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レポート2023-07-23幸遊記NO.622 「NYタイムズに世界第2位の盛岡」2023.1.23.盛岡タイムス
1月13日(2023)午後、今年初日のジャズ講座開催中に、何度となくメール着信「ニューヨーク・タイムズに盛岡が世界第2位の街にランキングされた」とある。しかも第1位がイギリスの首都・ロンドンだから、ビックリギョーテン。アメリカは当然、台湾やフランスからまで、フェイスブック、Gメール、ラインにメッセンジャーとSMS、色んなメデアにて報告が来た。しかもその記事の中に「ジョニー」が出てるよ!というのだったから、穐吉敏子ジャズミュージアム効果のひとつの表れ方なのではないか?とも思った。それは穐吉さんが、以前インタビューに答えて「盛岡に観光客が増え、市から感謝されるかも知れませんよ」の言葉が浮かんできたから、、、。
第2位の街とは「ニューヨーク・タイムズが選ぶ今年の旅行先(世界52都市)に日本の盛岡市が2箇所目に選ばれました。(1箇所目はイギリスの首都・ロンドン)」というもの。ちなみに第19位に九州の福岡市であった。これを見てふと僕の頭に浮かんで来たのは震災前の2010年3月、雑誌・「BRUTUS」(3/15号)の特集「アンチTOKYO?クールLOCAL!魅力ある地方都市ランキング50」で盛岡市が第9位に選ばれた時のこと。その本に「開運橋のジョニー」が穐吉敏子のシークレットライブを行っている店として紹介されたこと。そしてその時の第1位が何と「福岡市」だったのですから、これはまさに世界的な大逆転劇とも言えるものではないか!しかも福岡市は16才でプロ入りした穐吉敏子さんが17才の時、本格的なジャズ演奏を進駐軍クラブで始めた街だったのですからこれも縁。 更に丁度70年前の1953年穐吉さんがオスカーピーターソンに見いだされてアメリカのレコード会社に録音した日が11月13日の金曜日でした。ニューヨーク・タイムズが発表したのは1月12日。日本の日付で「13日の金曜日」だったのですから、当時の朝日新聞「幸運拾った13日の金曜日」の見出しが頭に浮かぶ。ピタゴラスイッチ! 「この10月まで日本はどの主要国よりも厳しい渡航制限を維持していました。岩手県の盛岡市は見過ごされたり、完全に無視されたりすることがよくあります。東京から北へ高速鉄道で数時間のところ。東洋と西洋の建築美学が融合、魅力の1つは古代城跡、豆にこだわるコーヒー店、わんこそば、古典的アートブックの提供。40年以上営業のジャズ喫茶(ジョニー)など紹介。このニュースを日本のTVや新聞各社もニュースとした
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johnny -
2023-07-22幸遊記NO.621 「ジャズ批評・日本ジャズの名盤」2023.1.16.盛岡タイムス
1967年創刊の隔月刊「ジャズ批評」誌2023年1月号(№231)、特集「私が選ぶ日本ジャズの名盤」。メイド・イン・ジャパンにこだわった46人の愛聴盤!!と、ある。選ぶ作品は原則日本のレコード会社からリリースされた、日本人がリーダーのいわゆる和ジャズのレコードとCD。ジャズを長年愛聴して来たジャズ喫茶店主やFMパーソナリティ、レコード制作者、報道関係者、ライター、評論家、編集者、楽器製造会社員、ジャズファン、レコード店主、オーディオ愛好者等へのアンケートで一人5枚ずつ選んだもの。
その中に穐吉敏子さんの作品が何枚選ばれているかとページをめくったら「孤軍」を選んだ山形オクテットの相澤榮さん。「1980・穐吉敏子トリオ・イン・陸前高田」を選んだ評論家の後藤誠一さん。「Toshiko」を選んだ嶋崎研二さん。そして読者編の各一枚では、「マイ・ロング・イエロー・ロード」と「トシコ旧友に会う」の計5枚が選ばれていて、納得。 そしてページをめくりながら僕の目を止めたアルバムが3枚ありました。それは言うまでもなく、外盤一辺倒だった日本のジャズ業界に一石を投じよう!と、当時北海道を中心に活躍していたベースの中山英二のレコードをプロデュースし、世に送り出した、ジョニーズ・ディスクのデビューにして中山のデビューでもあった「アヤのサンバ」(中山英二カルテット・1978年)そして第5作「海を見ていたジョニー」(坂元輝トリオ・1980)はたまた「1980・秋吉敏子トリオ・イン・陸前高田」(2014年発売)の3枚が」選ばれていてビックリギョウテン!。 それこそ戦後に始まった、本格的な日本のjazz史は約80年、その間に作られたレコードやCDのおびただしい数の中から、今なお名盤として愛聴され続けている不思議なうれしさと喜びは、ある意味で制作者の僕よりも、それらのレコードやCDを世に出すために、制作にご協力をして下さった日本全国のジョニーズ・ディスク・ファンクラブの皆さんのものでもあるに違いない。ありがとう! そういえば「海を見ていたジョニー」をギリシャのアテネで2004年に発見して買って来たという方の話(盛岡タイムス・幸遊記№605・2022/8/29)。ジャケットの裏に書かれていたサインを後日写真メールで送って貰ったら、何と‘82年2月に現地にて僕がサインをしてレコード店に飾って置いて下さいと頼んで来たそのものの40年後日本への帰着証拠写真に再度ビックリ!しました。
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johnny -
2023-07-21幸遊記NO.620 「穐吉敏子ジャズミュージアムのピアノ」2023.1.4.盛岡タイムス
盛岡タイムス10月4日付(2022)幸遊記「齋藤博孝のピアノストーリー」続編です。昨年7月26日夜の事、一人の男性が僕の店・開運橋のジョニーにやって来て「盛岡の音楽マップを作ろうと思ってまして、ジョニーさんも載せていいですか?」と。「良いもなんも、本当に僕も以前から作りたいと思っていましたから、とても嬉しい!」と。その素案マップを眺めながら、その時工事中だったバスセンターに出来る「穐吉敏子ジャズミュージアム」も載せて欲しいと願いながら、その流れの中でNYの穐吉さん宅から盛岡へ運んで来る予定だったピアノを、地下2階から運び出せず!の失敗談をしたところ、彼は誰かに電話して「あのピアノはどうなりましたか?」と尋ねた。
