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大学時代からジャズに魅せられて以来40年間、これまでに2万8千枚以上のレコードやCDなどの音楽ソフトを聴いてきた、ジャズ評論家で医師の後藤誠一氏(63)。医療法人・後藤クリニックの院長。は、今だジャズに興奮し続けている。 聴こえない音、無意識で聴いてる音は体の中に入って行って細胞に影響を与える。良い音で聴く、いい音楽。演奏家のいのちの音を聴く時、神が降りて来る瞬間があり、鳥肌が立つ時さえあるのだという。 「この音楽を聴かずに、一生を終えることは、人生最高の幸せを失うことと同じだ」とは、アート・ブレイキー(ジャズドラマー)の言葉だが、「ジャズがあるから人生を豊に暮らせる、予測のつかない興奮が待ち構えてる音楽は人生の醍醐味ですね」と言う後藤氏。 その後藤クリニックの音楽療法室の名は「夢の街」。その名が示すように部屋はまさに夢の中。世界中のミュージシャンをお抱えしているといってもいいレコードやCDの群山。息を飲み込むほどのハイエンド・オーディオシステム群。そして何よりも、出てくる音の美しさとおいしさには、思わず手を合わせてしまう。 素材のソフトは同じであっても、その音の通過する機器やその使い方などによっても音は千変万化するものだが、後藤氏の音は全てが巨大なのに、なぜか気持がいいのだ。生演奏時、下手な奏者ほど音がうるさく聴こえ、達人になればなるほど、音が大きくなっても心地がいいのと一緒!彼のオーディオを聴いて感じさせられた。全ては心・技・体・の持つ三つの耳のバランスの問題なのだ。 脳科学者・茂木健一郎氏の考えを借りれば「ミラーニューロンという神経細胞の高度な情報処理で、音を聴くと演奏者が現れる」ということになるのだろうと言う彼。「音は単に鼓膜で聴くだけではなく、五感を駆使して、時には第六感も取り入れた全身で聴くものであると実感出来る音。音は一瞬で消えてゆく儚いものだ。だからこそ儚いのもほど大切にしたいという慈しみが湧き上がる。磨き上げられた音への慈愛こそ、私のジャズ・オーディオ」と言う彼。「その趣味を徹底的に追求すればするほど、仕事を一生懸命に成し遂げる必要がある表裏一体のものなのだ」とも。
1968年以来、44年、世の中の流行に背を向け、カウンターに休まずに立ち続けてきた男・林直樹「ジャズ・ストリート52」のマスターは今年、69才になった。 岩手宮古出身の世界的ジャズピアニストだった本田竹広。本名・昂(たかし)さん(2006・1・12・60才で死去)が、生前25回もコンサートをしに東京から通った店である。店の所在は北九州市小倉。本田より三つ年上だった林さんだが、本田からは、ついぞ「林さん」と呼ばれなかったという、本当に親しい間柄だったらしい。 学生時代を東京で過し、東京新宿にあったDIGというジャズ喫茶に連日通い、マスターの中平穂積(ジャズ写真家としても有名。現・新宿DUGマスター)が、友達のように付き合ってくれた、ジャズの水先案内人だったから、と、今でも、店のカウンターに「DIG」の マッチを大切に飾っている人なのだ。 林さんが生まれた頃、ニューヨークジャズの拠点はマンハッタンの52番街だったことから、その通りは、ジャズストリートと呼ばれた。「ジャズ・ストリート・52(フィフティセカンド)」の店名の由来はそこから来ているのだろう。 同年生まれのミュージシャンには、山下洋輔(ピアノ)や日野皓正(トランペット)同業では菅原正二(一関ベイシー)等がいる。演奏者達は、東京で疲れると九州に来たがったのだという。むかしの記憶で最高だったのは1972年、山下洋輔、中村誠一、渡辺文男。三上寛、古澤良治郎のステージだったという。 今年(11年)1月12日(65才)に亡くなった、仙台出身・ジャズドラマー・古澤良治郎の葬儀に行けないので、山下に電話して「香典立て替えて持ってってくれないかな」と頼んだという彼。その話を知ったミュージシャンや仲間うちから、「山下さんにそんなこと頼めるの林さんぐらいしかいませんよ!」と言われたそうだ。 それは、70年~80年代にかけての日本ジャズの隆盛期に、血まなこになって生演奏を地方に持って来、そして広めた地方のジャズ喫茶店主の想いと、当時、競うようにして一生懸命に演奏したジャズ魂たちとの友情の証である。
来週日曜・9月18日。恒例となった第五回「あづまね山麓・オータム・ジャズ祭」が、紫波・ビューガーデンの芝生広場で開催されます。 出演は、東京や関西などから6バンド。地元岩手から3バンドの計9グループ。今年は大震災のこともあって、その復興支援チャリティーということになった。 そんなある日、滝沢村のピアノ修復工房・石川ピアノラインの代表・石川章さんが開運橋のジョニーにやって来て「ジョニー・照井さんと一緒に仕事をしたい!何でも言って!やるからさ!手伝えることないですか!」と言ってくれました。僕はすぐさま「頼みたいのは山々だけれど、お金がなくて頼めないで居る、グランドピアノをジャズ祭の芝生のステージで使いたい」と伝えたら、彼は即「OK!」してくれたのだ。しかも白いピアノだという。 客席となるグリーンの芝生の広場から見る芝生づくりのステージの向こうに広がる紫波町の田園風景、黄金に輝く稲穂と真っ白いそばの花、名産・ラフランス(洋梨)の香りがただよってくるそのジャズ祭の会場に何と、ROSENSTOCKのグランドピアノを運んで来て、調律までしてくれるというのだ。