープン。大手量販店では扱っていない高級オーディオを中心に委託の中古品や関連パーツまで揃えている。連日、試聴を繰り返しながら、品定めをする人たちが絶えない。それは今、静かなブームなのかも。 彼は雫石町出身。盛岡工業高校、日本電子工学院卒。高校時代に流行ってたフォークを聞き、「ウッドベースを加えればサウンドはもっと良くなる」と感じた彼は、大学のカウント・ベイシー・スタイルのビックバンドでウッドベースを担当し、ジャズに開眼。以来盛岡に戻ってからも様々なジャズバンドで演奏し、その確かな耳とオーソドックスなプレイで共演者たちから尊敬され、一目置かれてきた人物。 ステレオを求める人でも、オーディオ好きと音楽好きの人・・・・に分けられるが、細川さんは「オーディオの音と生が尺度の二通りの人がいる。そこを埋めてゆきたい」とし「自分独自の音を出して多くの人がいいなあ!と思ってくれるのを望んでいる」のだとも。 プレイヤーとリスナー、販売員と、コーディネイター、リスニングルームへのセッティングと、音楽に関する重要な要素の全てを県内の誰よりも多く実践してきた彼の自負に、お客さんから全幅の信頼を寄せられている。 聴く事と、演奏する事、この二つの違いを良く知ってるからこそ、その二つの接点をベースの生音で探すという工夫も。「オーディオだけの音。生の演奏音。どちらも違う音だけど、どちらも良い。小さなスピーカーでも色んな想いを馳せながら、その背後に広がる世界をゆったりと聴ける」それがオーディオの良さなのだとも。だから、いつも手間をいとわず様々な比較テストでお客様に聴かせ、答えている毎日。
手元に一通の手紙がある。2008年9月9日午後に陸前高田で投函されたもの。その十日程前の8月31日、僕の母校である県立・高田高校の高高祭に招かれ、バンドを連れて行った時の礼状である。差出人は、同校生徒会指導をしていた毛利素子先生。準備から当日のお世話までしてくれた。最初にお会いした時は、生徒と見間違った程、若くてハツラツとした美しい先生でした。 手紙には、演奏のお礼のことばと、あの日高田高校で演奏した、若いジャズバンド(全員20代、大学生も含む)だったことから、高校生に近いこともあって、生徒たちが、あこがれのまなざしで鑑賞してくれたことなどが書かれ、「初めての一般公開も予想以上に地域の方々が来校し、喜んで帰って行かれました。生徒会執行部の反省会では“開運橋のジョニー”でみんなで生演奏を聴いてみたいという生徒の声もありました」と。 同封の生徒会会長・佐藤凌太君からは、友達の影響でジャズは聴いていたのですが,生演奏は初めて、雰囲気がとても出ていて穏やかな気持ちになりました。演奏や歌は素晴らしいものだと思いました。吹奏楽部やバンドをやってる生徒の顔つきが演奏が始まったとたん変わり、目を輝かして聞いていた」とも。その演奏を報じた9月3日付岩手日報のコピーも同封されていた。昔からの店のお客さんで当時の校長だった戸羽茂さんからもハガキで「心洗われる思いがした」と来ていた。 そしてつい先日、当時の高田高校生だったという20才の男女4人が、高田から盛岡の開運橋のジョニーへやって来た。「ジョニーのおっちゃん!あの時の毛利先生津波で居なくなったよ。水泳部の生徒を救けにプールへ戻ってね。」彼女は北海道小樽出身。弘前大学を卒業して岩手で先生になり、あの08年に高田高校に赴任した。昨年同僚の小野寺浩詩先生と結婚したという29才。僕からは、返事もお礼の手紙も出さずじまいでした。ごめんなさい。彼女はあの宇宙飛行士・毛利衛さんの姪子さんでした。
泉田之也(ゆきや)さん(45才)の作陶展が明日(7/5)まで、かわとくキューブ館で開かれている。彼は三陸海岸の岩肌をイメージさせる、「やきもの」に見えないユニークな紙工的デザインのオブジェ作りをもっとも得意とする、陶芸家である。 生まれは、陸前高田市。生家は今回の津波からは免れ、野田村にある窯や、自宅のギャラリーも無事だったという。 彼は、大卒後一年間サラリーマン生活したのち、自分の手で何か創ることをしたい!と岩手に戻り「小久慈焼」に入社し、3年修業した。その間には県美術工芸展にて協会賞、東北工芸展入選など、すぐさま頭角を現し、1995年独立。「のだ窯」を構えた同年「日清めん鉢大賞展で優秀賞。2000年、02年と「朝日陶芸展」でグランプリを受賞。以来数々の陶芸展で入選入賞を果たしてきた、見るからにカッコイイ男なのだ。 「夢は、ふるさと陸前高田での個展なのです」と語ってくれたのは96年9月。ならば!と3ヶ月後、陸前高田の「まちかどギャラリー・おおまち」で開催した冬期の陶器展。斬新なデザイン。使い勝手の良さ。質感の気持ち良さ。その作品の素晴らしさから想像出来ない値段の安さと相まって、展示品は即完売。予備に持って来てた作品も底をつき、急遽往復8時間かけて野田から再び作品を持って来るという事件的な作陶展だった。 最近はアメリカ・サンタフェの「タッチングストーン・ギャラリー」で三年連続オブジェ作品の個展を開き、毎回完売してしまうという。しかも作家不在のままである。「来年は行ってみようかな」と笑う、門には福も来た様子。 来年(2012年)、創業100周年を迎える大船渡市盛町の「うなぎの三浦屋」ご主人・三浦日出夫さん(68才)は、彼に惚れ、店のお座敷を開放し個展を10年毎年開催した。「凄く売れた」と泉田さん。三浦さんは、ジャズと映画を愛し、長年に亘りサッカー少年を育てた人。以前、僕が陸前高田の住民となった1963年からのスイングジャーナル誌を高田の店に寄贈してくれた。僕が盛岡に来た2001年には、古い映画のパンフを大量にくれた。この震災後には「幻の銘酒だよ」と言って酔仙を開運橋のジョニーに持って来てくれた。拝。