その問いかけに直ぐ様飛んで来たのが齋藤さんだったのです。勿論僕はお二人共見知らぬ人達でしたが、マップ作りの方は、齋藤さんの息子さんが高校時代吹奏楽部でお世話になったコーチの古舘順一さんとのこと。つまり、そこから先の幸遊記(№610)の「ピアノ物語」が始まったのでした。そう、東京・山野楽器さんのピアノプレゼントに当選したはいいが、齋藤さんは、その時、土地家屋含む財産を失い、住むアパートさえ見つからず、それこそ路頭に迷っていた時の当選通知。しかもBSTVの取材付き。本来なら大喜びの瞬間だが最悪の落ち込み時。 だが、それを救ったのは、長女・佳奈さんの言葉だった。「未来は今が創るんだよ。立ち止まって考えていたって未来は来ない。今はすぐ過去になる。動き出さなきゃ写真みたいな過去しか生まれない」。それから一年ピアノを置ける場所が見つかるまでと預かって頂いていたところへ、なんと!「穐吉敏子ジャズミュージアムへ置くのは如何か?」と申し出の古舘さん。僕も、別のピアノを用意中でしたが、ストーリーのある齋藤さんのピアノで行くと決断!齋藤さんも山野楽器さんもOK!。9月下旬無事穐吉敏子ジャズミュージアムへ納入と成り、11月10日には斎藤さんの夢「家族でコンサート」を世界のレジェンド・NEAジャズマスター・穐吉敏子さんが穐吉敏子ジャズミュージアムでの「親子孫三世代ライブ」(世界初演)で、新たな魂をプラスしてくれたのですから、齋藤さんご一家の慶びは一汐、二汐。以来お陰様でピアノは様々なピアニストに愛奏され、喜々として第二の人生ならぬ、ふたたびの音生をスタート。この話BSフジ「東京物語」で放送になりました。
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johnny -
2023-07-20幸遊記NO.619 「おはよう日本の穐吉敏子」2022.12.26.盛岡タイムス
12月10日(2022)「NHK.TV今朝のおはよう日本を見ましたか?穐吉敏子さん出てましたよ」と、何人もの人からの電話だった。知ってはいたけど起きれずに見れませんでした!と僕。花巻の良平さんは「見でねぁがったらDVDに撮ってだがら送るがらよ」と、間もなく届いて拝見させて貰った。そういえば良平さんは、詩の芥川賞と言われるH氏賞の審査員に選ばれたそうですね。岩手県人として初めてのこと、本当におめでとうございます。
「平和来ずとも希望は捨てないジャズピアニスト・穐吉敏子さん、本場ニューヨークで活躍を続けて来た世界的なレジェンド」コロナ禍のため3年振りの帰国となった。親子孫三世代による世界初演(盛岡)の為帰国。盛岡の後、東京ブルーノートで14日にデュオを演るというので僕も見聞に行きました。昼夜共に満席。93才にならんとする直前のライブは皆カタズをのんで聴き、終われば驚きともとれるどよめきの様な拍手。 NHKTV「朝いち」に盛岡から生中継の要望もあったのですが、朝は断って下さいとのことで、東京で久し振りにインタビューに応える穐吉さん。 「コロナ禍でコンサートはキャンセルと悲しいけれど、毎日少なくても2時間はピアノの練習。昨日よりは少し進歩したい。少なくてもその努力はする」。「我々は聴いてくれる人、共感してくれる人が居て初めて自分のやっている意味意義がある訳ですから、感じてくれる様な演奏が出来ないと独りよがりになりますから」と今尚精進する努力の人である。 彼女は言う「ジャズは社会芸術(ソシアルアート)ですから、無力と解っていても諦めず、希望の音楽を。私自身はある意味で国の行き方に対する反抗みたいなものだと。そういうつもりで音楽を作ったりプレイしている。平和は来ないでしょうけど、我々はいつか来るように希望します。そうありたいと言う。恵まれた立場に居たら希望なんて持つ必要無いかもですがウクライナの様な悲惨な立場にいればいるほど、希望は持たなきゃいけないですね。プライドが誤って出ると権力者みたいな方に走る。私は日本人であること、女性であることに誇りを持って、良い意味での自信を持つ。自分をよく見つめるという事です」と彼女。はるか昔から少しもぶれずに今に至る宝物の言葉の数々でした。そして照井良平さんいつぞやは「穐吉敏子ジャズミュージアム」へ詩のお届けありがとうございました。感謝!感激!
11:13:00 -
johnny -
2023-07-19幸遊記NO.618 「いわて暮らしの文化表彰」2022.12.13.盛岡タイムス
11月10日(2022)午前。盛岡バスセンター近くの「サンセール盛岡」に於「県文化スポーツ表彰」(村松玲子氏・不来方高校音楽部顧問ら11個人1団体)。「いわて暮らしの文化特別知事表彰(斎藤純氏・作家・石神の丘美術館芸術監督ら2個人1団体)の表彰式。僕もその2個人の中に含まれていて驚きましたが、この日はNYからの我らがジャズピアニスト・穐吉敏子さんが、開設になった「穐吉敏子ジャズミュージアム」で、関係者たちへのお披露目演奏会の当日であり、準備などテンヤワンヤで、僕の気はそぞろ。
代表で挨拶して下さいとのことだったが、その原稿を書く時間の余裕もなく、名を呼ばれ皆さんの前に立ったはいいが、頭ぼーっとして言葉にもならず、何十秒?もの間、無言で立ち尽くし会場シーン、、、、。何を話そうか?口を突いて出たのは20才から今日まで55年間に及ぶレコードコンサートにライブコンサートや文筆等による音楽の普及活動に関する事と、言えば少し聞こえはいいが、本当に勝手気儘な僕の行動や実践を、影日向なく、様々な形や方法で、やっている、やろうとすることを一緒に面白がって手伝い応援し続けて来た全国の皆さん(ジョニー・ファミリーと女房が言う)への表彰なのだろうと思ったら、自然に涙が滲んだ。ありがとう。 達増拓也県知事から頂いたそれを店(開運橋のジョニー)に持ち帰ったら、穐吉敏子さんが夜の演奏の為の、ピアノの練習をしていたので「これを頂いて来ました」と見せたら、賞状を両手に持って「あなたは長年にわたり県民の日常生活に密着した文化的、芸術的な活動を通じ岩手ならではの文化の創造に貢献するとともに本県ならではの文化芸術の魅力を県内外に広く発信しその功績は極めて顕著であります。よってここにこれを表彰します。令和四年十一月十日・岩手県知事・達増拓也」と、立派に読み上げ更に「おめでとうございます」と付け加えてくれた声を聴き、僕はとても有難いと思いました。女房も「ジョニーが天女だと思っている穐吉さんに読み上げて頂けるなんて最高に幸せだね」と言う。 表彰が決まった時には、昔々FM岩手でお世話になった斎藤純さん。表彰後日には、何と村松玲子さんまで、ご挨拶に来てくれたことも嬉しかったです。なのでそのことを、かつて盛岡少年少女合唱隊の指導者だった芦野真弓さんに話したら「あの子もここに来たの?」と、教え子だった彼女のことを懐かしく話してくれました。 それはそうと皆様ありがとうございます。お陰様でした。先ずはご報告まで。カンパーイ!!
