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昔、作家だった現・東京都知事。その弟・俳優で歌手でもあった、故・石原裕次郎が唄ってヒットした山口洋子作詞の「ブランデー・グラス」という歌がある。作曲したのは、編曲家として知られた、故・小谷充さん(1934~1990)。 彼の編曲でヒットした曲をあげれば、きりが無いけれど、トワエモアの「或る日突然」「空よ」。藤圭子の「新宿の女」。ちあきなおみの「四つのお願い」。八代亜紀の「なみだ恋」。石原裕次郎の「恋の町札幌」等々膨大にあり、歌謡界きっての編曲者といわれた。 神戸生まれ。住んでいたのは麻布十番のマンション。僕は上京の折に度々彼の所へお邪魔した。突然の来訪にも関わらず部屋に招き入れ、お茶を入れてくれた。しかも必ず二番茶を。一番茶は自分に入れ、「僕は本当においしくて好きなのが二番茶だから、お客さんが来た時は必ず、二番茶を差し上げるのです」と言いながら笑う顔が最高だった。 編曲家として沢山の曲を手がけてた彼が、「ブランデーグラス」を作曲し古賀大賞に輝き、布施明の「あなたがわたしを愛する様に」で音楽出版社協会の銀賞を貰ったら「あいつは曲も書くんだって」。彼に編曲を頼んでいた作曲家たちからの「編曲の依頼が減りました」と言っていたことがあった。「自分の曲だけ凝って、他は手を抜く」という噂だったらしい。だが彼は「プロですから、そんなことは全然ないんだけど。どうアレンジしたって売れそうにない曲もある」と。 中学高校時代にはヴァイオリンをやり芸大を目指したと言うが、なぜかタンゴバンドでプロになり、20代半ばにはリーダーとして米軍キャンプやホテルに出演。渡辺プロダクションの看板ジャズバンド、シックスジョーズのメンバーを務めたピアニストで「ビル・パウエル」と自称し、のちアニューミュージックを立ち上げCMから音楽出版まで携わった。 昭和の終わり頃「僕の歌を譜面にしてくれませんか」と言ったら、すぐに「唄ってみて」と言い、聴き終えて譜を書き、コードも付け、その場で弾いてくれた。寸分違わぬメロディーと、カッコイイ和音(コード)に感激した記憶は、あざやか!。
アンパンマンや三越デパートの包装紙デザインなどで知られる「やなせたかし」さん(93)の記念館が、彼の出身地である高知県香美市に出来たのは1996年の夏。その直前の春3月、陸前高田の大町商店街が開設していた「まちかどギャラリー・おおまち」で彼の原画展が開催され、たくさんの親子連れで賑わった。 その企画を持ち込んだのは、当時陸前高田市立小友小学校の校長だった鈴木明氏。彼は「やなせ」さん原作のアニメ映画「やさしいライオン」に魅せられ、転勤の都度、学校や地域の公民館で自ら16ミリ映写機を回し、その物語を子と親と教師達に見せ続けていた人でしたし、僕のCD「潮騒の森」に「海の灯の思い出」を作詞し提供してくれた。 「やさしいライオン」は親を亡くした赤ん坊のライオンが、子を亡くした親犬に育てられる物語で、愛情いっぱいに育てられたライオンは、その愛を支えに苦難を乗り越えて生きて行くと言う子育ての原点が描かれていた。 その「やなせ」さんは、陸前高田市出身の編集者・平松利津子さんから3・11の津波で消えた「高田松原」や、一本残った松の木の話を聞き心動かされ、自ら作詞・作曲し「陸前高田の松の木」というCDを制作。「ぼくらは生きる、負けずに生きる、生きて行くんだ、オーオーオー」と自らもコーラス参加し陸前高田市へプレゼント。 更に1868年の創業以来、対面販売の御用聞きの伝統を守り続けて、この醤油でなければと言う人と家庭に直接届けて来た「ヤマニ醤油」の話に感動し、「天使のしょうゆ」と命名し、自らそのラベルを描き四代目・新沼茂幸さん(54)にプレゼント。 そのラベルの天使たるや何とも可愛いのだ。ヤマニのマークをティアラの様に頭に乗っけて「しょうゆさし」を持って飛ぶ笑顔の天使。大震災で被災してから花巻市東和町の同業会社「佐々長醸造」の蔵と設備を借り、無事だった社員全員が一丸となって復興仕込みを行い試作を造り、その後「天使のしょうゆ」「ほんつゆ」「上級醤油」の主力商品を復活させ、ず~っとお得意さんだった!僕にも届けてくれました。「やっぱりおいしいね!」。
日本を代表する歌手の一人で、新作「いっぽんの松」をリリースしたばかりの千昌夫さん(本名・阿部健太郎・64)が22年振りに今年(2011)NHK紅白歌合戦に出るという。「星影のワルツ」での初出場1968年から数えて16回目。 千さんと僕は同年同月生まれ。彼が竹駒中から水沢一高へと陸前高田を出、僕は平泉中から高田高校へと、陸前高田入り。2年後彼は高校の修学旅行中に“脱走”して、作曲家・遠藤実氏の門を叩き、1965年(昭和40年)の秋、「ミノルフォン」の歌手・千昌夫となって「君が好き」でデビュー。 彼の母がそのレコードを風呂敷に包み、陸前高田の街を一軒一軒売り歩いてた姿が浮かぶ。あの時彼は、故郷・陸前高田市の「竹駒神社」で賽銭箱にレコードを入れてヒットの祈願をしたと、最近のテレビ。 そのかいあってか、3作目となった66年の「君ひとり」のB面だった「星影のワルツ」が67年有線放送で火がつき、翌68年A面盤で発売されるや、ミリオンセラーを記録。