盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します
携帯写真より

■□■ 最新の写真 ■□■
ベランダ便り[06/20]
音が出ました❗[06/06]

[全ての写真を見る]

サイト内検索

レポート

2023-06-30

幸遊記NO.599 「高木元輝のグロー・1985」2022.7.18.盛岡タイムス

 フリージャズ・サックスのパイオニア・高木元輝こと、李(LEE)元輝(WONHUI・1938~2002)さんの特集本「アートクロッシング・第3号2022」が、山口県防府市新田1863の「ちゃぷちゃぷレコード」から、この6月1日発売なりました。と、僕のところに持参し、プレゼントしてくれた金野吉晃さん。彼は、盛岡在住のフリースタイルミュージシャンであり、海外レーベルを含め、多数のCDを発表してきた人で、この本にはリーさんのレコード「グロー」について自分も書いているというのでした。
 182ページからなるその150~153ページに「海を見ていたウォンヒー」金野ONNYK吉晃として、1985年に僕がプロデュースした、李さんと菊池コージさんのジョニーズ・ディスク(JD-13)について、金野さんから僕がインタビューを受けた(2018)の話が載っておりました。「私(吉晃)の父の実家が、陸前高田の「ジョニー」から500メートルも離れていなかった。叔父夫婦が経営していたその薬局に泊まりに行けば夜は必ず「ジョニー」で酔仙の「亀」や「鴎」という焼酎を飲みながら店主自慢のオーディオでジャズを聴くのが楽しみだったで始まる文章。
 在日韓国人2世として京都に生まれた高木元輝さん。祖父は書道家。父は在日朝鮮人の代筆師として日本に来た人で、元輝さんはその4男2女の5番目。中学でクラリネット、高校でサックスを始め、吉沢潤クールキャッツでプロデビュー。ビッグバンドで活躍後、フリーの吉沢元治(b)富樫雅彦(ds)高柳昌行(g)加古隆p)等々他多くのヨーロッパフリーミュージシャンと共演し、日本人として最初にフランスの世界ジャズ人名辞典に載った人。
 その高木元輝さんが僕の店で演奏し始めたのは1981年から。毎年様々な演奏者と来演。そのフリー演奏は音楽を超越した別次元へと吹き進む彼独特の垂直音。だがその曲の終わり頃に、えも言われぬ美しい音を出す。その一瞬の音で、出来るだけシンプルに普通に演って頂けませんか?で“OK”を貰い、録音。A面をソプラノとテナーのサックスソロ。B面をドラムとのデュオ。スタイルは水と油だがそれを交叉させるレコード作り。李さんは気に入らない様子でしたが、その音をアメリカツアーにまで持参して聴いたという。後に東京で会った時、彼は「照井さん、だんだんあの演奏が好きになってきました」と言ってニヤッと笑った、まるで少年の様ないい笑顔は、今も忘れられない。そういえば「露天風呂に入って聴いているみたいな音楽だ」と言った人がいたっけ!
10:33:00 - johnny -

2023-06-29

幸遊記NO.598 「音を探求する許浄若」2022.7.11.盛岡タイムス

 只今(2022)公開募集中の「穐吉敏子ジャズミュージアムのクラウドファンディング締切の7月31日前に、日本語と英語版の記事を公開したいと思っておりますので、可能であればオンラインで1時間半程度ジョニーさんにお話を伺ってもよろしいでしょうか?大変忙しい中、ご検討の程よろしくお願い致します」のメールをくれたのは、サウンドジャーナリズム「HEU」の許浄若(きょ・じょうじゃく)さん(26・台湾出身)。
 彼女は2013年に日本の文化を知りたい!そのために、とりあえず日本語を勉強しなければと来日したが、日本語はとてもむずかしく、単語だけの会話しか出来ずにいたら尊敬していた編集者から首を言い渡され落ち込んだけれど、それが逆に自分のエネルギーとなって、音の世界に飛び込んだのだと。名刺には「音を追求する」とあるが、本当は「追求ではなく探求する」でした!と、笑う。今はイヤホンをつくる会社に勤務しながら、音のジャーナリストになるべく、早朝に起きて、本を読み、調べては文章を書く。でも、2年前までは全然何も書けなかったですが、と言いつつも「記録するのが好きなので感じたままに記録したい」と、音に関する事々についてのリサーチの毎日という。
 そこで標的となったのが僕!?昨年、今年と来盛しては、ジャズについて、音について、そして穐吉敏子さんについて色々と質問し、記念写真に納まり帰った後、よく僕のCD“般若心経”を聴いているという。それは「私の名前の浄若は、この般若心経からの字ですから」と。たしかに!そしてこちらから送る紙に音を表す字を、或いは絵を書いて送り返して下さいませんか?。切手を貼った封筒も入れておきます。との事。
 オンラインでの質問は「48年前初めて穐吉さんの“孤軍”を聴いた時、何が心に何が引っかかったのでしょうか?」「ジャズに日本の要素など取り入れるにあたって穐吉さんの背を押したのは何だったのでしょうか?」「照井さんが感動した穐吉さんのコンサートについて」「夢の実現にあたって最も困難だったことは何?」「店の赤字がピークに達しても続けようとしたものは何でしょうか?」「穐吉さんの音楽をとことん探求した中で気づき学んだことは何?その醍醐味も教えて下さい」「人生の生き方全てを穐吉さんに教わったと、それについておしえていただけますか?また穐吉さんに共感したことは何でしょう」等々に脱線しながら、ことばあそびを交えての楽しいひとときでした。ありがとう。お陰様で僕も少し浄若なった様な気分でした。拝
10:31:00 - johnny -

2023-06-28

幸遊記NO.597 「葛城ユキの哀愁夜」2022.7.4.盛岡タイムス

 「ボヘミアン」の大ヒット曲で知られた歌手・葛城ユキ(本名・田中小夜子)さん(73)が腹膜癌で6月27日(2022)に亡くなった。入院したことをネットで知ったのは昨年。気になっていたが、やっぱり彼女でも駄目だったのか。それでも、今年4月1年ぶりに車椅子で「夢コンサート」に出演し、あのベッドミドラーの「ザ・ローズ」を自らのラスト曲として歌唱し去って行ったというニュースに接し、彼女らしいなあ、と僕は思った。
1979年のアメリカ映画「ザ・ローズ」の主題歌、ミドラーの迫真の名演技やローズのコンサートシーン、マネージャーとの決別、恋人との別離、母親への電話のシーンなど鮮烈に蘇って来る程、凄い映画だったなと、僕は僕で葛城ユキの「哀愁夜」を聴きながら、想い出している。「Ladyマニュキアの爪を磨いてcrazy乱れそな心鎮めてあふれる逢いたさを唇でひきちぎる」(竹花いち子詞)
葛城ユキさんは岡山県高梁市の散髪屋に五人兄弟の末っ子として生まれ「子供のころから歌が好き、いつも鏡の前で大人の歌ばっかり唄っていたの。童謡とか学校の歌とかつまんなくて、絶対歌手になる!て決めていたんです」。
運動も得意、陸上とバレーで倉敷翠松高校特待生、寮生活しながら国体や全国大会にはキャプテンでエースアタッカーとして出場。実業団からスカウトされ入団したもののやっぱり歌をやりたいと夜逃げ!?大阪の歌謡学校へ。ポプコンオーディションのテープを耳にしたヤマハの会長が探して来いとで!ポプコンはもちろん、世界歌謡祭で審査員特別賞。ポピュラーソングコンテストで最優秀賞に輝きメジャーデビューを飾ったのがあの「ボヘミアン」。「一夜に燃え落ちて甘い夢見て狂おしく抱きしめたあなた旅人、ボヘミアン恋の矢の痛みに嘆くあなたの愛が今もぬけない」(飛鳥涼・詞)
以来「千年愛して」と、熱く「激しい夜」のステージを駆け巡った女性「ランナー」。「哀しみのオーシャン」でロックの女王と呼ばれた‘80年。日本人女性として初の中国公演を成功させた‘86年。’03年には人間ロケット体験までした野生動物的感覚の持ち主でした。「唄は全身全霊でハートを込め、優しい気持ちで、聴いてる人を愛し、うたってあげようという思いが反映されて自然体のいい唄になるの」と、僕に話してくれたっけ。嗚呼!あれからすでに33年。今は「遠い絆」の歌が聴こえて来る(力を歌にoh Help me 漂う難民にひとかけらのパンもない、、、、、)。
10:30:00 - johnny -

2023-06-27

幸遊記NO.596 「戦争はいらないという希望」2022.6.27.盛岡タイムス

 2019年9月、女房が捨てた古いタブレットを拾い遊んでいたら、ジョニー照井顯という自分のフェースブックが出来上がって、以来今も時折様々な写真にコメントをくっつけてアップし続けている僕。最初の投稿は、ヨーロッパを処点に活躍するジャズピアニスト・高瀬アキさん、その弟さんが開運橋のジョニーに来た時二人で撮った記念写真。その彼6月(2022)再来してくれて、それこそアキさんのCD「イズント・イット・ロマンティック?」(2020年8月ブタペスト・BMCスタジオ録音)をプレゼントされ毎日聴き入っている僕。
 高瀬アキさんと言えばで想い出したのは1982年のこと。ジャズ喫茶ジョニーで、高瀬さんとベースの池田芳夫さんがデュオライブした3月5日。あの日確か週刊誌の取材もあったなあと想い出し、衆議院会館に勤務する友に、その記事探しを頼んでみたら、国立国会図書館で見つけましたと2020年3月コピーを送ってくれました。
 そのコピー「1982年7月3日号週刊宝石」8ページにわたって紹介された写真と記事は「日本のジャズにこだわり続ける男の物語」(ローカルジャズ発掘伝。三陸ジャズ魂は燃えている。日本のジャズシーンを撃つ。ジャズと五木寛之。縄文ジャズが聞こえる。ジョニー流オーディオ術)などの見出し。見開きページには高瀬アキさんが、ピアノを弾くライブシーンの写真もありましたので、そのコピーをそれこそ弟さんにもお渡ししました。
 それはそうと、その彼が差し出したもう一つの手土産。それがなんと「穐吉敏子さんが表紙の英語と日本語のジャズマガジン「JAZZNiN(ジャズ人)」2005年4月号」(穐吉敏子インタビュー特集)だったのでビックリ。しかも僕は初めて目にした本でしたから、超嬉しい。更に、今は亡き松坂妃呂子さん(ジャズ批評誌・オーナー編集長)の記事もあり、感謝2倍。ありがとう!高瀬さん。
 その記事の頭で、インタビュア・ミッシェルプロンコ氏は「全ジャズ界で最も革新的な穐吉の50年間にわたる仕事は批評家の称賛を浴び、不動の人気を博して来た。しかし彼女が“公”に認められたのは、ほんの昨年(2004)10月「国際交流基金賞」である。アメリカのジャズ語法に日本の音楽的影響と文化テーマをもたらし、二つの文化の架け橋になった」というものだったと。そこで穐吉さんが強く語っていたのは、「ジャズはソーシャルアートですから、世界に向かって戦争はいらないと言いたいのです。戦争には何一ついいことはありません。私たちはこのことを言い続け、希望を持ち続けなければなりません」とありました。
10:29:00 - johnny -