11:11:00 -
johnny -
2023-07-18幸遊記NO.617 「藤原和磨のバイナルアート・孤軍」2022.12.6.盛岡タイムス
ひょんなことから、ちょうど一年前に会うことが出来たバイナルアート作家・KAZUMA・FUJIWARAさん(39)からの電話だった。「穐吉敏子さんの“孤軍”出来上がりました。届けに行きたいし、穐吉敏子さんのコンサートも聴きに行きたいのですが、俺コロナになってしまったんです。なので友達に頼んで届けます!」でした。僕もその日は忙しさのあまり、届けて下さった方(斎藤美香さん)にもお会い出来ずで、ごめんなさい。
その孤軍とは、僕が20才になった1967年から主催していたレコードコンサートの最終回(1974年11月)に、東京帰りの先輩・軍記さんが持参したレコード(穐吉敏子=ルータバキン・ビッグバンドのデビュー作・孤軍)のこと。以来僕は穐吉敏子さんのファンとなり、現在に至る。そして僕と和磨さんが合うきっかけとなったのは、ほっちーこと細野高史さん(幸遊記・№557)のプレミアムもののホッチキスで互いに会ってみたかった者同志がガチャン!と繋げてもらったってこと。その和磨さんのことは数年前新聞で知り、いつか会いたいと想っていた。 彼は彼で「穐吉さんを知ったのは渡米50周年日本公演(僕のプロデュース)のCDとの出会いでしたし、その時丁度20才だった」と。そこから穐吉さんのファンとなり彼女のレコードを掘り出してきたが「まさかジョニーからの依頼で自分が穐吉さんを彫ることになろうとは、、、、感慨深いす」と。そのバイナルアート作品「孤軍」はリサイクル店でみつけたキズモノや針飛びのするダメージレコード(孤軍)を複数枚使用してレコードをカット(熱切)してジャケット風に仕上げ。手元にはピアノの鍵盤まで付け加えた彼ならではの作品、作風。僕はとても感心した。ありがとう。 ヒップホップからジャズ、ブラックミュージック全般まで聴くという和磨さんは、とにかく音楽が好きで、好きで、小学生の時から中古レコードを買い聴き最終学歴は石鳥谷中学校である。聴けない程のキズモノレコードはタイトルや演奏者、歌手などからイメージをふくらませて変身させるバイナルアートを創作。これまでに100タイトルは創ったというが「捨てられるものに再び命を吹き込む。このスタンスで一生やる。でもこれは仕事にはしたくない。頼まれたってストーリーがないとだめ。意見が合致しないと創らない!唯一無二の作品を楽しく創り続けたいのだから作りたいものしかつくらない!いい意味で頑固でいたいから」と言う藤原和磨さん。それはまるで誇り高く和を磨いた藤原氏の様でもある。
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johnny -
2023-07-17幸遊記NO.616 「穐吉直人の穐吉ルーツ調べ」2022.11.29.盛岡タイムス
2022年11月11日(金)、盛岡市民文化ホールで行われたNPO法人穐吉敏子ジャズミュージアム主催の穐吉敏子三世代ドリームコンサートを聴きに、大阪の豊能町から盛岡にやって来た穐吉直人さん(37)は、未だお若いのに穐吉姓のルーツをかなり知っていて、いろんなことを僕に教えてくれた。
秋吉台で知られる山口県に、かつてあった“秋吉村”、今その地に秋吉姓は無し。元は水軍、お家断絶?で瀬戸内の海を渡り、流れついた先が九州中津藩の港・布津部。そこは遠浅の海、昔はそこを通らずに物資の流通が出来なかったところであるらしい。秋吉姓に、穐の字を使い穐吉を名乗ったのは秋吉村の厚東(ことう)氏(今から680年前に滅亡した)の三男坊。先祖(武家使用姓)に想い馳せ、祖先の穐に戻したことに始まっているのだという。 その穐吉家の墓石が並ぶのは布津部村にある唯一の寺、覚正寺(浄土真宗)。遠浅の海と堤防があってその後ろに砂地の墓地と道沿いにぽつぽつと家があるところです。そう話をしてくれた直人さんのルーツはどうやら穐吉の本家本元。それこそあの大横綱・双葉山(穐吉定次)の実家は隣。穐吉敏子さんの父の実家は、右斜め前。敏子さんの父は次男だが長男の末息子・穐吉としゆき(敏子さんのいとこ)さんは現在、宇佐市にある観光交流施設「双葉の里」の館長を務めているそうなのですが、直人さんの祖父の兄は双葉山の同級生。戦争で亡くなり双葉山がその遺骨を持って帰って来たのだと。しかも遺骨となったその兄の嫁さんは弟と再婚。その弟が直人さんの祖父で父はその五男。直人さんは父が住む大阪で生まれたのだという。 それこそ布津部にいた直人さんの祖父母は、敏子さん一家のことも知っていて、「中国(満州)から引き揚げて宇佐の布津部に来たのですが、落ち着く間もなく別府に移った」のだと。何故かは、敏子さんの姉が結核のため別府のサナトリウムに入院したことから、そこで一家の生活が始まり、敏子は街を散歩中に「ピアニスト求む」の張り紙を見つけ、ダンスホールのピアニストとしてスタートした。そのことから別府は敏子さん(四人姉妹末っ子)にとって日本の故郷になり、のちに「タイム・ストリーム」という曲を生むきっかけとなり、又、ジャズ史に残る別府国際ジャズフェスティバルの音楽監督をつとめ、そして大分国体の曲を作り、大分名誉県民の称号までいただいたのでした。それこそあの双葉山の69連勝に迫った横綱白鵬の63連勝。今、双葉の里にはその両横綱の双手形。その双葉山の墓と、敏子さんの父母の墓や、そして敏子さんの穐吉籍(本籍)は東京である。ああ豊(とよ)の国(大分の古称)の昔話と穐吉ルーツのお話、温故知新でした。
11:08:00 -
johnny -
2023-07-16幸遊記NO.615 「穐吉敏子のテンパス・フィジット」2022.11.21.盛岡タイムス
コロナ禍の中、待ちに待った!とはこんな時のことを言うのだろううかと思った11月 (2022)。「穐吉敏子・親(92)子(59)孫(22)の三世代による、ドリーム・コンサート」を盛岡で世界初演という形で無事開催できた奇跡。
その日を迎える1カ月前には、それこそ世界初となる「穐吉敏子ジャズミ ュージアム」のオープン。その準備でおおわらわの最中、僕の尿道からビュ ンビュン飛び出した、何十匹?もの魚のごとき真っ赤な物体。 それはまるで火山の噴火のようだったが無痛だったことの恐ろしさから日赤の病床に沈下した10日間。退院後のたまりにたまった雑用?で体はおろか頭まで爆発しそうになりながら、何日完全徹夜したかも、うろ覚えの毎日。女房すら体重5キロ減。 そして迎えた11月11日、盛岡市民文化ホールでのドリームコンサートの盛況。アンコールに応えてのソロピアノは、あの長い長い、超高速曲「テンパスフィジット」(バド・パウエル曲)。それを何と最後まるでマジックのごと く弾き切った超絶的な凄演奏に、聴衆のアゼン! 開いた口がふさがらないままスタンディングオベイションのそれこそ嵐のような大拍手は鳴りやむどころか、大きくなるばかりで、楽屋に向かう穐吉さんに、拍手鳴りやみませんが・・・と追い掛けたら「終わりです。疲れ果てま した」の返事!で、僕が舞台に出て行ってそれを伝え、ジ・エンド。 CD販売コーナーにも長い列。打ち上げ会場となったホテルマザリウムにも人、人。サイン攻めで飲食どころでなく「テルイさんに殺されそう」と穐吉さんの悲鳴が耳に届き、打ち上げ半ばで切り上げお部屋に。 それもこれもファンを大切にする、穐吉さんならではのサービス対応。現実は、12月12日93歳になられるご高齢と右目の失明。考えるまでもなく、普通の人なら、ただ生きているというだけでも大変なこと。なのにニューヨークからコンサートのための帰国(長旅)。 そして子と孫との共演用各パート譜の書き直しと練習。3人での音合わせの数時間と2日間ものリハーサル。それを開運橋のジョニーに行って、会場へ移動し、本番のステージと相成るすごい精神力。生涯現役を貫く姿勢は感動ものでNYからおいでの小野山弘子氏が、来年、穐吉さんのカーネギーホ ールコンサートを実現させます、と言 ったら、穐吉さんいわく「ホールは1年先まで埋まっています」と皆を笑わせたが、来年はリンカーンセンターのコンサートも決まっているという。皆で行きましょう!
