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水上優が「冷たい刃先」という仮題を変更し「ルアルタイム」という詩集を出版したのは1990年4月1日のことだった。水上優とは詩人・横澤和司(かつし・57)のペンネームである。 この詩集のタイトルが示す通り、その詩の内容は、いいことも、悪口ととられそうなことまでも、リアルこの上なく書かれていたために、彼を知る、書かれた人たち(そう思った人たち)が、あいつは精神に異常をきたしているなどとし、物議をかもしだしていた。 当時、コンビニに勤務しながらの一人暮らし。カップラーメンやおでんなどの偏食と過労のため、体に変調をきたした時、店長に連れて行かれたのは、何と精神病院だった。連れてった店長と院長が話している時、ケアマネージャーの看護婦が彼を見、話を聞いて「この人まともですよ」と言ったというが、そのまま強制的に4ヶ月間の「精神病患者生活」を送らされた。 その病院から出た時、彼は僕の店にやって来たけれど、まるで老人のような足取りとなり、頭も顔もぼんやりとした、まるで廃人のようになっていた。そののち元気を取り戻してから、病院でのことを「告発」という詩にして僕に持って来たことがある。 「狭い空間に押し込められ、鍵をかけられ、眠剤を無理やり飲まされ、自由を剥奪され、社会から遮断され、希望はありません。楽しみは食事だけ。欲求不満に耐えてます。ストレスに晒(さい)なまされています。ここは墓場です。人間喪失になります。訴えても取り上げてもらえません。虐待です。虐殺です。」詩には所々にこんなことが書かれていた。 彼は今、精神障害者2級になり、その年金で生活する「専業詩人」。彼から湧き出る「即興詩」の語りは,聞く者たちを彼の世界に誘い、涙を溢れさす。僕が、彼の書いた膨大な量の詩編の中から拾い書きして、2005年5月に、盛岡市立図書館に展示した書の「共観詩歌展・野の花のように・風のように」は多くの人たちが見に来てくれたが、特にも女性はほとんどの人が涙し、嗚咽し、立ち尽くし、読み通して帰って行った。 彼が小学5年生の時、自殺した母の「心」を目標に、それを超えるために、今もただ、ひたすら、詩を書き続けている。
誰もが皆知っているなつかしの歌「たきび」の作詞者「巽聖歌」(たつみ・せいか)本名・野村七蔵(1905~1975・紫波町日詰出身・紫波名誉町民)の童謡曲集CD付が「たきび70周年」として盛岡出版コミュニティーから発売になった。発刊したのは、同姓を持つ野村胡堂・あらえびす記念館の館長(胡堂の弟の孫)の野村晴一さん。 昭和16年(1941)「たきび」が、太平洋戦争勃発前夜の12月9・10日にJOAK(NHK)で放送されてから今年でちょうど70年。この期に合わせて何とか形にして後世に残したいと考えた館長さんは、自費出版を決意し、2009年からその準備に取り掛かり、今年10月21日の巽聖歌童謡カンサート(よみがえる日本の原風景)にて発表したというもの。 曲集に収められているのは「めだかのくに」に始まり「たきび」で終る、全43曲。今回のCD収録のために書き下ろされた」、感動的な曲「水口」(みなくち)を始めとする「田圃なか」「せみを鳴かせて」「流れゆくもの」(浅香満作曲)の新曲も初演となった。 コンサートには浅香さんや「たきび」の発表の年に生まれ、北原白秋が命名したという、聖歌の長女「やよひ」さんと聖歌の亡くなられた長男の奥様までが東京から来場されていて、感激されていました。地元からは聖歌の愛弟子・歌人であり、画家の山崎初枝さんも顔を見せており、久し振りの再会に僕も嬉しくなった。 曲集本には、CD収録全ての楽譜と詩。その解説と聖歌の年譜までが収められており、聖歌のことがよくわかる編集。巻頭には、野村晴一、中川やよひ、あとがきには、川原井泰江の各氏がそれぞれの想いを寄せている。 僕は川原井泰江さんが歌い、高木愛子さんが弾くピアノを録音し、CD化。コンサート当日から、同時開催ということで、実行委員長で聖歌の研究者として知られる内城弘隆氏のご配慮により、僕が筆を取り、聖歌の歌詞を書き綴った「書」も11月8日まで野村胡堂・あらえびす記念館にて展示されています。
仙台を流れる広瀬川のほとり。日本初の水力発電所(現・三居沢発電所。明治21年・宮城紡績が工場内に50灯を灯した)がある。その真上に位置する山の中、大きな天然石に彫られた仏像が秘っそりと佇んでいる。 僕の30数年来の親友・守口忠成(ただしげ)さんが1993年頃に数ヶ月かけて彫った仏像である。そこは明暗流の尺八奏者でもある彼が、自転車で通い続けている練習場所であった。彼がひとたび音を出せば、真っ先に鳥たちがやって来て尺八に呼応しさえずり、蝶やトンボ、虫たちまでもが、わんさか寄って来て、彼の体にとまってはその音を聴く。僕がその光景を目にしたのは1997年のこと。 先日、その仏像写真が彼から送られて来た。その頭と肩、座した足元にビッシリと生えた苔。ふと「さざれ石の岩をとなりて苔のむすまで」と国歌が頭に浮かんだ。今ではすでに定年退職した彼だが、当時は高校の先生。転勤の度、その学校に僕を呼んで唄わせ、自ら尺八で伴奏をつけて聴かせ、生徒たちからは、その感想文まで届いた。 