2023-06-26

幸遊記NO.595 「ケンちゃんからケンちゃんへの手紙」2022.6.20.盛岡タイムス

 このタイトルは1980年9月号・スイングジャーナルの連載記事「日本ジャズ風土記」(第7回陸前高田編)に掲載なった手紙文の見出しでありジャズ評論家の藤井健夫氏が僕に宛てたものでした。地方復権の狼煙として僕が‘78年から始めたレコードレーベル「ジョニーズディスク」の第一弾だった中山英二(b)のファーストアルバム「アヤのサンバ」をリリースした時「求めたい!」とハガキを送ってくれた唯一のジャズ評論家が彼でした。当時僕にとって評論家たちは雲の上の人達でしたから、コーフンしたものでした。
 そして80年6月世界の穐吉敏子トリオを陸前高田に迎えるにあたって「店の壁面には、穐吉さんのレコードジャケットによるディスコグラフィを飾り、ロングイエローロードと書かれた黄色いテープ。それはダウンビート誌国際批評家投票2年連続首位に輝く穐吉さんの渡米以来20年の苦闘を物語るとともに日本のジャズの長い道であり、ケンちゃんの誇りでもあり日本人のレコードを専門にかけレコードまでつくっているジャズ喫茶は本邦只一店」と当時の同誌大熊隆文編集長の記事文。
 そのスイングジャーナル誌がトリオレコードと共催した「キースジャレット(p)ソロの世界」のジャズ懸賞論文の募集に応募した藤井健夫(当時32才、日本興業銀行勤務)が最終選考10名の中に残り、見事、最優秀賞を受賞し、評論家としての確固たる地位を築いたのは‘74年のこと(75年1月号)。論文の対象となった「キースジャレット・ソロコンサート(3枚組・’73年録音、ECMレコード)」この解説の中でキース自身「音楽が全てを語っている。付け加えるべき言葉は何もない。今まで作られたことのない種類の音楽であり、やがて一般化されることが望ましい音楽」と。
 健夫さんは「ジャズサークルの人達のみならず、より広い音楽愛好家に受け入れられる可能性を示すものであり、“ジャズの大衆化”という古くて新しい問題の進展にきっかけを与え、人々の心に何物かを残すに違いないと私は確信している」とした。のちの「ケルンコンサート」や「サンベアコンサート」は真にその実証であり、キースの時代を築いたのですから、まさに彼・健さんの予言とも言えた。
 2003年僕が原宿で「写心展」を開いた時には見に来てくれて、二人で写真に納まった日の優しいお顔に2度惚れした僕。今秋(2022)オープンする穐吉敏子ジャズミュージアムへご寄付して下さった後「3月18日残念ながら夫は80才で帰天いたしました」と、治子奥様からのメール。嗚呼。ケンちゃん!
10:27:00 - johnny -

2023-06-25

幸遊記NO.594 「現代歌人協会の土岐友浩」2022.6.12.盛岡タイムス

 5月(2022)の連休に京都からの若者が店に現れた。初めての東北旅行で盛岡へ来たのだという。何か聴きたいレコードある?と訊ねてみたら「バドパウエルをお願いします」(若き日の穐吉敏子さんが憧れたピアニスト)だった。話を聞けば短歌をやっている人で、それこそ啄木気分で盛岡城跡にのぼり寝転び「空に吸われし十五の心」を呟いて見たかったそうだが、あの日はあいにくの雨。そこで彼は思い立って目指したのが北上川の開運橋と、ジョニーだったと言う訳。短歌なら「北宴」、啄木なら「啄木遺骨の行方」などいかがと言いながら何冊かの本を並べ見せたりした僕。彼は帰り際に「一首詠みます。紙とペンを貸して下さいませんか?」と言って書いたのが「春雨は、開運橋に降りそそぐ ジョニーと呼べば、みなが振り向く」。僕は嬉しくなってすぐさま筆と半紙を取り出し例によって左手でその短歌をしたため彼に持たせたのでした(フェイスブックにアップ)。
 そして一ヶ月が過ぎたこの6月、一通の封書が彼から届いた。「旅から戻って”海を見ていたジョニー“(CD)を何度も聴きました。あいにくの雨でしたが、そのお陰であの日紛れもない名盤と貴店に出会えたことを思うと幸運なめぐり合わせでした」と。更に「僕が所属する”現代歌人協会“のホームページに、この想い出話を聞いて貰おうと書かせて頂きましたのでアクセスして御笑覧下さい」と、そのコピー。
 会員エッセイ(第9回)「開運橋のジョニー」土岐友浩。とありました。短歌もさることながら、その文章もなかなかのカッコ良さで、あの日の彼と僕の事「春雨は開運橋に降りそそぐ」と上句をかいたあとはジョニーだ。「ジョニーと呼べばきみは微えむ」はどうだろう。「きみは振り向く」は?と2,3の下句を思い浮かべた後、これだ!と感じた一首「“みなが振り向く”を笑顔とダジャレを絶やさない好々爺(僕)に献上した」とある。
 その土岐さんが会員の「一般社団法人・現代歌人協会は1956年(昭和31)1月62名の発起人に始まり、現在は900余名の会員を有する職能的性格を持つ団体。現理事長は1954年生まれの栗木京子氏。京都大学理学部時代から歌を詠み、読売文学賞、毎日芸術賞などの受賞者で「観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)私には一生(ひとよ)」が代表作。土岐友浩さんは1982年愛知生まれ。京都大医学部卒の精神科医。歌集「Bootieg」「僕は行くよ」がある、「西瓜」同人。僕は「ああおなかスイカ!滝沢西瓜の季節まもなく」と言いながら、一人、土岐英史(ss.as)の暖かなJAZZ「Toki」(TBM-46)を聴いています。
10:25:00 - johnny -

2023-06-24

幸遊記NO.593 「ミュージアム・West 38」2022.6.6.盛岡タイムス

 今秋落成の新盛岡バスセンター3階に設置なる「穐吉敏子ジャズミュージアム」に関連する店の名が「Cafe Bar・West38」に決まった。ウエストと書けば腰回りの事をすぐ想像してしまうのですが、それはウェスト(waist)。Westは説明するまでもなく、と言いながら説明しようとしている僕。バスセンター3階に出来るホテルのロビーと中庭をニューヨークのセントラルパークに見立てればそのすぐ西側に位置する穐吉敏子さん宅の様にジャズルーム(敏子の部屋)を設(しつら)え、ロビーの西側には38という店(まるでシャレのような偶然!必然?)。
 そこで皆さん“38”は?となる。ホテル内だけに蜜峰!なんて想像する方もいらっしゃるかもしれませんが、実は違いますとも言えません。かつて東京葛飾区金町に「ジャズスポット・38」という店がありました。店主の故・早井敏成さん(僕よりずーっと先輩)が、かつて僕の店があった陸前高田にやって来たのは丁度30年前の‘92年5月。戻るとすぐに手紙が届いた。「曽々念願の貴店を訪問出来、本当に幸せでした。帰りにベイシーにも立ち寄り、多々貴重なお話を伺うことが出来ました。ジョニーには今後何度も何度も訪ねて見たいと思います」という内容でした。
 そして‘96年10月品川のホテルで開催された「穐吉敏子ジャズ生活50周年を祝う会」に出席した時の事、あの「ニュース23」でお馴染みだった筑紫哲也氏、ジャズ評論家の油井正一氏、児山紀芳氏、オーディオ評論家の江川三郎氏、ジャズドラマー・ジョージ川口氏等が挨拶に立ち、そして穐吉・ルーご夫妻が立つと、どこからともなく、それこそミツバチの如く背を丸め、屈みながら舞台に近づいて行き、しゃがみ込んだままじっと見入っていた人。それが38のマスター早井敏成さんだった。
 その姿見て僕は、彼も又穐吉さんと同じ満州からの引揚者、彼女のジャズに魅せられ憧れ続けてきた人なのだと察し、いつか彼の店で穐吉さんに演奏して貰おうと思い、それは2001年10月4日に実現したのでした。店には立すいの余地もなくぎっしりの人々。「穐吉さんをお迎えすることの重さをひしひしと痛感する日々を送っております」「実行委員会作りました」「お陰様で店はようやく一流になれました」「感動のあの一日は永久に忘れることが出来ません」でした。その38は偶然にも穐吉さん宅の地番「West38」と一緒だったし、早井さんの店は三丁目の助六(6)ビル二(2)階(いわゆる38?)でした。ドントハレ!。
10:24:00 - johnny -