その後、続々ヒット曲を出しスター歌手の地位を築いたのでした。 かつての陸前高田市長だった菅野俊吾氏は、千さんの「味噌汁の詩」を得意とした。「出張先で名刺を出すと、千昌夫とジョニーの街ですね!と言われる」と言って、わざわざ、僕の店に報告に来た事があった。市の職員が差し出す名刺の裏には、陸前高田の有名人として、千昌夫(歌手)村上弘明(俳優)照井顕(ジャズ喫茶ジョニー)と印刷されてた事もありました。 印象深く思い出すのは84年。新宿コマ劇場で行われた「千昌夫特別公演」。一部で「夢をつかむ男」と彼自身の物語的芝居。二部は「おらぁ、えんたぁてなーぁだ」の歌謡ショウで大船渡出身の新沼謙治さんをライバルと言って応援する姿は郷土愛に満ちていた。ショウの休憩時間に客席に「千グッズ」を売りに来た方は、何と知り合いのジャズメン(バックバンドの人)。話を聞いたら昼夜2回、8割の入りだと言う。一ヶ月の公演で十万人!その数字に武者ぶるいし「津軽平野」を買った記憶。今年の紅白は6回目の「北国の春」を唄うらしい。
俳優・山内賢が今年(2011年9月24日)67才で亡くなった。本名は藤瀬賢晁(のりあき)彼の兄が俳優の久保明だったからか?子供の頃は久保賢といった。 彼がまだ小学生だった1957年,僕等が通っていた平泉小学校の達谷(たっこく)分校へ、10人程の子供達と共にやって来た。宮澤賢治の名作童話(賢治が亡くなった翌年の1934年、藤原嘉藤治が世に送り出した賢治の全集で発表された)“風の又三郎”を東映で映画化するにあたり、又三郎として東京から来たのでした。 彼の父役は「少年探偵団」での“怪人二十面相”「月光仮面」での“国際暗殺団首領”だったりした、こわい俳優の加藤嘉(1913~1988)他、左卜全や、岩手一戸出身で二枚目スターとして活躍した「宇佐美淳」(本名・駒木五郎1910~1980)等が出演したもの。 「ドッドド・ドドウド・ドドウド・ドドウ」の音とともに「谷川の岸に小さな学校がありました。教室はたったの一つでした」で始まる二百十日(立春から数えて210日の9月1日)あたりの“風の三郎”語り。 実際、映画の舞台となった僕等の分校は、茅葺(かやぶき)屋根で暖房は木製の火鉢。昼になるとその上に金網をかけ弁当を温めた。1・2年、3・4年が1クラスの複式学級。全員で50数名の生徒。その中から、20人程選ばれてその他の子供達として出演。 僕も一度は席に座らせられたが、別の子と入れ替えられて外されました。小さな校庭には線路が敷かれその上をカメラのトロッコが走ってたし、大きな扇風機のトラックから送り出される風に向かって、手押しポンプ車で放水。木々の枝に針金を結んでそれを土手の影に隠れた住民達が、ゆっさ、ゆっさと引っ張って台風のシーンをつくってた。又三郎は、バケツで水をかけられてから、その暴風雨の中を走り本当に風邪をひいたっけなぁ。 学校での試写会の日に、出演した生徒達に配られたのは“風の又三郎”と印字された、まるでガラスのマントを着た“又三郎”ような銀色に光るネジ式「シャープペンシル」だったっけ!銀色で思い出したが、日活女優・和泉雅子と山内賢がデュエットした曲「二人の銀座」をよく聴いたものだった!
12月12日はジョニー月・ジョニー日だ!「ヘイ!ジョニー・ジョニー」で有名な歌はチャックベリーの「ジョニー・B・グット」で、「ジョニー!ジョニー!」と呼んでいるのは女房の小春。 そう今日の「12月12日は僕等の結婚記念日」そして僕があこがれ続け、聴き続けてきた世界のTOSHIKOこと「穐吉敏子さん(82)の誕生日」でもある。何でも忘れ易い僕なのだが、「二人の記念日は忘れても、この月日だけは忘れないでしょうから!」と言う小春の言葉から敏子さんの誕生日を結婚記念日とした。 「TOSHIKO・としこ・トシコ・としっことる程・敏子が好きになる!」とは、僕の愛言葉だが、敏子とは「さとりの速い女性」の意味であるらしい。なる程。僕の知る敏子さん達も皆素敵だ。ならば男はと、とっさに頭に浮かんだのは僕の兄の名「敏夫」。確かに「さとりの速い男性」だったかも。 あれは僕が高校四年の11月、当時、横浜に住んでた敏夫兄さんの結婚式に呼ばれ平泉の実家に帰った。あの頃、披露宴は家で行うのが慣例だった。親戚、その他一同が集まり宴が始まろうというのに花嫁の姿が見えない。話を聞けば親同士が決めた結婚、遂に花嫁現れず、散会となった。シラーッ!。 友人も横浜から呼び、自分の結婚式だから会社を休んで来た兄も、「このまま手ぶらじゃ帰れない!どうしてくれる!」。そこに登場したのが長兄・幸男の嫁・好子。「自分の実家の近くにいい娘がいるから、会って見たら!」と早速、翌日見合い!でピッタンコ!。 何とその見合いの翌日には結婚式という超早業ウルトラC、親戚もビックリするやら本当かいな、と再び参集。しかもキレイでステキ!と皆大満足。 事実は小説よりも奇なりとは本当だった。僕等兄弟は4男1女の五人。それぞれ皆仲のいい夫婦だが、敏夫夫婦は特別に仲がいいと僕は見る。その原因はこれ。敏夫夫婦は後に、母の実家を継ぎ途中から佐藤の姓になった。その事により「さとうと・しお」になったから。 |
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