彼が僕の店、ジョニーに来だしたのは30年数年前、気仙沼水産高校の先生をしていた時からである。店に来て2~3日もすると必ずハガキや手紙が届き、店に来た時の感想やら気持やらが書かれていた。なかなか来れない時には、近況を知らせる手紙が届く。その数およそ4~5百通。陸前高田に届いた分は今年の津波で流失させてしまったけれど、僕が盛岡に来てからの10年分を数えてみたらすでに120通を超えていた。 仙台から盛岡の店へも何十回来てくれただろう。僕が時折コンサートで唄うとなると、いつの間にかステージの隅っこに立っている。東京で唄った時にだってそうだった。いつでも、どこにでも、ほとんど必ず来て吹いている。まさに風のような人なのだ。 お互い年令を重ね「一人ずつ大切な人と、この世の別れをするのがつらい。最近、明暗尺八の師匠が逝ってしまった。そのうちにではなく、会えるうちに何度も何度も!と痛切に思うのは、俺だけか?」と最近の手紙。ありがとう。
山口県周南市の藤本真二さんから、久しぶりの電話。五年勤めていた、とある大手製薬会社から、ようやく正社員として採用されることになり、来年から大坂本社に勤務することになったという。「おめでとう!」。そう言ったあとで、何才だろうと数えてみたら彼もすでに46才。 かつて三陸町(現大船渡市)にあった北里大学の水産学部の学生だった頃、僕が陸前高田で開いていた、ジャズ喫茶・ジョニーにやって来て、コンサートを開いたことがある。その時の光景は、今でも覚えているが、集まってくれたお客さんに、持参した大きな袋から、インスタントラーメンなどを次々に出して、配りながら「僕の歌を聴きに来てくれてありがとう!」と言って、皆を笑わせた。 卒業時には、大学から採用感謝みたいなハガキが届いて、読んでみたら、藤本君がジョニーに就職することになっていた。ドッキリ!。彼の意志は本当だったが、ジョニーで人は雇えなかった。昼、製材所でバイトし、夜、ジョニーを手伝うこと3年。一本のオリジナル・カセット・アルバム「オーバートップ」を製作し、フォークシンガー・三上寛の縄文の唄旅(東北・北海道ツアー・ジョニープロデュース)の前座で歌いデビューした。そのツアーは、三上寛の「縄文ロック」というビデオ作品となり発売。三上さんはその時、買ったばかりの純手工ギター「ジョージ・ローデン」を彼に贈った。1989年のことだ。 そのギターを持って彼は上京。「カンデラリア」という六本木にあったタンゴ歌手・高野太郎さんの店で働き、店がはねた深夜から夜明け近くまでは、ギターを持って、六本木交差点角に立ち、路上ライブを開始した。向いの交番からはやめなさい。ヤクザからはいやがらせ。それでも只ひたすら死に物狂いで、毎日毎日唄い続け通した3年だった。 僕も何度か、そっと見届けに行った。つらいからやめたいと深夜に泣きながら電話をくれたこともあった。でも彼はやり通し、その青春はビデオ作品にもなった。「憧れだった加藤和彦や内田裕也らさえも聴きに来てくれたことが、勲章なのだ!」と。その後山口の実家に戻り店を開いていたのだが、道路拡張にあって閉店し、勤めに出ていた。
長崎でタクシーに乗り、「ジャズの店に!」と言って、連れて行かれたところは、道と道に挟まれた五又路の三角地に建つ変わった形のビル、その3FにJAZZのネオン。そこは2008年11月にも、訪れたことのある「さろまにあん」という店だった。マスターの溝口一博(66)さんは、根っからの「ソニー・ロリンズ(テナーサックス奏者)」のファンであり、ロリンズのスタイルを受け継ぐ自己のカルテットを持つサックスのプレイヤーでもある。 店名はかつて、バイクに乗って全国を駆け巡った時に印象に残った北海道の、サロマ湖の畔にあった民宿の名に由来するというが、それこそ、湖のように静かな海が広がる長崎のジャズ・サロン・マニア?が集う店なのだ。 中学時代ラジオで聴いたジャズに魅せられ、高校卒業と同時にジャズ喫茶に通い、その後、修行のため上京した東京で、ソニー・ロリンズの公演を観、聴きし、その茶目っ気にひかれた程、真面目なサックス吹きだった彼。ロリンズ来日のたびに親交を深め、今では「グット・フレンド」と言われるまでになった。 彼が思案橋の楽器店で、自分が初めて手にしたサックスに吹き込んだ息が、音となって出た時の感激!それは、サックス奏者となった、溝口一博の誕生の瞬間だった。その彼に楽器の手ほどきをしてくれたのは「長崎は今日も雨だった」の大ヒットで知られた、内山田洋とクールファイブのメンバーだった岩城茂美氏。 店で客が「何かやって」と、リクエストすれば、数十年使って来たテナーサックスを抱き上げて、「止まりませんよ!」と吹き出す。それまで店に流れていた映像だって彼のライブ盤。そう、自分の音が大好きなミュージシャンであり、ジャズ喫茶のマスターなのである。 彼のCDタイトルの一つ“セカンド・ミーティング”が示すように、ライブ演奏するのは、他の演奏者や、ファン、店のお客さんたちとの再会という意味もあり、そのためのライブなのだと。だから自分のコンサートの時には必死になって客を集め、満員にする努力をするのだとも。バーボン片手にゆでピーをいただく。 |
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