2023-06-23

幸遊記NO.592 「クラウドファンディングのスタート」2022.5.30.盛岡タイムス

 昨2021年7月設立なった「特定非営利活動法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」は、只今建設中の盛岡バスセンター3階に出来る「ホテル・マザリウム」のロビーに、今秋の11月3日オープン致します。昨秋よりご寄付の呼び掛けをしてまいりましたし、又、今春2022年5月24日より、ミュージアム設置とコンサート資金となるようクラウドファンディングがスタート致しました。(https://camp-fire.jp/projects/view/569184)
穐吉敏子(あきよしとしこ・1929年12月12日満州生まれ。NY在住の現役最長老のジャズピアニスト・作・編曲家)グラミー賞にノミネートされること14回。1980年DB誌・国際批評家投票並びにファン投票に於、作曲・編曲・ビッグバンドの3部門で世界の頂点に立ち、‘81年NYジャズ賞。’86年ニューヨーク100周年自由の女神賞。‘99年国際ジャズ名声の殿堂入り。’04年ウーマンジャズ賞。’06年米国最高名誉NEA(米国立芸術基金)ジャズマスター賞。JFKS(米国立ケネディセンター)ジャズの生きた伝説賞。‘18年米AA財団ジャズの生きた遺産賞。などなどを受賞。日本に於SJ誌ジャズディスク大賞の金賞、銀賞、特別賞。南里賞。(‘97年)紫綬褒章。’99年横浜文化賞。‘00年東京都知事文化賞。’02年NY日本商工会議所栄誉賞。‘04年旭日小授章。‘05年朝日賞。’13年NHK放送文化賞等々沢山の受賞歴。
 それらの中からアカデミー賞ノミネーション盾などはじめ、その他諸々数十点も盛岡に頂戴しているとき、穐吉さんが「2~3日前に、石塚さんがお亡くなりになったそうです」と言った。その石塚(孝夫)さんとは「オールアート・プロモーション」という海外からの呼び屋さんで、かつて穐吉さんのオーケストラを日本に呼んでくれていた方。僕も何度かお世話になった。
その最初が1984年の「穐吉敏子・ニューヨーク・ジャズ・ビッグ・バンド」。当時のジョニー後援会長だった医師の鵜浦喜八氏は「陸前高田市にとっては、かつてない大事件であり、市民が世界の檜舞台に進出したことを意味する、この上ない栄誉」と歓迎のことば。今度、ミュージアムになる横浜「ちぐさ」の吉田衛氏は「こういう方(穐吉さん)が日本から生まれたこと、そして多少なりともこの方と知り合ったことを誇りに思う」。そして石塚孝夫さんは、「北海道、東北で唯一、このビッグバンドを呼ぶ皆様のパワーには、只々驚くばかりです」。そう言ってくれたことが、今日へと続く力(パワー)の源的一言となったのでした。
10:23:00 - johnny -

2023-06-22

幸遊記NO.591 「デュークと穐吉のジャズファン」2022.5.23.盛岡タイムス

 48年前の1974年5月24日。アメリカの産んだ偉大な音楽家ジャズピアニスト、作編曲家、ビッグバンドリーダー・デュークエリントン(エドワードケネディ・エリントン)が亡くなった。実はその2日前、今にして思えば、まるで彼のバトンを受け継ぐかの様に、作編曲、ビッグバンドリーダーとしてジャズピアニスト・穐吉敏子さんがアメリカロスアンゼルスにて、デビューコンサートを開いたのでした。それに先立ち4月にはその「秋吉敏子・ルータバキン・ビッグバンド」の初レコーディングが成された。それは以後30年続くことになったデュークのような前人未踏のオリジナル曲奏オーケストラ。
 そのレコードこそは初めて穐吉さんの音楽と出合い今日へと続く僕の穐吉敏子への旅の物語の始まりとなった「孤軍」だった。その74年デューク亡くなった時、穐吉さんは「さよならデューク・エリントン」という手記をスイングジャーナルのイヤーブック「‘75モダンジャズ読本」に寄せている(“終末から”第8号、筑摩書房からの転載)。その文中「ディズニーにデュークが出演しているというので出かけた時、テナーのポールゴンザルヴェス(おじいさん)がステージから私の顔を見つけ近づいて来てよろめきながら演奏し続けた。彼のその動作で私を見届けたデュークは、曲が終わるとステージに上がってこい!と私を招いた」とある。
 そしてデュークの指揮のもとバンドと共にデュークの曲を演奏し終えたら一組の老夫婦が寄って来て「あなたの演奏は30年前のデュークそっくりですよ」と言ったという。いかなる意味でもデュークとは似ていないという彼女がビックリしたのはそのことではなく「30年前のデュークの演奏を記憶の中に鮮やかにしているそのことに私は思わず聞き返さずにはいられなかった。あなたたちはデュークを聞いて何年になるのですか?」と。すると「私は28年間。ワイフは私より長くて36年間のファンです」。その言葉に穐吉さんは「日本にないジャズの歴史の厚みに目まいがする思いだったと。このような人々に支えられこのような歴史の一部である彼デュークを羨ましいとも思った」と。
 今回2022年4月のNY、穐吉さん宅で「あれ読んで僕もずーっと穐吉さんのファンでいよう!と思ったんです」と言ったら「よく覚えていますねテルイさん!50年ちかいファンでサポーターでもある信者を持っているミュージシャンは何人いるでしょうか?私は大変幸せです」「飲みネー!食いネー!」とカンパイして下さいました。
10:22:00 - johnny -

2023-06-21

幸遊記NO.590 「強靭なる母の愛」2022.5.16.盛岡タイムス

 2022年4月ニューヨーク。穐吉敏子さんのお宅での話をしていて、穐吉さん自身が92才のこれまで「一度も聞いたこともなく、今初めて知りました」というご自身に関わる内緒?の話を、僕は二つも聞き知っていたという事に、驚いてしまいました。
 その一つは、すでに昨‘21年12月20日付本紙幸遊記「akiyoshi-jazz.com」に書いた「12月12日(昼12時)に生まれたということは知らなかった」ということ。但し「本当の予定日は元旦だったことは聴いておりました」と。
 そしてもう一つは、渡米留学時の日本出発に関する件。スイングジャーナル誌1956年1月号に「秋吉敏子渡米延期」という4行の記事。それによれば「12月30日横浜を出港、アメリカに留学するはずだったが、彼女は健康を害し来春に延期することとなった」と。確かに彼女が渡米したのは、年明けの1月10日夜11時45分羽田発パン・アメリカン機でした。その健康を害したとは一体何?と思いきや「肝臓病の為」と2月号同誌にあった。
 そのことをいつぞや彼女の姉・折田美代子さんから直接聞いた話によれば「渡米する時に敏子は肋膜炎を患っていたため、渡米に際しての健康診断を、敏子に成りすまし、5才上の姉(次女・美代子さん)が、妹(四女・敏子)の洋服を着て3回も診察を受けに行ったのだという。「お医者さんはどうやら本人じゃないって判ったらしかったが、見過ご(逃)してくれたんですね」と。
 その時、母・アキさん(当時・59才)は敏子の身代わりにさせた美代子に「子供の為なら母は、いつでも死ねるのよ」の覚悟。「母はそれほど敏子をアメリカに行かせたかった!勉強させたかったのよ」と、命懸けで敏子を送り出した母の強靭(きょうじん)な愛。
 その発端は1953年秋、オスカーピーターソン(p)が東京で発見した敏子を録音して帰った彼のボス・ノーマングランツ氏が全米でレコード「TOSHIKO」を発売。それが評判になって、米ダウンビート誌のナットヘントフ氏がバークリー音楽院に掛け合い、学費免除の奨学生としての渡米。それはペリーが日本の「邪図」を「JASS」の国アメリカに持ち帰って、ちょうど100年後のことであった(邪図とJASSどちらもひわいを表すことばであった)ことから、のちにJASSは日本語の響からJAZZになったのです。どんとはれ!
10:20:00 - johnny -

2023-06-20

幸遊記NO.589 「運命の黄色い糸」2022.5.9.盛岡タイムス

 4月22日(2022)成田からニューヨークへ向かうユナイテット航空機内での約13時間、眠れずに、穐吉さんの本「エンドレスジャーニー(終わりのない旅)」(祥伝社刊)を見開きながら、頭の中に浮かんできたのは穐吉敏子さんとの不思議な出会いと、その関係の年月事。
 僕は1967年5月5日(4月20日成人になったばかりの子供の日)に「希望音楽会」というレコードコンサートを陸前高田市民会館で開催。その最終回(74年11月)に穐吉さんの「孤軍」というレコードを持って来たのが、東京帰りの先輩「軍記」さん、それは「秋吉敏子・ルータバキン・ビッグバンド」のデビュー作でした。その音楽と演奏に言い知れぬ感動を覚えて以来、僕は彼女の過去をさかのぼり、レコードを探し求め聴いた。それが今日に至る穐吉敏子さんへの旅の始まりだった。
ところが、僕の30才宣言だった日本列島唯一・日本ジャズ専門店」の大看板を彼女の代表曲、ロングイエローロードをテーマに陸前高田で掲げ、しばらくした頃、大船渡の三浦日出夫さんという先輩から20年分のジャズ専門誌・月刊「スイングジャーナル」の寄贈を受けた。その一番古いのは1963年3月号で表紙は何と秋吉さん(僕はその年の3月から陸前高田の住民となって音楽を聴き始めた)。しかもその6月には岩手県公会堂で2日間「トシコ・マリアーノカルテット」のコンサート(もちろん僕はどちらの事も知らなかった)。更に‘77年2月号は秋吉さんとご主人のルーさんが二人で表紙を飾った。実はその2月とは、僕が日本ジャズを宣言するため、外国盤を売り払った月。
更にグーンと戻って穐吉さんが日本からアメリカに渡った‘56年1月といえば、僕は小学3年生。その書き初め大会、条幅の書で金賞貰ったのが「あきかぜ」。今にして思えばこの時から僕に秋の吉なる風の音が吹き込まれてきたのだ!ということに今、気付いて驚きました。
ならば穐吉敏子さんとその娘マンデイ・満ちるさんはといえば、穐吉さん(母)13才の時、女学校で3年竹組のうたを作曲、同じく娘は13才の時、秋吉のミナマタ組曲の朗唱でデビュー。16才で母・ステージデビュー!娘は16才でフルートでの初レコーディング!更に23才で母・初レコーディング。同じく23才で娘・映画デビュー。そして27才で母渡米。娘は27才に「満月」で歌手デビュー!おまけに親子初共演は陸前高田で68才と34才という親の半分の年(‘98年)と、まさに赤い糸以上ともいえる運命の黄色い糸で(うんめーぐあいに)結ばれていたことがわかりました。なんと素敵な自然の摂理(はからい)でしょうか。
10:18:00 - johnny -