時折、同じメーカーの同じ銘柄の酒であっても、その味や香りの違いを判別出来る、利酒の達人が現れる。つい数日前にも僕の好きな友人に連れられて初めて来店した北上市出身の男性もその一人だった。 「いつも同じウイスキー飲んでるけど、このウイスキー、何かうまいなあ~、何でだろう」そう言ってストレートを何度かおかわりをした。僕もその違いを感じてくれた人にだけ、その種明かしをして来た。 実は店で出す酒類のほとんどは、ボトルごと超音波熟成させたものをお客様に出しているのだ。この装置を研究開発したのは、著名な写真家で文筆家でもあった・朝倉俊博氏である。彼は2004年4月22日・62才で故人となったが、1980年代初頭に、それまでの定説を覆す「振る程酒はうまくなる」ことを発見し、その後の20年余りを、愛飲家に福音をもたらす、その研究に身を投げ、遂に家庭用、営業用、醸造用、超音波熟成機器を特許開発し「超音波熟成酒」なるものを世に送り出した人。 酒は年数を過す程まろやかになる。それは水とアルコール分子が、細かく均一化し、よく混じった状態になっている。そこに着目して、ビンをよく振ってから飲むと別物のように美味しくなることに気付き、その状態が元に戻らない安定した状態になるまで、微弱な振動を加えて熟成させる方法を発明したのだ。 「香りよく(古くない)味は古酒」に変身するのである。そして何よりも、体内に入ってからの分解が早くなるため体への負担が軽減し、結果、多少の深酒でも二日酔にならない。 あの昔人の知恵「航海熟成」の現代版なのだ。 酒とピース、音楽と真空管アンプを好み、ゾクッとする程美しい声がするステレオ再生音の極限まで常に挑んでた人だった。「生きてることは、様々なことを感じ、感動することですよ。感動の元はアナログ。感動こそが生きてる喜びでしょう」が、彼の真情だった。 2011年6月24日付東海新報に「無事だった幻の銘酒」の記事。大船渡市の民宿・海楽荘の主人吉田豊繁さんは酔仙の米焼酎「古古」を一年間海中に釣るして波に揺らし、10年に値するまろやかさを生みだしていたと言う。
2011年4月24日。TVニュースに映し出された、子供達の演奏風景。それは宮城県気仙沼市の避難所になっている市の総合体育館前で行われた「スイング・ドルフィンズ」の感動的なジャズ物語。 何でも津波で楽器を流されてしまい、練習が出来ないでいる子供達の元へ、ニューオリンズからの義援金をもとに届けられた、真新しいピカピカの楽器。そのお披露目コンサートが行われたとのことだった。 そのニューオリンズと気仙沼を結ぶ夢のアーチを架けたのは、日本のサッチモ(ルイ・アームストロング)と呼ばれているトランペッターの外山喜雄氏(67才)だった。 彼は妻の恵子さん(ピアノ・バンジョウ)と共に、デキシー・セインツというバンドを率いて活動しながら、日本ルイ・アームストロング協会の代表も務める方で、ニューオリンズとの交流は、すでに40年のキャリア。 かつて、ルイ・アームストロングが銃を発砲したために少年院に送られ、そこで出会ったトランペットが、その後のルイの生涯を決定づけた。そのことから、外山夫妻は「銃に代えて楽器を」のスローガンを掲げ、音楽をやりたくても貧しさのために楽器を所有することが出来ない子供達のために、楽器を送るプロジェクトを立ち上げ、これまでの17年間に800近い楽器をニューオリンズに届け続けてきた人なのだ。 2005年、ニューオリンズに壊滅的な被害をもたらした、大型ハリケーン「カトリーナ」の襲来時にも、外山氏は日本でその救済ライブと募金活動を行い、全国のジャズファンから寄せられた募金1.000万円と、楽器も贈り届けた。そこへ3・11の東日本大震災。「日本へ恩返しを!」と、ニューオリンズから、外山氏を通じての支援だった。お陰様ついでに外山夫妻との共演も出来た「スイング・ドルフィンズ」。 このオーケストラは93年5月、気仙沼・本吉地区の小中学生を募り、地元のアマチュア・ミュージシャン達が「ジュニア・ジャズ・オーケストラ」の会を発足させて指導したのがはじまり。知人だった故・佐藤正俊さん(当時44才)が代表を務め発足。同年秋の市民文化祭にデビューさせた早業は、当時の僕を驚ろかせたものでした。 |
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