しかも完璧ボランティア。ありがとうね。本当にありがとう。 石川章さんはかつて、ピアノの運び屋さんだった。それが、あの阪神淡路大震災の時に現場を見てからというもの、二人の調律師からピアノの修理を教わり、何回も技術講習を受け、セシリアメソットを習得、以来数百台にのぼるピアノクリーニングや調整修理を手がけて来てた。 2006年にはなんと内閣府迎賓館所蔵の1908(明治41年)に宮内庁が購入したフランス・エラール社製グランドピアノ(1905年製)の修復を担当したのだった。「エラールはフランス人にとっては神のような存在の名器。そのピアノを日本人がきれいに直して再成させることは、フランスとの交流を深めるきっかけになるのでは?」と一歩踏み込んだ修復の必要性を頑固さと熱意を持って説明した結果の任命だったらしい。 余談だが2007年、紫波・野村胡堂・あらえびす記念館のピアノを完璧に調整調音して録音した、ケイコ・ボルジェソンのCD「あらえびす」は和ジャズの名盤となった。
あれは1963年(昭和38年)の高校一年の時だった。平泉中学校から高田高校の定時制に進んで、最初に友達になった同級生の紺野拓実君(住田町出身)に見せられた一枚の歌詞カード、それは僕が音楽に興味を持つきっかけとなった。 「照井君は詩が好きな様だから、これ読んで見て」と机の上に置いていったシングル盤レコードのジャケット。そこに書かれていた詩には、僕等と同じ夜間高校に通う生徒達のことが書かれていてカンゲキ!した。作詞は宮川哲夫。作曲は吉田正。「風は今夜も冷たいけれど、星はやさしくささやきかける、昼は楽しく働く仲間、みんな名もなく貧しいけれど、学ぶ喜び知っている」。 歌っていたのは、“美しい十代”で前年11月にデビューしたばっかりの「三田明」。彼も僕等と同じ1947年(昭和22年)生まれで、本名を辻川潮(つじかわ・うしお)。愛称はウッちゃん。と言った。僕たち定時制のことを歌っているんだから、応援しなくちゃと、三田明後援会に、そのいきさつを手紙に書いて送ったら、その会報に僕の出した手紙が載った。すると、毎日毎日、何十通もの手紙が全国から届いてビックリ!まるで僕もスターになった様な気分を味わったのを覚えている。 三田明のレコードを買いに行った時、彼のは売り切れだったので、当時リバイバルヒットして盛んにラジオから流れていた1953年のフランス映画の主題曲「禁じられた遊び=愛のロマンス」を買ったのが最初の一枚。スペインのギタリスト・R・デ・ヴィゼー(1686~1720)の作曲。その組曲からセゴビアが編曲し、それを更にナルシソ・イエペスが編曲・演奏したものが映画で使われ大ヒットした。 だが僕が最初に手にしたレコードは、その原メロを元に自ら作編曲したヴィセンテゴメスのギター。それはスパニッシュ的アドリブに血が騒ぎ出す心地よさを感じるものでした。又、岩手出身のギタリスト・七戸国夫さんの演奏では、彼独自の前奏で始まる、まったく違ったクラシカルなアレンジをほどこした世界に通用する素晴らしい「愛のロマンス」です。これは今「月の光」のタイトルでCD化され僕の愛聴盤となっている。
「おたるワイン」のネーミングで知られる「北海道ワイン」のことを知ったのは、1982年3月20日号の「週刊宝石」に紹介された「北海道で本物のワイン造りに賭ける男の物語」を読んだのがきっかけだった。 社長の嶌村彰禧(あきよし)さんは、その時54才。今では何処でも手に入る「おたるワイン」だが、創業当時は少量生産、52キロリットルの免許しかなかったから「幻のワイン」と称されていた。それを取材した僕の友人カメラマン・朝倉俊博さんから電話があり、会社から様々なワインが箱で送られて来たのだった。 以来、僕は気に入った「ナイヤガラ」という品種のワインを中心に、店で提供し続けてきた。飲んだ人が皆、口をそろえて言うのは「ウワー!おいしい!飲むというより、ブドウそのものを食べてるみたい!」それは、今も変わらない。当所数年間は、小樽?入りのワインを直送してもらっていたが、そのうち、陸前高田の酒屋さんでも仕入れることが出来るようになって、今は何処でも買える一流のトップメーカーにまでなった。 僕はワインのことについては何も知らないが、当時は、干し葡萄や、屑葡萄、混ぜものなどニセや即席が問題になった時代。ドイツ、オーストリー、ハンガリー、フランスなどの葡萄栽培者達が、苗木は譲れないが、剪定して捨てた枝を拾って行くのは許す。と言ってくれた心を日本に持ち帰り、北海道に日本一大きな葡萄畑をつくったのだと言った。嶌村社長の言葉が今も浮かぶ。良質の葡萄のみを絞って造った「小樽ワイン」。 「天から与えられた存在が解かれば、次の時代へ残すものが見えて来るんです。そこで学んだものを展開してゆくのが人間でしょ。潔(いさぎよ)く貧乏して、なお堂々としている。楽しいもんなんです」と、語ってくれた1987年の社長の言葉を、僕自身、そのまま生きてきた様な気がする。 ジョニーが節目、節目でのイベントやパーティーなどを開く時、「皆で飲んで下さい」と、今でも会社から絞りたてのワインがケースで届く。「ナイヤガラ」の滝の如き心に感謝のカンパイ! |
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