2023-06-19

幸遊記NO.588 「2年半ぶりのニューヨーク」2022.5.2.盛岡タイムス

 コロナウィルスの世界感染が始まる直前の2019年11月3日ニューヨーク在住のジャズピアニストの穐吉敏子さんと、ジャズサキフォニストのルータバキンさん「結婚50周年記念パーティー」に、僕等夫婦もご招待されて、アメリカに行って以来、この2年半ほど、岩手から一度も出ることなく、誰にも「来て!とも言えず、来ないで!とも言わず、只ひたすらの店守り」。
 ところが、遂に又、ニューヨークへと。その訳は、今秋再開なる「盛岡バスセンター」の3階にオープンする「ホテル・マザリウム」そのロビーに開設する「穐吉敏子ジャズミュージアム」について、事業関係者5人「盛岡ローカルハブ(株)」の総括参事・菅原隆彦氏。バスセンターの設計者「株・ワークヴィジョンズ」の代表・一級建築士・西村浩氏。プロジェクトの総体的プロデューサーで「株・オガール」の代表・岡崎正信氏。そして僕「NPO法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」の代表。更に、「株・石川ピアノライン」の代表・石川章氏とで、これまでの経過報告、並びに穐吉さんと事業関係者の信頼関係を構築する。という目的の元、ご提供下さるという年代もの(1800年代)のスタインウェイピアノの運搬計画、そしてミュージアムオープニングコンサートの日程の打合せに穐吉さん宅におじゃまして来ました。
 先ずは穐吉さん(92)は元気でしたが、数日前ギックリ腰になったと歩行が大変そうでした。原因は「マッサージ師を呼んでの後遺症」だと、ご主人のルーさんが言っていると穐吉さん。「本当は皆さんにジャンバラヤ料理を作って差し上げるつもりでしたので残念です」と。出前料理と美味しいワインをごちそうに!そして、これをミュージアムにどうぞ!と、ご提供下さった賞状、盾、記念品などなどと数十点もの展示品を手荷物にして持って来ました。
 その一点一点、品物の重さもさることながら、その文字を見れば見る程、それらに記載されている重量感溢れる内容は、あらためて穐吉さんが戦後10年で米国へ渡り、これまで切り拓いた茨の道程と、その壮絶さをして「自分に厳しいのではなく、自分に優しいのです」と、一人ジャズの國に戦い挑んでもって手に入れた、世界最高賞!と、その証の数々が遂に太平洋を横断して「彼女の母国・日本」(東北・岩手の県都)にそれこそ未来を担う子供たちのために飛んできた不思議さにうちふるえています。
10:59:00 - johnny -

2023-06-18

幸遊記NO.587 「曽根美砂の仁王幼稚園」2022.4.25.盛岡タイムス

 今年(2022)令和4年4月8日の入学式から、ピッカピッカの一年生になった孫が通う桜城小学校。その正門から道を挟んだ向かい側には、孫が3才から卆園まで4年間お世話になった仁王幼稚園。卒園したとはいえ、実は幼稚園をやめたくない!と言って入学の前日まで通い遊んだ園庭には、太い銀杏(いちょう)の木。樹齢は園の始まり日本聖公会盛岡子羊学園仁王幼稚園と同じく90年程らしい。
園長先生の曽根美砂さん(58・福島県小名浜生まれ)がちょうど小学校に入る年に彼女の父(司祭)が盛岡の同教会に転属となり来盛。小中高と盛岡で過ごし、名古屋の大学を卒業して、仙台の教会幼稚園で先生になったが、つまづき、パッチワーク店で働いて結婚。同時にご主人が盛岡へ転勤となって舞い戻り、専業主婦をやり、弘前の幼稚園で3カ月手伝った「おんがくであそぼう」が縁で、声を掛けられ、2001年、30年振りに、この仁王教会の幼稚園にめぐりめぐって来た不思議さは、まさに神様のおぼしめしなのでありましょうか?イエース!
その美砂さんは言う「とにかく、キリストの幼稚園なので、ものさしがそこにある。目に見えないものを育んでいて、神様と幼稚園という縦横を、年長さん達がスポンジのように吸収するから下の子たちも、それをする。園からの桜城小1年生たちが放課後ピンポン!と遊びに来たりもするのよ」という。
そういえば昨年のクリスマス、孫のお友達二人(双子の園児)とそのお母さんが開運橋のジョニーに遊びに来たので、幼稚園(教会)で習ったクリスマスのうたをうたってきかせて!」と、マイクを用意したら、3人で囲んで「もろびとこぞりて」をはじめ、3曲ほどクリスマスソングを一緒にうたってくれて、居あわせたお客さんたちが、大喜びする程上手だったのには、僕も感心し心洗われたような、すがすがしい気分になったのでした。ありがとう!仁王幼稚園の皆様!そして美砂(クリスティーナ・ミサ)様、あのうたこそは、まさにキリストのミサ・クリスマスに他なりませんでした。
またハロウィンで仮装して街をねりあるく子供たちの行列に代表される、紙でのおもちゃづくりの発想などは目を丸くするものばかりでした。孫もお陰様で小学生。その桜城小学校で忘れられないのは20年前、店のポストに女子生徒から届いた手書き絵の「うんどうかいへのしょうたいじょう」の事。嬉しかったなぁ~。
10:55:00 - johnny -

2023-06-17

幸遊記NO.586 「古きものたちの新しさ」2022.4.18.盛岡タイムス

 あれは3年前の4月1日。丁度令和の元号の初日から2週間、本町通りの喫茶店「ママ」で、開催させて頂いた「小泉とし夫・詩(口語短歌)・照井けん・書(右利き左手書き)・展」4回目の今年も(4月1日~15日・2022)。9日には小泉とし夫さんによる朗読会が、医師・八木淳一郎さんが奏でるギター伴奏にのせて行われ満席でした。
 その光景を見ながら僕の頭の中に浮かんできたのは、現存・岩手最古の文学会・同人誌「北宴」の編集人を務めた小泉とし夫さん(本名・岡澤敏男)彼も最古参95才の歌人。その最長老が現存・盛岡最古の喫茶店(創業90周年)で、それこそ古式にとらわれない現代口語で歌を作り、それを自らが朗読する会を開く。それは「新・にっぽんむかしばなし」の世界に居る様な気分でした。
 しかも、コロナ禍以前の2017年には「なにもかも なくしたように みえるのか ぢっとみまもる むらさき コロナ」「ぐいぐいと すわれてしまい めをとじる コロナの宙に 胎児のまんま」など、まるで予言的ともいえる歌などまであり、ビックリ。そのビックリで更に想い出したのは11年前の3・11大震災年の1月、小泉さんの歌「今年こそ 兎の穴にジャンプして 行って見みましょう 不思議の国へ」だった、、、、。
 今年はロシアによるウクライナへの突然の武力侵攻無差別攻撃はまさに津波の如き破壊力。こんな時、駄ジャレを言ってる場合ではないが「唯一人・ストリチナヤ!で プッチンギレテ 恐ロシア」酒飲んでる場合でもなし。
 そこでまた、浮かんできたのは小泉さんの同級生だった詩人の故・村上昭夫さんの「動物哀歌」の一編「ねずみ」だった。「ねずみを苦しめてごらん、そのために世界の半分は苦しむ、ねずみに血を吐かしてごらん、そのために世界の半分は血を吐く、そのようにして一切のいきものをいじめてごらん、そのために世界全体はふたつにさける、、、、、、一匹のねずみが愛されない限り、世界の半分は愛されないのだと」そうそこで、又浮かんできたのは穐吉敏子さんのことば「いつか、みんな仲良くならなくてもいいからお隣同士、我慢しあう位のところまで行って戦争が無くなればと、いつも思う」でした。
10:53:00 - johnny -

2023-06-16

幸遊記NO.585 「馬籠フォレスト・ビッグ・バンド」2022.4.10.盛岡タイムス

 4月3日(2022)「気仙沼にジャズオーケストラがやって来るよ!来ない?来るなら誰かにも声かけて!」と電話をくれたのは、昔々陸前高田にあった僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」に毎週出演していた松本和子トリオに何度かパーカッションで参加していた片山秀昭さんだった。しかもそのオーケストラのドラマーとしてやって来るのは彼の弟、バイソン片山さんだと言うので、行かなくちゃ!と女房と孫と三人で聴きに行って来た。会場では昔の知った顔々に出会い、ヤーヤーヤー!昔はああで、いまはこう!あの人は?みたいな会話に花咲くと「孫が、みやぎけんでもジジをしってるひといるんだね、と言ってたよ!」と女房が笑う。
「昔は、宮手圏、って言ってたよなぁ」そう言ったのは、かつて気仙沼一のホテル「望洋」の経営者だった加藤英一さん。あの3・11でホテルの下にあった街が津波と火災で消えたため、即日から被災避難者の人たちにホテルを開放。復興支援宿舎後には、自ら廃業を決断!今はその語り部として気仙沼の旅ガイドコンパスリーダーとして活動。彼は、かつてホテルでジャズのライブやディナーショウなども開催したりしていた、根っからのジャズファン。昔アメリカに渡って、ジャズメンと交流した彼の写真と共に思い出話までしてくれたことも、僕は嬉しかった。
 新築なった気仙沼中央公民館、被災した旧館はよくジャズのコンサート会場としても度々使われ、それこそ穐吉敏子さんも演奏したものでしたが、立派になったホールのステージには東京からの「馬籠フォレスト・ビッグ・バンド」(17人編成)リーダーの稲葉幹也さん(as.vo)とバイソン片山(ds)は共に気仙沼の出身、ピアノは竜野みち子さん。この三人は陸前高田時代の僕の店「ジョニー」でそれぞれ演奏経験がありますが、バイソンは1980年に「ファースト・フライト」で僕のレーベル「ジョニーズ・ディスク」でレコードデビューし、世界まで翔たいたジャズメン。リーダーの稲葉さんは、彼が学生時代「亜細亜大学ジャズ研究会」を率いリーダーとして夏季休暇を利用して僕の店で演奏したのでしたから、なおさらに感慨深いコンサートであった。終演後はそれぞれのニューCDにサインをしてもらい、記念撮影!まるでミーハーの僕でしたが、コンサートのさよなら曲が、何故に、昔僕が大好きだった曲「ロシアより愛をこめて」だったのだろうか。ああ、007よ、ウクライナに愛を、、、、、。
10:52:00 - johnny -