11:07:00 -
johnny -
2023-07-15幸遊記NO.614 「刈屋千帆子の穐吉敏子年表」2022.11.8.盛岡タイムス
盛岡バスセンター3階のホテル・マザリウムロビーに開設なった世界の穐吉敏子ジャズミュージアム。 そのオープン記念として、11日 (金) 夜7時から盛岡駅西口のマリオスにある盛岡市民文化ホール(大ホール)にて親子孫三世代による世界初演の「穐吉敏子ドリームコンサート」を企画。いよいよという日にちまでやってきました。今年(2022年)4月NYの穐吉さんのご自宅からお預かりしてきた賞状や盾などを並べ飾っているミュージアムの壁一面には、それこそ彼女の直筆によ る書「黄色い長い道」の掛け軸とともに彼女が生まれてから今日までの90年余りに及ぶ年表 (ジャズ史や世界情勢と照らし合わせた)を掲示していますが、それを作ってくれたのが刈屋千帆子さん。
彼女は長年FM岩手で番組の制作ディレクターやミキサーを担当。このたびの穐吉ミュージアムのスタッフとしても活動。通信教育での学芸員資格も持っていることから、NPO法人の理事にもなってもらい、穐吉敏子さんの年表を制作するという、いきなりの大仕事を頼んでみたのでした。 すると、穐吉敏子さんの本を読み、ジャズ史、世界史まで勉強して 「穐吉年表」を見事に作り上げたのです。それこそ重箱の隅を突っつけば、間違いも少々見受けられますが、まずは、よ くできました、とそのままに掲示しています。ご苦労さまでした。 千帆子という名から浮かぶは青い海原。そう彼女は宮古の生まれ。小学校から盛岡。月が丘小、厨川中~下小路中、盛岡二高。函館大学では商学部にて宣伝広告を学び上京。東京のアパレル会社を経てニュージーランドに行き盛岡に戻ってからは、ミュージックバーに通いながら、イベント会社やTV映像、ウェディングプロジェクトやアートサポートをやり、フジロックフェスには10年も通い、はたまた仏像にはまり京都へも。 なので、弥勒菩薩(みろくぼさつ)を自称し気のおもむくままに人生の旅をしてきたのだと。ちゃんとした就職はしたことがないし、結婚の経験もなしだが、音楽と旅が好きという海風を切って海を渡る正に千帆の生き方。それこそこの穐吉ミュージアムを手伝う以前は盛岡鉈屋町の町屋物語館の学芸員でもあった。 年表を作りながら感じたのは、穐吉敏子さんはカッコイイ女性。強くて天真爛漫。昭和の初めから平成、令和と時代の勉強にもなりました。という (47 歳でした)。
11:04:00 -
johnny -
2023-07-14幸遊記NO.613 「町屋伸一・記憶のバスセンター」2022.11.2.盛岡タイムス
町屋君との出会いは確か1999年12月。盛岡川徳デパート前のスクランブル式交差点にあるモダンなビル内にあった「ギャラリー・ラヴィ」。当時陸前高田の住んでいた僕は、そこで写心展「日本ジャズの原風景」を開催して頂いた時でした。当時僕は「アテルヰじゃんず楽団」の名でライブも時折やっていたことから、最終日にバンドで自作曲を歌った。その時彼は岩手大学農学部応用生物学科の学生でしたが、すでに白黒コピーの手作り写真集「雪と共に」を出版していて、これがなかなかよく、気に入り買い求めた。僕が盛岡に店を出した2001)にはお母さんと一緒に来店してくれて嬉しかった事迄思い浮かぶ。
今年2022年10月4日盛岡バスセンターがオープンした日には、3階に設置になった「穐吉敏子ジャズミュージアム」にも現れ入念に写真を撮っていた。彼は旧バスセンターをこよなく愛し保存運動にも関わっていた一人。だから新築の外観にも、旧バスセンターの面影が感じられることは、彼にとっても保存を望んだ人々にとっても、少しはほっとしたのではないだろうか。まして旧ロゴの保存活用には、なお更であろうしローカルハブ社や設計者の心使い,心意も伝わって、嬉しく思っている人が多いことにも感心しています。 彼、町屋君は旧バスセンターが17才の時に宮城栗原で産声をあげ、小学校に入る時に盛岡へ。その頃からカメラに興味を持ち、城西中・盛岡四高・岩手大学と、ずーっと写真部一筋だっただけに素晴らしい写真を撮る、撮れる、根っからの写真好き。しかも鉄道やバスが大好きなことから、旧バスセンターに入った時のレトロ感が気に入り、その財産性をキレイに撮り、残したい!と思い、行動に移して写したその原点は、」かつて盛岡に住み、盛岡の古い街並みや建造物を写真に収めて2冊の」写真集「あの角を曲がれば」1985年地方公論社。「この角を曲がれば」(2001同)の伊山治男写真集に感銘を受けたことだったが、もっと深いところでは、大好きだったすてきな建物(おじいちゃん、おばあちゃんの家)が壊されるのを見たショックが彼の記憶という名の記録への始まり。彼が「旧バスセンターは僕にとって父母みたいな存在でした」そう言いながら、「照井さんに持っていて欲しいんです」と僕に差し出したのは、なんと「盛岡バスセンターの記憶」という試作写真集で、旧センターの日常と最終日、最終便のバスまで写っていました。嗚呼ありがとう。
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johnny -
2023-07-13幸遊記NO.612 「Hachiのみまもりサービス」2022.10.19.盛岡タイムス
昭和22年(1947)に始まった戦後のベビーブーム時代に生まれた僕等は、団塊の世代と呼ばれてきたが、何と今年から遂に後期高齢者の仲間入りをしてしまった。昔のことは覚えていても、昨日のことは愚か、今日ついさっき聞いたことすら忘れてしまい、と言うよりも、覚えられないのでメモするが、そのメモしたことを忘れ、気付いてもどこに置いたかも忘れてしまい、メモアテラレナイとシャレを言う僕は一日の大半をもの探しに費やしてあーあーの日々。
そんな折、若者から聞いた「ミマモリ・ハチ」の話である。見守り?身護り?蜂?と聞き返したら「みまもりサービス・Hachi」なのだと言う。ならハチは忠犬ハチ公?と問えば50点。その秋田犬がキャラであり八幡平市の八でもあると言う。しからば横8永久サービス業?と僕(答えは百近?) 年老いた祖父母は勿論、父や母さえ、見守っていたくても付き添っていられない。でも犬なら常に優しく付き添ってくれる。そんな犬の心と気持ちを大切にした現代のみまもりう方もあっていいのでは!と気付いたのがコンピューター会社アップルの社員だった大西一朗さん(63・盛岡出身)が2019年に八幡平市で起業した「AP.TECH.株」の「みまもりサービスHachi」。アップル社のスマートフォンとアップルウオッチという腕時計を連動させて、高齢者の一日の歩数や動態、体調、心拍数とその変動、睡眠状態(淺深)等々迄、それこそ離れたところにいる家族や介護者がまるで側にいて話しかけ見守っているかの如く役目を果たしてくれるアプリを開発したのだという。それは自分が関東で働いていた時に、親を見守ることが出来なかったことからの開発であった。 その様々なアイデアを考えるのは元auショップで働いていた北田唯(35・紫波出身)さん。「社長と同じ盛岡三高出身だから拾って貰ったの」と謙虚な彼女のアイデアを組み込み形にするのが東京出身滝沢市在住の伴地慶介(33)君。彼女は社員で彼は委託契約者。それぞれコンピューター関係の仕事も持ちながら、尚且つアナログな対面の仕事もしたいとジャズに興味を持ち盛岡バスセンター3階のホテル・マザリウムに開設になった「穐吉敏子ジャズミュージアム」のラウンジ「CafeBar West38」でバーテン、ウエイトレス、として共にカウンター内にも立つ音楽好き。そんな二人が心を込める「みまもりサービス」は、月¥780とあって加入者に喜ばれている様子だ、なはん(780)。OK!
