盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.48 「五木寛之の歌の旅人」2011.12.5.盛岡タイムス

 それは9月25日(2011)の朝方だった。店を終えてから、女房の運転する車で“たたら清水”を50ℓ汲みに行き、店に運んでから紫波の自宅に帰る途中、AMラジオから流れてきたのは、作家・五木寛之さんの“歌の旅人”の第五回・岩手編だった。
 盛岡の話から、川の話になり、そして「北上夜曲」が芹洋子の歌で流れてきた。作詞作曲の二人菊池規・安藤睦男。そして石川啄木・宮澤賢治などの話に及んでEPOの“星めぐりの歌”が流れてきたあたりで車は家に到着した。僕はかなり酔っていたこともあって、車から降りずに「このままラジオを聴いている」と女房に言い、なんとそのまま寝てしまった。
 車のドアが開く音で目覚めると「五木さんがジョニーのこと、話してくれてたの聴いた?」と女房の声!「もしかしたら、しゃべってくれるかも!」と何処か期待をしてたのに、何と眠って聴き逃したとは!“トホホ・・”の僕。後日、店に来て「五木さんのラジオ、興奮しながら聴きましたよ」と言った八戸のファン客・福村勝悦ご夫妻の報告も嬉しかった。
 あれから2ヶ月「本のくずおか」で手にした「ラジオ深夜便」の12月号。皆が言う細やかな話や「ジョニー」などという固有名詞は載ってませんでしたが「岩手と言うと、土俗的な雰囲気が強いように思われますけど、たとえばジャズ喫茶がたくさんあったり、ジャズピアノの大御所・穐吉敏子さんをアメリカから呼んで、大きなコンサートをやったり、エネルギーにあふれたところなんです」とあった。
 「それを“縄文ジャズ”と呼んでいました」と五木氏。そうだった、僕が氏の作品“海を見ていたジョニー”を坂元輝トリオの演奏でレコード化した1981年、氏はそのライナーノーツに「幻想としての縄文ジャズ」と題し、「日本という土地は世界中の文化のゴミタメである」に始まり「この新しいレコードを繰り返し聴いている。そこに列島1万年の縄文人のリズムが流れているのを感じながら」と書いてくれたのだった。今年6月に再々発売されたCDのライナーを読み返してみた。


幸遊記NO.47 「川田義雄の浪曲セントルイスブルース」2011.11.28.盛岡タイムス

 2009年4月から、毎月第2、第4金曜日の午後3時半から、開運橋のジョニーで行っている、NHKカルチャーのジャズ講座「ジャズの魅力への招待」がこの11月で62回を数えた。和ジャズ専門のジョニーだが、講座の日には洋盤も登場させるので、僕自身のためのカルチャーでもある。
 この講座に最初から通っている俳人の菊池十音さん(76)は、最近、義父が聴いていたという重いSP盤レコードを、十数枚づつ、風呂敷に包んで持って来る。そのほとんどは浪曲(浪花節)である。明治のはじめ頃、説経節などから始まったとされる浪花節。大正末頃から浪曲と呼ばれ、三味線の伴奏がついた。
 浪曲といえば、若い頃“タンゴ”一辺倒だった僕の兄で画家の澄(十音さんと同い年)は、いつの間にか大変な浪曲好きに変わった30年程前、そのことを作家の五木寛之さんのラジオ番組にご一緒させて貰った時、喋ったら、「それは良くわかります。タンゴも浪曲も、その泥臭さにおいて一緒なのです」と、いう様な話をしてくれたことが、ふと頭に浮かんだ。
 菊池さんが持参したSPの中の一枚に川田義雄の「浪曲セントルイス・ブルース」があった。“かはッた浪曲”とある。ガラードのプレイヤーに、ソノボックスのSP用カートリッジを取り付け、講座の時間にSPレコード鑑賞会をやったら、一番受けたのは「浪曲セントルイス・ブルース」“国々言葉異なれど、唄う心は皆一つ。悪事千里を走ると言えど、歌は万里を走るなり。あちゃら、こちゃらでうたうブルース数々あれど、セントルイス・ブルースは、ブルースの親玉なり”とあらゆるジャンルを取り込んだ浪曲の極至的うなり。
 明治に宮城で生まれ盛岡に住み、昭和58年に94才で亡くなった菊池卯七(うしち)さん(十音さんの義父)は、かつて女学校の先生をした方。ガンコだが、おしゃれで珍し物好きな人だったと言う。3年後に義母、その3年後の平成2年には夫・秀夫さん(享年60)まで亡くしてしまった十音さん。「体調のすぐれない時でも、ジャズ講座に来れば元気になるの」と笑う。