2023-06-15

幸遊記NO.584 「陸前高田と盛岡の継原点」2022.4.4.盛岡タイムス

 3月30日(2022)、新盛岡バスセンター・上棟式。4月4日、テナントの現場見学会と顔合わせを行い(株)盛岡地域交流センター/盛岡ローカルハブ(株)とテナント側とがスムーズな協力関係を築くイメージ作りをして、秋のオープンに向け事業者が一体となって動き出す。
 1階はバスターミナルと券売所の他、パン・菓子・そば・テイクアウトカレー・魚屋。2階は、子育て支援施設・ラーメン餃子・ヤキトリ・クラフトビール・ワイン・創作料理店。3階は、ナノ炭酸泉温浴施設・リラクゼーション・コインランドリー・中庭付ホテル・そのロビーには、穐吉敏子ジャズミュージアムとジャズラウンジが入居する一大複合型施設。使用される主な木材は盛岡産という念の入れようである。
 その中で僕等が運営する「特定非営利活動法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」は昨2021年7月に発足。2022年11月3日のオープンに向け、資料収集・整理・寄付金の募集などを行っていますが、その募金の受け入れ先を郵便振替口座の他、銀行をどこにしようかと思っていたところに現れたのが、北日本銀行に勤務するT女史!彼女は、僕が盛岡に開運橋のジョニーをオープンした当初から常連のジャズファンSさんの妻で、いつも2人仲良く通い続け、これは!これは?と様々な穐吉敏子の昔の記事が載っている雑誌や書籍を探し、届けに来てくれるので口座開設を頼んだところ「開運橋に近い材木町支店に適任者が居る!」と連れて来て紹介されたその人は、何と陸前高田出身の大友一広さん(50)。
 彼の顔見てビックリ、何と僕の息子(長男・兼高)の同級生で親友。「年に300日、店の2階自宅に遊び?通いしていた」彼の昔話によれば、僕が息子たちに手伝わせていたカセットテープのジャケット折りなんかもやりましたよ」と笑う。(そういえばレコードとCDの端境期に、カセットリリースもしていたジョニーズ・デイスク)でした。
 この再会に僕は息子にすぐさま電話して彼と繋ぎ、そのやりとりを聞きながら想い出していたのは彼一広さんの父・安雄さん(市職員だった)と祖父・留治さんのことでした。僕が1973年に始めた音楽酒場「北国」と、その古いマーケットを壊して新築なった荒町マーケットで75年にスタートしたジョニー。実はその大家さんが一広君のおじいちゃんだったのですから、縁とは実に不思議なもの、縁起が良いですね!
10:50:00 - johnny -

2023-06-14

幸遊記NO.583 「岩崎哲也の秋吉敏子資料」2022.3.28.盛岡タイムス

 今年(2022)1月、岩崎哲也さん(元・日本クラウンレコード洋楽部のプロデューサーで、現・スタジオ・ソングスの社長)から、穐吉敏子さんの資料が詰まった段ボール箱3個の寄贈を受けた。ありがとう!感謝の照井・礼!
 以来、昼夜朝無く一ヶ月半余り、その紙資料を年月日順に整理整頓。それはなんと30年分も有りました。その中、穐吉さんからのFAXは感熱紙の為、その大半は消えかかっており、判読不可能なものには紫外線を当て、字を浮かび上がらせる方法などを使い読んだ。僕は40年余り穐吉さんからのFAXや、手紙を読んで来たので文体字体は、ほとんど判別でき、彼女の筆跡をボールペンでなぞり復元しました。
 その他の資料は彼女が載った本や雑誌、専門誌など20冊余り、他ビデオやカセット、新聞記事、コンサートパンフやフライヤ、CD制作ジャケット、案、写真、ライナー生原稿、録音、製作経費、サイドメン迄の支払額(契約書)などなど。さらには2004年全音楽譜出版本、「孤軍・秋吉敏子」。‘17年祥伝社本、「秋吉敏子・エンドレスジャーニー・終わりのない旅」(聞き手・岩崎哲也)の契約、印税などの書類迄」含まれた、いわば岩崎哲也の秋吉敏子との全貌ともいえる資料。
 岩崎哲也(音楽プロデューサー)1956年6月東京生まれ。慶応義塾大学文学部社会学科卒、全音楽譜出版を経て、クラウンレコードに入社。秋吉敏子のアルバム制作を担当。2009年クラウンを退社し「スタジオ・ソングス」レーベルを設立。秋吉のアルバムや本を制作、出版するなどして来た大の秋吉敏子ファン!
 その始まりは、穐吉敏子のコンボによる「プレイズ・バド・パウエル」「四季(フォーシーズンズ)」(1990年)の製作だった。その企画案に彼は「日本が生んだ文字通りの世界的ジャズミュージシャン・秋吉敏子のピアノアルバムを2枚製作。録音はニューヨークで音の良さで定評ある“ルディ・バンゲルダー・スタジオ”を使用。ディストリビュージョンは米、ヨーロッパの大手が既に名乗り上げており、全世界での発売可能。いずれにしても、クラウンジャズ始まって以来の超大物であり、‘90年下期最大の目玉商品となること必須である」と。彼、岩崎さんは以来毎年のように秋吉CDをプロデュースして来たモノホンのファンなのでもあるが、そのきっかけを作ったのは、53年の初レコーディングを担当したテレビ東京の故・石原康行さん。彼から秋吉さんを紹介されたのがクラウンのディレクター岩崎さんだったのです。
11:49:00 - johnny -

2023-06-13

幸遊記NO.582 「一期一会の人びと」2022.3.24.盛岡タイムス

 ほったらかし堆肥(たいひ)の如き状態なっていた部屋を片付けていたら昔のVHSビデオテープが出て来た。想い起せば、僕が単身盛岡に出て来る時、持って来たものでその再生の為のデッキがこわれて、見ないまましまい忘れていたものだった。タイトルを見たら「‘81年ラブリー岩手」「’82年NHK我が心のジャズ」「‘85・IBC日本ジャズ祭in陸前高田」「’93・照井顯のどんなもんだい!岩手のジャズ喫茶」「‘98・IATトーク岩手人」などなど。
そういえば、いつだったか「さすらいのジョニー」をVHSテープからDVDに焼き直しをしてもらった事思い出しKさんに電話をしたら、店に取りに来て、ダビングなったDVDを届けに来てくれ、それを見ながらウイスキー数杯を飲み、逆にお金を払って帰って行った。ごめんね、ありがとう。愛してるよ!「いらね!ヒゲジイのキスなど!」と彼は背を向け得意の腰振りをした。
 それはそうと、40年前(30代だった僕)の若い姿を見ながら、TV画面の中で語っている間の落ち着きのなさに呆れてしまったが、当時の事を想えば、日本のジャズに対する熱き想い、ジャズを取り巻く世界のありかたに対し孤軍(一人)奮闘、自ら燃えに燃え、訴えては友、知人、お客様と一緒に、五木寛之氏が言ってくれた「幻の共和国」つくりに一生懸命だった頃を想い出し、涙が溢れた。
 その五木さんから昨年(2021)11月の「私の親鸞」に次いで、12月には「一期一会の人びと」(中央公論社)が謹呈著者のしおりと共に届いたので、時折その一人分ずつを読んでいた時、ふと僕にとっての一期一会の人を想い出し彼のSPレコードを聴いていたら、なんとフェイスブックに彼の訃報!その彼とは、映画俳優の宝田明さん(1934/4/29~2022/3/14)亡くなる数日前にインタビューを受けていた程元気でしたが肺炎だったらしい。それこそあの一期一会は89年、IBCTVが製作してくれた僕のドキュメンタリースペシャル「さすらいのジョニー」(プロデューサー・一戸彦夫氏)の中で、東京のツムラ順天堂のスペシャルルームで行われた、ヨーコ・サイクス(vo)パーティで出会い、戻ってから彼の昔のSPレコードをカセットに入れ送ったら、「とても懐かしい」と丁寧な手紙が届き嬉しかった。以来、僕も一期一会を大切にしてきたのでした。
11:48:00 - johnny -

2023-06-12

幸遊記NO.581 「石川秀一の太鼓と椿油」2022.3.13.盛岡タイムス

 この原稿を書いている日は、あの東日本大震災から11年の3月11日。気仙川を物凄いスピードで逆流する津波と、陸前高田の街並みの一番奥にあった酔仙酒造の工場屋根上看板が大津波に押し倒されるTV映像を見て、僕が38年間住み、お世話になった陸前高田の中心市街地の全てが失われたと知った時のショック。それは消えるどころか、年毎により鮮烈になる気がするのです。
 「油断大敵」ということわざがあるけれど、確かに油が断ち切れれば全ての物は動かなくなり、そしてサビついてしまう。それは人にも言える事。陸前高田で人様の油と言えば「椿油」。気仙地方では寒椿と呼び真冬にいたるところで花が咲く。その花で忘れられぬ一編の詩「ぽとん と落ちる その一瞬を 椿は どんなに待ち焦がれて来たか ぽとん と 落ちる そんな比類のない希望が 椿をさらに紅くする」(田中博子)。
 陸前高田市気仙町にあった東北唯一の椿油の製油所(石川秀一代表・73才)の長男で3代目を継ぐ予定だった政英さん(消防団員)を津波で亡くし、一時は廃業をも余儀なくされた様子だが、気仙の特産品・椿油。その製造技術の継承こそが地域復興の要である。と、社会福祉法人が石川さんの協力で復活させるなどして絶やさず後押ししたことから、2017年、妻の春枝さんと共に、長女・さゆりさん(46)夫婦も手伝うということでそれこそ希望の再開成った。
 石川製油は秀一さんの父・正雄さんが1955年に開業。10月頃に落ちる小さな黒い実を圧搾し、加熱殺菌ろ過で、7キロの実から約1.8ℓ(1升)の油が出来上がる。昔は全国各地から実が舞い込む忙しさ。僕が十代だった頃、夫妻の仕事ぶりを何度か見させて頂いたものでした。その正雄さんは戦前・岩手殖産銀行(岩手銀行)、戦争中は海軍少年航空兵、戦後は町の消防団員、市会議員をやり、囲碁、書道、銃剣道の有段者という凄い人でした。それこそ息子の秀一さんは大船渡農業高校を卒業後、当時大流行したエレキバンド「ザ・ロークス」のカッコイイドラマー、女の子たちが憧れた。大人になってからは町伝統の「けんか七夕」の太鼓手となって大活躍。89年秋の「陸前高田全国太鼓フェスティバル」の立ち上げに関わった(僕もその一人)。あの年、僕は夏に第2回日本ジャズ祭を主催しており、お互い最高に頑張っていた年でした。寄る年波を無事に渡り切るには、やはり黄金の國ケセンの如く輝く椿油こそが必要かもなぁ。と風呂に入り、嗚呼「湯暖体適」。
11:46:00 - johnny -