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johnny -
2023-07-12幸遊記NO.611 「バスセンターのばすからめん」2022.10.12.盛岡タイムス
盛岡バスセンターがこの10月4日にオープン。開通式は1階のバス発着場で行われ、僕を含めた黒服の男たちがズラリと並び、達増県知事、谷藤盛岡市長、佐藤ローカルハブ社長、バス会社の人々などがあいさつのあと、ダンスを踊ってくれた子どもたちを乗せた各社3台のバスが出発すると、センターの周りはまるでお花畑のようなカラフルな色彩に身を包んだ女性たちが、わんさかわんさか、にぎやかに待っていて、驚きました。
思わず1960年の旧バスセンター開業の時はどんなだったのだろうか?と見知らぬ過去へ思いめぐらせば、昔々の杜稜館、神明社へと1世紀半もタイムスリップしそうだが、最初は2階建て。 のち3階建てへと増築されたガラス張りの、当時としてはかなりモダンな建物であり、そのセンターロゴは、今見ても素晴らしい書体。そのロゴは少し小振りになったが、センター全体の外観イメージと共に継承しつつ、中味は想像を絶する斬新さにあふれており、3階のエレベーターが開くと、おーっ!と少なからずの人数が声を漏ら す。 それは、設計者やヘラルボニーさんへの賛辞ともとれる自然発生音であるのが何かうれしい。そして、穐吉敏子さんのジャズミュージアムである。大半はただ通り過ぎる人々。 それが何とはなしに川の街、盛岡的でいいのかもなあと、笑みを浮かべれば、熱心に読み、見詰め、たたずんで眺め、ある人は流れる穐吉さんの音楽を聴きながら、「カフェバーWest38」でコーヒーを飲み、はたまた、昼飲みの時間を楽しみ、ホテルの部屋に囲まれた中庭で日光浴。あるいは中ノ橋通と南大通の交差点を行く人や車の流れを見て楽しめる広いベランダの広場へ出、眺め楽しんだあとは、スパでぬるめのナノ炭酸泉にゆったりとつかり、熱めの湯に入り、そしてサウナで汗を流し、水風呂に入る。こんどは、リラクゼーションのボディケアをしたところで階下のフードホールでおなかを満たす。 誰かが「まるで理想郷のようですな」と言ったけれど、まさにそう!。ある夜、僕が駐車場からたくさんの荷物を運んでいた時、舗道に落としたら、若者が「持ってあげますよ!」と、来た道を戻り、3階まで運んでくれたのでした。ありがとう!。 何と親切な人と思ったら、彼はセンター内の「ばすからめん」の店長さんで、何かとてもうれしくなり、あとで食べに行ったら、うまいのなんのでした。
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johnny -
2023-07-11幸遊記NO.610 「齋藤博孝のピアノストーリー」2022.10.4.盛岡タイムス
この10月14日(2022)還暦を迎える齋藤博孝さんのピアノ物語である。昨年6月彼が偶然カーラジオで聴いた「100台のピアノ物語」長年にわたり音楽教室で使用して来たピアノをまとめて入れ替えることになり、その100台のピアノ(グランド10台、アップライト10台、電子ピアノ80台)を欲しい人にプレゼントするというお話。「なぜピアノが欲しいか、ピアノにまつわる熱い想いを、直筆の手紙で東京の山野楽器にお送り下さい」。
この企画に齋藤さんは400字詰原稿用紙10枚分にも及ぶ長文の手紙をしたため応募したら、100人の中の1人として受かり、尚且つその中から3話がピアノストーリーとしてBSフジの人気番組「小山薫堂・東京会議」に登場するというもの。その1話に選ばれたのは彼のグランドピアノ物語。手紙には、齋藤さんの家族、妻(54)長女(25)長男(22)次男(19)のこと。博孝さんの職業は自動車共済などを取り扱う保険屋さん。 あの3・11の東日本大震災を期に仕事は大変な事になり、自らも精神的病にかかり、挙句の果てには、彼が保証人になっていた会社の倒産、その責務のため自己破産。守りたかった自宅を空け渡し、その引っ越し先を依頼していた不動産会社にまで騙され、泣きっ面に蜂の如くの状態で、飼っていた犬猫連れて住める貸家やアパートさえも見つからず途方に暮れていた時「ピアノ当選通知」。 本来なら最高に嬉しい瞬間、大喜びのはずが、辛さ苦しさで殺伐としていた時期だったことから辞退すべきではないか?と頭をよぎった。という。だが良く考えてみれば、我が家に吹く風が変わった瞬間であり、仙台から帰省していた娘さんの「やるしかないね」の一言は、かつての笑顔を取り戻すきっかけとなった。 ピアノプレゼントへの応募のいきさつは、3人の子供たちがまだ小中高生だった頃、全員が各吹奏楽部でトランペットやチューバを担当。ある時3人が部屋でディズニーメロディを、ああでもない、こうでもないと言いながら合奏する音を聴きながら「音楽って本当にいいもんだなあ」とジーンと来て泣いた彼。ある日ラジオから流れて来た福山雅治さんの「家族になろうよ」を聴いて、自分でピアノを弾き、妻が歌い、子供たちが伴奏する、1曲だけの家族演奏会を開く夢を持ち、それに向かって今、動き出さねばピアノが弾ける自分の未来もやって来ない!と行動した結果なのでした。
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2023-07-10幸遊記NO.609 「318 Toshiko Akiyoshi」2022.9.27.盛岡タイムス
10月4日オープンする「盛岡バスセ ンター」その3階には34室の「ホテル マザリウム」。受付カウンター(ボックス式)から一番近い客室のナンバーが318。その黒いドアに、白で標示されている文字は「Toshiko Akiyoshi」。うれしくてフェイスブックにアップしたら早速誰かが「徹子の部屋?」「敏子の部屋!」とSNSに書いていた。
そこへちょうどタイミングよく「こんなの見つけたけど、持ってますか?」と持参してくださったMさん。そのどこからか届いたMさん宛ての封書の中から出てきたのは懐かしの「ジャズ・タイムス紙」(1979年の4月号)。 その3~4ページに穐吉敏子VS黒柳徹子!と、対談が写真入りで載っていた。確かその頃テレビの徹子の部屋に穐吉さん出ていたなあと思いながら読むと、エアチェックした徹子の部屋の二人の語りでした。その中で徹子さんが「アメリカで穐吉さんのビッグバンドが一番というのは、世界でも一番なんでしょうが、どんなお気持ちですか?」。 穐吉さん「あまり実感がありません。やることはいつも同じですから、ある程度のレベルを保つように心掛けて続けていく。それを他の人が注目してくれるということじゃないかと思います。ジャズバンドの一つの伝統を受け継ぎながら何か新しい事をやっていく姿勢なんです。それが希少価値なんで しょう(笑)」。 徹子「ミナマタ」という作品を作っ ていますが、日本の社会問題は、穐吉さんの生活の中で切れない問題ですか?」。 穐吉「私の考えは、まず第一に社会人であり、第二にジャズ音楽家なんですね。社会人として自分にふりかかる事が起こった時に、私はジャズ音楽家ですからジャズ語で、自分の気持ちを述べるということなんです」 それこそ当時の社会問題であった、このミナマタ病をテーマにしたアルバム「インサイツ」は1976年度のスイングジャーナル誌の第10回ジャズ・ディ スク大賞の最高賞である「金賞」に輝いた絶対至高の名演であった。そのイ ントロで「村あり、その名を、ミナマタという――」の名唱は、穐吉さんの一人娘、マンデー・満ちるさん(当時13歳)の朗唱ともいえる歌声で、いつ聴いてもジーンときます。 そのマンデーさん(fl・vo・59歳)は来る11月11日夜7時から盛岡市民文化ホール(マリオス)にて、母・穐吉敏子さん (92) と息子・ニキータさん(Sax・22歳)と一緒に親子孫3世代による世界初演!のコンサート「トシコズドリーム」で来盛します。 まずは10月4日の穐吉敏子ミュージアムオープンには、穐吉さん作曲の「ホープ」を歌うホープガールこと金本麻里さんのライブでスタートです!お誘い合わせの上、ご来場ください。
10:51:00 -
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2023-07-09幸遊記NO.608 「秋田角館のケニー・トーン」2022.9.19.盛岡タイムス
「道、それは時の流れゆく彼方に向かい、熱き何かを求め生きぬとする者の前に存在する。その道は険しく遠く、ときには辿り着くことを許さぬように厳しさを秘め、限りなく人を魅了してやまない」と言ったのは荒川憲二郎さん、田沢湖ジャズクラブの会長。時は1992
年盛岡の岩手教育会館で行われた穐吉敏子ジャズオーケストラのコンサートで彼女のオープニング曲「ロング・イエロー・ロード」を聴いたのちの言葉だった。 その彼、荒川さんにとって、40年来の夢だった、ジャズ喫茶「ケニー・トーン」(憲二郎の音)を自分の故郷、秋田県角館町のJR田沢湖線菅沢踏切近くに今年2022年にオープンした。僕も女房と連れたって開店の日に訪れてみたら、何と!店内は、穐吉敏子レコードギャラリーの如く、サイン入りのジャケットが壁にズラリ!オーディオは彼が自宅で使用していたものだが、広さが合ったのか、ガゼン本領発揮して素晴らしい音で鳴っていて嬉しくなった。 小中学校の先生だった彼が、生徒たちに教えて来たのは夢を持つことの大切さだった。「夢と聞くと何を想い浮かべるだろうか憧れの職業に就くこと、勝負に勝つこと、大金を手に入れる事。ただ何となく夢は若い時に追いかけるものというイメージがあった。それを覆してくれた人が居る」と報じた秋田魁新聞(8/23)。20代の頃から「いつかジャズ喫茶を開くのが夢、夢があるから仕事にも頑張れる。と言い続け、定年退職後に自分自身の長年の夢だったジャズ喫茶を始めたのだから、喜んで駆け付けた若者たちは皆教え子たちであった。新聞記事には、「師をと仰ぐ照井さんとの交流を続け自分もジャズの魅力を伝える立場になりたいとと考える様になった」と僕とのいきさつなども書かれてあり嬉し。振り返れば40年余りの交流である。夏休みに毎年10年通って1992年田沢湖邪頭倶楽部を立ち上げるまでの彼を主人公にした僕の小説?「瑠璃色の夜明け」はのちに東北近代文学事典に当選?して名前が載ったこともすでに懐かしい思い出ですが、彼が教え子から「ジャズってどんな音楽?」と聞かれ、どう答えていいか言葉につまりながらも、口を突いて出たのは「ジャズは感じるものである。音楽の枠(ジャンル)をも飛び越え心を刺激し振動させる何かだと思っている」は、30年前の彼の言葉。それを実践する第2の人生の幕開けに乾杯!!30年続けたジャズクラブにも乾杯!そして穐吉敏子ジャズミュージアムに乾杯!