幸遊記NO.46 「溝田博史の肥前大村耕し隊」2011.11.21.盛岡タイムス

 山の展望台から海を眺めれば、なんとなく陸前高田の美しかったあの風景が想い出される長崎県大村市。高田松原ならぬ、大村湾松原地区に住む友人・溝田博史(61)さんから、生そばが送られて来たのは昨年の12月だった。
 彼の話によれば、「昨2010年の春、年老いてきた母のために実家に戻り、近くの耕作放棄地だった11枚の小さな段々畑を借り受け開墾し直し、そば畑に再生した。その畑で収穫したそばを手打ちしたもの。」と言うことだった。
 肥前おおむら耕し隊(松原班)なるものを立ち上げ、松原地区に分散する5ヶ所のそば畑をめぐる「ソバの花鑑賞トレイル」を開催。参加者による、写真、手芸、詩歌コンクールなどを新ソバ打ちの時に発表するなどの、そば文化祭を皆で行い盛り上がっているのだ。
 9月の半ばに種をまき、一ヶ月後に花の観賞、その一ヶ月後の収穫、更に一ヶ月後の12月にはソバ打ち体験や、年越しソバ打ち教室など開催し地区から喜ばれている様子。
 彼はかつて、毎日新聞社が刊行してた「月刊・農業富民」の編集長だった。彼が住田町へ来た時見せられた本をパラパラめくって、「農業雑誌とはいえ音楽のページが全然ないんじゃ総合誌とは言えないんじゃない」と言ったら「では音楽のページを作りますから担当して下さい」と言われ「音楽の種まき」というレコード紹介を毎月4枚。それに「日本ジャズの原風景」という「ジョニーの写真帖」を一枚見開き2ページに掲載させてくれた(平成元年~4年)。彼が五年勤めた編集長の後3年間だった。
 彼と初めて会ったのは、昭和の終り頃。当時、全国に知られた「住田型農業」を実践していた時の佐熊博・住田町長や佐々木繁吉助役、のちの町長で茸博士の菅野剛氏などと一緒に、オレゴンへの農業視察団で行った時で、同行取材をしていたのが彼、溝田博史さんだった。僕はその時、住田で羊の牧場を開いていた種山ヶ原共働の故・稲葉紀雄氏に連れられてのお相伴旅行。オレゴン州知事室に掲げられていた、ジーンズ姿で二人の子供が立ち話をしている写真に添えられていた文字「長いこと農業やってんだってね」は今も鮮明だ。