2023-06-11

幸遊記NO.580 「寅年虎月のトラヴィアータ」2022.3.7.盛岡タイムス

 3月3日(2022)ようやく今年の年賀状を書いた。「少女敏子 母聴音盤 虎美阿多 遥昔映画 無職百人 奏者物語 寅年虎月 参日鑑賞」弐阡弐拾弐年旧暦弐月、開運橋のジョニー。
 賀状は毎年旧正月に出すようにしているのですが、今年は最も遅い語呂合わせでの3月。 
寅(虎)は十二支三番、方角東から30度北寄り。地図で言う北東北・岩手。今年は東風(こち)とらの年。広辞苑には「虎は子を非常に愛護することから大切にして手放さないもの、秘蔵の金品」とある。その中の一つ、穐吉さんの音楽の根元について、彼女の著書「ジャズと生きる」(岩波新書・1996)の「母と父」の項にある「母は音楽が好きで、当時としてはモダン好みだったのだろう。アメリカの映画女優・ディアナダービンが歌った椿姫の”乾杯の歌“(トラヴィアータ)や、メキシコの歌”ラ・クカラチャ“などのレコードを買って聞いていた」とある。
 実はそのディアナのトラヴィアータを、遂に発見して、手に入れたのです。その歌こそ、あの忘れもしない「100Men and a Girl」(オーケストラの少女・1937)の映画主題歌。僕は盛岡で現女房と出合った時「あなたはまるでオーケストラの少女のようだ」とビデオを視せたことまで浮かぶ。その78回転SPレコードの音楽は素晴らしく、盤質もよく、大変良い音で鳴ってくれるのです。興味ある方は聴きに来てみて下さい!それこそ今若者の間でLPレコードが人気と聞きますが、ジジィの僕はもっと古いSPレコードがマイブームなのです。
 ということで、オマケにもう一枚のSP話。穐吉さんが生まれた1929年の「東京行進曲」(西條八十・作詞/中山晋平・作曲/佐藤千代子・歌)である。佐藤千代子は日本初のレコード歌手で、山形天童出身、しかも歌詞にも日本初と思われる「昔恋しい銀座の柳、粋な年増を誰が知る、ジャズで踊ってリキュールで更けて、明けりゃダンサーの涙雨」とジャズという文字が入った日本初の無声映画主題歌(小唄)で、日本の大衆がジャズという言葉を初めて聞いたのがこの歌で!あったのです。「恋の丸ビルあの窓あたり、泣いて文書く人もある、、、、シネマ見ましょか、お茶のみましょか、、、、」と。菊池寛の小説を溝口健二監督が映画化した作品。歌は東北なまりの東京の歌として驚異的な25万枚の売り上げを記録した。これもなかなかによし!ああ、千代に八千代に。
11:41:00 - johnny -

2023-06-10

幸遊記NO.579 「澤口健児のニコニコダスキン」2022.2.28.盛岡タイムス

 年齢を重ねてきて思い当たることがある。そのひとつは、昔から言い伝えられてきた「名は体(たい)を表す」のことわざ。この人は、本当に名を地で行っている人なんだなあと思わされるその中の一人。子供の頃の顔は知らぬが、大人になって出会った時から、まるで子供がそのまま大人になって笑っている様な童顔青年の笑顔。いつ、どこで出会ってもニコニコ、ニコニコ。その人の名は澤口健児さん(49才盛岡市生まれ八幡平市在住)。
 彼が生まれた1973年といえば、現在も様々な電器製品に使用され、発展し続けているダイオード(エサキ・ダイオード)は、江崎玲於奈氏がソニーの半導体研究所にてトンネル効果理論の応用から発明に至りノーベル賞(物理学)!に輝いたのがこの年。それは高速度スイッチ、発振、増幅に用いられる素子として今日の電子機器にとっての利便?の基本みたいで、いいこといっぱいの、彼の様な人間の笑顔と一緒なのだと気付かされる。
 20年たっても20年前とちっとも変わらない若さ溢れるニコニコ健児!の名前そのもの!彼は昔も今もダスキン・セールスマン(集配人)である。僕が彼と出会ったのは彼がセールスに来て、ダスキンを使ってくれませんか?の一言からでしたが、ほだされた最初の笑顔は20年過ぎた今も変わらずで、トイレの手拭ペーパーや便座シートなど、うっかり切らしてしまっても、いつでもいかなる時間でも電話に応えて嫌な顔一つせず、ニコニコニコニコ。それこそ二個でも届け続けられております。僕も昔、昔、クリーニング店の集配セールスを10年やった経験からか、ことわり下手ですが、やはりニコニコは要(かなめ)なのかも。
 しかも澤口健児さんは血液迄O型である。盛岡松園中学校から岩手高校、亜細亜大学経済学部を卒業して、ダスキンの草創期から父が始めた黒石野支店で兄と働き、昨2021年から中野支店と統合なった今も相変わらずニコニコやって来る。出会った20年前、子供が生まれたと言っていたよね。の子・那奈ちゃんはすでに20才。2人目の絢ちゃんも高校生「そういえば僕等が紫波のビューガーデンで開いていた、いわてあづまね山麓オータムジャズ祭にも子連れでニコニコ来てくれましたなあ。ところで結婚相手はどこで?」と聞いたら、昔お見合いパーティでニコニコしてたらこうなったんです!とニコニコ顔!
11:39:00 - johnny -

2023-06-09

幸遊記NO.578 「時計つくりのジョニー」2022.2.21.盛岡タイムス

 昨2021年仙台の古友・タアちゃんこと守口忠成さんから、小さな(サムホール)額入り絵15枚が届いた。「もしほしい方がいて少しでもお金になるなら、穐吉敏子ジャズミュージアム開設のために!使って」と。その絵が届いた時、紫波のテコ(畠山貞子)さんが、開運橋のジョニーに来たので、全部見せたら、一枚欲しいと持ち帰り、まもなく、その絵で200字程の物語が創作され、手作り絵はがきとなって舞い戻って来た。
 「いかつい肩と、ロボットのような手を持つお父さんと子どもが丘の上にたっていました」で始まるこどもの夢物語。さすがテコさんと思って、タアちゃんに物語コピーを送ったら、とても喜んでくれました。すると又、テコさんは全部の絵でそれぞれの物語を書きたいというので、送られてきた箱ごと全部テコさんに届けたら、絵はがきが沢山届きました。その一枚には「いかつい肩と、ロボットのような手の父は誰か?子どもは誰か?「宏樹さん(テコさんの息子)とお父さん」「ジョニーさんとジョニーさんの息子」「たくさんのお父さんと息子達」の物語が浮かんで来て、今までどうしても解けなかった20才で死んだ兄と父の間にあった謎がとけました、と、書いてありました。
 それを読みながら僕は僕で、もう一つの物語(絵本)を思い浮かべていました。「時計つくりのジョニー」(エドワード・アーディゾーニ・作、あべきみこ・訳、こぐま社1998)です。「あるところに小さな男の子がおりました。名前をジョニーといいました」で始まる、いじめられっ子の物語。その子ジョニーは、おばさんからいただいた「大時計のつくりかた」という本を百回読んで時計を入れるりっぱな木箱を作り、白いボール紙を切り抜き、数字を書き、錫(すず)はくから長短針を切抜、あとは、三つの歯車の大中小と、おもりと、くさりと、ふりこ。これは自分で作れないので金物屋や自動車修理工のビル・エヴァンスも尋ねましたがありませんでした。でもジョニーをすきな女の子のスザンナがオー!かじやのジョーさんに聞いてみたら?でたずねるとジョーは馬の蹄鉄をつくっていましたが「ふいごを動かして火をカンカンにおこしてくれたらつくってやるよ!」で、歯車つくり!ジョニーの時計完成!。のちジョー・ジョニー・スザンナ商会という三人の名の鉄工所と時計製造業を始めたのでした!どんとはれ!
11:38:00 - johnny -