10:49:00 -
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2023-07-08幸遊記NO.607 「興津諒の生食ファゴット」2022.9.13.盛岡タイムス
前回幸遊記(№606)「病院でのすごいベットシーン」の続編です。いよいよ待ちに待った?結果発表の日。9月8日がやって来ました。切除した膀胱腫瘍の病理組織検査、診断の説明は、患者とご家族一緒に!というので少し緊張しましたが、切除された乳頭状の美術品みたいに美しく淡いピンク色した腫瘍(ガン細胞)画像を見せられながら医師の口から出た言葉は「今日、今すぐ退院してもいいです!」だった。
嬉しかったけれども、とっさのことで「退院は明日にします!」と僕。退院すればメチャクチャやらなければならないことが待っているので一日ぐらいは晴々とした気分で、カーテンで仕切られた6人部屋の一人空間で自由な時間を満喫してみたい!が本音だった。入院前日「旨いもの一緒に食べよう!」と、親友のO夫妻に誘われお寿司屋さんで女房と一緒にご馳走になった。「入院中に読んで!」と、買っておいてくれた2冊の本、その1冊「笑いと治癒力」(ノーマンカズンズ著/松田銑・訳)岩波現代文庫をベットの上で読み過ごした。素晴らしい内容に感動しながらも笑い転げた。 そう、そのくすりッ!ニコッ!の「笑いこそは、戸外に出る必要のないジョギング。楽しい心は医師と同じ働きをするブラシーボ。ブラシーボとは生への意欲と肉体の間を結ぶ使者で各人の中に住んでいる医者なのだ」という。「精神的安静を勝ち得るための戦いに敗北という形で起こる心の中の過労、さばききれない程の何かが四方からやって来て感受性を飢餓におとしいれられる」いわゆるストレスによる、病。 「人は皆自分の内部に根本的道理の観念を持っていて、その観念が告げる善性に耳を傾けそれに従って行動する。自分になりきる勇気こそが必要なのだ」まさにそう。最高の一日だった。 入院中、10日間ものまったく音楽の無い生活?は初めての経験。退院して店に戻ったら、やって来たのが、関東からのファゴット奏者・興津諒さん(29才)。演奏会で盛岡に来ての帰り「穐吉敏子ミュージアム見に来ました」と彼。「まあだだよう~」と僕。彼は神奈川フィルを中心に活動し静岡交響楽団の首席客演奏者であったり、全日本アンサンブルコンテストの審査員であったりする人で洗足と桐朋両学園で音楽を勉強し、ファゴットは16才からだそうだが、僕の退院祝いにと、浜辺の歌や月の砂漠など数曲と高音から低音までの音階練習音まで聴かせて頂き、感激的な日となった真のブラシーボ。盛岡へは「プラスエクシード・トウキョウ」の演奏会で来たのだという。ありがとう感謝感激!!
10:48:00 -
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2023-07-07幸遊記NO.606 「盛岡日赤での凄いベットシーン」2022.9.7.盛岡タイムス
何てこったい!いつになく早々に書き送ったつもりでいた原稿。掲載前日電話があり届いていないとの事。女房に確かめたら「書いてないでしょ!書いたのは“穐吉ミュージアム”のことで、いつもの原稿は書く間もなく入院したでしょう」だった。あっ!そうか。タイムスさん、そして読者の皆様、本当に申し訳ありません。御免なさい。ポカしてしまいました。謝々。
さてここからは、その言い訳をしなければなりませんね。あれは7月30日、4回目のコロナワクチン接種を受けた翌日の朝、トイレに立ったら大量の血尿が出てビックリ。便器の水と尿だけでもかなりの量だが、色はどす黒い赤に染まり、しかも尿道が詰まってブッと(巨大?)膨らみ、バラバラッと勢いよく出たと思いきや、それはまるで真っ赤な小魚の様なものが何匹も飛び出してきたのには更にビックリ仰天!よく見れば魚の腹綿(内臓)みたいで、それは日に3度2日間途切れなく出て、一体僕はどうなるのだろうと只事ではない土日を過ごした。しかも10月4日にはバスセンターにオープンする「穐吉敏子ジャズミュージアム」の準備やら、11月11日に盛岡市民会館で開催する、親・子・孫の三世代による世界初演のコンサート「トシコズ・ドリーム」を控えて忙しい最中、頭が変になる。 月曜日、友人医師のすすめで泌尿器科のクリニックで尿検査をして頂き、そこから翌日に盛岡赤十字病院を紹介されて行き、超音波検査など受け、言い渡されたのは「90%以上、癌です!の膀胱腫瘍」。僕等世代の者にとって、ガン!は死への直行便のイメージが強いからガーン!と来るかと思ったら案外平気だった。手術するため2週間程入院が必要との事。 こんな時期にどうしようかと思ったが、先延ばしで良いことは無いと思い、“最短で!”と。血液、免疫、呼吸機能,膀胱カメラ、CT,MRI,X線撮影などなど様々な検査を受け8月31日入院。9月1日全身麻酔による「経尿道的膀胱腫瘍切除術」を受けた。経過は良好!と手術担当の岩崎一洋医師。あとは切除した組織の顕微鏡による病理診断の結果待ち(癌細胞の悪性度や浸潤度をしらべて)太、細2本の管を入れられ「生食」というなまめかしい液体を注入されている日々。こんなベットシーンもあるものなのですな。人生楽し!?