幸遊記NO.45 「本所充夫の牛とジャズの日々」2011.11.15.盛岡タイムス

 「人生楽しみが第一。仕事は二の次」そう言って毎週、北海道・北見市から片道17時間かけて盛岡へとやって来る「牛さん」こと、本所充夫さん(64)は、根っからのジャズファンだ。
 札幌の北海高校時代ラグビーにハマリ、海上自衛隊に入って横須賀、八戸と五年間続けた。そのラグビーをあきらめ、父の仕事を手伝うことになって、肉の流通を見聞し、感じたことは「業界全体で5年先10年先を見据え、トータル的にやらなければならない」だった。
 「生まれてから肉になるまでを自分の目で見る。目の行き届かない仕事はしない。人頼みをしない」。これが彼の決心。いくら儲かる話が来ても、理念が違えば、自分から切った。
 そのため、北海道で育てる生後一週間の仔牛を買い、翌日までに届ける。その時間と距離を含めた市場調査を、東北から広島まで行い、結果的には頭数がいて、北海道に近い岩手に仕入先を見い出し、15年前から市場で、最終的には仔牛の目を見て決める買い方。その仔牛を自分がトラックを運転し北海道に運び、農協へ納める。生後6、7ヶ月の牛は北海道で買い、青森のファームへ納めて1~2年飼育し肉にする。その数、月に何百頭ものホルスタインとエフワン(ホルスと和牛のかけあわせ)や和牛。頭数が足りない時は,関東の市場へも出向いて買い付ける。最近は次男の息子・寛修(ひろのぶ)さんが、それこそ「いい目」をして、父を見習い同行修行。
 「仕事とジャズはセット!ジャズと牛のマーチを自分の目で見、自分の耳で聴く。ジョニーのことは陸前高田にあった時から知ってて、行って見たいと思ってた。10年前、盛岡へ店を出したことを、ホテルで聞いてから来るようになったのさ」とほぼ毎週、日曜の夜に顔を出し、「一緒に飲まんか?」と言って誘う。 聞けば、高校時代から札幌のジャズ喫茶でバイトを始めたと言う程の根っからのジャズ好き!だから雑誌や、ジャズ専門誌などで、「日本のジャズしか演らないジョニー」のことを知ったのだったと、真剣な、それでいて慈愛に満ちた目を僕に向けた日のことは、忘れられない。


幸遊記NO.44 「佐藤公二の競輪選手30年」2011.11.7.盛岡タイムス

 「一流の選手にはなれなかったから、自分なりのレース展開をし、納得してきたのです」。
チョット淋しそうに、そう言ってビールを飲み「やめたんですよ!」とニコッと笑った佐藤公二さん(50)は、2010年8月まで、約30年間、競輪選手として全国各地のレースに参加し、走り続けてきた達人、鉄人、でした。
 自転車のファンだった叔父にに勧められ、大東町(現・一関市)から盛岡に来て競輪選手になった、光一兄さんにあこがれて、自分もやってみようと、大東高校を卒業してすぐ、兄の先生だった加藤善行氏に師事。ゼロから学び3年後の21才、前橋で行われた3日間のレースに初トライ。初日のレースではいきなり転んでしまったが、2日目には一着でのデビュー戦。
 以来これまで2000メートルのコースを2191レース、丸28年間選手として走り続けた。その間には、鎖骨、肋骨、肩甲骨、腓骨などなど10回も骨折。その恐さも忘れ,止めずに走れたのは「ジャズを聴くのが好きだったから」と笑う。
 「レースの時考えるのは皆同じ。他の選手の心裏を読む。世の中の情勢を読むのと一緒。レース用の頭を使うことで生きてきた。大半の太く短くでは泣く、細く長く。プライドは無いが、若者にも負けない意地と頭の使い方」。
 「一流の選手だって、いつかは落ちてくるもの、その時に勝てる。勝つまで走る。一流は三流の苦労を味わいたくないから止めるんだけど、僕みたいな三流は、みじめな中で頑張ってきた。選手になれない人すらいる中で、三流でもなれたのだから」と謙遜する彼。
 (社)日本競輪選手会、他県では50~200名位だそうだが岩手地区は20数名。今その花形は佐藤友和選手(28)(88期)。ちなみに佐藤公二さんは(50期)だったから、数字からもその努力の想像はつくが、現役時代3位までの勝率一割は凄い。
 昨今はテレビなどで、ブレーキの無いプロ用自転車が一般道を走って事故を起こすことが報じられる程の自転車がブーム。「プロでさえ止まるまで何メートルも必要なのに一般の人が一般道で乗るのは問題!」と彼は自転車を下りて第二の人生を歩き出した。


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