2023-06-08

幸遊記NO.577 「得丸泰蔵のタイムストリーム」2022.2.13.盛岡タイムス

 九州の大分県別府市には、かつて「ファンク」「ザドー」「タイムストリーム」というジャズ喫茶があった。そのオーナーであった得丸泰蔵さん(82)から額入りのアップライトピアノ写真が届いた。ありがとう。その写真、実は僕が彼に頼んで撮影して貰ったもの。何故かといえば、今秋(2022)開業する盛岡バスセンター内にオープン予定の「穐吉敏子ジャズミュージアム」のテーマとなる事が書かれている(サインが入っている)から。
 そのピアノを実際に僕が彼の家で見て以来、僕は穐吉さんの話をする時、必ずそのことを話して来た。今中国では冬季オリンピックが開催中ですが、それにもピッタシと、はまっているそのことば。○○ちゃんへ「好きなピアノを良くお勉強すると何時かは世界一になります。ガンバレ!穐吉敏子。8/9/‘82」。
誰かにこのサインの事を口にする度、僕自身、いつも涙をにじませてしまう程、この言葉が持つ意味深さに声まで震えてくるしまつ。そしてサインの日付を調べてみたれば、それこそ日本のジャズフェスティバル史に燦然と輝き続けているあの伝説の「‘82・別府国際ジャズフェスティバル城島ジャズイン」(8月6、7、8)延べ、2万人を集めたジャズ祭が終わった翌日のサインでした。しかもその祭の仕掛人が得丸さんであり、音楽監督は穐吉さん自身であった。
 穐吉敏子ルータバキンのビッグバンドを始め、日本勢は、宮沢昭、峰厚介、中村誠一、(ts)田村翼、本田竹広、辛島文雄、(p)等々、外国勢は、アートブレイキー(ds),ジミーヒース、パーシーフィース(b)等にカーメンマクレー(vo)などジャズのバップ魂を極め貫き通している面々による県や市をあげての奇跡的なジャズ祭だったのです。
中学3年の時、深夜にラジオから流れて来たジャズに訳も分からないショックを受けたことから、ジャズファンとなった得丸さん。当時別府には米軍基地があり、街にはアメリカ文化に溢れていたことからの、のめり込み、本田竹広(故・岩手県出身ジャズピアニスト)からは「セカンドカントリー」(第二の故郷)そして穐吉さんからは「タイムストリーム」(時の流れ)という曲を贈られた程の大ジャズファン。その得丸さんは、城島ジャズインからBe Beppu Jazz in、庄内ジャズイン、いとう珈琲店ジャズin、最近の得丸邸ピアノライブとプロデュースも原点の個帰り中で、その都度のライブ録音も僕に届いている。
11:37:00 - johnny -

2023-06-07

幸遊記NO.576 「山崎文子の龍を魅た父と子」2022.2.7.盛岡タイムス

 昨2021年のクリスマス。盛岡駅西口ビル、マリオスの窓灯りがハートマークになる頃、その日に届いた一冊の本をパラパラめくり面白そう!と読み出していた。贈り主は著者の山崎文子さん(72・商業デザイナー)ビル・ハートマークも彼女の考案。本のタイトルは「龍を魅た人々」(早野隆三と龍泉洞誕生秘話)「龍雲たなびく宇霊羅山(写真)この胎内に龍泉洞がある」のプロローグ。
 昭和12年(1937)文部省から岩泉の天然記念物である「涌口」の視察に来た団長・脇水鐵五郎博士が、洞窟を見るなり「竜泉窟」と名付けたに始まるストーリー。18の頃から鍾乳洞に魅せられた早野隆三さん(1911~1995)はその「わき水博士」が名付けた「竜泉窟」を町の財(たから)とし「猿しか、いや猿も棲めないすり鉢の底のような谷底の集落、体力のない年より、女、子供は生涯出てゆくことはない」と昔語りされたところであっても、それを逆手に、日本一酸素を供給する「広大な自然の町」そして何よりの宝物であるとする「龍泉洞」と「龍泉洞の水」。この三種の神器を全国に向けて売り出した男の物語。
その主人公・早野隆三は同志・高橋梁助と共に、当時うわさに聞いた山口の秋芳洞と高知の龍河洞を見学に行き、秋芳洞の施設の立派さ、観光客の多さ、お土産買いの様子などに興奮し、四国行きの船上で、二人は「おらほもあんなになっぞ!一年に20万人呼んでみせっぞ」との話を聴いていた、カメラを持った青年との出会い。その青年こそが、のち龍泉洞で初の潜水調査を実行することになった越智研一郎氏。なんと彼は全国洞窟研究調査の若きエキスパートであり、愛媛新聞の記者であったと。
 見聞から帰り、家を抵当に入れたお金で、鍾乳洞の中を歩いて観光出来る橋桁を2ケ月で完成させるという電光石火の早業で観光洞に仕立て、昭和34年(1959)4月10日、皇太子と美智子様のご成婚の日の完成祝賀。本日ここを「龍泉洞と命名す」と、日本人があるべき姿を皇室に見ていた早野氏が、のち町議会議長と成ったように、龍泉洞も秋芳、龍河と並ぶ日本三大洞窟の雄!となった話のデザインは、まるで小説!
秋芳洞は国定公園・秋吉台の天然記念物。百枚皿という棚田のような石並びが有名。有名といえば同名の秋吉(敏子)さんのジャズコンサート「つぴたーれ」を岩泉で開いたのは2000年の3月。会場の公民館は龍泉洞の水の如く人、人人であふれかえった。
11:35:00 - johnny -

2023-06-06

幸遊記NO.575 「早瀬ひとみの華麗なる金曜日」2022.2.1.盛岡タイムス

 フェイスブックで友達になっている歌手・早瀬ひとみさん。毎週金曜日が華麗な気分の日であるらしく、毎回素晴らしいカレーの写真をアップし続けていて、その美しさに、いつも感嘆し見惚れてしまいます。金色に輝く金曜のカレーな都会食!そうだ!彼女が生まれ育ったのは「銀河の町(住田)」であるから、金・銀の次に続くは金に同じ銅!だって事か!と、僕の頭が謎を解く。そういえば彼女は確か「幼少期、カレーは御馳走と思っていました」と言っていたよな。それにしても毎回、毎週楽しみにしている程美しいカレーな料理と、写真のセンスに感心しきりの僕(ウチワではない!)
 僕もカレーは、大好き。カレー屋をやったこともあるくらいだから、余計そう思うのかもしれないが、昨年(2021)僕が作ったカレーを少し彼女に送ったら、それがフェイスブックにアップされていて、ビックリ!確か、栗!とキノコの2種だったかな?それからしばらくしたある日に、彼女のCDが色紙やグッズと共に送られて来たのです。手紙には「ジョニーお兄さま、過日は美味なカレー、ありがとうございました。そして私の事を覚えていて下すった事、とてもとても有難かったです。色々拝読し涙が止まりませんでした。ささやかな、ささやかな歌い手の一人、、、、ではありますが、声の続く限り、歌っていたい、、、、が本音です」。
 早瀬ひとみ(本名・千葉仁美)さんが「北の岬」(喜多條忠・作詞/三木隆・作曲/宇崎孝路・編曲)でCBSソニーからデビューしたのは1980年11月。前年の79年TVの人気番組「家族そろって歌合戦」に母と従兄と3人で出場して準優勝。80年やはりTVのスターは君だ!にテープを送り一千人の応募の中から決戦大会に出場して見事グランドチャンピオンになったのは高卒の春だった。そこからスカウトされ同年のデビュー「想えばわずか一年前、やさしいふたつの手がありました」と粉雪の降る町の農林会館大ホールに通路までギッシリ、町民の一割を集めてのデビューコンサート光景が頭に浮かぶ。あれから40年、彼女は今「和シャン歌手」と呼ばれ巾広いジャンルを歌える歌手として様々な方面にて「誘惑の蒼い瞳」に「別離」して「京都一人」ゆく歌手生活の様子。ああ岩手はまた雪。住田はおらほの街のスターとして彼女の大看板が今も立っている。
11:34:00 - johnny -

2023-06-05

幸遊記NO.574 「小瀬川了平のどん底とモンタン」2022.1.25.盛岡タイムス

 真っ白な雪の中、真っ赤な車を運転して、僕を迎えに来てくれた花巻出身盛岡在住のUさん。行く先は花巻市東和町。目的は、萬鉄五郎記念美術館で開催中の「CAFÉ・モンタン・展」(12月11日~2月23日)。会場外には、盛岡が華やいだ1960年代、最先端のアートと詩、音楽、そして味覚を発信したモンマスこと、小瀬川了平(花巻出身)がそそいだ最上級の芸術エッセンス「CAFEモンタン展」“どん底酒場”と“モンタン”の大看板!
 会場は、それこそ60年代のジャズレコードジャケット群の壁飾りが圧巻!その中には店名になったシャンソン歌手の”イヴ・モンタン“を始め、ジャズの歌手や演奏家たちのレコードがズラリ!そして当時の店に集った人々の写真。店に関わった美術家や詩人たちの作品など、大小かなりの数に及ぶ。”モンタン“の開店は1959年8月、純喫茶として始め、当時数百万円かけたオーディオやテレビ、ピアノでの音楽はシャンソン。ロシア民謡を歌う会、そしてジャズ評論家を迎えての、モダンジャズ・コンサートと題したレコードコンサート。及び美術展など、次々と企画。モンタン賞という美術賞の創設。前身の店「どん底」から這い上がり、60年代の岩手、盛岡を牽引した凄い店だった様です。
 僕が小瀬川了平さん(1930~2010)と実際にお会いできたのは盛岡に来てからなので、2004年頃から。穐吉敏子さんのジャズライブやディナーコンサートなどに大宮政郎さんと現れたり、時折り開運橋のジョニーにも来て豪快にそして繊細な笑顔で語り飲んだ日の想い出は心の宝。
宝といえば彼が亡くなって、数年後、開運橋のジョニーにもたらされた数十枚ものLPレコード。盛岡市立図書館にて「盛岡労音機関紙(1962~1972)」を開けば、‘66年7月号から掲載のモンタン広告ページ(モンタン・ミニマガジン)に、モンタン入荷レコードという毎月数枚の新着輸入盤のお知らせコーナーがあり、読んでみたら、マルウォルドロンのレフト・アローン、エリックドルフィーのラストデイト、ソニーロリンズのアルフィー、リーモーガンのコーンブレッドなどなどが、’66年‘67年の何月に買ったものであったことまで判明。又毎月第2日曜日の昼2時からのモダンジャズレコードコンサートのお知らせ、イラストによるモンタン店内風景、他、ショートや詩なども載っていて、60年代へのタイムスリップを2度楽しませて頂きました。これも紅白!?
11:31:00 - johnny -