10:46:00 -
johnny -
2023-07-06幸遊記NO.605 「新堀勝康のギリシャ神話」2022.8.29.盛岡タイムス
今年ようやく展示会が岩手で開催なったので、久しぶりに盛岡へ来たよ。と顔を見せて3晩ジョニーへ通ってっくれた「農機新聞」「新エネルギー新聞」などの発行元、株・新農林社の岸田義典社長と、農機部品会社の人達が来店して、ドリスデイだ、エラフィッツジェラルドだと、LPはもちろん、SPレコードまで取り出して聴き、ワイワイやってるところに現れた、もう一人の東京人。新堀勝康さん(64)初来店。
ずーッと来たいと思っていましたが、やっと来ることが出来ましたと新堀さん。話を聞けばアルミ製品を作る会社の方で、穐吉敏子さんの大ファン。「出張多くコンサートを中々聴けないけれど、10年前(2012)東京オペラシティ・コンサートホールで聴き事が出来たし、トークも印象に残ってます」と言う。そこで確か僕等も行ったはず!とファイルを開けば、ありました。10月20日(土)、盛岡から11名、関東関西などから11名の計22名のジョニーファミリー(ファン)で聴きに行った「穐吉敏子カルテット」(穐吉p/ルータバキンts.fl/ポールギルb/アーロンキンメルds)。あの時は穐吉さんがTV番組「徹子の部屋」に出演していたのを見てチケットを買い、聴きに行けたのだったと。それから穐吉さんのレコードの話を聞けば、僕が未だ一度も見たことがない、1953年録音のデビュー盤「TOSHIKOS・PIANO」の10インチ(25㎝)LPをも持っているというのだった。ワーオッ! だが驚くのはまだ早かった。僕のレーベル「ジョニーズディスク」のレコード盤さえ何枚も持っていて、その中の1枚「海を見ていたジョニー」(1981年発売)を買った時の話。50回も出張で行ったていたギリシャ・アテネのレコード店で見つけ、なんでこのレコードがギリシャに?と思ったそうだ。その話を聞いて、僕はハタ!と想い出した。そうあれは94年、友達の奥様がヨーロッパ1周旅行2人分半額のチケットが当たって、奥様(3・11の津波で二人共亡くなられた)の代わりに友と僕が一緒にギリシャ、イタリア、フランスを回った時、僕が制作した「海を見ていたジョニー」を持参し、アテネのレコード店に行き、店に飾って置いてくれと、頼んできたレコードであるに違いない!と、確信を持った。それがなんと10年後に日本に、しかも根っからの穐吉敏子ファンに抱かれて、密かに再び海を渡り日本に舞い戻っていたのですから、驚き、桃の木、山椒の木!でした。ドントハレ
10:44:00 -
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2023-07-05幸遊記NO.604 「來田忍の一戸商品開発」2022.8.22.盛岡タイムス
「店やってますか?」とマスクの上の目が笑っていた。アレッ來田君?と僕。すかさず女房に「小春!來田君ご來田(来店)だよ!」で何年振りの話に花咲くカデンツァ。今何してんのと問えば「一戸町の役場職員、商工観光課で商品開発やってます」だった。一戸町の売りは何?「牛乳系とレタスにトウモロコシ。それにスズタケを使った鳥越の竹細工(都心で人気)。これをちゃんとした価格にしたいし、観光としては、昔の映画館「萬代館」の利活用と「御所野遺跡」ですね。とニッコリ。
萬代館には行ったなあ。御所野は平成元年(1989)発掘調査によって出て来た縄文遺跡。200棟もの竪穴住居跡など見つかり遺跡として保存活用すると決まった1991年から、ちょうど30年の2021年世界遺産登録まで持っていった取り組みの凄さ。僕は來田君に御所野は有名になったが一戸町はさほどではない。竪穴住居の“戸建”こそ“戸籍”の始まり、いわゆる世帯(所帯)一戸の始まり。だから「日本の家屋、始原の町一戸町!(御所野遺跡)と、うたえば、連鎖で町も遺跡も世界遺産もパッと人々の頭に浮かびあがるんじゃないかな?!」といったら、冗談とも本気ともとれるような真顔になって「おれ町長に立候補する!その時は応援のマイク持ってくれますか?」と言ってほろ酔いで帰って行った。もしかして、もしかしたりして、と思いながら見送りました。 彼、來田忍さん(38)は一戸町生まれ、岩手大学工学部福祉システム工学科と大学院を卒業。在学中GHK(岩大放送研究部)に所属し、当時僕が担当していたFM岩手のオールザットジャズ番組を聴き、TVでも見ましたと僕の店にやって来て、学生たちのライブや穐吉敏子さんのライブを見聞し、僕をGHKスタジオにゲストとして迎え、レゲエやロックのあとで「ライデング・サン・ジャズ・コーナー」ゼロ回目という、いわゆる放送用試験番組を制作。僕の音楽歴の始まりから穐吉敏子ファンになるまで、なってからのことまでインタビューされたそれは「ジャジー・ドリーム・サウンド・ステーション」と名付けられ「ラヂオもりおか」で放送されたのは20年ほど前の2003年。エンディングで番組担当の女子大生たちが「ジャズのゲストにビックリしました。凄いことをやる人(穐吉敏子ジャズオーケストラ・日本ツアープロデュース)だけど、おもしろかったね!」のコメントは嬉しかったので今も覚えています。ありがとう!この一葉の便り届いたとステップしながら舞子さん連れて又ご來田下さい。
10:43:00 -
johnny -
2023-07-04幸遊記NO.603 「大森荘蔵の音でさわりあう哲学」2022.8.15.盛岡タイムス
前回602幸遊記のおしまいに穐吉敏子さんが興味を持って勉強したいと思ったバークリー音楽院への留学の第一目的はシュリンガーシステムという音楽理論だったと書いた。音楽理論とは音楽が先で、それを理論付けたものであることから、常に変化するものでもある。ところが、シュリンガーは変わらない理論。音楽的アプローチではなく科学的数学的立場から書かれたもので、穐吉さんの言葉を借りれば「これと、これと、これと、ナンバーをこういうう風に使うとこんなリズムになります。それをこういうう風に変えるとこんなになります。それを今度は直ちに聴いてみることによって、以前、聴いてなかったものが、それによって聴けるという、、、、そういう可能性があるんです。で、私ちょっと面白いかなと思って勉強したんです」。他には作、編曲、オーケストレーションを学び、バークリーレコード(ジャズ・イン・ザ・クラスルーム)のVol.1(1957)ではそれこそ科学的タイトル?音の残像?ともいえる「シルエット」を作曲。Vol.2には「マイエレジー」が収録されている。
バークリー音楽院はもともと、ジョセフ・シュリンガー博士という人が自分で考えだしたシステムを教える学校から始まっていて、創立は1945年、‘70年に大学となった。そのバークリー日本人第1号が穐吉さん。2人目が穐吉さんの推薦で入学した渡辺貞夫さん。というのが日本での定説。ところが、僕の店で演奏した竹中真さんというジャズピアニストは、かつてそのバークリーで日本人第1号の教授だった方。その彼によると、学校で古い資料を見ていたら、穐吉さんの次、渡辺貞夫さんより先に入学した日本人(東京大森出身?の人?)が居たというのだった。とっさに僕は、誰?日本、特にジャズ界では誰も知らないことだから、トピックスになる、と、来演の度に問いましたが、どうしても思い出せないということから、捜しに探し求めた結果それは大森荘蔵氏(哲学者・東大名誉教授・1921~1997)ではないかという推論(結論)に至った!それは彼の「直感的にある考えが正しいと思ったら徹底的にやってみる」の、それだが「やりすぎなければ革命は出来ない」そう僕等の若き頃は誰もが皆、そう思っていた。「体をさわりあうのと同じように声でさわりあう」はまさに哲学者にして音楽愛好者であった彼の名言!おもわずうっとりとしてしまいます。「音楽の音に限らず、音というものは哲学にとって密接な関係を持っている。音は感覚の本性である“無常性”を最も鮮やかに示す感覚である」と、音楽的。嗚呼ジャズも大きな森である。
10:40:00 -
johnny -
2023-07-03幸遊記NO.602 「三冠女王のHERO BOOKS」2022.8.8.盛岡タイムス
7月の末だった。主人から頼まれて来ました!と、たかはし・ちずさんが1冊の本を届けに来てくれた。「ロング・イエロー・ロード」(ジャズ三冠王の長い道のり----秋吉敏子)本多俊夫著、一光社、1984年発行である。この本実は発売と同時に買い読んだものであったが、すでに中味の記憶はあいまいで、それこそ離婚で失い、3・11の津波で海へ流失。以来10年探し求めさ迷い歩き、ネット上でも探してもらってもいたが、遂ぞ今まで見つけることが出来ず仕舞いでいた。嗚呼!ありがとう!