2023-06-04

幸遊記NO.573 「佐々木健39年間の想い入れ」2022.1.17.盛岡タイムス

 今年(2022)10月オープンする「穐吉敏子ジャズミュージアム」へのご寄付や関係資料の提供を呼び掛けているところですが、先日、横浜の佐々木健さんから電話あり「自分が聴いて来た穐吉さんのコンサートのフライヤーやチケットの半券、パンフレットなど、寄付したい」だった。ありがとう!
 佐々木さんは僕と同じケン。出会った時から親近感を持った。以来交流が続き、2019年8月彼がお父さんと一緒に来た時には懐かしさに包まれた程、彼の父は昔の僕の父の面影を想い出させてくれた。盛岡に生まれ、仙台で育った健さんは今年還暦を迎えるが、彼は小学生の頃から父の影響で、洋楽にはまり、高校生になるとジャズに熱中。東京での大学生時代は休日ともなると都内や横浜のジャズ喫茶めぐり。アルバイトで得たお金は、ほとんどレコード代に消えた程、ジャズにのめり込んだ。
 その決定打となったのは‘83年11月6日、東京の郵便貯金ホールで行われた秋吉敏子トリオの演奏会を聴きに行ったことだった。その時、16才でダンスホールのピアノ弾きとしてスタートして以来39年目の秋吉。そして健さんはその83年から数えて39年の今年まで、大切に保存してきた「’83・秋吉敏子トリオ日本公演パンフレット」をご提供頂きました。39!39!サンキュー!まさに銀河鉄道スリーナイン!と僕の語呂合わせ!それはそうと、彼は83年から今日まで、幾度も幾度も穐吉敏子コンサートを聴き続けて来た根っからの穐吉ファン。
 彼の、もう一つの趣味?は写真。そう彼の目はクロートの目である。何年か前、送って来た開運橋の写真ハガキに僕は目を奪われ、感動のあまり彼にお礼の電話をした記憶。2019年には彼から届いた「柏原悌一写真集」(柏原悌一写真集製作委員会発行)。表紙の写真、砂浜のコンブ干し風景を見て想い出したのは昭和54年(1979)発刊の写真集団“いわて”作品集の中で特に印象に残っていた、あれ「磯に生きる」。もしかしてと探して見たら、やはり柏原作品だった。柏原悌一(1932~2013)氏は元岩手県写真連盟会長、生まれは僕と同じ平泉で健さんの母の妹のご主人(盛岡中央通りにあったお茶屋さん柏喜園の店主)だった。健さんはその叔父さんから暗室の技術を伝授して貰って以来40年、今なお白黒のフィルムにこだわり続けているのでした。あぁこれもジャズ。
11:30:00 - johnny -

2023-06-03

幸遊記NO.572 「北G日曜日朝のFM放送」2022.1.11.盛岡タイムス

 毎週日曜朝8時半から放送されているFM岩手の長寿番組「北Gのサンデー・モーニング」(パーソナリティ・北島貞紀(ジャズピアニスト)/アシスタント・佐野より子(民謡歌手)/ディレクター・佐々木寿仁(FM岩手)/番組提供・うちむら家具、JA全農いわて)の2022年正月番組に2週ゲスト出演の依頼があって収録に行って来ました。とはいえ約束の日時をすっかり忘れていて、電話を貰って慌ててタクシーに乗った。あーあ!今年も自分の事ながらおもいやられるなあと独り言。
 僕がFM岩手でジャズ番組を担当したのは1985年の開局から25年間だから2010年まで。それ以来のスタジオ入り。セキュリティが厳しくなっていて受付で名前など書き、渡されたカードケースをかざさなければエレベーターさえ動ず、第2スタジオの場所さえ忘れてた。覚えていたのは開局当初から今なおも再々雇用で局に居る小田島大さん。久し振りの再会に大感激!その節は大変ご迷惑をおかけしました。
 ということで1月9日分のスタート!「70年代80年代バンドマン生活を通して出会った人たち、音楽をする事の喜びや悲しみ、今、全ての事が愛おしく思えます」と北Gさん!僕を呼んだテーマは“穐吉敏子”彼女のジャズミュージアムが、今年秋オープンする新盛岡バスセンターに出来るから。それでかけた音楽は僕が最初に出会った穐吉さんの曲「孤軍」(1974年の穐吉敏子=ルータバキン・ビッグバンド演奏)。そして僕等が彼女のコンサートを初めて主催して聴いたオープニング演奏の「黄色い長い道」(1980年6月13日の陸前高田市民会館)。
 次週16日放送分は、2000年4月1日アメリカ、ワシントンDCの国立ケネディセンターで行われたソロコンサートからの「インプロビゼイション・イン・ファイブ」穐吉さん(現92歳)70歳の時の演奏である。日本から彼女のお姉様(現97歳)達と20人程で聴きに行った「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」まで想い出され、2曲目の「クレオパトラの夢」に至っては、僕が彼女に憧れたように、彼女が当時憧れたモダンジャズピアノの開祖・バドパウエルの人気曲、それを穐吉らしくバースの前奏を付加したアレンジで、彼女らしい。ともあれ久しぶりのFM,自分がやっていた時よりはるかに楽しいものでした。ありがとう!北Gさん、佐野より子さん。
11:28:00 - johnny -

2023-06-02

幸遊記NO.571 「般若心経の淳子ちゃん体操」2021.12.27.盛岡タイムス

 「世界一ポピュラーな、あの般若心経が口ずさめる歌になった!テクノとお経の新鮮なコラボレーション。自分の唄声で、般若心経の和訓や、般若心経を経心若般と全文を読みうたう(逆説)など、テクノ音楽をバックに録音したのは1997年のこと、それから12年の歳月をかけ初CD化(照井顯&テクノ楽団)。今年はまた、その発売から12年(計24年)の歳月がたったなと思っていたら、先日、紫波町在住の佐藤淳子さん(79)から電話あり、何人かCDが欲しい人が居るからと、手土産持参でご来店。
 彼女の話によると、数年前から、僕のCD「般若心経」を使い、誰でも踊れる、椅子に座ってでも出来る簡単な振り付けをして、“ジャズダンス”(淳子ちゃん体操)に取り入れているとの事。「地元の紫波、矢巾、盛岡、雫石、等々、JAいわて家の光講師、盛岡保険推進員、紫波社会体育指導員、などやってきたけどね、田野畑村に生まれた山猿ですよ」と笑う彼女。県立岩泉高校を卒業して玉川大学の通信教育や岩手大学の聴講生として学んだ人。結婚してからはご主人(自衛官)の仕事で全国を回り、14回目の転勤で岩手に戻ったのは平成6年(1994)。
 最近紫波第一中学校でのスポーツチャンバラの準備体操であれやったら、リズムに乗りやすいと生徒たちに喜ばれたといって僕をも喜ばせてくれました。
 その般若心経CDジャケットの仏像写真は、それこそ昨2020年に360年振りの大修理を終えた二戸市浄法寺町・天台寺の慈愛に満ちた大きな仏像のお顔だった。そのお陰なのかインターネット上でも聴けるようにして頂いている東京のウルトラヴァイヴ社から、毎月、デシタルコンテツ売上報告書というものがパソコンに届くのですが、昨年、今年のApple Music 、iTunes Cloud、AMAZONPRIM、同UNLIMTED、YOUTUBU、dヒッツサイト、等でのサブスクリプション(音楽定期購読)による、僕の般若心経歌?を聴くためのアクセス数が、日本でも世界中からも、以前とは比べられないくらい増えていることに驚いています。とはいえ一回当たり円以下の銭単位なので、せいぜい何百円なのですが、コロナ禍が始まった昨年から今年と急上昇しているのです。拝!
11:26:00 - johnny -

2023-06-01

幸遊記NO.570 「akiyoshi-jazz.com」2021.12.20.盛岡タイムス

 我らが天使・穐吉敏子さんが92歳の誕生日を迎える日「12月12日(日曜日)は盛岡中央郵便局午前中で窓口が閉まるよ!」と女房。何としても間に合わせようと、前夜は完徹しての郵便発送準備に全集中、おおわらわ。窓口が〆切の昼、12時、といえば、いつだったか穐吉さんのお姉さんから直接聞いた話が浮かんだ。「敏子が生まれたのは、昼の12時でしたよ」と。「12月12日12時!おお!ジョニー、ジョニー、ジョニー時!」と僕は叫んだ!
 郵便物は、いわずもがな「2022年10月オープンする穐吉敏子ジャズミュージアムの実現に向けて」の案内パンフ。トシコさんのプロフィールと、盛岡バスセンター内「ホテル・マザリウム」のロビーに開設するミュージアムに関することや、共感支援寄付金の募集(お願い)と、穐吉さん関連の資料のご寄付、無償使用の募集案内。
 そしてもう一つのパンフは、1963年の高校一年生時に、同級生から見せられて読んだシングル盤レコード(45RPM)の歌詞「みんな名もなく貧しいけれど」に始まってから今日までの、僕の音楽ストーリー。とはいえ1974年から来年の2022に至る「穐吉敏子ジャズミュージアムへの旅」と題した僕からの手紙。翌日から、届いたよ!読んだよ!泣けたよ!生きていたか!自分の友達にも知らせるよ!パンフをもっとくれ!オープンしたら行く!早速振り込んだからね!などなど様々なメールや電話が次々届く。嬉しいなあ。
 発送と同時に公開した、「NPO法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」のホームページは、紫波町の北田唯さんが作ってくれたもので中々の評。僕のフェイスブック「ジョニー照井顕」で開けば、開運橋のジョニーと穐吉敏子ジャズミュージアムのホームページアドレスがあり、タッチすれば、どちらもすぐ見られるようになりました。ジョニーのホームページについてはこの幸遊記(№565/11/19付)に書きましたが、ミュージアムの方の「エピソード」欄には2009年1月から2010年12月まで本紙・盛岡タイムスに100回書かせて頂いた、あの「トシコズ・ドリーム」を第一回の「開運の橋を渡る」から随時掲載し始めましたので、少しずつでもお読みいただけたら嬉しいです。ご感想や、ご意見などホームページからでも送れますので、どんなことでも、気兼ねなく交流できることを願っておりますので呉々(暮々)もよろしくお願い致します。Eメールakiyoshi.jazz.m@gmail.comです。
11:25:00 - johnny -
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.