ちずさんのご主人は、ザ・サンライズマン。彼はこれまでにも、様々なそれこそ1950年代にまでさかのぼっては、穐吉敏子さんに関する資料を見つけて来ては「これはこれは」と僕を喜ばし続けている日出ずる国の男。 さてその本「日本女性がジャズの三冠王に」「ジャズとは何か」「秋吉敏子の音楽人生」「穐吉敏子ディスコグラフィ」の4章からなる200ページ。ジャズの三冠王はエイリアン。ジャズにとってわたしは何か、を考えた。誤解されているジャズ。レコードを聴きまくってジャズを仕入れた時代。アメリカへ留学。一流奏者との交流。結婚、出産、離婚。三冠女王の秘密。などなど40項目からなるインタビューを交えた本だが、著者・本多俊夫氏は若かりし頃はプロのジャズベーシスト。のちの評論家でジャズ番組のDJでもあった。(1929~2002) 知ってはいてもちょっと僕の気を引いたのは敏子さんの姉・美代子さん(本の中では三千代の表記)が語った「敏子がピアノを始めたのは母の影響が強かった。母は大の音楽好きで長唄からクラシックと幅が広かった。だから家には各分野のレコードがいっぱいあったし、父は謡曲をたしなみ戦後はそれで生計立てた」と。 「自分は長唄と三味線を得意としていたが、敏子は私よりラジオで長唄を熱心に聴き、私の踊りを見て覚え、学校で踊ったと先生から聞いて、母もビックリ、とにかく負けん気のつよい子でした」と。その敏子さんがバークリーで勉強したいと思ったのはシュリンガーシステムという音楽理論。それも科学的、数学的立場からの理論で音楽的アプローチからではない理論とオーケストレーションを勉強し、4年の行程を3年で卒業していた凄さでした。その彼女を評論家の行田よしおさんは「真の意味でこころざし高き人、不断の努力と不屈の精神とで今日を築かれた」とありました。
10:38:00 -
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2023-07-02幸遊記NO.601 「NYCのオールアバウトジャズ」2022.8.1.盛岡タイムス
ニューヨークのジャズシーンを伝える月刊誌「オール・アバウト・ジャズ」(www.all.aboutjazz.com)7/21(2022)発行に、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの娘・マンデイ・ミチル(歌手・フルート奏者)のロングインタビュー記事が載った。
オール・アバウト・ジャズといえば、浮かんでくるのは、穐吉さんが表紙を飾った2009年4月号(穐吉さんが僕に送ってくれた)。それはさておき、マンデイさんは、穐吉さんと前夫・チャーリーマリアーノ(サックス奏者)との間に1963年8月19日、東京で生まれ、アメリカで育った。インターロッケン芸術アカデミーにて奨学生として学び、フルート、ボーカル、作曲をやり、フルーティストとしては80年にレコードデビュー。87年、映画「光る女」に出演し日本映画アカデミー最優秀新人女優賞を受賞。91年「満月」で歌手デビュー。のち「ジャズとは何か」について数十人の有名アーチストへのインタビュー。その1人、ウェインショーター(サックス奏者・1933~)は「タブーはありません」と答え、そこから、彼女は「自分の人生にアプローチする」という実験と試行錯誤を繰り返し、本能的な歌詞の書き方から深い思考や感情を解き放つ方法、スリムなアンサンブルや作曲に重点を置くなど、自分の心の中で感じたことを自分のために反映させることが重要と、音楽の方向性や制作などで、世界をリード。「全て行うことを恐れない女性を代表することを願っている」とあり、アシッドジャズのパイオニアだが「私は振り返って私の最高の日が私の後ろ(過去)にあるのは好きではありません」はまさに母・穐吉敏子さんからのDNA。 そして又「私にとって最も重要なことは、リスナーの耳を教育することです。米国では学校はじめ、多くの管理者が、音楽と芸術の真の重要性を理解していないため、音楽と全体的な文化教育が十分ではありません。でもリスナー(音楽鑑賞者・聴衆)の耳だけはジャズにもっと調和している必要があります」と。 そして歴史上の誰れかと夕食をとることが出来るとしたら?の問いには「双葉山(1912 ~1968本名・穐吉定次)。彼は日本の偉大な力士(69連勝の記録保持者)であり人物の1人。たまたま私の母の父のいとこでした。彼は哲学者であり詩人でもあり、私のルーツの1つとして、彼に会いたかったのだと私は理解しています」。今年秋に盛岡にオープンする母のミュージアム(穐吉敏子ジャズミュージアム)と、そのコンサートにもふれておりました。ありがとう。
10:37:00 -
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2023-07-01幸遊記NO.600 「紫波自醸ワインの2007年白」2022.7.24.盛岡タイムス
紫波町にある野村胡堂・あらえびす記念館・協力会というNPO法人の理事長・野村晴一さんから電話を頂き、ご自宅におじゃまして来ました。最初に出迎えてくれたのは犬のまる。僕もまるで犬のようなケンだから、仲良くしようといったら、お座りし、お手!までしてくれた。はいよケンケンするかいと僕。
そこへ野村さん出て来て、これ持って行ってと差し出したのは、箱に入った10本のワイン。ラベルを見れば、なんと!14年前の2008年7月20日あらえびす記念館で行われたジャズコンサート「穐吉敏子ピアノトリオ」の記念ボトル(NYの穐吉さん宅には今も空びんが飾られています)。当時出来て間もない紫波フルーツパークが自醸したミュラートゥルガウ2007の辛口。ずっと蔵の中で寝せておいたのだという。 僕の頭は一気にあの日のコンサート終了後の打ち上げ光景に戻って行った。穐吉さんのあの一言「なんでこんなにマズイワインをつくったのかしら。ブドーが若いから、ジュースの方がよっぽどおいしかったんじゃない」は、強烈な印象となって居合わせた人々の耳に突き刺さった。それでも若い時に(胡堂の)銭形平次をよく読んでいたという穐吉さんは、いつか美味しいワインが出来たら送ってください!と、ワインのネーミングを考えて下さる約束までしてくれたのでしたから、皆の喜びようは凄かったし、当時町長だった藤原孝氏が感謝を込めて穐吉さんと嬉しそうにワイン談義していた姿まで浮かんで来る。 頂いて来たそのお墨付き?のワイン。開運橋のジョニーで密かに1本栓を開け、1人で飲んでみた。結果は?って!一口目はあのイメージ。だがなんと二口目、三口目、1杯、2杯と、口にする度少しずつ美味しさがアップするスッキリ感。飲み飽きず、気が付いたら1本空いていました。土蔵という貯蔵環境の良さに脱帽!ああ旨かった。 それこそ野村晴一さんは胡堂さんの弟孫にあたる方で奥様共々人柄最良、館長時代の2000年代から2010年代、僕は毎日の様に記念館に足を運び、とてもお世話になりました。この幸遊記の顔写真は、本紙盛岡タイムスさんに撮って頂いたもので、記念館で開いて頂いた僕の書展(2006年5月)「音楽の基本リズムはコドウです」の時のもの。そして胡堂百話に習い、穐吉百話「トシコズドリーム」(2009.1~2012.12)をこの幸遊記以前に百回書かせて頂いたのでしたが、読み直したら“とてもマズイ”文章でした、今はどうなのだろうか?誰かご感想をお聞かせ下さい?(週一連載700回記念に)
10:35:00 -
johnny -
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